青森 三内丸山遺跡
早期と前期では、住人に断絶があったのだろうか
早期には 6波状突起口縁の土器があり、太陰暦があったことを示していたのに、前期には 4波状突起口縁土器のみとなり、太陰暦は忘れ去られてしまったように見える。
この時期の三内丸山遺跡では、海の干満は生業に大きく影響していなかったのだろうか、貝塚も多くないようだし。
この辺の事情はどうだったのだろうか。
内陸にある小牧野遺跡からは陸奥湾が遠望できる
ここには 4,6波状突起口縁の土器があった
三内丸山遺跡の早期に住んでいた人々は小牧野遺跡に移動していたのだろうか
「特に三角形岩版は、400点以上も出土しており、環状列石などで何らかの儀式が行われたものと考えられます。」
と言われていたので、神秘数 3 に関係するものとして注目している。
縄文時代の暦計算のための計算機なのだろうか。
近くの大森勝山遺跡 円盤状石製品 も同様なものが出ていた。
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
史跡 小牧野遺跡 [こまきの いせき]
1995(平成7)年3月17日 史跡指定
時代区分-後期
小牧野遺跡(真上から)
青森市南東部、八甲田山西麓に広がる荒川と入内川に挟まれた、青森平野を一望できる標高80?160mの舌状台地上に立地する、縄文時代後期前葉(紀元前2,000年頃)の環状列石です。
環状列石は、中央帯が直径2.5m、内帯が直径29m、外帯が直径35mの三重の環を描くように配置され、さらにその周りを囲むように直径4m前後の環状配石や一部四重となる列石などが配置されており、全体では直径55mにものぼります。環状列石の内帯や外帯は、平らな石を縦横に繰り返し、あたかも石垣を築くように並べられています。この縦横交互の列石は全国的にも珍しく、“小牧野式”配列(配石)とも呼ばれています。
環状列石のほか、竪穴建物跡(住居跡)や貯蔵穴、捨て場跡、湧水遺構など、生活に必要な遺構や、土坑墓群、土器棺墓などの墓制に関する遺構も発見されています。 また、環状列石に隣接する墓域や捨て場跡を中心に、土器や石器など日常的に使用されている道具のほか、土偶やミニチュア土器、動物形土製品、三角形岩版、円形岩版など、祭祀的要素の強い遺物が出土しています。
特に三角形岩版は、400点以上も出土しており、環状列石などで何らかの儀式が行われたものと考えられます。
環状列石は、縄文時代の土木技術上、極めて先端的かつ完成度の高い遺構であり、日本列島にかつて独自の文化が存在したことを示すとともに、縄文時代の宗教的な思想のもと、人々の狩猟、漁労、採集による定住の在り方や自然との共生を示す顕著な物証の一つです。
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日本列島のストーンサークル
ストーンサークルは東北の青森県と秋田県や、北海道で発見されたものが有名ですが、古いものでは本州中部にも複数発見されています。主たるストーンサークルを時代別に並べてみると、時代と共に列島を北上していることがわかります。
まず、最古と考えられているのが長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡です。その年代は縄文時代前期、およそ前3000年から前4500年と推定されています。
その後、縄文中期では直径が30m以上もある大型のストーンサークルが諏訪盆地に近い静岡県、山梨県や群馬県付近で見られるようになり、中でも富士山の西南麓のなだらかな裾野に立地する千居遺跡や、山梨県都留市の牛石遺跡の存在は有名です。
縄文中期後半以降には、九州を除いた日本各地でストーンサークルが造られるようになり、後期前半、前1500-前2000年には、大型のストーンサークルが秋田県北部・青森県・北海道西南部に出現します。中でも秋田県鹿角市の大湯環状列石では、立石を中心にして川原石を何重にも囲んだ日時計状組石の存在が認められ、複数の環状列石から大規模なストーンサークルが構成されています。
