徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

三春町桜浪漫(5)~デコ屋敷夫婦桜/小沢の桜

2014-05-12 23:58:01 | 福島景勝地/裏磐梯
2014 4/23  郡山市高柴デコ屋敷


三春町の目抜き通りは、観光地用に整備され、案内版なども充実、以前と比べ歩いて寺社や桜めぐりの観光散策がコース取り含め、
しやすくなった。何十年ぶりかの三春町だったが、新しい発見が今回数多くあった。

古い蔵もリニューアル


三春町の社寺の桜の動画



 午後に滝桜を見た後、かつては三春町の管内であったが現在は郡山市になった山間の高柴デコ屋敷へ

デコ屋敷の天神夫婦桜
張子人形で有名な高柴デコ屋敷近くの高台にあります


ヤマザクラとシダレザクラが仲良く寄り添うように立っていて「夫婦桜」と呼ばれています


根元の祠は、学問の神様である菅原道真公が祀られているもので祠を建てた時に桜と梅が植えられたと伝えられています




樹齢推定500年 - 2本


デコ屋敷は三春駒・三春張子など三春の民芸品全ての発祥地。 (デコとは木彫りの人形のことで木偶(デク)の別な読み方)
現在は郡山市ですが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、昭和初期になり三春駒・三春人形という名がつけられました
(明治以降、三春とは分かれています)


三春張子は木型を用い、紙を張り付けて作り、優雅で動きのあるのびのびとした形が特徴




今では人形づくりの工房が4軒あり、伝統の粋づく集落となっています










三春駒(日本三大駒の一つ)の黒駒は、子宝・安産・子育てのお守りとして作られ、日本で最初の年賀切手に採用された郷土玩具


三春駒の伝説(高柴子育木馬)
高柴デコ屋敷(東奥州田村郡三春城外高柴村)で生まれた三春駒(高柴子育木馬)の伝説は古く、延暦十四年(795)坂上田村麻丸(麻呂)が大多鬼根山(大滝根山)の石の洞窟に住む大多鬼丸という賊の征伐に京都を出発した時、京都清水寺の開祖と言われる僧延鎮が、五体の仏像を刻んだ残りの材で鞍馬百疋(ひき)を刻み、田村麻呂将軍に贈った(つまり仏像を造った残りの木で100匹の木の馬をつくりお守りとして贈っていたということ)。将軍はこれを鎧櫃(よろいびつ)におさめて征夷の途にのぼり、やがて戦いは開始されたが、官兵は京都よりの遠路に疲れていたので苦戦であった。その時どこからか、鞍馬百疋が官兵の陣営に走り込んで来たので兵達はその馬に乗って大多鬼根山へ攻め登り、ようやく大多鬼丸を滅ぼすことが出来た。ところがその後、鞍馬百疋の行方がわからなくなってしまった。
 翌日、一疋の木馬が三春近くの高柴村(デコ屋敷)で汗にまみれているのを里の人の杵阿弥という者が拾い、これは延鎮の作の百疋の木馬の一つであると聞き九十九疋を自分で作り補っておいた。三年後には、この拾った一疋も行方がわからなくなったので、九十九疋を杵阿弥の子孫はこの駒を模作して里の子供に与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ち、子の無い者も三粒の大豆を飼葉として木馬に与えると子宝に恵まれるといわれ、また、疱瘡(ほうそう)・麻疹(はしか)も軽くなるといって、誰というとなく「高柴子育て木馬」と名付けられた(彦治民芸さんhp)


十二支張り子




デコ屋敷三春張子の起こり(十二支張り子の元祖 彦治民芸)
デコ屋敷で張子人形づくりをいつ頃から始めたのかははっきりしませんが、一説には今から三百数十年前京都の伏見人形が東北地方に流れ、やがては三春地方にも伝わり、当時貧しかった高柴村の人々がその人形を見て副業として作り始めたと伝えられています




車を東に走らせ、この日の最後は、田村市船引町の「小沢の桜」へ

「小沢の桜」は、ソメイヨシノの一本桜。通常、ソメイヨシノの寿命は50年から70年であるが、この小沢の桜は樹齢約100年と言われており、かなりの長寿


国道沿いの田畑の中にぽつんと1本だけある


桜の傍には祠と野仏、遠くには移ヶ岳が見渡せ,日本の原風景ともいえる風情が


100年程前、このあたりの人が遊郭で出会った「さくら」と言う名の女性が忘れられず植えた桜と言われている。
今では樹高10.5mの立派な桜に成長している。


田中麗奈主演の映画「はつ恋」のロケ地にも使用された。願いの桜として登場。最後の花見のシーンなどがここで撮影されました。





















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