金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

60という数字 60進法 60の起源

2022.01.05 追加しました。ーーー  60進法について、初めの頃良く理解できないで、受け売りで書いていたが、その後縄文人の暦開発の経緯を知ると、これはおかしいと考えました。
縄文人は 6波状突起口縁の土器を作り、 4波状突起口縁の土器を作りということから
半年 183日 で月の満ち欠け 6回としていたことから見ると
この神秘数 6と手指の10本から60進法を作り出していた可能性があると思うので
こちらからの方があり得る話のように思う。
12回と10指の最小公倍数などと云う高度なことから始まったというのは、少し考えにくい、シュメール人は、本当にそんなに数学に優れていたのだろうか
月の満ち欠けと二至を知ることが最初だったのではなかろうか
シュメール文明でも半年一年暦が有ったようだから、縄文人から
二至二分が伝わっていたとすれば、半年6回の月の満ち欠け、6回*10指 の60進法で始まったとしても良いのではと思う。
以上のように、縄文人は太陰暦を作っていたので、月に関する記述は削除したい。

縄文土器 波状突起口縁の土器 縄文時代早期 2023.04.24 追加しました 

 

 

 

2021.07.24 初稿

還暦60の60  これはどこから出てきた数字なのか 太陽365日と月の満ち欠け周期の29日 一年12回 月の満ち欠けの周期。
60という数字はこの太陽と月の満ち欠け周期12回と人の手の指の数10本の最小公倍数であるという。このようにして天の運動と地の人の運動から出されたものなので、60はたいへん神聖なナンバーであるとされたという。縄文人は太陽暦を作っていたと考える。月の満ち欠けと物理的現象に関係することは山の中では周囲に無かったから注目することは無かった。人の産まれるのと死ぬことにも月の満ち欠けとの関係は感じていなかったのでしょう。海辺の人も居たでしょうが月の満ち欠けにそれほどの重要性は感じて無かったのでしょうか。

図はお借りしました

引用します---
現代では1分は60秒であり、1時間は60分であるのが常識だ。この60進法の紀元を辿ると、なんとシュメール文明に行きつく。
シュメール文明では農耕が盛んで、天文学や暦学が発達していた。
そんな中、1年を12ヶ月として扱う方法を発明したシュメール文明では、12の約数や倍数が都合よかった。
そこで、60進法が使われるようになったのだ。
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…天文学的な意味がある
エジプト文明が十進法であったのに対して、メソポタミア文明が六十進法であった理由を考える上で、両者の暦の差が参考になる。
エジプト文明が太陽暦を採用していたのに対して、メソポタミア文明は太陰太陽暦を採用していた。太陰太陽暦とは、月の満ち欠けの周期である30日(より厳密には、29.53日なので、29日の月も混ぜなければならない)を1月とし、1年を12月とし、毎年11日ほど生じる回帰年とのずれを19年に7回の割合で閏月を挿入することで縮小する暦である。
これに対して、エジプトの太陽暦は、1年を365日としており、暦の月と月相のサイクルは対応しない。メソポタミア文明が月の満ち欠けのサイクルを重視したのに対して、エジプト文明は太陽の回帰サイクルを重視したと言うことができる。

… 干支の起源はメソポタミアにあるのか
メソポタミア文明の六十進法をこのように解釈するならば、それは、中国や日本などの周辺国で使われていた干支(十干十二支)に近いシステムとなる。干支とは、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)という十干のサイクルと子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)、辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)、申(しん)、酉(ゆう)、戌(じゅつ)、亥(がい)という十二支のサイクルを重ねることで得られる六十の周期で、年のみならず、時間や方位の同定にも用いられた。果たして中国の干支や十二支獣は、メソポタミアの六十進法や黄道十二星座を起源としているのであろうか。

…十日十二辰は十実十二娠だった
干支の最古の使用例は殷の時代に相当する紀元前1250年頃にまで遡る。
殷墟出土の亀甲獣骨には、干支が、日付の特定のために印されている。但し、当時、干支というシステム自体が何と呼ばれていたのかは不明である。
最も古い呼称は、春秋時代末期から戦国時代初期に書かれた書物である『国語』と『春秋左氏伝』に見られる。『国語』では、十干十二支は「十日十二辰」と記され、『春秋左氏伝』では「日之数、十」と書かれている。
前漢の時代に相当する紀元前91年頃に書かれた『史記』では「十母十二子」と呼ばれており、「干支」という呼称が使われるようになったのは後漢の時代になってからのことである。だから、干支とは何かを知ろうとするなら、最古の呼称である「十日十二辰」が何を意味するのかを知らなければいけない。
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60 は、両手の指の数である 10 と一年における月の朔望周期の回数である 12 との最小公倍数として意味のある数だからである。
そして、この点のおいてメソポタミアの六十進法と六十年周期の中国の干支は同じ構造を持っており、後者は前者の文化的影響で成立したと推定できる。
…シュメールの六十進法も、10 を準基としている。以下の図にあるように、縦の楔(V)が 1 を、横の楔(<)が 10 を表していて、59 に達するまでは十進法的に表記されている。実は、シュメール人は、紀元前3500年頃までは十進法を用いており、十進法から進化する形で六十進法に移行したのである。
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シュメール人はなぜ六十進法を用いたのか…
…十二辰(十二支)の方だが、『説文解字』は、十二支を十二月に割り当て、陰陽五行説に基づいて草木の成長に合わせようとしているため、原義から逸れているものもあるが、原義と接点がないわけではない。
シュメール人はなぜ六十進法を用いたのか https: //www.nagaitoshiya.com/ja/2013/sexagesimal/
シュメール人が六十進法を用いたのは、60 に約数が多いからとか、60 まで両手で数える方法があるからとかいった理由からだけではない。
60 は、両手の指の数である 10 と一年における月の朔望周期の回数である 12 との最小公倍数として意味のある数だからである。そして、この点のおいてメソポタミアの六十進法と六十年周期の中国の干支は同じ構造を持っており、後者は前者の文化的影響で成立したと推定できる。
今日、メソポタミアの六十進法も中国の干支も、木星と土星が同じ黄道上の位置で合接する 60 年の周期で説明されることがあるが、それは占星術が発達した時代に考えられた解釈であり、そうした後世の解釈で本来の意味を見失ってはいけない。

…シュメールの六十進法も、10 を準基としている。以下の図にあるように、縦の楔(V)が 1 を、横の楔(<)が 10 を表していて、59 に達するまでは十進法的に表記されている。実は、シュメール人は、紀元前3500年頃までは十進法を用いており、十進法から進化する形で六十進法に移行したのである。

    シュメール数字 59まで      ウィキペディアからお借りしました

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…「60年周期説」は単なる偶然か?
…古代中国の影響を受けた地域では、60はたいへん神聖なナンバーであった。同様に、古代メソポタミアにおいても、天文観察との関係で60進法が使われていたのである。


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