++++そうなのか これが流行ったのは暦が作られてからと言うことでは無かろうか
その内、万座環状列石は直径46mという国内最大級を誇ると共に、その日時計の立石から環状列石の中心方向は、夏至の日に太陽が沈む方向に合うことが確認されています。
++++そうなのか 夏至の日とはどういうことなのか 何の意味が認められるのか
伊勢堂岱遺跡も縄文時代後期前半の遺跡として保存状態が良く、整備が急速に進められています。そこには4ケの環状列石と共に複数の日時計型組石が存在し、周辺には堀立柱建物跡や土杭墓、捨て場等も発掘されました。そして大湯環状列石と同様に、立石の中心と環状列石は、夏至の日没の方向を意識していると考えられています。
++++そうなのか 夏至なのか 暦は作れない
青森県の小牧野遺跡も保存状態は良好で在り、その美しい環状列石のレイアウトには目を見張るものがあります。いずれも祭祀や儀礼が執り行われ、埋葬にも関与していたと推定されています。
++++そうなのか 祭のため
大湯環状列石内の万座環状列石大湯環状列石内の万座環状列石伊勢堂岱遺跡の見事な環状列石伊勢堂岱遺跡の見事な環状列石最大径35mの3重の輪から構成される小牧野遺跡の中心最大径35mの3重の輪から構成される小牧野遺跡の中心
縄文時代後期、十和田湖周辺に造られた複数のストーンサークルの立地条件を決める手掛かりは少なくとも2通りあったと推測されます。まず、日本列島北方の一大拠点として位置付けられた十和田湖の周辺に造ることが不可欠でした。あくまで豊かな水源の存在が、ストーンサークルと集落を形成する為の必須条件だったのです。次に、その十和田湖に向けて海岸から川沿いに上流まで上ることができる水路が重要視されたようです。それ故、小牧野遺跡は青森湾に注ぐ荒川沿いに、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は日本海に注ぐ米代川沿いに、湯舟沢環状列石は三陸南部に注ぐ北上側沿いに、そして太師森遺跡も例にもれず、浅瀬石川沿いに造られています。十和田湖は見事な水源を提供しただけでなく、近隣の海岸周辺は漁撈の宝庫でもあることから、これら古代の集落は栄えたに違いありません。
これらの大規模なストーンサークルには諏訪湖の阿久遺跡も含め、幾つかの共通点があります。まず、いずれも海岸から離れた内陸にあり、遠くに山々を見渡すことができる盆地のような地勢を有していることが挙げられます。
次に、盆地の一部ではあっても周辺の土地よりもかなり標高差のある高台の地に位置することを常としたことに注目です。ストーンサークルに達するには、小高い丘陵を登っていくことが多いのです。これはストーンサークルが方角の指標を見出しやすい地勢を四方に有することを大切にしていたからに他なりません。ストーンサークルは展望に恵まれ、どの方向からもアクセスしやすくわかりやすい小牧野遺跡の高台から眺める津軽半島と下北半島
小牧野遺跡の高台から眺める
津軽半島と下北半島高台にあることが大切な条件となっていたのです。また、小松野遺跡のように山々だけでなく、真北の方向には陸奥湾をはさむ津軽半島と下北半島を一望し、天候の良い日は遠く海原の状態を一目で見極めることができるような素晴らしいビューを誇るストーンサークルもあります。小松野遺跡からは、半島の中間点を見据えるだけで、真北の方角を一目で知ることができたのです。更に、様々な祭祀活動が行われ、居住地の基点ともなっていたことから、近隣には川や湖などの水源が存在することも重要でした。それ故、ストーンサークルの周辺には川や湖が存在したのです。
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小牧野環状列石とランドスケープ
青森市文化財課 児玉大成
最近、縄文人が山や太陽運行を意識していたとする研究が活発的になってきた。特に環状列石との関係が多く指摘がされている。青森県青森市にある小牧野遺跡は、縄文時代後期前半(約4000年前)の遺跡で、これまでに環状列石をはじめ、竪穴住居跡や土器棺墓、土坑墓群、貯蔵穴群、湧水遺構等も確認されており、縄文人の精神文化とかかわる多目的祭祀場としての性格が推定されている。
