金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

ヒエは主作物だったのか

ヒエと諸磯式土器

ヒエが何時栽培種の成立があったのか、これまで調べていなかったので、
縄文が無くなった時期の、諸磯式土器の模様と関係するのでは無いか、と思い調べてみたところ、
時期的には整合することが分った。

 

諸磯式土器の模様


土器形式の変遷


年表


ダイズ、アズキ土器

 

ダイズ、アズキも同じ時期なので、こうした作物が土器模様に反映したのだろうと思う。
土器 縄文が無くなった土器

マメかヒエか

マメ類 ヒエ類なのか

 

畑に害をするイノシシが付く土器

イノシシが生活に密接になったものと思う

シカもあるものの例は少ないという

 

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

本論文では遺跡から出土したダイズ,アズキ,ヒエ属の種子サイズデータを集成し,縄文時代における形態上のドメスティケーション(種子の大型化)の過程を検討した.
ダイズとアズキは6,000年前頃から4,000年前頃にかけて中部高地と関東地方西部地域(諸磯・勝坂式土器文化圏)において出土数が増加し,現在の野生種よりも大型の種子が出現していた.この種子の出土数の増加と大型化は,当時の人口増加と連動していた可能性があり,この時期に形態上のドメスティケーション(種子の大型化)が始まったと考えられる.
しかしながら,この時期には小型の種子も依然として見られ,大型の種子をつける品種がまだ定着していなかったか,野生種の採集も継続していた可能性がある.
4,000年前以降になると中部高地からは大型種子が見られなくなり,その代わりに九州地方や西日本で見られるようになる.この時期には大型種子の品種が定着し,栽培されていた可能性が高い.

ヒエ属についても,
東北地方北部で6,000年前頃,
北海道渡島半島で4,500年前頃に,
時期は異なるものの,同じ円筒式土器文化圏で大型種子が一時的に見られる.
この大型化はそれぞれの時期の人口増加と連動しており,この時期に一時的な形態上のドメスティケーションが起きていた可能性があるが,その後は10世紀まで大型種子が見られない.10世紀以降には小型の種子も少なくなることから,この頃にヒエ属の大型種子が定着したと考えられる.
ーーーーーーーーーーーーーー

 縄文時代の人々は,遅くとも 1 万 1 千年前の縄文時代早期から,ヤブツルアズキやツルマメなどの野生種のマメを採集し,食料資源として頻繁に利用していたようです。
遺跡から出土するマメ類は炭化して残っていたり土器の底にオコゲとなってこびり付いて残ってい
たりするため,採集してきたマメ類を炒ったり土器で煮たりして食べていたのでしょう。
また最近,野生のマメ類の栽培を,縄文人がすでに始めていた可能性があることが新しい研究法
によってわかってきました。土器の表面に残っている植物の種実の痕跡にシリコンを流し込んで型
取りして顕微鏡で観察する方法で,「圧痕レプリカ法」と呼ばれるものです。縄文時代後期の土器の
圧痕に「ワクド石タイプ」と呼ばれる種類不明の圧痕があったのですが,熊本大学の小畑弘己先生
らの調査で,この圧痕は大きなマメのヘソだと分かりました。また,このヘソはとても大きく,マ
メの全体を復元すると栽培ダイズに近い大きさでした。同じように大型化したダイズ属の圧痕は山
梨県の縄文時代中期の土器にもあることが分かっています。
小畑弘己先生らは,「ダイズの栽培が縄文時代前期に始まり,中期には盛んになった」と考えています。

考古学では“野生種”を利用していたのか,“栽培”された“栽培種”を利用していたのかを証明するのはとても難しいのですが,マメの場合「種子の大型化」が証拠の一つとなるでしょう。縄文人は,どのようにマメの栽培を始め,どの程度の規模でマメ類を栽培していたのでしょうか。日本列島はダイズやアズキの栽培化の起源
地の一つだったのは間違いないようです。縄文時代のマメ栽培の研究はまだ始まったばかりです。
ーーーーーーーーーーーーーー

 

ーーーーーーーーーーーーーー

2023.01.03 投稿 以下

ヒエ属 ヒエはイネ科雑穀。祖先野生種はイヌビエ
縄文時代早期から北海道や中部高地で出土。縄文時代 49 遺跡で報告がある。
渡島半島と東北北部の円筒式土器文化圏では縄文前期から中期にかけて大型のヒエ種子が見つかっており、大
型ヒエと呼ばれている。
これは北海道グループによる追跡の成果で、特にヒエは早期からあらわれ、住居跡(炉の周辺)から多数の種子が発見されていることからみて利用されていたのは確実だが、時代の経過とともに粒が大きくなることから、野性のイヌビエが栽培種(縄文ビエ)に選抜されていったと考えられるという。
 中野B遺跡(北海道函館市) 500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。 栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。という

