灌漑農耕の発展、都市文明の発展、ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか
図
ウバイド期には竪穴住居、貝塚、土器、石鏃、太陽暦が伝播していたと考える証拠がある
紀元前5330年に鬼海カルデラ噴火による避難拡散が起こり、九州地域に居た海人族が丸木舟で逃げ出し
彼らはメソポタミアにまで到達していた可能性があるのでは無いか。
図 この時期の適当な年表が見当たりませんので
PPNB期にはメソポタミアの南地域にはまだ進出できていなかったが、既に灌漑農耕を手にしており、農地を拡大して、太陽暦に基づく播種時期を利用すれば、安定した農耕が可能であった。
その後ウルク期、シュメール文明にまで発展することが出来た。
さらにその後は歴史推移に見るように、多民族、多言語、多宗教の人々をまとめなければならず、強権的にならざるを得ないので、アッカド人以後の帝国支配の文明へと変質していった。
それ以後太陽暦は支配者の都合に合わせて作られるようになり、現在のような原理に基づくことの無いカレンダーとなってしまった。
太陽と月の周期を無視したカレンダーを未だに用いていながら、気候変動に対処しようとしている。
図 縄文時代のカレンダー 推測案 これなら原始人でも運用できる
引用します----ーーーーーーー
日本は梅棹忠雄・文明の生態史観でいえば、「第一地域」、
大石久和・「死」の歴史観でいえば、災害死史観という、世界的に稀有な国です。
というか、第一地域の災害死史観国は、日本以外に存在しません。
我々は、西欧諸国同様に、君主制から封建制、議会制、民主制へと権力を分散させていく第一地域に属しています。なぜ、ユーラシアの西と東の端で、同じような文明が勃興したのかは、人類の謎ですが、とりあえず民族はともかく、単一言語、単一宗教の民主制国民国家が成立しています。
それに対し、ユーラシアステップ周辺の第二地域は、とにかく遊牧民の影響が大きく、
共同体は専制主義、ガチガチな官僚制、言論の自由の制限といった、いわゆる権威主義国にならざるを得ない。 何しろ、多民族、多言語、多宗教の人々をまとめなければなりませんので、強権的にならざるを得ないのです。そして、まとめなければ、地平線の向こう側からやってくる遊牧民に対抗できない。