読書日記と読書ノート第二部(2009年8月~2011年1月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

58、ヘーゲル『精神現象学』(河出書房新社) -8(8/18)-

2015-04-30 06:18:21 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
行為と存在
①本性は行為において実在する。
②真の仕事は行為と存在、意欲と遂行の統一である。
一般的行為
①悟性を持って慈善を施すということは、もっとも豊かでもっとも重要な形となる場合には、国家が悟性的な一般的な行為をするということになる。
※絶対的内容とは内容がないのと同じだ。
②人倫的本質は、法則が自己自身にのみ等しく、自己自身の本質に基づいており、制約されたものではない。
②私が物を所有するということは、物が一般的な形態であるということと矛盾する。だから、私有は非私有と同じくあらゆる面で自己矛盾である。
精神的本質
①精神的本質は自己意識にとって、自体的に存在する法則としてある。
②精神的本質は個人の意志に根拠を持つものではなく、自体的に存在し、万人の絶対的な純粋意志である。
③この意志は、存在すべきである、というような命令ではなく、現にあり、現に妥当している。

精神
①理性は全実在であるという確信が高まって真理となり、自己自身を自分の世界として、また世界を自己自身として意識するようになったとき、精神である。
②即かつ対自的に存在する本質が、同時に意識として自分にとり現実的となり、また自分で自己自身を表象するようになったとき、精神である。
③精神はすべての人の行為の根拠であり出発点である。
④精神は動揺せぬ実体である。実体が自己のなかで解体した-運動する-存在であるというまさにこの点で、死んだものではなく現実的であり、生きているのである。
⑤精神のさまざまな契機-意識、自己意識、理性。
⑥自己において、自分であるといという直接的意識であるとき、意識と自己意識の統一であるとき、精神は意識である。
⑦精神は理性という対象を持つ。
⑧精神の持っているこの理性が、現に理性であるようなものとして、言いかえれば、精神のなかで現実的であり、精神の世界であるような理性として、直観されるようになったときには、精神は自らの真理にいる。つまり、精神は現に精神であり、現実の人倫的実在である。

民族、共同体
①精神はある民族の人倫的生命である。一つの世界であるような個体である。
②個別化された自己と一般化された実体(人間の掟)は自己意識において統一される。自己意識が行動に出ると、人間の掟=法状態とぶつかる。
③人倫的実体は現実的存在としては共同体である。共同体は絶対的な精神である。
④この精神は現実的実体としては民族であり、現実的意識としては民族の市民である。
⑤精神が自らの現実態を持つのは、現に妥当し、現に存在している民族の精神においてである。
⑥この精神は人間の掟と呼ばれる。一般性の形では習俗となって、個人の形では個人の現実的確信であり、統治の形となるときは王の自己確信である。
⑦自然的な人倫的共同体は家族である。家族成員の関係は単に自然の関係ではなく、人倫という一般的関係である。この人倫的関係は感覚の関係でも、愛情の関係でもない。全体としての家族に対する個々の家族成員の関係のうちにある。
⑧全体としての家族に向けられた行為の目的は、さらに一般的な国家共同体に向けられている。国家に対するこの使命は、個人を家族の外に連れ出す。個人を一般者のために生きさせるようにする。こうして、教育が公共的に行われる。
⑨個人は市民としてのみ現実的であり実体的であるのだから、市民ではなく家族の一員である場合には、非現実的で無力な影に過ぎない。

(つづく)

58、ヘーゲル『精神現象学』(河出書房新社) -7(7/18)-

2015-04-28 05:31:01 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
自己意識、一般的な自己意識、人倫の国
①自己意識が積極的に関係する対象は自己意識である。対象は物性という形式をとる。自己意識は対象によって承認されている。この自己意識が精神である。
②人倫の国とは、諸々の個人が自立的な現実のうちにありながら、自らの本質が絶対的、精神的な統一を持っている、ということ。
③ここでは、自己意識は他人の意識のうちにあって、自ら現実である。他人の意識は自己意識にとって物でありながら、この物との統一が意識されているあり方である。
④個人の自己意識は対象的な物と統一することによって一般的な自己意識である。この人倫的実体は、一般性を抽象すると習俗となる。
⑤個は、習俗という一般意識を自らの存在として意識するとき、自らの定在が一般的習俗であるとき、その時にだけ、存在する一人である。
⑥人倫の国の存在者たちは、自らを個別的自立的な存在者であると意識しているが、そうなるのは自らの個別性を犠牲にして、この一般的実体(一般的理性)を自らの魂とし、実在とすることによってである。
⑦自らの要求のためにする個人の労働は、自己自身の要求の満足であるように、また他人の要求の満足である。個別の労働は同時に一般的労働である。ここには相互的でないようなものは何もない。
⑧一般的精神は、習俗の掟であらわされる。
⑨理性は、自由な民族の生活のうちに直接に人倫として実在する。習俗や掟は人倫的な実体であるが、まだ実体の本質を意識するには至っていない。
⑩民族のうちに直接現存している場合の個別的意識は信頼である。
⑪自己意識は、人倫的実体であり、民族の精神である。
⑫個別者が個別的精神としての自己実現を図るのは他人を否定することになる。
⑬一般的となった自己意識とは、法則を自分で持つ限りでの自己意識である。ここでは、幸福が行為そのもののうちにある。行為自身が善である。物性が精神そのものの、それ自身での存在である。

