金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代とチャイナの文化

新石器時代の文化比較

  縄文土器の編年表   縄文時代の文化事項  チャイナの文化事項

縄文時代早期末に世界に文化が拡散した。九州のカルデラ噴火により縄文人が世界各地に避難していたのだろう。新石器時代の文化の進化する歴史が見えない

改訂版

引用しますーーーーーーーーーーーーーー

縄文早期と縄文前期の間には、鬼界カルデラ噴火があります。
アカホヤ火山灰層と言って、マダラのように赤っぽい面が混じる地層です。層の上と下では時期が異なるのです。

日本人の海洋的資質は巨大火山「喜界カルデラ」によって拡散した。
列島の縄文文化に先駆けた南九州の縄文文化は、7300年前の鬼界カルデラのアカホヤ噴火で壊滅した。そこに住んでいた縄文人は生き延びて他の地域に移り住んだようである。
遡って、約7300年前に起こった薩摩半島沖の鬼界カルデラの噴火では、四国以西の縄文人を破滅に追い込んだと言われています。その噴火を境にして、縄文土器の形式が南方系から北方系へと完全に移行しています」

縄文時代は早期。場所は九州南部。この地域はこの頃の縄文文化のトップランナーでした。
作られる土器は他のどの地域よりも洗練され、多様で、おしゃれをするためのものも大量に出土しています。
しかし今から7300年前、鬼界カルデラの大噴火という九州南方の海域で起きた噴火で、九州どころか西日本の縄文文化は壊滅的なダメージを受けてしまいました。ほとんど全滅といってもいいくらいの破壊だったようです。
大規模な被害といえば火山があります。 日本では7200年前の鹿児島県の鬼界カルデラの爆発があります。その火山灰は南九州では1m、北九州、瀬戸内海、近畿地方では20cmもの厚さに積もっています。雨にうたれると表面がコンクリートのようにかたまるので、植生が大きく変わったのです。その影響で西日本の縄文社会は力を失ったのだと私は考えています。

 八丈島は東京から330km南にあり、絶海の孤島である。八丈島最古の住人は、7,000~ 6,500年前の湯浜人で、彼らは噴火が続き西山(八丈富士)がまだ形成途上にあった東山(三原山)地域に上陸し、樫立地区の「湯の浜」海岸高台に生活の拠点を設けた。
湯浜遺跡からは厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出土している。
その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相が見られる。鬼界カルデラ噴火の直後なので、鬼界カルデラ噴火によって南九州から避難した人々が流れ着いたのではあるまいか。

 阿多カルデラ噴火
 7300年前ごろに鬼界カルデラの噴火があり、西日本の縄文人は壊滅した。
その後1000年程人が住めない状況になっていたが、徐々に回復し、2000年ほどたった5500年前には縄文社会は再び盛況を迎えていた。この時期が縄文時代前期である。

ところが、この約5500年前には鹿児島湾入り口近くの阿多南部カルデラで大噴火が起こった。このとき、池田湖が形成された。これとほぼ同時に発生したマグマ水蒸気爆発により山川湾、成川盆地、鰻池、池底、松ヶ窪などの噴火口群が相次いで形成され、鍋島岳や開聞岳が形成され現在に至っている。 池田カルデラの水蒸気爆発の後、さらに花崗岩岩片を含む火山堆積物を噴いてから大規模な軽石の噴出があり、大隅半島にも厚く積もった。吾平町での埋蔵文化財調査の現場では、この軽石層が20~30cmの地層になっていたそうである。噴出当時は1mくらいの厚さであったと推定され、当時住んでいた縄文人は再び壊滅したことであろう。

 

 

関連する以前の投稿をこれ以下に移動した。

金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文人と縄文土器の広がり

 

縄文人と縄文土器の広がり 中国大陸の新石器時代
日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000~7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。(紅山文化=北方地区の新石器文化の中で最も重要な文化です。ここで言う北方地区とは、東北3省―遼寧・吉林・黒龍江で内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区を指します)
縄文人は中国と交易していた?【その1】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=297124
遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、三内丸山遺跡の縄文土器と良く似た土器が出土し、また査海遺跡から出土している中国での最古の玉製品「けつ状耳飾り」とほぼ同じものが、福井県の鳥浜遺跡からも発見されているらしい。

中国大陸の新石器時代は日本列島の縄文人達の同族が居住して、自由に交流し、縄文文化にあった(参考)。以下の新石器時代の遺跡から縄文土器が出土している。
{975C51E0-A2F3-4608-8488-6C4CAF819791}
北から興隆窪文化、紅山文化、河姆渡文化の遺跡
・【興隆窪文化】は中華人民共和国内モンゴル自治区から遼寧省にかけて紀元前6200年頃   -紀元前5400年頃に存在した新石器時代の文化。
・【紅山文化】は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に   紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)に存在した新石器時代の文化。 
・【河姆渡文化】は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。(呉・越系弥生人(O2b、O2a)の祖先か!)

中国大陸と縄文人は元々交易関係にあり、縄文後期の寒冷化によって(弥生時代よりも早く)大陸から渡来してきた可能性も否めない。
…丁度、紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代中期というのは非常に特徴のある時代です。
例えば、長野県の八ヶ岳山麓には、火炎式土器。新潟県にも火炎式土器といって、炎のように盛り上がる土器があります。縄文中期土器、三内丸山遺跡でも、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのです。ヘビ信仰が大変盛んです。
以上引用終わり---

紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。それは縄文時代中期というのは非常に特徴のある土器が現れた時代です。
紅山文化が崩壊して日本列島まで移動してきた人々が中期土器の成立に影響を与えていたかも知れない。
金生遺跡は縄文時代後期からの遺跡で、チャイナの3皇5帝から夏-殷-周に掛けての頃に当たる時期になる。こうしたことから見て次のような想像が生まれてきた。
殷の青銅器の饕餮紋は縄文中期土器の文様が影響を与えているものなのかも
これまで周において暦は四立を成立させたとされていたが、金生遺跡の観測が影響を与えたことからと考えても良いのでは。
夏については、チャイナの春秋戦国時代に夏正が採用されていることから、ここでも金生遺跡の四立 立春の暦観測が影響を与えていたものだったかも

 


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