人体 ふしぎ発見!

 人体の小宇宙と呼ばれる「遺伝子」や「脳と心」、「生命」などの不思議を探求する旅へご一緒に出かけましょう。

第9作品『人体 ふしき発見!』~~刊行!!

2012-10-22 17:09:17 | 日記

11/11 第9作『人体 ふしぎ発見!』
 ~遺伝子・脳と心・生命~が刊行しました。
 

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【その他の作品】

第1作品『ストップ ザ悪』~近未来警察20XX年構想~

第2作品
『深イイ漫才!』~重箱の隅ツツキ隊~ 

第3作品
『朱の起源』~進化のルーツとは~

第4作品
『人検』~人格者検定制度~ 

第5作品『悲しい異星人』

第6作品
『町内会革命』~未来予想図~

第7作品『台風ヤロー!』~バイク野郎の華麗な変身~ 

第8作品『マー爺さん 空を飛ぶ』~メッセージ被災した人たちへ~ 

第10作品『実録 私の町内会奮戦記』 只今、執筆中!

第11作品『生命(いのち)のすみか』 只今、応募中!

「町内会革命・憲章」~今こそ地域から日本を元気に!~

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まえがき

2012-10-12 18:31:46 | 日記


 『日立 世界・ふしぎ発見!』は、1986年4月からTB
S系列で放送されている番組。世界各地の様々な歴史・風土
を取り扱い、現地取材によるレポート、スタジオの司会者・
解答者とのトーク及びクイズ形式で紹介する教養・クイズ番
組である。「親が子どもに見せたい番組」第4位、「優良ク
イズ番組部門」第1位、日本旅行業協会が旅行業の発展に寄
与した政府観光局やメディアに対して贈る「ツーリズム大
賞」も受賞。受賞理由は自然や文化に対する興味を呼び起こ
し、日本人の海外旅行に対する憧れを常に刺激し続けてきた
ことだという。これにあやかって本のタイトルを『人体 ふ
しぎ発見!』とした。人間にとって一番身近かにあるこの人
体がまだまだ不思議なことで満ちあふれている。特に「遺伝
子・DNA」や「脳と心」、「生命」などはその典型である。
 そこでこれらの不思議を探求する旅へご一緒に出かけたい
と思ったのである。なお、Ⅰ「遺伝子・DNA」の主な資料
としてはNHKスペシャル『驚異の小宇宙遺伝子・DNA』
第1集(生命の暗号を解読せよ~人の設計図~)から第2集
(つきとめよガン発生の謎~病気の設計図~)、第3集(日
本人のルーツを探れ~人類の設計図~)、第4集(命を刻む
時計の秘密~老化と死の設計図~)、第5集(秘められたパ
ワーを発揮せよ~精神の設計図~)、第6集(パンドラの箱
は開かれた~未来人の設計図~)、Ⅱ~Ⅴ 「脳と心」は、
『驚異の小宇宙 脳と心』第1集(心が生まれた惑星~進化
~)、第2集(脳が世界をつくる~知覚~)、第3集(人生
をつむぐ臓器~記憶~)、第5集(秘められた復元力~発達
と再生~)、第6集(果てしなき脳宇宙~無意識と創造性~)
までを「テープおこし」で活字化し、それを整理、編集して
読み物風にまとめた。Ⅵ「生命」では、Ⅰ~Ⅴから得られた
知識を、ユニークな発想による「生命論」へと展開させてい
る。さあ、それでは出かけましょう!
 


     
 

Ⅰ-1 遺伝子とは

2012-10-11 18:31:40 | 日記

 NHKスペシャル『驚異の小宇宙 遺伝子・DNA』では、
示唆に富んだ謎めいた次のような詩で特集が始まる。~最も
小さな秘密 誰もが体の内に隠していて 心で感じることは
誰にもできない だがそれはそこにある 運命をつかさどり
死を予言する最も小さな秘密 その限りない細部には 私た
ちが見失うのは神のまぼろし~

 人の体には60兆個の細胞があり、その一つ一つの細胞の
中には1個の「核」がある。その核の中には46本の「染色
体」があり、1本の染色体を取り出し調べてみると、太さは
髪の毛の4万分の1、長さは46本の染色体をつなぎ合せる
と約2mになる。1個の細胞を直径1cmに拡大すると、こ
の長さは約4kmに相当する。この糸状のものが「DNA」
という物質で、2重ラセン構造の折りたたまれた状態になっ
ている。そしてDNAのほんの一部が「遺伝子」(次写真)
になっている。以上を大きさ(階層)の比較でいうと、細胞>
核>染色体>DNA>遺伝子となる。DNAは「核酸」とも呼
ばれ、4つの化学物質(塩基成分)、アデニン(A)、チミ
ン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)からなっている。
 この4つのA―T―G―Cの並び方(3文字1組)で遺伝
情報(1暗号)がつくられるのである。46本の染色体で約
60億対となり、これは百科事典700冊の情報量に匹敵す
る。このような膨大な情報量を秘めた遺伝子であるが、働き
はただ1つ、その情報によって「タンパク質」をつくること
だけである。そのたんぱく質の材料は20種類の「アミノ酸」

で、ふつう、C―G―Cで「アルギニン」、 T―G―Cで
「システイン」というアミノ酸が選ばれるといった具合であ
る。これらの組み合わせによって、髪の毛や爪のタンパク質
「ケラチン」、筋肉のたんぱく質「アクチン」など10万種
のタンパク質がつくられ、人間の体として命を支えている。
 要するに、遺伝子情報とは10万種のタンパク質を作る設
計図だったのである。そこで次にタンパク質の合成であるが、
これがまた複雑、精緻である。
 アメリカのエドワード・ルイス博士(カリフォルニア工科
大学)が30年間の研究の結果、「マスターキー遺伝子」の
存在を予言して、1995年ノーベル生理学医学賞を受賞し
た。続いて2002年、ウイリアム・マクギネス博士(カリ
フォルニア大・サンディエゴ校)がマスターキー遺伝子(1
3種類)を発見したのである。簡単に言うと、このマスター
キー遺伝子が数千の遺伝子を働かせて部品(器官や組織)を
つくる命令を出し、更にこの部品を体のどこに作るかの命令
を出す「司令官マスターキー遺伝子」(ホメオティック遺伝
子)が一体となって体を作るのである。このホメオティック
遺伝子はどんな生物にもあり、地球上、3000万種という
生物の多様性を作り出した。

Ⅰ-2 遺伝子の変異 

2012-10-10 18:31:35 | 日記

 
 「突然変異」という言葉は誰でも知っていると思う。突然
変異(または単に変異という)とは、ある原因で遺伝子の文
字配列に変異が起こることで、この結果、ほかと異なる形質
を持つようになることである。変異を起こす原因には、遺伝
的なものと紫外線、タバコ、化学合成物質などの物理的・化
学的な要因がある。要するに遺伝子にキズがつくことである。
 これによって人体に悪いこと、良いことなど様々な変化が
生じる。悪いことの代表は「ガン」である。ある時、細胞分
裂が止まらなくなった細胞が「ガン細胞」である。46本の
遺伝子を46冊の本に例えると、その中に書かれている4文
字(A―T―G―C)の並び方が変ったり、抜け落ちができ
ると変異の元になる。染色体のうちで遺伝子として働いてい
るのは約10万箇所で、このうちガンの発生に関わっている
のは200箇所ほどである。例えば大腸ガンに例をとると、
当初、細胞分裂を促進する遺伝子「ラス(Ras)遺伝子」
の暴走が原因と考えられていたが、その後の研究で、細胞分
裂にブレーキをかける役割をする遺伝子「P53遺伝子」に
原因があることが解ったのである。このように遺伝子の何ら
かの変異によって発症する病気を「遺伝病」といい、1年で
5~10倍のスピードで年をとる「早期老化症」(次写真左)
や、日光に当たると皮膚ガンになってしまう「色素性乾皮症
(XP)」(次写真右)など、現在、驚くことに約4000
種類が確認されている。一方、良いことの例もある。イタリ
ア・リモネ村の出身者は動脈硬化が少なく長生きが多いとい
う。血液検査で遺伝子を調べてみると、ある染色体(11番)

に異常(普通、C→T)があったのである。第二次世界大戦
まで陸の孤島であったリモネ村住人の38人に見つかった。
 このような特殊な遺伝子を持つ人を「ポルタトーリ」(遺
伝子を運ぶ人)と呼ぶそうである。たった1文字の違いで、
血管の内壁からコレステロールを剥ぎとる、普通人より3~
5倍も強力なタンパク質を作り出していたのである。
 先祖の一人に突然変異が起こり、陸の孤島ゆえに分散しな
かったと考えられている。また「エイズ」にならない人がい
る。欧米人に多く(10~15%)、アジア人には見られな
いという。これも有為な変異の例で、なんと700年前のペ
ストの大流行に起因するという。大流行でも生き残った先祖
の遺伝子として拡がったというのである。何が幸いするかわ
からない。