個別的自己、法則との矛盾、徳
①自己意識が人生のなかに飛び込んで、自己の実在を確信する。個々の意識にあらわれる現実だけが実在するものである。ここでは、自己意識は自己の対象となるものを、自らと同一の実在と考えている。
②個人は自立した存在である自己を意識する。欲望の追求において、個人は自己を、この個別的な自分だけで存在する実在としてつかむ。と同時に、否定的実在によって、空しさを意識させられる。運命、必然性を自己であると知る。
③自己意識が必然性という形で一般者ないし法則を自らのうちにもっていること、心の法則を持っていることを知る。
④個人は必然性(法則)に抑圧される。個別性と法則の矛盾。
⑤しかし、個人の目指す快が人類の法則を実現するというケースもある。心と必然が一致する。逆に、個人の行為が一般的秩序に矛盾することもある。
⑥不安定な個人を内容とする一般、安定した個人を内容とする一般。
⑦徳は、個人が意識の個別性を犠牲にすることによって成立する。
⑧徳の意識においては、個人は一般者に従うように訓練されなければならない。
⑨徳が抽象的で非現実的な本質を目的としているとき、徳は空しい美辞麗句に過ぎず、個人の現実性に負ける。

個人性
①自己意識が自己についての概念を全実在であるとつかむ。個人性がそのまま自己自身にとって全実在であるという個人の概念が生まれる。
②個人は行為を通じて現実にもたらされないうちは自らが何であるかを知りえない。が、行為するためには、意識は前もって行為の目的を持っていなければならない。
③個人性にとっては、個人性に拠らないものは何もない。個人性がそれ自身で自ら現実である。個人は自らの現実のうちに、自己と現実との統一以外のものを見つけない。
④個人は仕事において一般性の場に出る。仕事は意識が自らに与える真実(実在性)であり、個人が自体的にあるものを自覚的なものにするものである。

(つづく)

58、ヘーゲル『精神現象学』(河出書房新社) -6(6/18)-

2015-04-26 06:23:46 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
ストア主義の自由
①利己心は個別性にとらわれ、シモベたることのなかにとどまる自由である。ストア主義はそのまま個別の外に出て、思想の純粋な一般性に帰っていく自由である。
②しかし、思想における自由は自由の概念にすぎず、生きた自由そのものではない。ストア主義の自由は、思惟における自由で、思想自身の内容はない。理性的であるという形式があるだけ。
③ストア主義の抽象的自由、思惟された意識は他在を否定する。

懐疑論
…その行為とその言葉はいつも矛盾している。人倫的な本質の空しさを言いあらわしながら、その空しさを自らの行為の諸々の威力としている。懐疑論においては、意識は本当は自己自身の意識のなかで矛盾する意識であることを経験する。

理性
①自己意識は理性となった。自己意識は自分自身を実在であると確信している。すべての現実は自己意識に他ならないことを確信している。自己意識は世界を自らの新しい現実的世界として見出した。
②理性は全実在であるという意識の核心である。
③存在するもの、言いかえれば自体でのみ在るものは意識に対して在る限りで、在る。意識に対して在るものは、また自体的にも在る。この意識が理性である。
④理性が目指しているのは真理を知ることであり、思いこみや知覚にとって物である物を概念として見つけることである。
⑤本質的なものとそうでないものを区別することによって概念が浮かび上がってくる。法則は本質的に概念としてある。
⑥類比類推は蓋然性を示すだけで、真理であることを保証しない。
⑦法則は現象のなかにあらわれると同時に、自分自身で概念であるからこそ法則として認められる。
⑧実験による探求は法則の純粋な諸条件を見つけるという意味を持つが、これは法則を概念の形に高めることである。
⑨実験によって見るのは、感覚的存在から解放された純粋法則、感覚的存在のなかに現存する概念である。