遺跡周辺でランドマーク的な山は、東に八甲田山(1585m)、その手前に三角山の雲谷山(553m)、西に岩木山(1625m)、北西に馬ノ神山(549m)があるが、環状列石の周囲はスギの植林に覆われており、良好な景観を有しているとは言い難い。そこで今回は、環状列石の測量成果と景観シミュレーションソフトを駆使して、当時のランドスケープについて考えてみる。
環状列石は、多量の河原石により直径35メートルの外帯・内帯・中央帯の3重の列石から成るほか、後に加えられた列石、組石もあり、当初の構築から最終形態に至るまである程度の時間幅があったものと思われる。環状列石は、石垣状に組まれた「小牧野式」と呼ばれる配列により、円形劇場のように立体的に造られており、見る者には迫力感を抱かせる。環状列石の広場中心には、1mをこえる大きな石があり、当時は象徴的に立てられていたと思われる。実は、この大きな立石と環状列石に付された特殊組石は、何らの方向性を意識して造られたものと考えられる。例えば、列石西側隅の第3号特殊組石は、中心の立石を通り東側隅の第9号特殊組石と対角のラインで結ばれる。ほぼ東西方向のラインにあたる。平面図上では西側方向の延長線上に岩木山の山頂と重なるが、実際には、手前の丘陵により隠れて見ることはできない。それでも、20m程のやぐらがあればその山頂部を望むことができるし、例え見えなくても方向ぐらいは把握できていただろう。列石北側の第6号特殊組石は、中心の立石と結んだラインがほぼ南北方向を示す。列石北西側の第2号特殊組石は、中心と結んだラインが馬ノ神山山頂の方向を示す。また、環状列石には、祭壇を思わせるような第1号特殊組石がある。この組石も中心の立石を通り第7号特殊組石と対応した関係をもつ。このラインは、第1号特殊組石から望むと陸奥湾および、西の津軽半島から東の下北半島まで一望することができる。第1号特殊組石が祭壇だとすると、祭りを司る人は、眼前には参加者を、その背景には周辺の集落をとりこんだ景観を見渡すことができたかもしれない。
次に、環状列石の組石とは直接対応しないかもしれないが、列石中心からの太陽の運行をみてみる。
山と太陽が重なるのは、八甲田山と冬至の日昇(7:30頃)である。日没には対応した山もなく、このライン上に対応した特殊組石もない。
夏至の日には、日昇・日没と重なる山はないが、かつて観測した時には、中心の立石から環状列石内に建立されている馬頭観音碑の方向へと日が昇ることを確認している。(4:20頃)この馬頭観音碑は、江戸時代末期のものであるが、環状列石の一部を転用したものと考えられ、当時から立石として、この場所近辺にあったものかもしれない。もう少し日が昇ると(5:20頃)、第9号特殊組石の方向と重なる。また、秋分の日から、1週間ほど過ぎた頃に雲谷山から日が昇り(6:00頃)、岩木山方向へと日が沈む。逆に春分の日には、1週間ほど前に日が昇る。
このように、小牧野環状列石は、山や太陽運行と部分的に対応したランドスケープとなっており、構築場所の決定や配石作業の際に、それらを意識していた可能性も考慮される。
なお、調査の実施機関である青森市では、このような景観を考慮した環境を復元し、当時の歴史と自然の一端を肌で体験できるような「史跡公園」として整備することを目指している。
(これは國學院大学教授 小林達雄編「縄文ランドスケープ」 ジョーモネスクジャパン機構 定価1800円 に収録されたものです。)
▲夏至の日の出
▲秋分の日の出
▲中心から見た雲谷山と八甲田
▲中心と2号組石の延長線(馬ノ神山)
▲中心と7号組石の延長線(陸奥湾)
▲冬至の日の出
▲雲谷山の日の出
このページは、著者の児玉さんから資料提供を受けて作成しました。webに掲載するにあたっては、出版元の承諾を得てあります。記して関係者のみなさま方に感謝申し上げます。