【伊勢堂岱遺跡】
秋田県鷹巣町の縄文時代後期の環状列石。
秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡には3つのストーンサークルがあるという。
これらが、ほぼ南北の方向に並んで作られている事が特徴だという。そうなのか疑問を感じる。
またストーンサークルと少し離れた場所に日時計状組石があって、ここから一つのストーンサークル中心部を向いた方向が、夏至の日に太陽が沈む方向になっているという。
そして
環状列石Cは、外環のまとまりが30度づつに区切られていて、その区切りが、中心-直列石のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なるという人が居るようだ。
もしも30度区切りになっているとすれば、非常に興味深いものである。そうしたことが読み取れるように整理されたものは見つけていないのだが、それを期待して。
それは太陰暦と関係してくると考える。
半年 183日/29日-月の周期 180度/30度 ほぼ 6 になるので
月の満ち欠け周期と関係することになる。
ここで出土した土器には 4突起と 6突起のものが存在していた。
二至二分 四立 八節の暦と半年 6月と 一年12月の区分が存在していた可能性がある。
太陽暦と月の周期の暦のシンクロは二十四節気の暦と月の満ち欠け上弦と下弦 15日の区切りで出来る。この配石がそれを何らかの形で示しているのだろうか。
伊勢堂岱遺跡のストーンサークル列石の実物を見ていないので、どのように考えることが出来るのか分らないのですが。
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
日本列島のストーンサークル
ストーンサークルは東北の青森県と秋田県や、北海道で発見されたものが有名ですが、古いものでは本州中部にも複数発見されています。主たるストーンサークルを時代別に並べてみると、時代と共に列島を北上していることがわかります。
まず、最古と考えられているのが長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡です。その年代は縄文時代前期、およそ前3000年から前4500年と推定されています。
その後、縄文中期では直径が30m以上もある大型のストーンサークルが諏訪盆地に近い静岡県、山梨県や群馬県付近で見られるようになり、中でも富士山の西南麓のなだらかな裾野に立地する千居遺跡や、山梨県都留市の牛石遺跡の存在は有名です。
縄文中期後半以降には、九州を除いた日本各地でストーンサークルが造られるようになり、後期前半、前1500-前2000年には、大型のストーンサークルが秋田県北部・青森県・北海道西南部に出現します。中でも秋田県鹿角市の大湯環状列石では、立石を中心にして川原石を何重にも囲んだ日時計状組石の存在が認められ、複数の環状列石から大規模なストーンサークルが構成されています。
その内、万座環状列石は直径46mという国内最大級を誇ると共に、その日時計の立石から環状列石の中心方向は、夏至の日に太陽が沈む方向に合うことが確認されています。
伊勢堂岱遺跡も縄文時代後期前半の遺跡として保存状態が良く、整備が急速に進められています。そこには4ケの環状列石と共に複数の日時計型組石が存在し、周辺には堀立柱建物跡や土杭墓、捨て場等も発掘されました。そして大湯環状列石と同様に、立石の中心と環状列石は、夏至の日没の方向を意識していると考えられています。
青森県の小牧野遺跡も保存状態は良好で在り、その美しい環状列石のレイアウトには目を見張るものがあります。いずれも祭祀や儀礼が執り行われ、埋葬にも関与していたと推定されています。
大湯環状列石内の万座環状列石大湯環状列石内の万座環状列石伊勢堂岱遺跡の見事な環状列石伊勢堂岱遺跡の見事な環状列石最大径35mの3重の輪から構成される小牧野遺跡の中心最大径35mの3重の輪から構成される小牧野遺跡の中心
縄文時代後期、十和田湖周辺に造られた複数のストーンサークルの立地条件を決める手掛かりは少なくとも2通りあったと推測されます。まず、日本列島北方の一大拠点として位置付けられた十和田湖の周辺に造ることが不可欠でした。あくまで豊かな水源の存在が、ストーンサークルと集落を形成する為の必須条件だったのです。次に、その十和田湖に向けて海岸から川沿いに上流まで上ることができる水路が重要視されたようです。それ故、小牧野遺跡は青森湾に注ぐ荒川沿いに、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は日本海に注ぐ米代川沿いに、湯舟沢環状列石は三陸南部に注ぐ北上側沿いに、そして太師森遺跡も例にもれず、浅瀬石川沿いに造られています。十和田湖は見事な水源を提供しただけでなく、近隣の海岸周辺は漁撈の宝庫でもあることから、これら古代の集落は栄えたに違いありません。
これらの大規模なストーンサークルには諏訪湖の阿久遺跡も含め、幾つかの共通点があります。まず、いずれも海岸から離れた内陸にあり、遠くに山々を見渡すことができる盆地のような地勢を有していることが挙げられます。