Ⅰ-3 ミトコンドリアDNA=遺伝子の家系図

2012-10-09 18:31:30 | 日記

 
①アイスマン

 ミトコンドリアとは、細胞の中に1つあり、エネルギーを
つくり出して生命活動を支えている。このミトコンドリアの
中にもDNAがあり「ミトコンドリアDNA(mtDNA)」
と呼ぶ。この遺伝子には16500文字が存在し、母親のみ
から伝わった遺伝子情報が詰っている。1991年、ヨーロ
ッパアルプスの氷河の中から一体のミイラ(写真、その後ア
イスマンと呼ばれる)が発見された。

 アイスマンは身長159cm、生前の推定体重40kgの4
6歳程度の男性とみられる。散髪した跡があり、刺青のよう
な短い青い線が脊椎の下部、左足、右足首の皮膚に認められ
た。さらにヤギ、カモシカ、鹿の毛皮でできた着衣の断片、
樹皮繊維で編んだ外套、毛皮の帽子、革製で草をつめた靴を
身につけ、木製の柄のついた銅製の小さい斧と火打石の短剣、
イチイ製の長弓、ガマズミ製の14本の矢を入れた毛皮の矢
筒を装備していた。イギリス・オックスフォード大学のブラ
ウン・サイクス博士は、ミトコンドリア遺伝子のDループと
いう箇所に変異を発見し現代人と比較してみた。すると文字
列の一致するアイスマンを先祖とする13人を見つけたので
ある。その一人、イギリス・ドーセット州のアリー・モーズ
レーさん。5300年前(日本の縄文時代ころ)から250
代続く「アイスウーマン」だった。


②日本人のルーツ

 国立総合研究院大学(神奈川県)の宝来聰(さとし)博士
は、1万2千年前の縄文人の人骨からmtDNAを採取し、
北海道に住むアイヌ人のmtDNAと比較した。するとすべ
ての遺伝子配列が一致する人が見つかり、アイヌ人のルーツ
は縄文人であると結論づけた。今まで縄文人はただ単に、狩
猟採集するだけの人々と考えられてきた。しかし、青森県の
「三内丸山遺跡」などでの調査の結果、縄文人は大自然と調
和して、この日本列島に「縄文」という独自の文化をつくり
上げていた。高い技術力と豊かな精神世界を持っていたので
ある。アイヌの伝承口伝「カムイ・ユーカラ」には「人は自
然の一部」という世界観をみることができる。一方、南アメ
リカ・アンデス地方でも日本人のルーツを探る調査が行われ
た。愛知県ガンセンターの田島和雄博士、鹿児島大学の園田
俊郎博士、そして宝来聰博士の調査団である。何万年も前か
らアジア大陸に住んでいたモンゴロイド(モンゴル人種)は
シベリアに進出、2万2千年前、氷河期に陸続きとなってい
たベーリング海を渡ってアメリカ大陸にも達した。そしてア
メリカ大陸を南下して、マヤやアステカ文明を築いたという
のである。それでは日本人のルーツ、モンゴロイドはどこか
ら来たのか。それを探るにはmtDNAを手がかりに人類の
起源にまで遡らなければならない。その手がかりは各地に出
土する化石である。アジアでは100万年前の「ジャワ原
人」、50万年前の「北京原人」(写真)、ヨーロッパでは
ドイツのネアンデル渓谷で発見された30万年前の「ネアン
デルタール人」などである。

 これらのことから、人類は100万年以上前に世界各地に
登場し、それぞれの地域で別々に進化した(多地域進化説)
と考えられてきた。この説でいうと日本人は「北京原人」と
いうことになる。しかし、カリフォルニア大学のアラン・ウ
イルソン博士はこの説に疑問を持ち、ヨーロッパ、アフリカ、
アジア、ニューギニア、オーストラリアの5地域134人の
mtDNAを分析。その結果、アジア、ヨーロッパ人は9万
年前、アフリカ人は20万年前に登場したと提唱した。しか
も現代人の共通祖先はアフリカの一人の女性(ミトコンドリ
ア・イブ)であると発表したのである。大論争が起こったが、
博士は白血病のため死去する。その後、弟子のスバンテ・ペ
ーボ博士(マック・ブランク研究所)が引き継ぎ、1997
年、ネアンデルタール人のmtDNAの解析に成功し、「ネ
アンデルタール人は現代人の祖先ではない」ことを証明し、
ウイルソン博士の説を支持した。ペーボ博士は「もしウイル
ソン博士が生きていたら、さぞかし喜んでくれたと思う」と
述懐している。それともう1つ、ウイルソン博士は人類と類
人猿が分かれたのは500万年前と発表し、定説の1500
万年前を覆し、人類の祖先はオランウータン、ゴリラ、そし
て500万年前にチンパンジーと枝分かれしたと考えた。
 1974年、これを裏付ける化石(アファール猿人、次写
真)がエチオピアで発見された。このアファール猿人は30
0万年前、脳はチンパンジーレベルであったが、人の特徴で
ある二足歩行をしていた。つまり、500万年前、チンパン
ジーと枝分かれして間もない人類の祖先の化石であることが
分かったのである。ウイルソン博士の説が証明されたことに
なる。それではこのアフリカに生まれた人類共通の祖先はど
うやって日本にやって来たのか。

 共通祖先の一部は中近東、アジアへと広がり、モンゴロイ
ドの特質をもった集団が1万2千年前、日本列島に渡り縄文
人となった。その後1万年前ころ、また別な集団がやって来
て弥生人(佐賀県吉野ヶ里遺跡)となる。それで日本人は縄
文人と弥生人との混合であると考えられてきた。
 しかし、最近の研究(宝来博士)によりこの考えが一変し
た。博士はアイヌ人と沖縄人のDNAを比較してみた。
 するとそれぞれの子孫が日本列島に渡ってきた時、すでに
別々の集団であったことを突き止めた。そこで東アジアの5
地域の集団に広げてさらにmtDNAを比較。次の驚くべき
結果を得たのである。
《本州の日本人》日本固有タイプ4.8%、韓国タイプ24
.2、中国タイプ25.8%、アイヌタイプ8.1%、沖縄
タイプ16.1%、5集団以外のタイプ21%となった。
 一方、《韓国人》固有タイプ40.6%《中国人》固有タ
イプ60.6%となった。犬ではないが、何と日本人固有種
は4.8%で、韓国・中国種が合わせて50%だったのであ
る。現代日本は遺伝子学的にいうと、まさに「多民族国家」
といえるのである。毎年スイス・ジュネーブの国連本部で
「先住民族会議」が開かれ、少数民族の権利回復の国際条約
の締結を目指している。世界のどの先住民族も「自然と共生
する」という共同体の世界観を持っている。
 mtDNAから見えてくるものは、人種による区別も国境
による区別もない。ただ大自然の一員として生きる「人」が
見えてくるのである。

Ⅰ-4 不老不死

2012-10-08 18:31:00 | 日記

 
①不老不死とは

 秦の始皇帝は「不老不死の薬」を徐福(じょふく、写真)
に探させたという。果たして人の寿命を延ばしたり、不老不
死は可能になるのだろうか。

 アメリカ・テキサス大学で人の細胞の寿命を延ばすことに
成功した。今、老化や死に関係する遺伝子を調べることで解
明が進んでいる。琉球大学医学部付属沖縄アジア医学研究セ
ンターの鈴木信(まこと)博士は、20年にわたって100
歳以上の沖縄のお年寄り、約600人の免疫遺伝子を調べた。
 その結果、遺伝子に共通点(遺伝子DR1タイプがあり、
DR9タイプがない)のあることを発見した。これは病気に
なり難いタイプの組み合わせであった。1997年、122
歳で亡くなったフランス・アルルに住むジャンヌ・カルマン
さんなど、フランスのお年寄りを調べているレオナルド・ダ
・ビンチ大学のフランシス・シュヒテール博士は、免疫遺伝
子以外でもアルツファイマー病など、脳の働きに関係する遺
伝子の共通点(アポE遺伝子E2があり、E4がない)を発
見した。カルマンさんはE2タイプとE3タイプで、この病
気になり難い組み合わせだった。このように元気で長生きす
るお年寄りの遺伝子には、この他にも動脈硬化になり難いタ
イプの遺伝子や白内障、ガンを防ぐ酵素の遺伝子を多く持ち、
何か特別な長寿遺伝子のようなものがあるのではなく、病気
になり難い遺伝子を多く持っていたのである。
 しかし、誰にでも老化と死はやってくる。人の最高寿命は
120歳といわれているが、一体何が不老不死の夢を阻んで
いるのか。普通より早く年を取る早期老化症、最近、その1
つのタイプの原因になる遺伝子が見つかり、その治療法の糸
口になるものと期待されている。ワシントン大学のジョージ
・マーチン博士は早期老化症(ウエルナータイプ)の研究者
で、1996年、この原因遺伝子を発見した。8番目の染色
体にある遺伝子の突然変異(DNAのキズ)である。これに
よりある1つのタンパク質(酵素)が作れなくなり、キズが
修復されなかったのである。老化はこのキズがどんどん溜ま
ることによって起こると考えられている。実はこのキズは健
康な人も増え続け不老不死を阻んでいることも分かってきた。
 例えば、酸素は細胞のミトコンドリアでエネルギーを作り
出す時に使われるが、このとき活性酸素も作られ、この活性
酸素が細胞にキズをつけるのである。そのキズはたった1個
の細胞だけでも1日、数万ヶ所に及ぶといわれる。しかし、
DNAにはこのキズを治す酵素を作る働きがあるが、修復不
能と分かると細胞を自殺(アポトーシス、写真)させる。