有機体
①非有機的なものは、規定態をその本質としているので、別の物と一緒になって初めて、概念も諸々の契機を完成する。有機体にあっては、規定態はすべて有機的統一のもとに結ばれている。有機体は自らの関係自身のなかで支えられている。
②有機体と有機体の生活の場となる自然の関係は有機体の本質を表現していない。この本質は目的概念の内に含まれている。
③有機体は何かを生み出すのではなく、自分を維持するだけである。
④有機体という全体の存在は、解剖学的な組織のなかにあるのではない。むしろ一つの運動としてのみ現存している。解剖学が見つける現実は契機の実在と考えられてはならない。むしろ過程としての現実だけが、実在と考えられなければならない。
⑤非有機体-物-は自分自身では目的とか一般性とかを持っていない。
※量的比較は単なる区別であり、思想・概念のない区別である。

身体、精神、行為
①歴史を持つのは精神のみである。
②身体は個人によって作られた個人自身の表現である。
③身体は個人が現にあるものを認識させるための徴である。
④個人の行為に帰せられる表現は、この身体において生じる。
⑤身体全体は、本源的な固定した一定の部分と行為を通じてのみ発生する特徴とを自らの内に含んでいる。この存在は内なるものの表現であり、意識および運動として指定された個人の表現である。
⑥語られた言葉や労働は表現(外化)であるが、これらの外化のうちでは、個人はもはや自分自身に即して保ち保有しているのではなく、内なるものを全く自分の外に出してしまい、それを他者に委ねている。
⑦器官(手や足)においては、行為としての行為が存在しているが、行為の結果としての行為は外なるものである。
⑧人間の真の存在はその実行にある。
⑨個性は実行において静止した存在を廃棄し、現にあるような否定的なもの(静止を廃棄するという意味で)として現われる。
⑩個人は行動が仕事となるとき、対象的な場に身を委ねる。対象であることは、実行が何であるかを、すなわち実行が現にあるか、それとも何のでもないかを、示すだけである。
⑪個人の身体器官は、一方の極である精神と外的対象である他方の極とを媒介している。
⑫精神的・有機的存在は、同時に静止的な存立的定在という側面(脳髄とか脊髄とか、という場で)を持っている。
⑬対自的に在るのは実在で、定在はただ物としてある。
⑭精神的働きの伴わない存在者は、意識から見れば物である。意識はそういう存在を否定し、滅ぼすことによって自らにとって現実的である。
⑮精神は自己に帰ると時の対立が大きければ大きいほど偉大である。精神がこの対立を作るのは、自らの直接的統一を廃棄するときであり、自らの自立存在を外化するときである。
⑯有機的過程の目的のうちに、この過程の外にあって自己自身を意識している知恵がある。この知恵が観察する理性である。
⑰意識も自己意識も、本来自体的にある形は理性である。

(つづく)

58、ヘーゲル『精神現象学』(河出書房新社) -5(5/18)-

2015-04-25 06:10:16 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
力とは
①<自律的に措定された素材→それらの統一→展開→還元>、この運動が力である。
②力は外化しながらも自分自身にある力であり、自己自身に有りながら外化である。力の概念はこの両契機をもつ。
③力を外から誘発するものは、実は力によって誘発するように仕向けられている。
④力の二面性…形式の面で、能動的なもの、誘発するもの、つまり自分だけであるものが、内容の面で、自己に押し戻された力と同じであったということ、また形式の面で、受動的なもの、誘発されたもの、つまり他者に対してあるものが、内容の面で、多くの素材の一般的媒体として現われるものと同じであった。
⑤現実的な力としての力は、ただ外化のみにある。力は実現されると一般性となる。この一般性こそが力の本質である。

①知覚された世界は絶えず変化することによってのみ法則をあらわすが、超感覚的世界はもろもろの法則の静かな国である。(?)
②悟性は多くの法則を一つの法則に集約しようとする。が、一つになると、それぞれの法則はその規定態を失ってしまう。
③二つの区別されたものは、共に存立し、共に自体的に在り、共に対立したものとして自体的である。すなわち、共に自分自身に対立したものであり、自らの他者を自らに持ち、しかもただ一つの統一である。
④自己意識…区別されていないものを区別すること。私は私を私自身から区別する。私という同名のものが、私を私自身から突き放す。

B、自己意識
①自体(即自体)…経験上の最初の直接的な表象。
②知の運動を概念と言い、自我としての知を対象と呼ぶ。
③意識の対象は、感覚と自己自身。
④自分を自分自身の身から突き放すこと。この概念は分裂して自己意識と生命との対立になる。
⑤生命とは…自己展開しながら、その展開を解体し、この運動の内に単一に自己を維持する全体、これこそは生命である。
⑥自己意識は自ら真理であるから、自分で満足するものでなければならない。対象は自立的であるから、対象自身が自分で否定を実現することによってのみ、自己意識は満足する。
⑦自己意識の二重化…自己自身において自己意識は他在であり、いいかえると、区別を立て、そうすることで自立的であるような一つの対象が意識に対して生じている。この対象は自分自身では類であり、一般的な流動態である。それは生命のある自己意識である。
⑧自己意識の対象は自我である。自己意識はその他在において自己自身と一致する。
⑨意識は精神の概念としての自己意識に至って初めてその転回点を持つ。
⑩自己意識は他の自己意識から承認されたものとしてのみ存在する。→自己は他者との関係性においてのみ自己を知る。
⑪自己意識は他者のうちに自己自身を見る。一方の者の行為は、それ自身自己の行為である。

