筋違道は何時出来たか
斑鳩宮と小墾田宮の成立の為の道路なのか
追加します 2022.01.24
斑鳩が斑鳩京と云えるなら、飛鳥以前の京で、飛鳥に飛鳥京を作るための道路が要るので作るというのが筋違道作りの本筋では無かろうか、下ツ道もまだ作られていないから、この道が斑鳩と飛鳥を繋ぐ初めての国道になる。
小墾田宮は25年間ほど継続したようで、その間にはここを訪れた隋から来た裴世清などの記述から、南門や大門、大殿などがあったとされるようだが、今の所その痕跡はまだ見付かっていないようだ。
筋違道 道沿いの遺跡 古墳方位
島の山古墳 シリウス方位
少し離れているが宝来山古墳
シリウス方位の前方後円墳古墳が見付かる
図はお借りしました
引用ーーーーーー 追加しました
2015年12月例会『新羅・任那使を迎えた古代の道』
2016/01/24 admin
案内 重見 泰氏
近鉄橿原線結崎駅→史跡島の山古墳→白山神社→屏風杵築神社→県史跡黒田大塚古墳→廬戸宮伝承地
→孝霊神社→保津・宮古遺跡→十六面・薬王寺遺跡→羽子田遺跡→阪手北遺跡→近鉄橿原線田原本駅
(610)冬10月8日、新羅使と任那使が難波津の近くの難波館から入京した。この日、新羅使の荘馬(かざりうま)の長の額田部連比羅夫と任那使の荘馬の長の膳臣大伴とともに、使人を阿斗河辺館に安置した。その翌日、使人は推古天皇の宮小墾田宮に招かれ迎接をうけている。
2年前の隋使が小墾田宮を通り過ぎた三輪山の麓にある海石榴市の衢で迎えられている。その当時まだ官道が整備されていなかったと考えられており、大和川から初瀬川をさかのぼって海石榴市に上陸したものと考えられていた。古道の整備が始まったのは推古21年条の『難波から京に至る大道を置く』という記事以降だというのが従来の理解だったが、その後の発掘調査の成果から、隋使、新羅・任那使が入京した時には、大和の古道はすでに整備されていた可能性が強くなってきている。
陸路を通った場合に利用したと想定されているのは、龍田道、筋違道、保津・阪手道、下ツ道、横大路、阿倍山田道。このうち、筋違道と下ツ道の敷設年代をどのように考えるのか、そして経由した「阿斗」がどこにあるのか、今回の例会は、彼らが通った入京の道のうち、大和に入ってから小墾田宮にいたる道をさぐる。
詳しくは会報を熟読いただきたい。
「新羅・任那使が入京した道は、隋使が入京した道と同じ。龍田道で大和に入った使人は、 筋違道を南下して保津・阪手道に入り、隋使は海石榴市へ、新羅・任那使は阿斗河辺館へ向かった」というのが、重見先生の考え。
筋違道と下ツ道の敷設年代について
保津・阪手道は地形に沿った道であり、もともとは古墳時代前期初頭の地割にそった生活道路であったものと推測されている。難波や住吉から磐余をつなぐ経路にある道路として古来重要な道であったのであろうが、磐余に大王宮が頻繁に置かれるようになった6世紀後半に大規模な側溝をともなう道路として整備されたものと考えられる。
筋違道は保津・阪手道よりも遅れる7世紀初頭頃、 (601)の斑鳩宮の造営を契機に敷設されたと考えるのが妥当であり、斑鳩宮と飛鳥の宮を結ぶための最短ルートとして設定されたものと考えられる。『古今目録抄』にあるように、 下ツ道と同等の大規模な路面幅であることが示すように、実質的には官道として整備された。また、大王宮への道路という意味では保津・阪手道と同じであるが、筋違道の規模が保津・阪手道よりも大きく直線的で、さらに下ツ道と同じ規格であるのは筋違道と下ツ道の敷設時期が近いからだろう。