 この結果、細胞が減って脳や心臓の老化が始まるのである。
それでは減った細胞を補うことはできないのか。細胞はふつ
う、細胞分裂でその数を増やすが、実は分裂の回数には限界
(時計)があることが分かった。寿命3年くらいのネズミで
は15回、175年のガラパゴスゾウガメでは125回、人
間では60回くらいである。この時計とは一体何なのか。
 グリム童話にある「寿命のロウソク」のように、細胞の中
にも年をとると短くなる寿命のロウソクがあったのである。


②命の時計=テロメア

 1990年、科学論文誌「ネイチャー」である論文が発表
された。そこには「細胞は分裂するたびにDNAのある部分
(テロメア、写真)が短くなる」と書かれていた。

 実際、テロメアがある程度短くなってしまうと、細胞は分
裂を止め老化が始まる。「テロメア」こそ命をつなぐ時限装
置つき時計だったのである。1998年1月、ワシントンポ
スト紙に「不老不死の薬」発見のニュースが載った。テキサ
ス大学南西医療センターのジェリー・シェイ博士は、遺伝子
操作によりテロメアを長くして細胞の寿命を何倍にも延ばす
ことに成功した。しかし、生殖細胞などにあるテロメラーゼ
(酵素)を使い細胞を不老不死に出来たが、不完全な細胞が
残って病気になり死に至るという。結局、テロメアを持つ限
り細胞分裂の回数に限界があり、人の不老不死は夢であるこ
とが分かった。生命は長い進化の中で、大腸菌(写真左)と
コウボ菌(写真右)に代表される2つの生き方を模索してき
た。

 大腸菌はリング状のDNAを持ち、無限に細胞分裂して親
と全く同じ子孫を伝えていく不老不死の生き方、コウボ菌の
方は線状のDNAで細胞分裂のたびにテロメアが短くなり、
寿命に限界がある生き方である。東京大学の石川冬木博士は、
遺伝子操作でコウボ菌のDNAをリンジ状にして観察した。
 すると両親の遺伝子の組み換えが出来なくなったのである。
これは多様な生命を生み出すこと(進化)が出来ないという
ことを意味する。結局、テロメアとは、遺伝子の組み換えに
よって新しい可能性を持つ子孫を残す。一方で、親には限り
ある寿命を持たせてしまう“両刃の剣”だったのである。
 コウボ菌のように線状のDNAを選んだ生物は、不老不死
を棄てるのと引き換えに新しい組み合わせの遺伝子を残し、
いつしか多細胞生物に進化し、多様な地球生命を生み出して
きたのである。この時、生命にとってもう1つの大きな出来
事があった。それは多細胞生物が体細胞と生殖細胞を持った
ことである。こうして多細胞生物では体細胞にはテロメアと
いう時限爆弾が仕掛けられ、その一方で生殖細胞にはテロメ
ラーゼという細胞の寿命を延ばす酵素が与えられ、時限爆弾
が最後の時を刻む前に、有性生殖によって親の体から生殖細
胞を脱出させたのである。親の体細胞は生殖細胞を残すと死
を迎えるように仕組まれた(写真)。しかし、死までの時間

は生物によって違い、とりわけ人には子孫と共に過ごせる長
い時間が与えられたのである。だからこそ、その時計が時を
刻むのを止める瞬間まで、次の世代の遺伝子の可能性を見守
りながら、自分の生きた証を受け渡していくことができるの
である。

  

Ⅰ-5 遺伝子と性格

2012-10-07 18:30:00 | 日記

 
①一卵性双生児の兄弟

 毎年8月、オハイオ州ツインバーグで全世界から3000
組もの「一卵性双生児」が参加してのお祭り(写真)がある。

 一卵性双生児の姿がなぜこれほど似ているのか。その秘密
は遺伝子にある。一卵性双生児は1つの受精卵が2つに分か
れて生まれてくる。そのため持っている遺伝子はすべて同じ
といわれている。ここに3人の一卵性双生児がいる。
 そのうち2人は韓国出身で、生後5ヶ月でデンマーク人に
養子として育てられた22歳のラース・リービングさん(兄)、
イエスパー・リービングさん(弟)である。1996年、2
人には一卵性双生児の弟がいることが明かされ、韓国に会い
に行くことに。弟イ・ジュマンさん。食べ物や環境の違った
国で育った3人は、何と身長も体重も全く同じだったのであ
る。遺伝子の力を改めて感じさせられる。それでは性格はど
うであろうか、これも遺伝子で決まるのか。慶応大学医学部
の大野豊博士は3人の調査を行った。その結果、20年以上
別々に育った兄のラースさんと末っ子のジュマンさんの性格
がよく似ていて、兄と一緒に育ったイエスパーさんの性格は
2人とは違っていたのである。育った国や文化の違いだけで
なく、家庭や社会の中での立場の違い、そして友人関係から
受ける刺激も遺伝子の働きを変える可能性があることに気づ
く。私たちは自分の意志でものを考え、様々な感情を持つと
思っている。しかし一方で、親と子の性格はある程度自然に
似てくるということも経験的に知っている。この不思議な目
に見えない性格というものにも、遺伝子に深くかかわってい
ることが分かってきた。


②新奇探索傾向とは 

 私たちの性格がつくり出される場所「脳」、この脳にある
細胞のDNAの文字配列の僅かな違いが、シナプスの情報伝
達の違いを生み、この違いが性格の違いをつくり出している
ということが最近分かってきた。「新奇探索傾向」目新しい
ことや危険なことに惹きつけられ、追い求めること。
 1996年、イスラエルのヘルツオーク記念病院研究所の
リチャード・エプスタイン博士は、第11番染色体の遺伝子
が長いほど、新奇探索傾向が強いことを見つけた。エプスタ
イン博士の研究は、遺伝子が性格を左右する可能性を世界で
初めて指摘した。その結果を確認するための取り組みが世界
各地で続けられている。その1つが岐阜大学遺伝資源学研究
室の村山美穂博士が、柴犬とゴールデン・レトリバーを使っ
て行なわれた。犬の場合も、好奇心の強い柴犬の方が染色体
の遺伝子が長く、新奇探索傾向が強いことが確かめられたの
である。私たちの性格の中の1つ、目新しいものを好む性格
は実に微妙なメカニズムと様々な要素で出来上がっている。
 例えば、慎重であるかどうかという性格、つまり何かに不
安を感じるという性格も遺伝子に左右されているのではない
かという説も出始めている。
 アメリカ国立衛生研究所のディーン・ヘイマー博士は、不
安を感じやすい性格を左右しているのは第17番染色体のセ
ロトニントランスポーターの遺伝子であることを突き止めた。
 この遺伝子に長短の2タイプがあり、短い方が慎重で神経
質な性格になるのではないかと考えられている。
 調査によると、77%のアメリカ人が、97%の日本人が
少なくとも1つは神経質になりやすい遺伝子を持っていた。
 これが日本人の性格を決める1つの要素になっているので
は。ただ、この性格がマイナスに働くとは限らず、超神経質
な湯川博士の例のように、神経質なこだわりが、粘り強い1
つのことを成し遂げる力を生み出したのである。


③環境と性格
 
 1つの神経細胞に10万以上あるといわれるシナプス、そ
のシナプスの神経伝達物質のやり取りから、私たちの性格が
生み出される。そのシナプスの働き方はすべて遺伝子によっ
て決まっているわけではない。最近のコールドスプリング・
ハーバー研究所のケーベル・スボボダ博士の研究によると、
同じ遺伝子を持っていても、環境からの刺激によってシナプ
スの働きに変化が起きることが確かめられた。
 同博士は、――もって生まれた遺伝子の働きだけがすべて
を決めるわけではない。環境からの刺激も神経細胞の構造を
変える。環境から受けた刺激が神経細胞の中にある核に届く
と遺伝子が働き始め、やがて神経細胞のネットワークを変え
ていくのです――と。
 一卵性双生児のように同じ遺伝子の組み合わせを持ってい
ても、環境の微妙な違いやその受け止め方によって遺伝子の
働き方も変わってくる。その変化が性格の違いにつながるの
ではないかと研究者たちは考えている。遺伝子と性格のかか
わりを解き明かす研究はまだ始まったばかりで、多くの謎が
残されている。しかし、遺伝子が環境からの刺激を受けるこ
とで力を発揮し、その人にしかない個性を作り上げていくこ
とは間違いないようである。私たちは100人いれば100
通りの性格を持っている。例え時代に合わない遺伝子を持っ
ていても、その性格をバネに、人に真似できない世界を切り
開いた人も数多くいる。そんな1人に漫画家水木しげるさん
(次写真、77歳)がいる。
 前出の大野博士が水木さんの性格テストをしたところ、新
奇探索傾向が並外れて強いことがわかった。しかし、第11
番染色体の遺伝子は意外なことに平均的な長さであった。
 人の性格はたった1つの遺伝子だけで決定されるものでは
ない。未知の遺伝子もたくさんあると考えられている。水木
さんは小さい頃から規則正しく暮らすことが大の苦手で、会

