縄文時代前期になぜ環状集落のような巨大集落が出来るようになったのか
草創期から前期初めまでに、狩猟・漁労と採集などの生業がほぼ完成
狩猟・漁労
早期には半年四分暦の太陽暦も完成していた
前期までの突起口縁の土器の推移
残るのは農耕開始の栽培種の成立だった
マメの土器
諸磯式土器の時期にマメの栽培種が完成した
こうした生業の完成によりそれまでの小さい集落から、
環状集落という巨大集落を作ることが出来るようになった。
この変化は農耕を始めていた証拠であると考える。
野焼きによる黒ボク土の形成もそれを支持している、焼き畑農耕
太陽暦が成立して既に数千年が過ぎ、暦は当たり前のものになっていた。
それで環状集落などには特に太陽暦の方位を示すようなデザインは作られていない
祭祀のために列石などにより、聖山の方向を示していたという。
阿久遺跡などの前期遺跡
阿久遺跡の前期遺跡では、蓼科山を指す列石があるという。
縄文時代の暦はノーモンと石棒により正確に観測して作られていたから、各地のストーンサークルでは、その地の暦の方位を気にすることは無かった。現代の金生遺跡周辺に住む人が、縄文時代の太陽観測の天文台を、少しも知らなかったのと同じだろう。
その地にある聖なるものの方位を示せば良く、その方位を示すための列石や木柱などが設置されていたものと思う。縄文前期の環状集落を作る頃からそうなっていた。
ということから、太陽暦の観測の始まりは、縄文前期から金生遺跡の立地で冬至や夏至、立春の日の出などは、観測が行われていたのだろう。
図はお借りしました