初稿 2022.02.05
追加しました。
金生遺跡縄文人に教えられた立春日確定方法
4539年振りの金生遺跡での 朔旦立春 日の出観測
2022.02.04日 立春の今日、日の出観測方法が縄文人から提示されました
2020.12.21日の冬至 日の出位置観測から、眩しいし危険と思いながらも直接太陽を見る事をこれまで続けてきました。その他に良い方法を思いつかなかったものですから、日の出の観測に人に集まって貰うことは何回も計画しながら日の出の太陽を見るのは、危険と言うことで中止してきました。
今回の立春の日の出観測で、立春の日の出は太陽を見なくて良いのだということを縄文人に教わりました。
もちろん太陽が金が岳のピークから出ることが前提に為るわけで、それ無しでは出来ませんが、それが確認できさえすれば、それ以後は立春の観測は太陽を見なくて済むことが分りました。
縄文人はそのように遺跡の位置と配石を設計していました。
金生遺跡の配石先端に石があります、この石はこの遺跡が成立する前に最初の住居が作られた場所です。
その後何年かして住人が亡くなり、そこを起点にして配石が形成されていったものと思います。
この配石先端の石の上に立ち2.4メートル程の丸太棒を抱えて、日の出と共に自分の影を見ていれば、立春前後の3-4日ほどの期間、晴れて日の出を迎えることが出来れば立春の日にちは正確に分るように出来ていました。
2.3日にたまたま配石に立つと、日の出には大きな石棒の右脇に影が出来、日が昇ると共に影は石棒に当たることなく右に流れてゆきました。
2.4日当日、日の出と同時に影は丁度石棒に当たる位置になりました。
2.5日は影は石棒の左に現れて、日の出から時間が経つと共に影は石棒を撫でて右側に移動して行くことになりました。
縄文人の金生遺跡の配石はこのように成っていました。
縄文人は立冬から立春までの期間、太陽が弱まり、冬至を境にしてもどってくるのを、この配石の回りに集まり、春の始まりとなる立春までの期間日の出を眺め続け、立春の日の出の影が中心に立つ石棒を何時越えて行くのかを固唾を呑んで見詰めていたものと思う。
これから見て冬至でも同様にして配石で冬至当日は判定することが出来るように設計されているものと考えています。
冬至当日は日の出と共に、影が何処から始まるのか、それでこの配石の設計がどのように考えられているのかが分ると思います。
このような事が分りましたので、今度の立冬には観測のため多くの人に集まって貰い、太陽を直接見ること無く安全に八節の起点が見られるものと考えます。
茅が岳と配石 石棒
茅が岳 金が岳のピークは薄く見えている センター手前が立春の石棒
2.03日の日の出 7.10分
7.12分 配石先端に立ったときの影 石棒の右側に見えている
2.4日の日の出 7.09分
配石先端に立ったときの影 7.13分 石棒の前に見えている
2.05日の日の出前 7.07分 遠くは日が当たり始めている
7.08分 日の出 棒を左に持って立ったが棒が細かったので影がよく見えない
7.10分 左の棒が石棒の左にあるがよく見えない
7.11分 棒の影が石棒の右側に移った
7.13分 棒の影が石棒の右に外れる
7.15分 直後は見え難いので太陽が出きったところ 棒は外した
このようにして縄文時代の金生遺跡では立春を観測していたと分った。
これは実は弥生時代の平原王墓 平原1号 では遺跡発掘時に次のような推定が出来る状況が有ったという。
日の出方位に柱を建てその影を見る手法は金生遺跡の配石での観測方法と同一である。
縄文時代以来、列島での太陽暦作成のための方法が4500年前から伝統としてここまで継承されていたものと考える。
19年毎の朔旦立春で月の相が見えれば太陰暦とシンクロさせることが出来る。
2.04日 立春当日は夕日が見えず、新月の月も見えず
2.07日 やっと三日月を発見しました。目見当で四日月のような大きさですから、カレンダーと叫べば良いのでしょう
月の相は確定は難しいので2.08日の月を見ておきました、ほぼ半月でした。
2.04日の朔旦立春は予想通りで間違いなかったようです。
これまでの結果から、縄文時代の立春観測 金生遺跡は天文台機能があるということは、間違いなかったことが立地からも、配石からも、また縄文土器からも予想できるものと分りました。
ところで、2021.11.05日は立冬でした。この時に同時に月を見た限りでは、朔旦立冬と理解しました。2021.-2022年の立冬と立春は月の相が揃っていたと思っています。
たまたまこのようになったと言うことで、何時ものことでは無いでしょう。
その理由は月の満ち欠け周期は30日未満、29日強ですからズレが外れればどちらかは朔旦が成立しないということが考えられます。今回はたまたまうまいこと合っていたようで立冬も立春も朔旦が成立していたようです セレンディピティ。
現代の天文学ではそれは計算できるでしょう、たまたま4539年振りに周期が一致していたと信じたいというところです。
追加しました。 2022.02.25
その後、この配石の先端の石に柱を建てて日の出の時その影を見て暦日を確定するという方法は、後の時代にエジプトなどでもノーモンとして行われていた方法のようです。この方法も縄文時代に開発されていたと言うことになります。
太陽暦の基準点はノーモンで把握できるとされていて、
チャイナでは、8尺のノーモンが使用されていたようで、とすれば、
8尺*30センチ 2.4メートル程のノーモンにより観測すれば良いことになり、金生遺跡の配石先端にこの長さのノーモンを立てて観測すれば、うまく観測できる形状になっているように見える。
2022.06.05 追加しました
---その後、立夏では男根型石棒が同様に影を受けることが推定出来るので、日の出検知のノーモンに関しては茅が岳と飯盛山では日の出位置の山の高さが違うので、立春・茅が岳からの日の出では、2.4メートルの人の背の高さ以上のノーモンが必要となることが分った。
しかし、飯盛山は茅が岳より低い山なので、人の背丈程度の影で男根型石棒に届き、観測できるように思う。ノーモンの2.4メートル、8尺は、茅が岳からの日の出のノーモンの影を石棒に当てるために必要になる高さでは無いかと考える。この8尺というのは茅が岳の立春の日の出観測が基準として始まったものでは無いだろうか。という幻想が湧く。---ここまで
また、月の相の観測方法については、その後月の相は判定が難しい
引用ーーーー甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。ーーーー引用終わり
朔旦立春観測はこれと同様に 朏(ひ)日 を観測する方法だったものと考える。
実際に2021.11.4日と2022.02.04日の朔旦において観測してみても3-4日の月は確認できることがわかった。縄文時代にも同様に現代のような天文学は発達して居ないので、肉眼観測とすれば同じように成るものと思う。