社や軍隊では失敗続きだった。ところが小さい頃から得意だ
った漫画を仕事にしてから、ようやく自分の能力を発揮でき
るようになった。人一倍強い好奇心を活かして各地に伝わる
おとぎ話を集め、誰にも真似できない漫画を世に送り続けて
きた。ここ数年、海外からも注目されるようになった。
 たくさんの遺伝子のかかわりの中から生まれた性格。水木
さんは自分の中の未知の遺伝子の声に耳を傾けることによっ
て、眠っている力を引き出したのである。私たちの性格が作
られるとき、力を発揮する遺伝子、しかしその中には環境か
らの刺激を受けることで変わっていく力も備えていた。
 私たち人間は太古から受け継いできた遺伝子を活かしなが
ら、この地球上にたった1つしかない自分だけの性格と人生
を作り上げていく無限の可能性をもっていのである。


Ⅰ-6 遺伝子操作

2012-10-06 18:29:24 | 日記

 
 このデータから、国民は自分の病気の可能性を知り新薬が
開発されれば、福祉や医療にかかるコストを減らすことがで
きると国は主張している。政府と独占契約をしようとしてい
るのはアメリカ系ベンチャー企業のデコード社。会社は医師
と患者の協力をあおぎ、35種類の病気の遺伝子を探ろうと
している。個人のあらゆる情報はコンピュータにインブット
されている。病歴や結婚歴、喫煙、中絶、精神状態などの健
康情報から髪の毛や皮膚の状態、さらに家族の病歴も集めら
れている。
 そのうえで患者から血液を取り、DNAが抽出される。こ
うしたすべてのデータから、国をあげて組織的に病気の遺伝
子を探し出すことが可能になった。高速の分析機によって、
1人1人のDNA配列(前写真)が読まれていく。
 こうしてデコード社は関節リューマチに関わる遺伝子の1
つを突き止めた。この情報は製薬メーカーにとって新薬開発
のための貴重なデータとなるため、スイスの大手メーカー・
ロシュからは240億円の投資を得ている。デコード社の社
長いわく、――現在、我々は数社の製薬メーカーとも契約の
交渉をしており、名前は言えませんが日本のメーカーも含ま
れ、年内にも複数の会社と契約をする予定です。――
 現在、デコード社は1万3千人分の血液と60万人にも及
ぶ家系図を手に入れている。個人の遺伝子情報は今や莫大な
利益に結びついている。アイスランド大学のエイナール・ア
ーナソン博士は、この法律の不当性をインターネットを通し
て世界中に訴えている。博士いわく、
 ――まったく異常な事態といえます。アイスランドでは大
変悪いことが行われている。法律を作ることで国が福祉にか
かるコストを減らし、一方では企業が儲けをたくらんでいる。
 まったく異常な状況です。――
 アイスランドで行っている遺伝子情報の管理とビジネスは、
あらためて遺伝子はだれのものなのか、そして社会はどう対
応すべきかという、解決の難しい問題を提起している。


②デザイナー・チルドレン
 
 個人の遺伝情報の検査がこれから生まれてくる世代にも向
けられ始めている。カリフォルニアでは出生前の診断(写真)
に際して、州が補助金を出している。

 胎児の異常の確率を見る検査には費用がかかるが、さらに
詳しい羊水検査は州が費用を負担するため無料。ダウン症な
ど胎児の異常が見つかった場合、半数以上の妊婦が胎児の中
絶を選ぶ。中絶問題や障害者の生きる権利が議論される一方
で、こうした出生前の診断が着実に進んいる。遺伝子研究所
所長のパメラ・ランドルフ博士は語る、
 ――この出生前診断では、先天的な病気を見つけることで、
州の財政のためには大きなメリットがあります。それは特定
の先天的な病気の子供の数が減るからです。ダウン症など障
害を持つ子供にかかる州の福祉コストは1人6000万円に
もなります。――
 カリフォルニア州では障害を持つ子供が減ることで年間5
0億円の福祉コストを減らすことができると試算している。
 この出生前検査がさらに進むと“デザイナー・チルドレン”
の出現となる。
 私(ナレーター)にも最近子供が生まれましたが、高齢で
の出産であったため、出生前診断、つまり羊水検査を望むか
どうか医師から尋ねられました。どんな診断が出ても産みた
いのだから、最初から検査を受けないというのが私の家族の
結論でした。
 アメリカの分子生物学者のリー・シルバー博士は、遺伝子
を自由自在に組み換えた“デザイナー・チルドレン”の登場
を予測している。モデルとして紹介される一組の夫婦。
 体外受精させた自分たちの胚を“アリス”と名づけ、その
遺伝子情報をすべて読み出すことができる。その情報をもと
に、好ましい遺伝子を自由に組み込んだデザイナー・チルド
レンを作り上げる。胚の遺伝子情報はコンピューターと結ば
れ、1つの遺伝子で起こる重い病気の項目が開かれる。
 もし、死にいたる病や重度の病気を引き起こす遺伝子変異
があれば、直ちに正常なものに修復できる。次は複数の遺伝
子が環境的な要因によって、病気を引き起こすリスクの度合
いを示した項目。このリスクを低くするための遺伝子組み換
えも可能。最後に、デザインの仕上げ。身長、体重、髪の毛
や目、肌の色をはじめ、運動能力や芸術の才能にかかわる好
ましい遺伝子を導入する。すると画面には、生まれてくる子
供が16歳になったときの姿が映し出される。こうした遺伝
子操作の後、胚は母親の子宮に戻される。そして9ヵ月後、
デザイナー・チルドレンの誕生。スポーツ選手や科学者、音
楽家や画家など、特殊な能力に恵まれた人類が遺伝子操作に
よって登場することをシルバー博士は予測している。
 この衝撃的な未来を予測した『リメーキング・エデン』、
著者のシルバー博士はプリンストン大学で分子生物学の最先
端を研究している。博士いわく、
 ――これまで生物の進化は行き当たりばったりに起きてき
たが、これからは違う。私たちは指示された通りに生きてい
くことになる。自分たちの進化を自分たちでコントロールす
ることができる。しかもこの遺伝子操作技術によって世代ご
との進化も可能となる。進化の方向を決めるのは私たちなの
です。――
 未来人類に大きな影響を持つ遺伝子の人為的操作、人類は
そのテクノロジーを獲得したのである。


③遺伝子組み換え

 いま遺伝子操作技術は、人の手で自由自在にDNAをつく
り出すことを可能にしている。カイメラジェン社というベン
チャー企業(米・ペンシルベニア州)では、病気の遺伝子を
正常な遺伝子と入れ換える全く新しい治療法を研究している。
 遺伝子の変異した部分を正常な配列に対応するように、D
NAの化学物質a、t、g、cを機械でつなぎ合せて並べて
いく。治療のために作られた63文字の人工DNA、これを
カプセル化して細胞の核へ送り込む。核の中で63文字のD
NAは変異した部分に結びつく。すると細胞の中にある修復
タンパクが働き、変異していた部分を正常に直してくれる。

 こうして、DNAをあるものから切り取ったり、別のもの
に組み換えたりすることを先にも述べた“遺伝子操作”と呼
ぶ。地球上に生きるすべての生物はa、t、g、c という
文字で書かれた共通のDNAを持っているので、この遺伝子
操作はあらゆる生物の間で可能となる。例えば、日持ちがす
るように遺伝子操作されたトマト。まず、トマトの腐敗を抑
える遺伝子を取り出す。それを全く別の生物である大腸菌に
組み込んで増やす。増やした遺伝子を再びトマトの細胞に組
み込むことによって、新鮮に保つようにする。こうした技術
を使えば、種という生物の壁を越えて、自然界には存在しな
い全く新しい生き物をつくることも可能になる。遺伝子操作
によって、すでに数多くの農産物や医薬品がつくられている。
 日本でもこれまで20種類以上の遺伝子組み換え食品(写
真)、そして10種類以上の薬が認可されている。