自己意識の二段階
①自己意識は、まず、単一な自分だけでの有であり、すべての他者を自己のそとに排除することによって自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとって自我である。自己意識はこの直接態において、いいかえれば自分だけでの有という自らの存在において、個別的なものである。自己意識に対して他者であるものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格を印された対象として存在する。
②次の段階は、純粋に自分だけであるのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識が措定される。

自由な自己意識
①思惟(考える)にとっては、対象は諸々の表象または形態のなかで動くのではなく、概念のなかで動く。
②表象されたもの、形を与えられたもの、存在するものは、そのままで意識とは別のものである、という形式を持っている。
③表象と違い、概念はそのまま私の概念である。思惟において私は自由である。というのは、私は他者のうちにいるのではなく、端的に私のもとにいるから。
④意識は思惟するものとして自由である。実在性をもつのは思惟された区別だけである。

(つづく)

58、ヘーゲル『精神現象学』(河出書房新社) -4(4/18)-

2015-04-24 05:31:48 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
A 意識
①第一段…有るものを感覚を通して知ること。感覚的確信。ここでは意識は純粋自我としてある。自我も事物もただ有るだけで、多様な媒介をもたない。自我は多様な表象とか思惟という意味を持たない。事物も多様な性質という意味をもたない。自我と事物との関係は何も媒介がなく直接的である。
②対象は自我に知られていなくても存在する。知は対象がなければ存在しない。
③感覚的確信は、対象の「ここ」と「今」を問う。
④他在と無関係にあるものは一般性といわれる。一般的なものが感覚的確信の真理である。
⑤対象は感覚的確信にとって非本質的なものになっている。しかし、感覚的確信の真理は対象に、対象への思いこみにある。
⑥直接態には区別がない。自我と対象との間に本質・非本質という区別をおかない。あるがままを直観するだけ。←西田幾多郎の純粋経験?

知覚
①知覚は存在すると思うものを一般的なものとして受け取る。自我も対象も一般的・抽象である。
②運動は契機を展開させ区別するが、対象は契機が総括的に掴まれたものである。
③感覚的知の豊かな内容は知覚のものであって、直接的確信のものではない。感覚的なるものは性質として規定された者としてある。
※否定することは同時に保存することである。
④有は媒介もしくは否定的なものを自分に持っているから一般的なものである。そこでは、一方が他方の否定であるような多くの性質が措定されている。
⑤性質とは、互いに区別された限りでのみ、対立したものとしての他の性質に関係する限りでのみ、存在する。
⑥一つであることは、自ら単一な仕方で自分に関係し、他を排除することである。
⑦性質が性質であるのは、他を排除して一においてある時だけであり、性質が規定されているのは他と関係しているときだけである。
意識が知覚するとはどういうことか。
①知覚とはたんに把捉することではなく、みずから把捉しながら同時に真なるものの外に出て、自己に帰ってくることである、ということが意識にとりはっきりしていること。(?)


①物はいくつもの性質がある。いろいろな性質をもつ一般的な媒体が物である。それぞれの性質は互いに外にあり触れあうことがない。
②物は多くの異なった性質の存立であるから、意識においてそれらの統一された存在を知る。
③異なる性質はそれぞれ物の素材である。物は素材の集まりである。
④物は自分だけで単一な規定態であり、これがその物を他から区別する物の本質的な性格となっている。
⑤物は自己に対して単一であり、それが対立するのは外の別の物に対してである。
⑥物は絶対的な性格と対立とによって他の物と関係する。
⑦物は自分だけでの有として、つまりすべての他有(他の有り方との関係)の絶対的否定として措定されている。だから自己に関係する否定は自己自身の廃棄である。

①対象は他者に対して有る限りで自分だけで有り、自分だけで有る限りで他者に対している。(?)
②感覚的個別性は感覚的一般性となり、知覚は普遍者一般としてある対象をつかみ、それゆえ個別性は知覚においては真の個別性として、一という自体存在(自分自身に帰った有)として現われてくる。
③対象における個別(自分だけでの有)と一般(個別とは別の対自存在)の対立と矛盾は、本質的なものと非本質的なものとを区別することによって真理を把握しようとする。
④個別と一般、本質と非本質は相互に移行する。この働きが常識という悟性である。(?)

(つづく)