 青森県下北半島の上北郡六ヶ所村の富ノ沢遺跡から縄文中期に属するヒエ属の種子が2,961粒見つかった。その内の2,810粒は一つの住居址の床面から出土した。いずれも野生のイヌビエを栽培化したもので、計測すると野生種より粒の幅が広く、現在の栽培ヒエに近いものが50%以上占めていたという。人々により多年に亘り優良選抜された栽培種とみられている。という

 


縄文時代前期の地層からヒエ、アワ、キビなどの雑穀のプラント・オパール(細胞がガラス質に変わった植物タンパク石)が混じった土器片が出土しています。
縄文人は雑穀を貯えて多様な食生活を送っていたようです。


「ヒエ」は気温の冷えに耐えることから“ヒエ”と呼ばれ、「アワ」は味が淡いことから“アワ”と呼ばれたと考察されています。という。この様子からはヒエは大豆と同様に中期には栽培種が成立していたものと考えて良いようだ。
ヒエは穂のまま摘み取るようなので、粒が落ちることは無く、籠で採集して乾燥後に叩いて粒を落とす処理をしていたようだ。これは土器開発以前に出来ていることである。

 


粒のまま煮る文化で、粉にすることは無いようだ

   雑穀の雑炊にするのでしょうか

 

ヒエ、マメ類の栽培種の成立 供献土器

ヒエ マメ類並みとしたものの、土器が造られるより前に、ツルマメ類よりも以前から栽培され、早期末には栽培種が成立していたのかも知れない。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

中野B遺跡(北海道函館市) 500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。 
  栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
ーーーーーーーーーーーーーー

97.04【中野B遺跡/縄文早期のヒエ出土】(北海道函館市)
大集落遺跡が確認された中野B遺跡の遺構土中から、縄文早期(8000年前)のものとみられるヒエ属の穀物粒が検出された。 出土したヒエ属粒は、いずれも脱穀され、火を受けて炭化したもので長さ1.1~1.8ミリ、幅0.8~1.4ミリの10粒。検出された住居跡の床面や食物貯蔵用のピット最下部の土の洗い出し調査で見つかった。 これまで最古とされるヒエ属出土は、南茅部町のハマナス野遺跡からみつかった縄文前期(5500年前)のもので、ほかに数例の報告がある。
ーーーーーーーーーーーーーー

こうみると5000年前までに日本で発見された栽培植物の数の多さに驚く。主なものでも
アサ、ウルシ、エゴマ、アブラナ、ゴボウ、アカザ、ヒエ、ダイズ、アズキ・・・。この時代すでに、立派な農耕文化があったと言ってよく、そう認定しないのを外国の考古学者は不思議がる。
+ーーーーーーーーーーーーーー

  岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかった。最古の稲のプラントオパールである。イネの栽培が始まったようである。プラントオパールの数は土壌1グラム中2000-3000個。岡山理科大の小林博昭教授と、ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されているという。当時、貝塚は海岸部にあり、イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀の際の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されるという。高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないか」と話している。この状態では、まだ農耕とは言えず栽培という程度であったと思われる。イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのであろう。多種多様な穀物の栽培が始まったと考えられる。
ーーーーーーーーーーーーーー

栽培方法
 ヒエ、キビなど毎年植える場所を変えている、早くまきすぎると背丈だけ伸び、遅いと台風でやられる。

キビは5/25にまき7/22に出穂。キビは普通210日、9/2頃刈り入れ。刈った後4、5日天日干しして叩く。キビの刈り入れは先が黄色くなってきたら握ってこぼれるくらいのとき。

ヒエは5/26にまいたが芽が出ず6/10にまきなおし、9/10~15頃刈り入れ。

粟は5/28にまき10月半ば刈り入れ。
畝間2尺5、6寸、土寄せのとき片側にカリ、片側に燐酸をまくと穂肥になる。土寄せは1回、まびきは2回、まびかないと分株して細かい穂が出て収量が落ちる。まびきが間に合わないときは、無理して抜かずに、できるだけ下から刈る。まびきは太すぎるものは途中で穂が出ずに止まるし、伸びそうなものを残す、細いものは結局だめ、間隔にこだわるより、いい苗がかたまっていたらそれを残すほうがいい、穂があちこち向いて自分で調整してくれる。
ーーーーーーーーーーーーーー

