読書日記と読書ノート第二部(2009年8月~2011年1月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

203、アイザイア・バーリン「自由論」(みすず書房)-その3(3/4)-

2016-05-11 05:37:37 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
➀歴史解釈の目的論的体系の内部では、自由な選択、それゆえ個人の責任という観念は意味を失う。
➁目的論は、いかなる種類の経験によっても確認も反駁もされない信仰の一形態である。
③人間は環境によって『決定された』ものであるから、歴史では厳密な意味で正・不正はない、ただ真偽、賢愚しか問題にならない、と主張することは誤った言明である。
④われわれの思考や言語を決定論の仮説に適合させようと本気で試みることは、現状及び記録された歴史においての限りでは、ほとんど実行不可能なことだ。
⑤すべてを知ることはすべてを理解すること、すべてを理解することはすべてを許すこと。すべてを理解するとは、何ものも現にあるより以外の仕方ではありえない、ということを知ることだから。
⑥知ることが自由を得、勝利を得ること。真実は知られうる、そして人間を解放する。多く知れば知るほど選択の重荷から解放される。
⑦すべての価値基準を比較しうるような超越的基準は存在しない。どの立場からの歴史であっても、いずれにしても偏向は避けられない。
⑧「主観的」と「客観的」との間には確固たる一線はないからと言って、その線がまったくないということにはならない。諸概念は「永遠の」基準から浮動的・瞬間的な反応まで、「客観的」な真理や規則から「主観的」な態度まで、連続的系列を為しており、多くの次元で、時として思いがけないような角度で相互に交差しているのである。
⑨すべての判断基準が相対的-時と所によって異なる-というのは、何も言わないのと同じである。
⑩もし相対的・主観的でないものが何一つないとしたら、客観性というものが原則的に認めがたいとしたら、主観的とか客観的とかの用語はもはや対照用語ではなくなり、何の意味もないものとなろう。

二つの自由概念
➀社会的な勢力の圧力なしには、おそらく政治的な観念(たとえば、デモクラシー)は死児にも等しいものだろう。だが、この社会的勢力がもし観念の装いをまとわなければ、それは盲目で方向を持たないままでいることも確かなことなのである。
➁自由は決して人間の唯一の目標ではない。他の人の自由のため、あるいは自由とは別の価値のため自由が規制・削減されることがある。それでもなお、どうしても侵犯されてはならない最小限の個人的自由の領域があるはずだ。
③熱烈な個人主義は、スコットランド、ニューイングランドの清教徒的カルヴィニストたちのあいだの厳格な規律を持った共同体においても、より寛容で中立的な社会におけるのと同じくらいに多く育っている。
④プライバシーの感覚そのもの、個人的な関係の範囲を神聖なものとして正当に感じる感覚は、一つの自由観に由来するものであるが、この自由観は如何に宗教に深く根ざしているといっても、その展開された状態においては、ルネサンスあるいは宗教改革以前にさかのぼるものではない。
⑤消極的自由は統制の範囲に関心があり、統制のよって来る源泉は問わない。それゆえ、デモクラシーが個々の市民から自由を奪うことも経験的にあった。
⑥この意味の自由(消極的自由)は、論理的には、デモクラシーないし自治とはつながっていない。自治制度は他の体制よりも全体として市民的自由の護持をよりよく保証するであろうが、個人の自由とデモクラシーによる統治の在り方には必然的な連関があるわけではない。
⑦自らの欲望をコントロールする自律的主体となること、これがカント的な自由である。自然因果律に従うことはこの自由と矛盾しない。自分の力で何ともなしえないものに従っても、不自由とは言わない。
⑧あらゆる価値は個人が作り出したものであり、個人より高い価値は存在しない。
                 ↓
自由主義的ヒューマニズム=世俗化されたプロテスタント的個人主義。                
⑨理性は万人にとって唯一の善の基準であり、すべての人にとっての行為の基準である。
                 ↓
                啓蒙主義
⑩ミルは理性という名の絶対的価値は存在しない。各人は各人の善を追求する。人間の目的はすべて等しく究極的であり、抑制しえない自己目的である、と説いた。したがって、各人の目的の調整のみが問題となる。
⑪個人が社会的存在である、ということの意味。
物質的な相互作用の網の目にいる、ということにとどまらない。人がかような人として存在する(と意識するのは)のは、他の人によってそのような存在として認知されているからだ。社会的に存在する、というのはそういうことだ。
⑫私は、他の人から一個人としての取り扱いを受けていないことに、自分の独自性が十分認められていないことに、統計上の一単位として類別されてしまうことに、耐えられない。
⑬私の自我は他人との関係から切り離しえない。その他人と私がつながっている場が社会である。
⑭私は、私に対する他の人々の態度のうちにある私の諸属性を自己イメージして生きている。
⑮一個の独立した人間とは、自分の生活を自分の目的にしたがって形成し、そのような存在として他から認められる資格を持った人間をいう。
⑯自己が孤立した個人ではなく、社会全体の一成員としての存在を認められることの要求をもつ。
⑰「誰が私を統治するか」の答えが、自分あるいは自分が属する集団であるなら、それは積極的自由の実現とみることができる。しかし、その答えが民族、指導者、独裁者となることもある。

(つづく)

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