2017 5/22 会津下郷 大内宿
大内宿を初めて訪れたのは、36年前ほどの冬、まだ学生だった。
山中に現れる茅葺屋根の集落、街道の両側に宿場の様な家が立ち並ぶ風景が江戸時代にタイムスリップしたような感じだった。
まだ観光客は冬場ともあってほとんどいなくて少し寂しい感じがした。
その後15年前くらいに1回訪れ、今回3回目。・すっかり観光地として有名になった感がある
ほとんどの家が土産物屋か蕎麦屋などの飲食店
大内宿は、会津城下と下野の国(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。
会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。
会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線でした。
また、以前の記録では天正18年(1590年)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録があります。
1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。
積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった
1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。
子安観音堂付近から見た大内宿
観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が
野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に
県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンでさまざまにPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった
大内宿を初めて訪れたのは、36年前ほどの冬、まだ学生だった。
山中に現れる茅葺屋根の集落、街道の両側に宿場の様な家が立ち並ぶ風景が江戸時代にタイムスリップしたような感じだった。
まだ観光客は冬場ともあってほとんどいなくて少し寂しい感じがした。
その後15年前くらいに1回訪れ、今回3回目。・すっかり観光地として有名になった感がある
ほとんどの家が土産物屋か蕎麦屋などの飲食店
大内宿は、会津城下と下野の国(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。
会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。
会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線でした。
また、以前の記録では天正18年(1590年)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録があります。
1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。
積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった
1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。
子安観音堂付近から見た大内宿
観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が
野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に
県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンでさまざまにPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった
http://stk1031.blogspot.com/2017/05/blog-post_46.html