④遺伝子治療とES細胞

 しかし、この遺伝子操作技術が将来何をもたらすのか、そ
のすべてを予測することは誰にもできないのである。ヒト・
ゲノム解析計画が始まって10年余り、10万といわれる遺
伝子の1割が解読され、病気の原因となる遺伝子も7000
ほどが特定されてきた。遺伝子の変異で起こる病気のメカニ
ズムを探り、遺伝子治療を目指した研究が世界各地で進めら
れている。遺伝子病の1つにパーキンソン病があり、神経伝
達物質ドーパミンを作る脳の黒質細胞の障害から起こる。
 スエーデンやアメリカでは、細胞移植による治療が行われ
ているが、移植に使う細胞は中絶した胎児を使うという倫理
的な問題が伴う。新しい生命操作技術によってこの問題を解
決しようという研究が進められている。ハーバード大学のエ
バン・シュナイダー博士は、移植手術のたびに、中絶胎児を
用意する必要のない方法を開発した。シャーレの中で脳細胞
の元になるヒトの神経幹細胞を自由に増やす技術を確立した。
 シュナイダー博士いわく、
 ――この神経幹細胞は、もちろん脳細胞に成長して脳卒中
や頭部の外傷、また脊髄損傷などの移植治療に役立つはずで
す。さらに将来は、トロイの木馬のように遺伝子操作を施し
た神経幹細胞によって、脳の遺伝子変異を修復することもで
きるようになります。――
 シュナイダー博士は、早ければ2年後には人への遺伝子治
療を行いたいと考えている。昨年(1998年)11月、ア
メリカの研究者が人のES細胞の培養に初めて成功した。こ
のES細胞(=胚性幹細胞、次写真)は、21世紀の医療に
大きな可能性をひらくものと期待されている。
 
 大阪大学生体工学センターの濱田博司博士は、マウスのE
S細胞を使った研究を進めている。受精卵と同じように体の
すべての細胞に成長する可能性を秘めたES細胞。遺伝子の
働きを調整することによって、この不思議な性質を持ったま
ま増やすことが可能になった。濱田博士いわく、
 ――幹細胞と最も異なる点は、どんな細胞にも変化しうる
全能性を持っているという点で、思い通りに変化させること
は近い将来、技術的に可能になると思います。―― 
 ES細胞から生まれた心臓の筋肉(心筋細胞)、心筋梗塞
や心筋症など心臓疾患の治療も、ES細胞によって大きく変
わっていくかもしれない。さらにこのES細胞にリチノイン
酸という物質を加えると、ニューロンやグリアなどの脳細胞
が生まれてくる。この物質によって脳細胞になる引き金が引
かれる。またES細胞に遺伝子操作を加えると、パーキンソ
ン病やハンチントン舞踏病などの治療に役立つ可能性もでて
くる。こうしてまるで機械のように、故障した体の部品を交
換することが可能になれば、これまでの生命に対する考え方
も大きく変わっていくかも知れない。(註)京都大学・山中
伸弥教授(写真左、2012年ノーベル医学・生理学賞受賞)
が発見したips細胞(人工多能性幹細胞、写真右)はES
細胞と同じように万能細胞の一つ、様々な細胞への分化が可
能で、再生医療・創薬への応用が期される。


⑤鎌状赤血球と進化の多様性
 
 遺伝子操作とは、持って生まれた遺伝子に人の手を加える
ということ。人間がどこまで手を加えていいのか、これまで
も様々な議論がされてきた。しかし、遺伝子技術が進み、人
間の欲望が肥大化するにつれ、どこで一線を画してよいのか
難しい時代に入った。21世紀を生きる人類は、こうした遺
伝子技術とどのように生きていくのかが問われ続けるはず。
 ではパンドラの箱から飛び出した遺伝子DNAは未来に向
けて何を語ろうとしているのか。第11染色体に原因の遺伝
子がある「鎌状赤血球貧血症」は、遺伝子の進化の不思議さ
を感じさせる病気。この病気では、通常丸く柔らかな赤血球
(写真左)が、硬い鎌の形(写真右)になってしまうため、
うまく体内に酸素を運ぶことができない。

 そのために呼吸困難を起こしたり、肝臓や腎臓に負担を与
え、免疫不全を起こし死亡することがあった。「鎌状赤血球
貧血症」は黒人に多い病気。1970年代のアメリカでは、
この病気による就職や入学の際の差別が起きた。ではなぜ遺
伝子はこのような変異を起こしたのか。その理由はアフリカ
の環境にあった。アフリカ中央部ビクトリア湖のほとりにあ
るケニアのキスム。人口40万人のキスムの街は昔からマラ
リアに悩まされてきた。湿地帯のために蚊が大量に発生する
上に、人口が集中しているため、マラリアに感染しやすい。
 マラリアはその原因となるマラリア原虫が、ハマダラ蚊に
よって人にうつされる。そしてマラリア原虫は血球や肝臓、
脾臓細胞などを破壊していく。ところが「鎌状赤血球貧血症」
の場合、赤血球内部の酸素の量が低下するために、マラリア
原虫が増殖しにくいと考えられている。アメリカ国立衛生研
究所のアラン・ジェクター博士は語る、
 ――「鎌状赤血球貧血症」の原因となる遺伝子変異は、恐
らく数千年前アフリカの中央部で生まれました。これは進化
という点で重要です。どんな集団でも「鎌状赤血球貧血症」
の遺伝子を1つ持っていると、マラリア感染にうまく対応で
きます。そしてマラリアにかかっても生き残ります。これこ
そ「鎌状赤血球貧血症」の人々がアフリカや中東のマラリア
地帯で数多く生存している理由なのです。――
 
 「鎌状赤血球貧血症」は両親から2つの遺伝子を受け継い
だ場合だけ発病する。しかし、子供が4人いればそのうちの
2人は発病せず、逆にマラリアに対する抵抗力をもつ。
 かつてのアメリカの差別は、この遺伝子を1つ持っている
だけで起きたが、こうした人間社会の思惑を超えて、遺伝子
はあらゆる環境に対応できるように多様に進化してきた。
 なぜ多様なのか。その意味が研究室でも裏づけられている。
大阪大学工学部の四方(よも)哲也博士は、進化論による強
いものだけが生き残るという考え方に疑問を抱いて実験を始
めた。博士は栄養を取り込む能力の強い大腸菌と低い大腸菌
の2種類を、一定の条件のフラスコの中で競争させた。
 普通は能力の高い大腸菌だけが生き残ると考えられる。と
ころが実験を何度繰り返しても、能力の低い大腸菌も必ず生
き残る。四方博士いわく、
 ――分かったことは、ある一定の環境にして非常に激しく
競争させて、いいものだけが勝ち残る環境にしたとしても、
なお遺伝的な多様性が保たれるということが分かったのです。
 具体的には、ちょっと違う大腸菌が競争しながらも共存で
きるということです。――
 強いものと弱いものが共存するという遺伝子の企み、それ
が多様性を生み出す。新潟大学脳研究所では、人の病気の遺
伝子を組み込むことによって、ハンチンソン舞踏病とよく似
た症状を持つマウスを作ることに成功した。遺伝子操作され
たマウスから、神経細胞を破壊する遺伝子のメカニズムが解
明されることが期待されている。同研究所の辻省次博士は語
る、――患者さんの状態を非常に忠実に反映したマウスモデ
ルができたことで、これから脳の中で何が起こっているかど
んどん分かってきます。治療研究も具体的にスタートするこ
とになります。――
 遺伝子の変異によって起こるハンチンソン舞踏病、その解
明と治療もまた遺伝子操作によって可能になる。21世紀に
生きる未来人の生き方を大きく左右する遺伝子の力。私たち
誰もが、こうした遺伝子を巡る技術と向き合うことなしには
生きていけない社会がやってくる。強いものだけでなく多様
であってこそ生命は保たれていく。

 

Ⅰ-7 パンドラの箱

2012-10-06 18:28:20 | 日記

 
 21世紀を前に遺伝子の解読を進めてきた人類は、遺伝子
DNAを操作する技術まで手に入れた。ギリシャ神話に登場
するパンドラの箱の物語。それは神から地上に遣わされた最
初の女性パンドラ(写真)が、決して開いてはいけないとい
われた箱を開けてしまったため、この世にありとあらゆる災
いが飛び出してしまったというもの。

 果たして遺伝子操作がパンドラの箱になるのか。つまり私
たちの子供や未来にどんな影響を及ぼそうとしているのか、
またそのことに対し、遺伝子自身が何を語ろうとしているの
か。ギリシャ神話のパンドラの箱の中には、最後に希望とい
う言葉が残されていたが、現代人にとってそれは共生、共に
生きるということなのかも知れない。およそ40億年前、こ
の地球という星に生まれた遺伝子DNAは、試行錯誤を繰り
返しながら多様な生命を作り出した。その中の一員として私
たち人類もいる。人類は科学の進展によって、遺伝子DNA
のすべてを解読しょうとしている。しかし、そこにはa、t、
g、cという暗号だけでは読み切れない何かが示されている
かも知れない。遺伝子を自由に操作できるようになった今こ
そ、見えないものに対する恐れを忘れてはいけないというこ
とを、DNAは私たちに語りかけているような気がする。