※焼畑農業 現代に知られている日本の焼畑農業ではヒエ・アワ・ソバ・ダイズ・アズキを中心にムギ・サトイモ・ダイコンなども加えた雑穀栽培型が一般的である。 焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められる。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させ火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作される事が多い。耕作期間は3- 5年で、その後植林し、15 ? 20年間放置して地力を回復させる。(Wikipediaより)
ーーーーーーーーーーーーーー

雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、
野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、
クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。
稲作については、約6,000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていた。
ーーーーーーーーーーーーーー

 青森県下北半島の上北郡六ヶ所村の富ノ沢遺跡から縄文中期に属するヒエ属の種子が2,961粒見つかった。その内の2,810粒は一つの住居址の床面から出土した。いずれも野生のイヌビエを栽培化したもので、計測すると野生種より粒の幅が広く、現在の栽培ヒエに近いものが50%以上占めていたという。人々により多年に亘り優良選抜された栽培種とみられている。
諏訪郡原村菖蒲沢の大石遺跡の住居址から検出されたエノコログサ属の炭化種子は、現在、焼畑で栽培されるアワの実によく似ているという。常に寒冷化の危機にある東日本では、ドングリ類の不作・木の芽の凍死、それに伴う小形動物の減少などに対する対策として野生植物の栽培化が不可欠であったようだ。
ーーーーーーーーーーーーーー

ひえって、どんな雑穀?
ヒエには、インドが起源のインドヒエと、日本を起源とするニホンヒエの2系統があります。

ニホンヒエは、野生のヒエを日本で栽培化したもので、
縄文中期の三内丸山遺跡(青森県)から、当時すでに大量のイヌビエを栽培していたことが推測されています。また、
先住アイヌ民族は、ヒエを「ピヤパ」と呼び、お粥などにして食べていました。彼らの間では、ヒエは祖先神が直接もたらした聖なる穀物という説話が語り伝えられています。

その後、日本人の重要な主食として食べ継がれ、昭和30年代までは多くの山間地でヒエが食べられてきました。その理由は、寒冷地ではイネを栽培しても冷害の危険が高かったことと、山間地は、田んぼの圃場(ほじょう)整備が進まず、水田面積が少なかったためです。
ーーーーーーーーーーーーーー

縄文時代前期の地層からヒエ、アワ、キビなどの雑穀のプラント・オパール(細胞がガラス質に変わった植物タンパク石)が混じった土器片が出土しています。縄文人は雑穀を貯えて多様な食生活を送っていたようです。人類と長い縁のある雑穀たちですが、この縁が現代に受け継がれていることに愛着を感じます。
「ヒエ」は気温の冷えに耐えることから“ヒエ”と呼ばれ、「アワ」は味が淡いことから“アワ”と呼ばれたと考察されています。
地名では民俗学者の柳田国男は、「アワ」は多く生産され地域の特産物になったことから阿波の国(徳島地方)、「ヒエ」が多い国を閉伊の国(岩手県、青森県)、「キビ」が多い国を吉備の国(岡山県、広島県)と呼んだのではないかと説いています。
雑穀の産地である岩手や青森に多い二戸、八戸、九戸などの“へ”や下閉伊、稗貫などの“へい”が“ひえ”のつく地名であることも興味深く感じられます。

ーーーーーーーーーーーーーー

 アワ、キビ、ヒエなどとひとつひとつに名前はついているものの、名前で呼ばれることはむしろ少ない。農学部の先生でも、特別の専門家でもない限りアワとヒエを区別することはできないし、ましてやイヌビエとタイヌビエを区別することなど絶望的である。

 この、雑穀といわれる植物たちが、いつ、地球のどこで栽培化されたものか、わかっていることはわずかしかない。アワについては、考古学的な論証から、北部中国、いわゆる黄河文明の発祥地とその周辺が疑われてはいるが、生物学的な検証は行われていない。キビになると事態はさらに深刻で、何もわかっていないという表現のほうがぴったりする。
 この手に負えない代物に果敢に挑戦したのが、『雑穀のきた道』の著者である竜谷大学の坂本寧男さんである。坂本さんは・・・こういう先輩に対してたいそう失礼な言い方になるが・・・、研究者としてもちょっと変わった方でおられる。だから雑穀などという、人が見捨てたものに光明を当てることができたのだと思うが、その坂本さんが十年余り前に人を驚かせる発言をしたことがある。

