読書日記と読書ノート第二部(2009年8月~2011年1月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

閑話4 第二部が一年を迎えました (2015年11月30日、記)

2015-11-30 06:32:32 | 閑話
昨年12月1日に、「読書日記と読書ノート」第二部(2009年8月~2011年1月)がスタートしました。第一部よりも読書の日付が遡るのは、還暦以降の足跡を途切れることなく残すためでした。最初の記事は「時事1 『アベノミクス』を斬る」です。師走総選挙の争点は「アベノミクス」の是非でした。「新三本の矢」もそうですが、政治家は往々にして耳障りのいい言葉をスローガンに掲げます。「アベノミクス」もその類です。言葉だけが独り歩きして内容が検討されない。「『アベノミクス』を斬る」はそうしたごまかしを批判しようとしました。が、史上最低の投票率となった総選挙で、自公与党勢力は2/3を超える議席を獲得し、勝利しました。その後、永田町でどんな政治が展開されたかは、皆さんご存知の通りです。一言でいえば、憲法蹂躙の政治、立憲主義破壊の政治が行われました。私は安保関連法案(いわゆる「戦争法案」)に反対して、何回か街頭署名を行いました。9月に入って審議が大詰めを迎えるころ、当地でデモと集会を主催しました。強行採決前夜には、街宣車に乗って法案反対を市民に訴えました。「戦争法案」が「戦争法」となったのちは、安倍政権を批判する市民運動を広げる活動に加わっています。今、ゆっくり落ち着いて読書する時間的・精神的余裕がありません。私としては不本意ですが、当分は外の活動に時間をとられることになりそうです。幸い、本ブログは過去の読書の記録ですので、これまで通り週休2日程度のペースで記事をアップできます。今後とも、ご愛顧のほどをよろしくお願いします。

136、カント「実践理性批判」(岩波文庫)-その2-(2/5)

2015-11-29 07:00:31 | 読書記録
(2)ノートから
➀道徳は自律という意味において意志の自由に基づき、それはさらに『先験的自由』の能力に基づく。
➁自由は道徳的法則の存在根拠であるとともに、認識根拠である。
③実践理性ではありうると考えられた理念(自由、神、魂の不死)が、実践理性においては実在性が証明される。

序論
➀意志とは
…表象に対応する対象を生み出す能力。対象を生み出すように自己を規定する能力。
➁格率とは
…存在者が自らに課す制約。行為者の主観的原理。制約がすべての存在者に妥当するとき法則となる。行為者本人にとっては命令、当為となる。
③結果(達成しうるかどうか)に関係なく、意志そのものに働きかける命令を定言命令という。
④快・不快を行動原則とする立場は、経験的ですべての人にあてはまるわけではない。つまり、実践的法則ではない。
⑤生の快適に関する意識は幸福であり、これを意志の最高の規定根拠とするところの原理は自愛である。欲求の対象を意志の規定根拠とする実践的原理は自愛-自己幸福という原理である。
⑥純粋理性は何らの感情(快・不快)を前提としないで、実践的規則という単なる形式によって意志を規定するものでなければならない。
⑦理性的な存在者は自己の格率を実践的普遍的法則と考えるべきである。
⑧格率の単なる立法的形式だけが意志の十分な根拠規定でなければならない。このような立法的形式だけで規定される意志の性質は自由である。自然界のあらゆる出来事は因果律にしたがう。意志は因果律に従属しない。
⑨道徳的法則の意識は純粋意志から生まれる。
⑩純粋実践理性の根本法則は下の如し。
君の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。
⑪道徳的法則は理性的存在者への命令であり、義務である。
⑫意志の自律はあらゆる道徳的法則ならびにこれに従う義務の唯一の原理である。
⑬道徳的法則の表現するものは純粋に実践的な理性の自律、自由に他ならない。
⑭自己愛の格率は人に忠告を与える。道徳性の法則は命令を与える。
⑮道徳的法則の客観的実在性は、どのような演繹からも、経験的に支持される理性の努力によっても証明されない。それ自身において確立している。
⑯我々はあらゆる行為の因果性を、行為者が互生的な存在者である限り、物理的に制約されないものとみなし、こうして自由の概念をば理性の規制的原理とした。