   

Ⅱ―1 脳と心~進化~

2012-10-05 18:27:07 | 日記

 
 長い進化の中で、人間が他の動物と一線を画すことになっ
た脳と心。それはいつ、どのように芽生えたのか。イラクの
洞窟で発見されたネアンデルタール人の骨の周りから大量の
花粉が見つかり、埋葬時に花を手向けた跡だとわかった。
 6万年前の人間も、死者を葬る博愛の心を持っていた。細
胞から神経、そして脳への進化のメカニズムを解明し、6万
年前にまで遡る人間の脳と心の歴史を検証する。

 マイナス200℃、液体窒素に沈んでいる容器の中身は人
間の脳、死の直後体から切り離されたもの。科学技術の進歩
によっていつか甦りたいという強い願いがこの容器の中に収
められている。テレサ・キャノンさんもその1人。娘さん夫
婦も脳の保存を予約している。契約書には選択肢が2つ、か
らだ全体の保存と脳だけの保存。90%以上が脳だけの保存
である。この日も契約を行った400人の内の1人が亡くな
りかつぎ込まれた。脳さえあれば死をのり越えて生き続けら
れる・・・・。

 地球に生命が生まれて35億年、果てしない時の流れが人
間の脳を生み出した。初め海で生まれた生命はやがて陸に上
がり、1千万種もの生物に進化した。体のつくりの違い、生
活環境の違いに応じて脳も進化した。人間の脳にはその歴史
が刻み込まれている。そのことがあなたの心にも思いがけな
い影響を与えている。人間の脳、容積1400cc、重さは
おおよそ1400g、しわに覆われクルミのような形をして
いるのが大脳、その下に小さくのぞいているのが小脳。
 脳(写真)という構造を研究するということは、その機能
である心を研究するということ。

 脳と心、この2つ、実は同じ何かの2つの面なのである。
90年代は脳の時代、生命科学に残された最大の謎、脳への
本格的な挑戦が各国で始まっている。最先端の科学は、今次
々に脳の隠された素顔を明らかにしている。脳の中を走り回
る複雑な信号を、リアルタイムの映像で捉えられるようにな
ったこともその1つ。脳は痛みを感じないため、表面に直接
電極を当てて機能を調べることができる。テレビモニターに
映し出される様々な図を見て答える患者。テンカンの手術に
先立って、言葉などに悪影響が出ないようにするため行うテ
ストである。脳の中の信号の広がり、病巣からテンカンの発
作が広がるのを捉えた初めての映像がある。信号の源は脳の
細胞、脳の細胞が興奮するとごく弱い電流が起こり、次々に
隣の細胞に伝わっていく。その電流を“インパルス”(写真)
と呼ぶ。立体的に見ることができる最新の「レーザー共焦点
顕微鏡」が捉えた本物の神経細胞のつながり。この複雑なつ
ながりを流れるインパルスの集合体、それが心。脳が心を生
み出すメカニズムに迫ろうとすると、1個の細胞のインパル
スに行き着く・・・・。



①ネアンデルタール人を追って

 過去の脳を研究することによって心の本質を探ろうとして
いる人がいる。テキサス農業工科大学のラルフ・ソレッキ教
授(人類学博士)、70年の生涯をかけてネアンデルタール
人(次写真)の研究をしてきた。ネアンデルタール人とは、
20万年前から4万年前にかけて生き、謎の絶滅をとげた人
類。博士は40年前、北イラクのシャニダールという洞窟で
ネアンデルタール人の化石を発見した。19世紀に発見され
て以来、博士の発掘までネアンデルタール人は動物と変わら
ない暮らしをしていた人々だと考えられてきた。しかし、博
士の発見はそれを真っ向から覆すものだった。博士が発見し
た骨は花粉にまみれていた。なぜ骨は花粉にまみれていたの
か。それが心の起源を探る重要な手掛かりとなった。
 ネアンデルタール人は語る、――私はネアンデルタール人、
6万年前に生まれ、私は古代オリエント文明の興亡を見、ア
レキサンダーの遠征を見た。そして最近のイラン・イラク戦
争、湾岸戦争まで、この土地で戦禍の絶えることはなかった。

 あなたがたは時に悪魔になり、時には天使にもなる不思議
な心を持っている。――
 人間の心とは一体何なのか。5月下旬、ソケッキ博士は2
5年ぶりにシャニダールの洞窟に旅立った。ここはイラン、
トルコの国境が接する地域。少数民族のクルド人が自治を求
めて紛争を起こし、出発の数日前にも20名の死者が出たば
かりである。その中で博士が旅立ちを決心したのは、紛争が
拡大し遺跡が危ういという知らせが飛び込んだため。
 25年前、戦禍のために中断したシャニダールの調査を何
とか再開したいというのが博士の夢。沿道には戦禍の痕が生
々しく残っている。イラン・イラク戦争の際には、イラク軍
の攻撃を受け、化学兵器によって多くのクルド人が犠牲にな
った場所。旅の途中、お葬式が行われていた。前日、農作業
をしていた夫と息子がゲリラの攻撃を受け犠牲になったとい
う。夫と息子を一度に亡くした女性が遺体にとりすがる。
 家族は復習を誓い、憎悪が憎悪を生んで争いが際限なく繰
り返されようとしている。


②脳の進化

 感情はどこから生まれてくるのか。人間の脳の内側には、
進化の痕跡をとどめる古い脳が隠されている。生命の維持を
行う脳幹、主に運動をコントロールする小脳、大脳辺縁系と
大脳基底核、この大脳辺縁系こそ感情、喜怒哀楽を生み出す
源。脳は太古の海で生まれた。ホヤ、古い脳の起源を探ると
この原始的な動物に行き着く。ホヤは魚や恐竜が地球に現れ
るはるか以前、5億年以上前に生まれた。ホヤは幼生の時代
に“神経管”という組織を持っている。300個の神経細胞
が細長い管を作ったもの。神経管の中ではインパルスが秒速
1mでやり取りされている。電子顕微鏡で神経管を拡大して
見ると、管の周囲の壁には神経細胞が整然と並んでいる。
 ホヤの幼生はわずか300個の神経細胞で光を感じ、体の
平衡を取り海の中で泳ぐことができる。コンピューター・シ
ュミレーションによると、ホヤの神経管が18回細胞分裂す
ると人の脳の大きさまで成長する。ホヤから魚に進化する。

 脳が進化するにつれ、その機能も進化し早く遠くへ泳げる
ようになる。脳の神経細胞が増え、ふくらみをつくり始める。
 このとき細胞の構造にも大きな変化が起きる。脳細胞の枝
に鞘が巻きつき、インパルスの伝わるスピードが100倍ア
ップ、秒速120mになる。およそ3億年前、魚から両生類
を経て爬虫類、恐竜に進化する(前写真)。
 この時代に脳は厳しい環境の陸上でたくましく生き抜く力
を獲得する。私たちの脳の内部に隠された古い脳は、この恐
竜の脳の構造をそのまま受け継いでいる。現代に生きる恐竜、
コモドドラゴン、古い脳しか持たない動物である。メスを取
り合って争うオス、こうした攻撃性は元々生き残り子孫を残
すために必要なものだった。食欲、性欲、攻撃性、こうした
古い脳の機能は人間の中にも受け継がれている。
 1億4千年前、爬虫類から哺乳類に進化する過程で大きな
事件が起こった。哺乳類の祖先は元々は夜行性で、視覚だけ
では生きていけない。そこで嗅覚や聴覚が研ぎすまされ、そ
の五感を統合するため新しい脳が発達したという仮説が発表
されている。この新しい脳は哺乳類が進化するにつれ、いわ
ゆる“知性”と呼ばれるものになっていく。ここでネアンデ
ルタール人いわく、――私たちの祖先はアフリカの草原で生
まれた。彼らはあなた方の祖先でもある。そう、私たちとあ
なた方は共通の祖先を持ついわば、兄弟なのだ。

Ⅱ―2 新しい脳

2012-10-05 18:26:56 | 日記

 
 草原は生きるために必要な本能が支配する世界、弱肉強食
の世界、爪も、鋭い牙も持たない私たちの祖先が生き延びる
ためには、知恵を使い道具を使う必要があった。道具の使用
の起源をチンパンジィーに見ることができる。アフリカで生
まれた私たちの祖先はチンパンジィーとよく似ていただろう。
 ここは西アフリカ、ギニア共和国ボッソウ村にある京都大
学霊長類観察フィールド。石と油ヤシを置いてみたところ、
石を道具として使い始めた。天然の石の台の上にヤシの種を
置き、器用に石のハンマーで割る(写真)。