次に、盆地の一部ではあっても周辺の土地よりもかなり標高差のある高台の地に位置することを常としたことに注目です。ストーンサークルに達するには、小高い丘陵を登っていくことが多いのです。これはストーンサークルが方角の指標を見出しやすい地勢を四方に有することを大切にしていたからに他なりません。ストーンサークルは展望に恵まれ、どの方向からもアクセスしやすくわかりやすい小牧野遺跡の高台から眺める津軽半島と下北半島
小牧野遺跡の高台から眺める
津軽半島と下北半島高台にあることが大切な条件となっていたのです。また、小松野遺跡のように山々だけでなく、真北の方向には陸奥湾をはさむ津軽半島と下北半島を一望し、天候の良い日は遠く海原の状態を一目で見極めることができるような素晴らしいビューを誇るストーンサークルもあります。小松野遺跡からは、半島の中間点を見据えるだけで、真北の方角を一目で知ることができたのです。更に、様々な祭祀活動が行われ、居住地の基点ともなっていたことから、近隣には川や湖などの水源が存在することも重要でした。それ故、ストーンサークルの周辺には川や湖が存在したのです。
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【石倉貝塚】
北海道函館市の後期の環状列石。
中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。
水野正好 1996(石倉貝塚の報道のコメント):
「縄文人が冬至などを意識していたと立証するには材料が乏しい。この遺跡が偶然一致しただけで、全国的なものではない。」とある。
【三内丸山遺跡】
青森県青森市の前期・中期の集落跡。国史跡。
大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致。
【小牧野遺跡】
青森県青森市の後期の環状列石。国史跡。
現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。
【大湯環状列石】
秋田県鹿角市の後期の環状列石。国特別史跡。
万座と野中堂の日時計状特殊組石を結ぶ線が夏至の日没線。
【伊勢堂岱遺跡】
秋田県鷹巣町の後期の環状列石。
環状列石C:外環のまとまりが30度づつ区切られており、その区切りが、中心-直列石のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なる。
【樺山遺跡】
岩手県北上市の後期の配石墓群。国史跡
★春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。
【天神原遺跡】
群馬県安中市の晩期の環状列石。
★中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義山に日が沈む。
また、冬至には大桁山に日が沈む。
【砂押遺跡】
群馬県安中市の中期の環状集落。
環状集落の中央広場からみると、冬至に大桁山に日が沈む。
【野村遺跡】
群馬県安中市の中期の環状列石。
この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。
【寺野東遺跡】
栃木県小山市の後期の遺跡。国史跡。
環状盛土の中の円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。
【田端遺跡】
東京都町田市の後期~晩期の環状積石遺構。都史跡。
冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。
【水口遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
★春分の日没が地蔵岳に落ちる。
【牛石遺跡】
山梨県都留市の中期の環状列石。
★春分の日没が三つ峠山に落ちる。
【大柴遺跡】
山梨県須玉町の中期~後期の環状列石。
夏至には金峰山から日が昇る。
【アチヤ平遺跡】
新潟県朝日村の環状列石を伴う拠点集落。
夏至の日、朝日岳から日が昇る。
【極楽寺遺跡】
富山県上市町の早期~前期の攻玉遺跡。
冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。
【不動堂遺跡】
富山県朝日町の中期の集落。国史跡。
冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。
【チカモリ遺跡】
石川県金沢市の後期の遺跡。国史跡。
ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。
以上、環状列石や環状木柱列等と二至二分の関連を説いているが、何やら「こじつけ」の感もある。一般に、環状列石は日本でもはたまた外国でも「大規模な共同墓地」と考えられており、環状木柱列は「祭祀場」と考えられている。暦学者はそうはさせじと「大型のストーン・サークルには墓の痕跡がないものも多く、十分に説得力のある学説とは言えないようです。