因果律
➀ヒュームは二つの事物を必然的に結びつける原因なるものは存在しない、と主張する。原因として我々が考えるのは、AにはBが先行するという経験的事実から、BをAの原因と考える考えが思考の習慣になったにすぎない、という。
➁カントの批判。
ヒュームが原因の概念を物自体について考えたのなら彼の批判は当たっている。しかし、われわれは物自体ではなく、われわれの感覚に映ずる現象を考察する。現象と現象との関係について、原因のカテゴリーを純粋理性からアプリオリに適用することができる。
③純粋理性の理論的使用(認識)と実践的使用。
直観によって対象を現象できない物自体にカテゴリー概念を適用することはできない。しかし、悟性は欲求や能力や意志にも関係している。理性の実践的目的のために因果性の概念を適用できる。意志の概念には因果性の概念が含まれている。
④純粋意志の概念には、自由を有する因果性(主体的原因)が、理性の実践的使用のために存在する。因果性の概念=主体的原因と自由とを結合すること。
⑤超感性的事物-直観では把握できない事物にも、道徳法則に関わる限り、因果性のカテゴリーを適用できる。

(つづく)

136、カント「実践理性批判」(岩波文庫)-その1-(1/5)

2015-11-28 07:07:44 | 読書記録
(1)日記から
・2010年6月25日(金)
カントの「実践理性批判」を読む。78ページ。よくわからない。実践理性というのは行為。理性的行為、道徳的行為の基準は何かを探求した(らしい)。カントによると、行為の対象(実質)が意志の目的ではない。快・不快という結果が道徳的行為の基準だとすると、快・不快(幸福も)は経験的で人によって異なり、普遍的基準とはなりえない。だから、行為の対象ではなく、行為の形式に基準を設定しなければならない。かくして、「汝の行為の格率(基準)が、普遍的な立法の形式に適うように行為せよ」という原則が導かれる。以前読んだ「道徳形而上学原論」と同じ原則だ。この原則は当為命題で、行為者に対する定言命令、無条件的義務である。かくあるべきであるがゆえにかくなせ、またなしうる、と。このあたりまでは理解できるが、純粋理性から意志の自由が根拠づけられるか、とか、意志自由と因果律の関係とか、の叙述になるとチンプンカンプン。理解できないところは二度、三度と読み返すが、それでもわからない。ヤレヤレ。
・6月26日(土)
「実勢理性批判」を4時間半。40ページ余り。昨日よりは理解できたと思ったが、こうして要約しようと思うと何が書いてあったか思い出せない。道徳的行為の動機、主観的な根拠は道徳法則そのもので、行為の結果である幸福や快適さの感情ではない、という。道徳的行為に伴う感情は尊敬だというが、これは他の人が抱く感情だろう。人間の感情が赴くのは我欲・自己愛だが、道徳的行為がもたらすのは謙抑である、ともいう。断片的には思い出すがまとまらない。
・6月27日(日)
午後、カントを30ページほど読んだ。道徳的行為の格率を遵奉する根拠を人間の人格性に求める。人格性の基底には意志の自由がある。人格性も自由も、感性的存在としての人間ではなく、可想的存在としての-理念としての規範としてのー人間にあるべきものとされる。カントのいう実践理性というのは規範的、という意味のようだ。
・6月28日(月)
6時間半かけて「実践理性批判」を読み終わった。230ページの本だが、20時間以上かかった。「純粋理性批判」では、われわれが認識できるのは直観に映ずる現象であって、物自体は認識できない、とされた。そして、現象の認識は、現象を概念化し、思考の規則であるカテゴリーを通してなされる、ということだった。物自体は認識できない、神も魂の不死も。「実践理性批判」では、道徳的行為の実践的可能性から、神の存在や魂の不死が要請される、という。と同時に、道徳的法則を根拠づけるのは、可想的存在としての人間の意志の自由であるという。自然の因果律に支配される感性的存在から独立して、自らが因果律を規定できる自由な存在であることが道徳法則の遵奉を義務として命じうることの根拠である、という。感性界に属する快・不快や幸福は決して道徳を基礎づけえない。自由意思の主体であり、規範的に存在するものとしての人間に命じられ、またそのような存在としての人間がなしうるのが道徳である。自然因果律の支配する世界と、自由意思に基づいて実践する世界を区別し、後者に優位性を与えたのがカントだった。用語が難しくセンテンスも長くて、理解が困難だった。ポバーのような天才も難解(カントが一気に書き上げたせいだと言っていた)と評しているのだから、やむを得ない。

(つづく
)

135、夏目漱石「明暗」

2015-11-26 05:48:09 | 読書日記
日記から
・2010年6月24日(木)
漱石の「明暗」を読了した。外に対して自分を繕わざるを得ない人たち。一番近い夫・妻に対してさえ警戒心を持ち、自分の腹を探られないように、しかし相手の腹を探ろうとして神経戦にさいなまれる。その緊張が破れる一瞬に、真実を吐露しようとし、あるいは吐露してしまうが、次の瞬間には後悔に変わる。自分の見栄のために真情に仮面をかぶせなくてはならない。漱石の筆は、エゴイストとしての彼らの内面を抉る。が、かく生きざるを得ないのも真実ではないか、近代人にとっては。

