ジャーナリズムJournalism

マスコミが報道しない真実は。。

新垣 隆氏は、知る人ぞ知る、世界の国際的超一流の、音楽家=作曲家=ピアニスト (伊東 乾)

2014-02-10 | マスコミ

 

 音楽に無知で、音楽にド素人で、下品なマスコミによって書かれ誤解を受けている、新垣隆氏。

あまりに、気の毒である。 

新垣 隆氏は、知る人ぞ知る、世界の国際的超一流の、音楽家=作曲家=ピアニストである

新垣隆君は、日本で芸術音楽の作曲に関わる者で知らない人のない、彼の世代のトップランナーの1人として20代前半から注目されてきた芸術家です。

彼はプロフェッショナルのピアニストを養成するうえで最も高度に教育指導できるピアノの教授者で、何千人という学生が彼の教えを受けてピアノ科出身者としてプロの仕事をしています。

音楽家としての彼の挌は国際的に見ても超一級の折り紙がつけられるでしょう。

週刊文春の記事のような、こんな素人談義で、新垣君のような才能にあれこれ言われては、冗談にもなりません

大変、失礼なド素人のマスコミ。 新垣隆氏は現代のショパン。

新垣君は常に最初は騙されて、善意で提供した楽曲に、勝手な名前をつけられ、それを営利に濫用されています。

 この経緯をきちんと見ない、法律関係者などが、誤った解釈をメディア上で開陳しているのも目にし、これはいけない、と本稿も急いで書きました。

(引用)
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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905

偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ


   あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏

2014.02.08(土) 

伊東 乾 (作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督)

 
2月5日から6日にかけ、いくつかの報道機関が「現代のベートーベン」扱いされていた自称作曲家が実際には一切作曲などしておらず、すべてを他の人物が代作していた事実を報道し、関連する番組をオンエアした局は併せて「お詫び」を告知しました。

 この「偽ベートーベン」に最初は騙されて、結果的に楽曲を提供し続けさせられていたのが新垣隆君と知り、直ちに自他共通する情報をきちんと整理しなければならないと思い、本稿を書いています。

 以下では「週刊文春」2月13日号 第24ページから31ページまで活字で記された記事を元に経緯を確認したいと想います。

 新垣隆君は、私も同じ作曲のフィールドで仕事する、私よりは6歳ほど若いですが、折り紙つきの第一級の芸術家です。

 初めて彼を知ってからかれこれ四半世紀近くになりますが、誠実で、普段は控えめで、人間性はとても優しく、しかし音楽の主張は明確で、素晴らしい耳と手を持つ高度なピアニスト、ピアノ教授でもあり、つまるところ、彼の悪口を言うような人が、ちょっと思い浮かばないような第一人者です。

 翻って、今回彼を利用してきた人間については、その名を記す気にもなりませんので「偽ベートーベン」と記すことにします。普段私は「ベートーヴェン」と表記しますが、この人物は「偽ベートーベン」が適当と想います。

将来を約束された才能

 週刊文春を手にする多くの読者が、「作曲科を出たけれど食べられず、ゴーストライターをさせられていた売れない芸術家」のように新垣君を誤解しそうな文面なので、これを真っ先に否定しておかねばなりません。

 新垣隆君は、日本で芸術音楽の作曲に関わる者で知らない人のない、彼の世代のトップランナーの1人として20代前半から注目されてきた芸術家です。

 雑誌の記事には事情を知らないライターの「分かりやすいストーリー」で「ピアノの腕前もプロ並み」などと書かれていますが、とんでもないことです。

 彼はプロフェッショナルのピアニストを養成するうえで最も高度に教育指導できるピアノの教授者で、何千人という学生が彼の教えを受けてピアノ科出身者としてプロの仕事をしています。==音楽家としての彼の挌は国際的に見ても超一級の折り紙がつけられるでしょう

 新垣君のピアノの能力を端的に言えば、普通に目にする協奏曲ソロ程度の譜面は初見(初めて楽譜を見てその場で弾くことをこう呼びます)で音にすることができ(恐ろしく指が回ります)、さらに読みながら批判的、建設的な解釈を瞬時に読み出し、2回目に弾くときには一通りの演奏になっているというレベルの資質と能力を持っています。

 彼にはピアノでも世話になったことがありますが、鮮やかに弾き切ったあと「こんなんで、いいんでしょうか・・・」と常に謙遜して、「もっとちゃんと弾かなくちゃいけません」と言う、そういう音楽家です。

 週刊文春の記事によれば新垣君と「偽ベートーベン」は1996年の夏、渋谷の喫茶店で初めて会ったそうです。ゲームの仕事から派生して、映画音楽の仕事を取ってきてしまった音楽は素人の偽ベートーベンがシンセサイザーで作った音の断片をデモテープで持ち込み、

 「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので」(週刊文春・ママ)

 と依頼したとのこと。つまり、

1 断片しかないものを、まず楽曲に組み上げ
2 それをオーケストレーションして管弦楽で演奏できるようにまとめてほしい

 というアシスタントの依頼だったようです。

芸術音楽とは何であろうか?