 ヒエが日本列島原産だというのである。坂本さんは、ヒエといわれる植物を、日本を含む東アジアに分布するタイプとインド亜大陸を中心に分布するタイプとに分けた。そうしてその上で、遺伝学的な見地からヒエの起源を次のように考えた。

 坂本さんのことばを引用しながら考えてみよう。
 「従来から(ヒエが)中国東部で起源したという考えがあったが、現在までに考古学的にそれを証明するような遺物は中国では出土していない。また、詩経、本草綱目などにも栽培ビエの記述がないので、中国においてはその栽培の歴史が新しいと考えられる。(中略)

(ヒエは)おそらく日本で栽培化され、その後朝鮮、中国に栽培雑穀の一つとして導入されたと考ええる説があり、私はその可能性はきわめて高いと考えるようになった」(『雑穀のきた道』128ページ)
++++そうなのか

 この坂本発言がきっかけとなって、ヒエが日本列島原産ではないかという「ヒエ日本原産説」はしだいに定着しつつある。ヒエだけではなく、アワ、キビなどといった雑穀全般への関心がようやく高まりつつあるのである。
ーーーーーーーーーーーーーー

アワ(粟)
Foxtail millet
イネ科、アワ属に分類される一年生草本
原型は雑草のエノコログサ(ねこじゃらし)と推定されている。原産地は中央から西アジアで、シベリア、オーストリアを経て、ヨーロッパには石器時代に伝わったとされる。日本においては、縄文時代から栽培されていたヒエと並ぶ日本最古の穀物で、イネが伝来する前の主食だったと見られる。二千を超える品種があり、現在でも全国各地で広く栽培されているが、その多くがもち種となっている。うるち種は主にアレルギーの代替食として利用されている。

表面の色素はポリフェノールであり、パントテン酸の含有量が雑穀の中では特に多い。その他、ビタミンE、B?、B?、ナイアシン、カリウム、鉄、亜鉛を多く含む。アワの名前は、風味が淡いことに由来しており、あっさりとクセがなく上品で食べやすい。もち種はもっちりとした食感。
ーーーーーーーーーーーーーー

縄文文化はこれまで土器とイヌを飼育するが農耕を伴わないことから世界史の中で例外的な新石器文化とされてきた。縄文農耕については焼畑農耕や雑穀農耕があったのではという仮説が提起されたが証明されていない。

これまでの植物遺体の調査によると、縄文時代早期からエゴマ・アサ・ ヒョウタンなどが栽培され、また、早期から漆工芸技術も持っていた可能性が高まった。
最近では山梨県や長野県などの地域で、縄文中期にダイズが栽培されていたことが分かった。
さらに青森県の縄文中期末から後期にかけての時期にイヌビエが栽培されていたことも分かった。

この事例についても炭素14年代測定によって確実となった。
また、京都市の長岡京跡の遺跡では縄文晩期の遺物包含層からアズキが複数出土しており、年代測定によって紀元前12世紀ころの縄文晩期に栽培されていたことが明らかとなった。
即ち縄文文化は縄文早期以降、エゴマやヒョウタン・アサなどを栽培する菜園農耕を伴っており、 縄文中期からはヒエの栽培を始め、縄文晩期にはアズキ類も栽培していたのである。
縄文文化は単純な狩猟採集文化ではないことは明らかであり、時期的変遷や地域的特徴をすでに持っていたと推測される。このような菜園農耕文化は、世界の各地で知られていることであり、縄文文化も世界的に見て例外的な新石器文化と規定する必要はない。縄文文化の実態を再検討すべきであろう。このような縄文文化観を変更する根拠となったのは、植物遺体の年代測定であり、栽培時期を特定したことである。
ーーーーーーーーーーーーーー

「土偶は当時の縄文人が食べていた植物をかたどったフィギュアである」という私の仮説の妥当性を検証するためには、このハート形土偶のような事例、つまり、推定モチーフと土偶とのあいだに「見た目の類似」がみられるだけでなく、当該の土偶を所有していた社会集団が推定モチーフの植物を実際に資源利用していたことが発掘調査資料によって確認できるような事例を、一つでも多く枚挙していく必要があるといえるだろう。

 その作業を行った結果が次の通りである。
ハート形土偶はオニグルミ
中空土偶はシバグリ
椎塚土偶(山形土偶)はハマグリ
みみずく土偶はイタボガキ
星形土偶はオオツタノハ
縄文のビーナスはトチノミ
結髪土偶はイネ
刺突文土偶はヒエ
遮光器土偶はサトイモ
ーーーーーーーーーーーーーー