(了)

134、カント「純粋理性批判」2 (光文社文庫)-その3-(3/3)

2015-11-25 07:11:51 | 読書記録
(2)ノートから-つづき
経験、自然
➀経験は知覚される。経験の形式は概念に従って、現象が総合的に統一されている、ということである。
➁カテゴリーは可能的な経験における人間の思考の条件である。
③カテゴリーが可能なのは、すべての感性と現象が自己統合の意識と結びついているからだ。
④自然が認識・探求の対象となるのは、超越論的な自己統合の意識の働きによって、自然がすべての可能な経験の客体として一つの統一のうちに現れるからである。

想像力、知性
➀自己統合による統一の意識の前に想像力による純粋な総合的統一の原理がある。
➁想像力が統一をもたらすのは知性の働きによる。
③人間の経験的な認識能力には知性が必ず含まれる。
④純粋な知性はカテゴリーを介して、すべての経験の形式的で総合的な原理となる。
)現象が意識と結びついて知覚となる。
)多様な現象を総合する働きをするのは想像力である。
)想像力は直観のうちに含まれる多様なものを一つの形象に仕上げる。
)想像力は現象を総合して統一を作り出す働きをする。⇔超越論的な機能
)この機能なしには、対象についての概念が一つにまとまって経験を作り出すことはない。
)概念が生まれるのは多様なものが自己統合の意識と結びつくから。概念は知性に属する。
)経験がある現象をかってあった他の現象と再認することによって概念が生まれる。この概念が経験の統一的な認識を可能にする。
⑤自然のうちに秩序と規則正しさが備わっているのではない。知性が規則を与えるのである。知性がなければ自然の規則性もない。
⑥すべての経験的な法則は知性の純粋法則(=カテゴリー)の特定の形式にすぎない。

判断、概念、カテゴリー
➀判断するというのは、知性が概念を使って認識するということ。
➁概念は対象についての像=観念である。
イ) 経験的な概念
ロ) 純粋な概念-知性のうちに内在するー
③判断とは概念によって思考すること。
④判断の基本的な型(形式)がカテゴリー。

実体、経験
➀実体とは変わらずにあるもの。ロックとヒュームは実体はない、あるいは把握できない、と考えた。
➁人間が自己を意識し、自己の同一性を意識できるためには、外界の事物が実体として存在していることが必要である。
③時間のスケールでいうと、実体は同時存在するもの。原因・結果は継起存在。ヒュームは経験の習慣化の他に原因なるものを認めなかった。しかし-カントはいう-経験判断か客観的妥当性を備えて共同主観的なものになるには、それが「原因」というカテゴリーにおいて考えられているからだ。
④原因(演繹、帰結)というカテゴリーは、経験的規則(帰納)とは全く異なる。

概念と認識
➀人間は対象を像によって思い描く。対象は人間の感性の条件である時間と空間の形式で、直観される。
➁この与えられた像を知性の働きで概念化する。この概念(カテゴリー)はアプリオリに知性の中に備わっている。
③知性は、異なるものを共につかみ異同を分別して現前する像をまとめて概念を作る働き。そしてこの概念を使って異なる対象をつかみ総合し認識する働き。
④認識が成立するためには概念が必要、というより知性が概念において認識している。
⑤まとめ、総合し、統一する働きは、ある規則に従って頭の中で知性が行う。この規則がカテゴリー。
⑥知性に内在し経験に先立つ概念こそが、人間の判断を構成する基本的概念、すなわちカテゴリーである。
⑦人間が外にある自然として眺めているものは、実は自己のうちにある現象に過ぎない。この現象を知性に備わるカテゴリーの形式で認識する。

自己意識
➀意識というのは容器のようなものだ。何かを意識するときには自己を意識してはならないし、自己を意識しているときには何かを意識することはできない。
➁外のものを知覚(注意を向ける)している意識に、この注意を向けると意識の意識、つまり自己意識が生まれる。
③判断というのは、二つのものを自己において結びつける働きである。判断することによって多様なものは自己の意識に入ってくる。

経験と認識
➀認識といえるためには、アプリオリな直観と思考によって得た純粋知性概念が経験的な直観に適用できなければならない。
➁カテゴリーは経験的な直観(対象についての像)に適用されなくてはならない。こうしてカテゴリーは思考の形式であるとともに、客観的な現実性を獲得する。
③対象は「あるがままに」ではなく、「あらわれるがままに」知覚される。

解説者
カントは人間の認識の根拠とそれが客観的に妥当する根拠を示した。

(了)