 ちなみにここで、文春記事はいかにも現代の日本社会が陥りそうな誤った観点で「芸術音楽」を戯画化しているので、一本釘を刺させてもらいます。

こんな素人談義で新垣君のような才能にあれこれ言われては、冗談にもなりません。

記事は、

 「一般人には理解しがたい不協和音を駆使する現代音楽の作曲家である以上、その作品が日の目を見ることは本人ですら想像できないのが、日本のクラシック界の現実だ」

 以下、よく聴いていただきたいのです。 私自身も含め、音楽そのものの可能性のフロンティアでものを作ろうとする作曲の人間にとっては「予定調和」をなぞるほど恥ずかしく、非創造的な「仕事のやっつけ方」はないのです。

 こういう表現で新垣君が100%合意してくれるかは分かりませんが、言わんとすることは通じるでしょう。

 世間で流通する商用の音楽は、既存の書法の使いまわしでできています。その方が耳に親しみやすいし、ヒットもする。例えば連続ドラマ「あまちゃん」の音楽はよくヒットしました。ウイットとして面白いとも想いますが、そこに専門人は独自の新たな労作を見出しません。

 「一般人には理解しがたい不協和音」などと簡単に言うけれど、例えば歌舞伎やお能を見に行って、その中に1つでも「協和音」が出てきますか?

 そんなバタ臭いものは出てこない。お神楽でも、葬式で坊さんが読むお経でもいい。日本の伝統はすべて、きわめて高度に「不協和」な響きでできているし、それを「一般人」はみな普通のものとして受け入れている。

 この記事のようなスタンスで、同時代の音楽をカルトかオタクのようなものに矮小化する、そういう視点を、私はきっぱり否定させてもらいます。

 なんでこんなことを書くかと言えば、実はこの点が非常に重要で、かつ今回の騒動で他の誰もこうしたメディアに書かない、書けないと思われるからです。

 音楽の書き手なら大半が分かる簡単なことに過ぎませんが、分からない人には永遠に分からないカギがここにあるので、後半できちんと記します。

「創作」と「課題の実施」との間にある天地ほどの差

 数万円のギャランティで、この「断片から楽曲を組み上げ、オーケストレーションして納品する」仕事を請け負った新垣君に対して、偽ベートーベンはこんなふうに言ったそうです。

 「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」

 これに対して新垣君は、

 「私は、お金とか名声が欲しいのではありませんでした。(偽ベートーベン)の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽(和音をベースにした音楽、と注がついていますが、週刊文春としてこういう表現しか取れなかったのでしょう。これは誤りですが)でしたから、私の仕事の本流ではありません」

 この「私の仕事の本流ではありません」という短い一言に、多くの本質が集約しているのです。

 つまり、自分自身が一から創意を持って創作する真剣なチャレンジとしての「仕事」(ライフワーク)ではなく、初歩的な、既存の、別の表現を取れば、さんざん手垢のついた既成のスタイルでの楽曲書き、これは言ってみれば、「作曲課題の<実施>」に近いものと言えるでしょう。

 音楽課題の「実施」という言葉は、受験などしたことがある人はすべて知っており、そうでない人は一切知らない「方言」の代表と思います。

 「和声課題の実施」とか「バッハのスタイルによる4声課題の実施」、フランス語を使ってレアリザシオンなどとも言いますが、これはオリジナルな作曲と、ちょっと違う、職人気質をそそるものと私自身は思っています。

 他の分野での例を挙げて見ましょう。課題というのは音大、芸大の入試問題などでも出しますので、いま私が東京大学の2次試験の出題者になって、問題を考えると思ってください(そういう業務が来た場合、厳密な守秘を問われるので、ここではケースとして聞いてください)。

 問題自体は、伊東が出題した、なんて未来永劫分かりません。まあ死ぬ前くらいになったら、言ってもバチは当たらないと思いますが。

 で、この「出題」自分が大事に考える、自身の名前を付して世に問う仕事・・・楽譜であれ演奏であれ、あるいはこの原稿のような文字であれ・・・とは全く別で、裏方としての貢献、縁の下の力持ちにほかなりません。

しかも、私が出題者だと知っているのは、そのときの出題委員会メンバーなどごく一部です。それでも、出題に当たったら、趣味の良い、本質を突く、スマートで、余計な知識などなくてもその場でしっかり考える能力があれば6割は取れる、エレガントな問題を作ってやりたい、と僕は思っています。