植物食依存はすでに縄文中期から
 かつての通説では、縄文文化から弥生文化への移行の説明として、「狩猟採集の縄文時代」から「水田稲作の弥生時代」へ(「肉食中心」から「植物食中心」へ、「採集」から「栽培」へ)シフトしたと説明されることがもっぱらであった。ところが、近年の考古研究の進展によって、この図式が不正確であったことがすでに判明している。

 縄文遺跡の発掘数の増加だけでなく、花粉分析やプラントオパール(植物珪酸体)分析、土器圧痕レプリカ法、デンプン分析、種実分析といった、電子顕微鏡を用いた理化学的な植物遺体の検出・同定技術の向上、さらには縄文人骨のコラーゲン分析の結果などによって、北海道を除く東日本では、すでに縄文中期(およそ5500年前)あたりから、縄文人が従来の想定よりもはるかに植物食に依存していた実態が浮かび上がってきたのだ。
 しかもかれらは単なる採集(gathering)だけでなく、ヒエなどの野生種の栽培化(domestication)、里山でのクリ林やトチノキ林などの管理(management)、マメ類の栽培(cultivation)などを行っていたことも判明しつつある。
ーーーーーーーーーーーーーー

 また、南茅部町ハマナス野遺跡では前期末の住居跡を埋積した土壌中から炭化したソバの種実1粒が出土している(G. Crawford 、1983)。日本各地の縄文時代の遺跡の土壌からソバの花粉が発見されているが、種実としてはハマナス野遺跡からのものが日本では最も古いソバである。このほかに、この時期の遺跡の竪穴住居床面からは炭化したヒエ属種子も発見されはじめており、有用植物の管理栽培が行われていたことを示している。同じ頃、木古内町新道4遺跡やハマナス野遺跡から盆状の漆器も出土しており、前期後半にはクリや漆器、ソバなどが他の文化要素とともに本州から渡来してきていたと考えられる。
ーーーーーーーーーーーーーー

 そのため、列島と大陸の分断によって南九州付近に登場した対馬暖流、この黒潮からの分流に乗って東南アジア方面の人々の渡来があり、彼らが中心になって、あるいは混じり合って形成されたのが、上野原遺跡ではないかとされている。(説としては、そんなこともあるぐらいの所か?)

 植物細胞の中に見られるプラントオパールというガラス質物質をもとに土器などから検出される植物跡を分析すると、雑穀と見られるヒエ属や、アワなどが含まれるエノコログサ属が検出され、穀物栽培が他の地域より早く開始していた可能性がある。また発掘された丸ノミ石斧も、東南アジア、沖縄、南九州で見つかっている南方タイプである。これは丸木船を作るのに利用され、縄文時代に重要になってくる海への適用がいち早く見られる特徴がある。
ーーーーーーーーーーーーーー

 ヒエはイヌビエを日本列島で栽培型改良したものだと言われている。アワやキビと違って、外来の穀物ではない。イヌビエの種子は縄文早期の遺跡から出土し始め、時代の経過に伴い次第に粒が大きくなり円みを帯びる傾向がある。野生種のイヌビエを縄文人が、食料として馴化する過程で、栽培ヒエが誕生したという考え方が有力になってる。  イヌビエは縄文人の身近に広く豊富に広がっていた。当然、それを食料とする必然があった。そこに穀物の改良栽培の手法が育ち、それを応用活用すると、急速にヒエという穀物が日本列島固有の栽培作物として成長していった。
三内丸山遺跡で麦類の種子が出土したと新聞などで報じられたことがあるが、それは野生のササ類の実であったらしい。これまで注目されなかったが、イヌビエなどと共ににササの実も結構採取されていた。クマザサは、やせた稲穂のような「ササの実」をつける。これを飛騨では「野麦」と呼び、往時の人々には、この実を粉にしてダンゴを作り飢えをしのいだという。
 三内丸山遺跡ではキイチゴ・ヤマゴボウ・ヤマグワ・サルナシ・ヤマノイモなどとニワトコの種子が大量に出土した。遺跡からは、土器に大量に詰められたニワトコの果実が発見されており、酒を醸造したのではないかと推測されている。この泥炭層には、発酵する果実に集まるミツバチのサナギも大量に包含されていた。発酵酒が作られていたようだ。
ーーーーーーーーーーーーーー