 同じことを村の子供にやってもらった。人間も3歳くらい
にならないとうまく石を扱えない。人間とチンパンジィーに
は共通点がたくさんあるが、もちろん違いもある。チンパン
ジィーは道具が使えても複雑な道具は作れないという点も1
つ。秘密は新しい脳にある。チンパンジィーの脳は人と大変
似た形をしている。しかし、大きさは人の1/4しかない。
 その差は新しい脳の差である。猿から人への進化の過程で
知性を生む新しい脳が巨大化し、道具を使うだけでなく作る
ことができるようになった。新しい脳の構造を詳しく見てみ
る。輪切りにすると厚さ2mmほどの灰色の帯がある。これ
が大脳新皮質(写真)、細胞体が詰まっているのはこの2m
mの灰色の帯だけ。白いところは神経線維、つまり配線の部
分。灰色の帯には神経細胞がタテに規則正しく並んでいる。

 この規則正しい配列は新しい脳だけの特徴。これまでの神
経細胞の立体的な形はよく分かっていなかった。神経細胞の
隙間をニカワのような物質が覆っていて、顕微鏡で見えるの
は平面的な形だけだった。そこでコンピューターを使い、顕
微鏡の映像から立体的な姿を再現しようという研究がテキサ
ス大学で行われている。NHKではそのデータをもとに、コ
ンピューター・グラフィックで忠実に神経細胞(写真)を再
現した。 

 神経細胞の枝をインパルスが流れる。神経細胞の先端、動
いて枝を伸ばしている。枝と枝はくっついておらず、インパ
ルスはここを通れない。橋渡しをするのが神経伝達物質、前
の枝の先端には伝達物質の袋が並んでいる。インパルスが流
れると、袋がはじけ伝達物質が飛び出す。後ろの枝には伝達
物質を受け止めるレセプターがぎっしり並んでいる。伝達物
質が花のようなレセプターに当たると、インパルスが起こり
後ろの枝を情報が伝わっていく。最近、この脳を流れるイン
パルスの働きについて詳しく分かってきた。猫に縞模様のテ
レビモニターを見せると、猫の脳には縞模様を知覚する部分
があり、そこに同じ縞模様が逆さまになって映し出される。
 脳の表面のインパルスを特殊な装置で映像化すると、横線
に最も強く反応する神経細胞の固まり(コラムと呼ぶ、次写
真)などが映し出される。

 コンピューター・グラフィックで再現された新しい脳、コ
ラム(円柱)と神経細胞の世界の探検が始まる・・・。
 新しい脳の表面には無数のコラムが並んでいる。コラム構
造を持っているということは新しい脳の特徴である。コラム
の内部は神経細胞の森、1つのコラムに1000もの神経細
胞がある。コラムは脳が行う情報処理の最小、いわゆる小さ
なコンピューター。コラムはみな同じであるが、場所によっ
て働きは違う。コンピューターも計算したり作曲したりいろ
いろな機能を持つ。そこが決まったことしかできない古い脳
との違いである。脳はなぜ巨大化したのか、コラムにその謎
を解く鍵があるという仮説を紹介する。遺伝子の突然変異で
1つのコラムが重複して増えていく。別のところでも別のコ
ラムが重複し、次々と増えるコラム。頭蓋骨の中の限りある
空間で、表面積を増やすため山や谷ができていく。これが脳
のシワ。この進化は、実際は数百万年かけて起きた。
 猿から人への進化の過程で、コラムが重複するたびにシワ
が増え、言語の獲得、道具の製作など新しい機能、いわゆる
知性が育ってきたと考えられる。

Ⅱ―3 話す脳へ

2012-10-05 18:25:02 | 日記

 
 新しい脳が巨大化する最初のきっかけは二足歩行だった。
初めて人類の祖先が立ち上がったのは、今から350万年前、
直立した背骨は脳の重さを支え、脳が大きくなる可能性が開
けた。自由になった両手から生み出された石器、それが新し
い脳の巨大化をもたらす第2波となった。道具を最初に作っ
たといわれるのは「ホモハビリス」今からおよそ180万年
前の出来事だった。
 インディアナ大学のニック・トス博士が人類最初の石器作
りを再現してくれる。この石器が脳の進化を知る手掛かりを
与えてくれる。刃のつき方によって、作った人の利き手が分
かる。「ホモハビリス」の右利きと左利きの割合は57:4
3。チンパンジィーではほぼ50:50。右利きがこの時代
すでに増え始めたことが分かる。脳から出る神経は左右に交
差しており、右手を支配しているのは左脳、人類最初の石器
で右利きが多かったという事実は、左脳の機能が高まり始め
たことを意味する。そこで化石の左脳を詳しく調べると、猿
にはなかった新しい溝が見つかった。そこは言葉を話すとき
に使う部分、言語野(ブローカ野)を示しているという仮説
が発表された。私たちが言葉を話すときの脳の活動を測定し
た映像、左の脳の同じ場所が活動していることが分かる。
 180万年前の脳に残された溝は、私たちの祖先が言葉を
話していた最古の証拠である。
 
 道具を作り言葉を持った「ホモハビリス」」(次写真上)、
脳の容積約700cc、火を使った「ホモエレクトス」(次
写真下)およそ1000cc、ネアンデルタールおよそ15
00cc。新しい脳が飛躍的に巨大化していった。

 ネアンデルタール人は語る、――ネアンデルタールとは何
者なのか、どんな生活をしていたのか。それは脳が雄弁に物
語っている。大きさはあなた方よりやや大きく、深いシワが
刻まれている。私たちはこの脳を持ち、かなり自由に言葉を
話すことができた・・・。――
 証拠となるのが喉仏の軟骨(舌骨)、言葉を喋るのに必要
な器官で私たちと同じ形をしている。さらに彼らは高度な石
器を作ることができた。石の周囲を丁寧に削って刃をつける。
 真ん中を叩くと360度刃のついたネアンデルタール独特
のナイフが出来上がる。ネアンデルタール人はさらに語る、
 ――私たちはこのナイフで動物の皮をはぎ、肉を切り分け
た(写真)。

 道具とは本当に便利なものだ。しかし、この道具がやがて
私たちを滅亡へ追いやる原因になろうとは、想像もできなか
った・・・。――

 ネアンデルタールはアフリカを出て西アジアにもやって来
た。彼らが辿ったかも知れない道をソレッキ博士がひた走る。
 北イラクに入って4日目、そこはゲリラが出没する危険地
帯、遺跡を一目みたいという情熱が博士を駆り立てる。イラ
ク軍の攻撃で、昔訪れた村は跡形もなく破壊されていた。
 兵士は一軒一軒爆薬を仕掛けて回り、徹底的に村を破壊し
たという。家を失った人はテントで生活し、平和が訪れる日
を待っている。懐かしい顔に出会う。40年前、発掘を手伝
ってくれたアブドラさん。アブドラさんは語る、
 ――先生が人間の骨のようなものを掘り出して、大喜びし
たのを覚えています。あれから40人いた仲間はイラク軍に
捕まりました。無事に戻ってきたのは5人だけです。私もイ
ラン領内に逃れ、5年前命からがら村に戻りました・・・。
――
 しかし、アブドラさんからは洞窟の現状を聞くことはでき
なかった。生きることに精一杯だった村の人々に、遺跡を気
にかける余裕はなかったのである。

Ⅱ―4 感情と知性

2012-10-05 18:24:23 | 日記

 
 新しい脳と古い脳は時に協調し、時に対立しながら緊密な
連絡を取り合っている。古い脳が興奮すると、新しい脳がそ
れを抑えようとする。興奮が新しい脳に届くと、新しい脳は
伝達物質を放出し、興奮を鎮めようと働く。この興奮と抑制
のメカニズムが知性と感情のバランスを生み出す。
 脳というのは、古い脳の部分に新しい脳の部分を付け加え
るという形で進化して来た。そのため2つの心、つまり感情
と知性を抱え込むようになった。古い脳から吹き上がる炎、
新しい脳がそれを沈めようと降らす伝達物質の雨、その葛藤
の中で危ういバランスを保っているのが人間の心である。
 本能のおもむくままに行動するのでなく、知性がそれを抑
えたり支えたりする。これは従来、新しい脳が発達した人間
に特有なものと考えられてきた。しかし、チンパンジーの段
階でもすでに芽生えることが発見された。発見者の京都大学
松沢哲郎教授は語る、――西アフリカのギアナで、野生チン
パンジーのお母さんが、亡くなった子供をミイラになるまで