 そういう考えの人は出題者全般、決して少なくないでしょう。同じことを「詰め将棋」とか「ナンクロ」「数独」なんかで考えてもいい。

 音楽の手仕事で「課題の実施」というのは、これに似た面があると思います。

 旋律だけを示されて、それにハーモニーをつけるような課題で、とりあえず丸がつくものを書くのも大事ですが(そうでないと受験では落とされます)、「この課題から、この実施をどうやって作ったの???」と目を剥かれるようなものを作ったときの快感ていうのは、この仕事をした人にしか本当は共有してもらえない感覚です。でも、読者の皆さんにも何となく分かっていただけると嬉しいです。

 新垣君は記者会見で「一切の著作権は放棄します」と明快に言っています。彼はお金目当てで偽ベートーベンの依頼を受けたわけではない。また、公開された音楽への自分への著作権帰属とか、自身の作曲作品としての名誉の主張なども全く考えていない。

 そうではなく、言ってみれば「音楽家の品位」が一番ピュアに見える「実施」の書法(これもフランス語で「エクリチュール」と呼ばれることが多いですが)の遊びとして、純然と「良い実施をして、皆に喜ばれ、自分もそれを楽しみたい」そういう気持ちが一番大きかったのではないかと、同業者の1人として想像します。

 実際、新垣君自身が言った「自分が作曲した作品が、映画音楽であれゲーム音楽であれ、多くの人に聴いてもらえる。その反響を聴くことができる。そのことが純粋に嬉しかったのです」という言葉は、例えて言うなら、自分が出題した問題に学生が解答し、あちこちの塾などが模範解答を出し、「今年の第2問はまれに見る良問だった」なんて言われたら、守秘ですから黙ってますけれど、心ひそかにニヤーっとすると思います。

 実際、入試ではなく必修科目などでは多くの先生が同じ科目で出題した違う問題を集めたりするのですが、先輩の教授から「伊東さんの問題、これいいねぇ」なんて言われたときには、嬉しいですよね、純然と。

 そこに自分のオリジナルな何かがあるとかではないんです、しょせん出題だから。既に手垢がついた分野の中での模範演技だけれど、でもこういう基礎が大事だし、それが好きな人がその仕事のプロに残っているのが普通です。新垣君の言葉を文春から引用すれば、

 「彼の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる。どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

 要するに余技ですよね。わざわざ自分の名をつけるまでもない、調性で書いた気の利いた小品。こういうのが息抜きになるのは、本当によく分かります。正直私自身も、そういう気軽な小品を書くのが嫌いでありません。また名前をつけるのに抵抗があることが少なくありません。

 これが、商用音楽での考え方と180度違うところなのです。営利で音楽をやっている人は、もう手垢だけでこねたような、音楽としては一切新味のないものをJASRAC(日本音楽著作権協会)に登録して、1銭でも多く配当金を得ようと考えるのが基本でしょう。

 この点、同時代のスタイルで芸術音楽に取り組んでいる人の多くは「こんなの自分でなくても誰でもできるよ」なんてものを、著作物に登録しようと、そもそも思わないことが少なくない。

 むしろ「本当に自分のオリジナルだけを作品として登録したい」と思うのが自然な発想で、新垣君が今回の「代作品」を自分の著作権は放棄すると言っているのは、つまり「実施」をした。それでみんなが喜んで演奏してくれ、聴衆も満足してくれた。

 「これでいいじゃないか。もう十分」という、内実の満腹感から、一切のウソなしに言っているのが分かります。

 テレビを中心に、多くのマスメディアは「分かりやすい」ストーリーに無理やり押し込めて、何となくお涙頂戴にしてみたり、溜飲を下げさせたりしますが、同時代の音楽家として新しい可能性を開こうと真摯な努力を重ねているミュージシャンの気持ちなど、表に出ることは 21世紀になって本当に減ってしまいました。

 毎週このコラムを書いている私自身、こんな私たちの領域の手仕事の内容を細かく書くのは、今回が初めてです。逆に言えば、これが私の本業で、この仕事で私は大学に呼ばれプロフェッサーをしています。

 音楽家にとっては、ファインプレーの「実施」ができれば十分、という「良問詰め将棋」みたいな楽曲とあえて書くことにしましょう。その作品を、またそれを提供する善意を、悪くと言った人がいたわけです。

 新垣君は常に最初は騙されて、善意で提供した楽曲に、勝手な名前をつけられ、それを営利に濫用されています。

 この経緯をきちんと見ない、法律関係者などが、誤った解釈をメディア上で開陳しているのも目にし、これはいけない、と本稿も急いで書きました。

 さらに踏み込んだ詳細を次回に記します。

(つづく)


伊東 乾 Ken ITO

作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

1965年東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒業、同総合文化研究科博士課程修了。2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後進の指導に当たる。若くして音楽家として高い評価を受けるが、並行して演奏中の脳血流測定などを駆使する音楽の科学的基礎研究を創始、それらに基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進している。06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトなどが、大きな反響を呼んでいる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)、『知識・構造化ミッション』(日経BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など

元記事
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905



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