縄文人は太陽から何を知りたかったのか
季節変化は太陽に依ることは早くから分っていた
太陽が止まる夏至冬至という現象は早くから分っていた
知りたいことは季節、特に冬至の太陽は戻ってきたのか、何時から春になるのか
夏至からは、夏は何時から涼しくなるのか、稔りの秋は何時からなのか
二至は早くに分かり、約365日と半年の約182日は分っていた
夏と冬は分っていた
そして春と秋も分かり、182日の半分、 91日
それぞれ春分と秋分であること
次に知りたいことは季節の始まりは何時からなのか
91日の半分の位置、 45日 立春、立夏、立秋、立冬とした季節の始まり
太陽の暦とは別に、海辺では潮の満ち引と関係することを知り、
月の暦を作っていた
半年が182日と知って、月の満ち欠けは約30日が周期であることから、半年に約6回と知った
潮の動きを細かく捉えて、海辺での生業を合理的にするため
30日/2 15日で上弦と下弦として潮の動きを捉える これは半年で12弦の暦になる
15日/2 7日で潮の動きを更に微細に捉えることになったものだろう 今の一週間
太陽と月の暦は地域の違いがあり、別なものという認識だったのだろう
ところが太陽暦を扱っていた日知りが、1/2 から 1/3 という発想の転換を行い
45日/3 15日とすれば月の暦と太陽の暦はシンクロすることを見つけてしまった
これに至る間には海辺と内陸の人々の交流や、寒冷化などの気候変動による地域を越えた人々の移動などが関係していたものと思う。このことは幾つかの地域で土器の動きから既に判明している。
それまでの太陽と月の長い間の観察から朔旦立春観測で一致することは知られていたものと思う
これにより年号も生まれていたものでは無かろうか
朔旦年、三日月年・・・新月年 19年で一巡する年号では
こうした太陽と月の周期を正確に観測するため、金生遺跡での立春観測が始められたものと考える。
現代のような周期計算は出来ないし、自転公転の現象も知らない原始人なので、太陽と月の直接観測により、茅が岳からの日の出、立春からその年の暦は作られていたはず。
この暦は縄文時代の始からの10000年に亘る観測の蓄積により初めて作られ、その精度は現代の暦と寸分違わないものに出来あがっていたものと思う。
現代の暦の立秋、立春の暦日による、金生遺跡での大配石の石棒で観測した日の出との一致は、こうした背景があったのだと思う。
とにかくこの一致は思いも掛けないものだった、驚くしか無い。