中野B遺跡(北海道函館市) 500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。 栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
ーーーーーーーーーーーーーー

 諏訪市湖南の諏訪大社の神山・守屋山山麓に荒神山遺跡がある。縄文時代前期から平安時代までの遺物が出土している。
この遺跡が全国的に有名になったのは、住居址内の石囲炉の炭化食品を灰像法による走査電子顕微鏡で鑑定した結果、「エゴマの種実」と判明したからである。その後原村の2つの遺跡、大石遺跡、前尾根遺跡の炭化物からも同一結果が出た。福井県三方町の5,500年前の鳥浜遺跡からも出土している。このことから縄文早期には、既に存在していたと推定されている。
++++そうなのか

 「エゴマ」は、インド高地から中国雲南省の高地が原産地で、当時の日本には野生化しているレモンエゴマがあったが、栽培種はシソ科の油脂性植物の「エゴマ」である。中でも常に種実の大きい方が選別され続けられ食用として栽培されていった。またエゴマは薬用のほか、油脂用・漆器用の工芸作物でもあった。しかも病虫害に強く、湿気を好むため乾燥しない土地が適地で栽培は容易、今でも全国の高冷地で作られている。 収穫は9月下旬から10月下旬で、その後5~10日間乾燥させてから、敷物の上で、敲いて脱穀する。土器の水槽に少しずつ入れて、泥と砂を落とす。「エゴマ」は、水に浮かぶので笊ですくう。 米をとぐように4、5回洗い、表皮の汚れを落として、3、4日乾燥させて保存する。

  ヒエ・アワ・各種ムギを管理栽培する縄文人像が見えてきた。その後、各地の縄文遺跡から「エゴマ」のみならず、ヒョウタン・リョクトウなどの栽培種が発見されて、今後、より主食となりうる栽培植物の発見の可能性が高くなった。
ーーーーーーーーーーーーーー

 水田稲作技術が伝わる以前は、イネをアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類と混作する農業が行われていた可能性があります。たとえば、菜畑遺跡では晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキがみつかっており、同じ時期の(3)長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、(4)大分県大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されています。遺跡が台地に立地することから、谷あいの湿地か畑でイネが栽培されていたのかもしれません。
 以上のように、縄文時代の晩期、九州では灌漑(かんがい)による水田稲作がおこなわれる一方で、畑では陸稲や雑穀類の栽培がおこなわれていたと思われま す。しかし、水田稲作をおこなっていた人々と、畑で陸稲栽培をおこなっていた人々の由来や相互の関係については、まだ解明されていません。
ーーーーーーーーーーーーーー

ところが、北日本には、佐々木さんの予想をはるかにさかのぼる縄文時代早期の段階から多数の栽培植物が発見されている。これは北海道グループによる追跡の成果で、特にヒエは早期からあらわれ、住居跡(炉の周辺)から多数の種子が発見されていることからみて利用されていたのは確実だが、時代の経過とともに粒が大きくなることから、野性のイヌビエが栽培種(縄文ビエ)に選抜されていったと考えられるという。
ーーーーーーーーーーーーーー

後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
ーーーーーーーーーーーーーー

 「エゴマ」は、インド高地から中国雲南省の高地が原産地で、当時の日本には野生化しているレモンエゴマがあったが、栽培種はシソ科の油脂性植物の「エゴマ」である。中でも常に種実の大きい方が選別され続けられ食用として栽培されていった。またエゴマは薬用のほか、油脂用・漆器用の工芸作物でもあった。しかも病虫害に強く、湿気を好むため乾燥しない土地が適地で栽培は容易、今でも全国の高冷地で作られている。 収穫は9月下旬から10月下旬で、その後5~10日間乾燥させてから、敷物の上で、敲いて脱穀する。土器の水槽に少しずつ入れて、泥と砂を落とす。「エゴマ」は、水に浮かぶので笊ですくう。 米をとぐように4、5回洗い、表皮の汚れを落として、3、4日乾燥させて保存する。

  ヒエ・アワ・各種ムギを管理栽培する縄文人像が見えてきた。その後、各地の縄文遺跡から「エゴマ」のみならず、ヒョウタン・リョクトウなどの栽培種が発見されて、今後、より主食となりうる栽培植物の発見の可能性が高くなった。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

中橋元子
何気に食している雑穀。今やスーパーフード。器にしても遊び心にも溢れかつ実用性が有りますね。このような知恵と継続性の延長線上に私達は活かされていることが実感できます。立春の観測会、天候に恵まれますように!
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事