抱き続けることを目撃しました(前写真)。「ジョクロ」と
名づけた2歳半の女の子、お母さんは30代半ば。風邪をこ
じらせたのか子供がバタリと倒れてしまいました。
 子供が死んでしまったが、お母さんはその腕を首と肩に挟
んで、子供が生きていたときと同じように背中にしょって運
んでいくんです。そして抱き上げ、毛繕いをしたり、顔のあ
たりについた小さなゴミやホコリを丹念に取ったりしました。
――
 ふつう子供が死ぬと発情が始まり、お尻がピンク色に腫れ
上がる。お乳が止まり月経周期が戻って次の子供を産む準備
ができる。それにもかかわらず、このお母さんは死んだ子供
をミイラになるまでずっと抱き続けた。他の仲間はこのチン
パンジーの子供の死に対してどうしたのか、ある日のこと、
この仲間のリーダー(ボス)が、仲間を脅す道具として普通
枯れ枝を使うのであるが、このミイラを使った方が効果があ
ると考えたのか、荒々しくこのミイラを振り回した。
 しばらくして母親がその現場に戻って、脅しの道具に使わ
れたわが子をまた背負って立ち去った。チンパンジーがその
死をどのように認識しているのかは中々難しい問題であるが、
本能によって仕組まれた体の生理的な変化だけでなく、それ
を意思によって制御する、そうした複雑な心の芽生えをこの
事例から感じることができる。


①死を悼む

 ソレッキ博士の旅は終わりに近づいた。シャニダールの洞
窟に続く道には野生の花が咲き乱れている。25年ぶりに見
る洞窟は無事だった。昔と同じ姿でソレッキ博士を迎えてく
れた。下界で戦争が行われていることを知らないように、谷
はとても静かだった。ネアンダルタール人はまた語る、
 ――お帰りなさい、ソレッキ先生。ここが私たちが生まれ
育った洞窟です。先生は私たちが決して野蛮人ではなく、人
間の心を持っていたことを証明してくれた。それは先生が私
たちの心を理解してくれたから。先生の中にも私たちの心が
あったからだ・・・。――
 ソレッキ博士は語る、――ここが40年前発掘を行ったシ
ャニダール洞窟です。内部は少し変わっています。羊飼いの
柵ができており、発掘の穴は埋められています。ここで私は
9体のネアンデルタールを発掘しましたが、そのうち2体が
重要です。――

 1号と呼ばれる人骨は、右腕を失い左目は盲目でした。明
らかに狩には不向きで、仲間に養われながら火の番をして暮
らしていたと思われます。1号の発見はネアンデルタールが
体の不自由な仲間をいたわりながら暮らしていたことを示し
た。これは彼らが福祉や博愛につながる心を持っていたこと
を意味する。1号からさらに1m掘り下げたところに4号が
見つかった。4号は埋葬されており、そこから大量の花粉が
発見された(前写真)。
 この花粉こそ人間らしい心の誕生を物語っていた。博士は
語る、――4号と呼ばれる人骨の周囲から、8種類の花粉を
含んだ土が見つかりました。それは死者に花を手向けたこと
を意味します。人間精神の起源、もしかしたら原始宗教の芽
生えを意味するものです。これはネアンデルタール以前には
決してなかった出来事です。――
 洞窟の中には野生の花は咲かない。これは彼らが花を摘ん
で花束を作り、死者に手向けたことを意味している。花粉を
分析したところ、アザミ、ノボギク、コデマリ、タチアオイ
などと分かった。6万年前と同じように、今も洞窟の周辺に
は花が咲き乱れていた。今回の調査で8種類のうち4種類の
同じ花が、今も洞窟の付近に咲いていることが確認された。
 またお葬式の時期がちょうどシャニダールに花の咲く初夏、
6月だったことも確認された。6万年前、ネアンデルタール
人は仲間の死をいたみ花を手向けた。新しい脳の進化が死の
認識をもたらした。いずれ自分が死ぬことから、自分を見つ
める眼差しが生まれ、それはやがて宗教や芸術など人間の文
化を生み出していく。


②クロマニヨン人の登場

 死の認識をきっかけに、人はついに人間らしい心を持つに
いたった。ネアンデルタール人は語る、――ある日、私たち
は見知らぬ人たちの噂を聞いた。彼らは背が高く、聴きなれ
ぬ言葉を話し、見たこともない武器を持っていた。それがク
ロマニョン人(写真)、あなた方の直接の祖先だ。彼らの不
思議な武器、投げ槍。槍と槍投げ器からなり、遠く正確に槍
を飛ばせる優秀な飛び道具だ。手を離れた槍がなぜ獲物を倒
せるのか。私たちには分からない。彼らの優れた道具が私た
ちを絶滅に追いやった・・・。――

 巨大な前頭葉はクロマニヨンの子孫である私たちの脳の特
徴。この2mmの帯の分量の違いが、それまでの新しい脳と
古い脳のバランスを変えていく。ネアンデルタールは古い脳
と新しい脳のバランスがよかった。だから文明もなかったが
大きな戦争もなかった。そこにクロマニヨンが現れてネアン
デルタールが滅びていく。前頭葉は感情を抑えて人に優しく
するという働きもあれば、勝手に暴走することもある。
 
 それから3万年、前頭葉は文明を生み、科学技術を生んだ。
新しい脳と古い脳のバランスは、大きく新しい脳の方へ傾い
ていった。今私たちの身の回りには人工の物が溢れている。
 それはみな新しい脳が作り出したもの、ついに自分の脳を
冷凍保存して生き続けようとする人まで現れた。人間を人間
たらしめた死の認識、新しい脳はそれさえも作り変えようと
しているのか。ソレッキ博士がネアンデルタールの遺跡を後
にする日がきた。今回洞窟の無事は確認できた。しかし、本
格的な調査を開始するには平和が訪れる日を待たねばならな
い。70歳を超えた博士には、その日が遥かに遠いもののよ
うに思われた。博士は手記に次のように記している。
 ――ネアンデルタールは6万年前、死者に花を手向け弱い
者をいたわる心を持っていた。私たちが、人間性というもの
をもう一度見つめ直すことができるとき、私たちの文明はシ
ャニダールの花のように、何か美しいものになる可能性を秘
めている。――

Ⅱ―5 脳が世界をつくる~知覚~

2012-10-05 18:24:20 | 日記

 
 私たちの目から入った情報は、脳の中で色や形にバラバラ
にされ、再統合されてイメージとして再現される。視床がレ
ーダーのように脳を走査し、大切なものを選別する。右脳の
機能の大部分を失った青年が、残された感覚を総動員して、
「自分自身の統合されたイメージ」をつくり上げる。


①哲ちゃんの脳

 画面中央に大きく描かれているのは大仏の顔、「祈り」
(写真)と名づけられた作品。

 命あるものが躍動する世界は不思議な生命感に溢れている。
この絵を描いた青年は脳の半分が働いていない。岩下哲士さ
ん。病気のため1歳を過ぎたときに脳の右半分を失った。み
る、聞く、触る、哲ちゃんは自分の感覚を総動員して周りの
世界を捉えている。私たち1人1人の世界の捉え方、それが
心である。
 詩「脳と心」谷川俊太郎より 
 ――この卵型の骨の器にしまってあるものは何?傷つきや
すく狂いやすいひとつの 機械? 私たちはおそるおそる分解
・・・私たち自身の脳 謎に答えようとするのも私たち自身
の脳 どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない――
 
 哲ちゃんは初めて自分の脳を見ることになった。MRIは
強い磁気を使って脳の内部の構造を正確に描き出してくれる。
哲ちゃんの脳の断面図、右側が黒くなっていて全く働いてい
ないことが分かる。両親はこれまで哲ちゃんに脳の状態をそ
の目で見せることを避けてきた。不安だったのである。
 しかし、主治医の前田先生は病状をきちっと伝えるときが
来たと感じていた。哲ちゃん自身も自分の脳を知りたいと思
ったのである。一人息子として大切に育てられた哲ちゃんは、
1歳3カ月のときに原因不明の高熱から痙攣発作を起こし、
丸一日意識不明に陥った。このことが哲ちゃんの右脳の機能
を奪い、左半身麻痺と知的発達の遅れとをもたらした。
 文字を覚えようとしない哲ちゃんに母親が与えた色鉛筆が
絵を描くきっかけになる。今は絵が哲ちゃんの生き甲斐とな
る。見ることは周りの世界を捉えるとき最も重要な感覚であ
る。右脳が働いていないとき、どのようなことが起きるか。
 視野検査がある。光の点でどこまで見えているか検査が出
来る。哲ちゃんの視力は1.0。目そのものの機能は正常。
 普通の人の視野、見えている範囲は円形。真ん中を見つめ
ていてもその周囲を捉えられる。右脳しか働いていない哲ち
ゃんの場合、視野の右半分しか見えていない。左右の目とも
に左半分は見えていない。視野が半分とは片目で見ているこ
ととは違う。片目で見るよりもっと視野が狭い。しかし哲ち
ゃんは人より目を動かすことで、私たちと同じように全体を
捉える。なぜ半分しか見えないのか。左の視野と右の視野の
情報は別々に処理される。右側の視野の情報は網膜の左半分
に映り左脳に届く。左右の目とも同じである。一方、左の視
野の情報は右脳に行く。哲ちゃんは目から情報が入っても右
脳が働かないので、左の視野については捉えられないのであ
る。右側の新しい脳(大脳新皮質)が失われている。その代
わり、右脳は主治医の前田先生が指摘したように、中心を越
えて大きく発達している。哲ちゃんはこの脳で世界を見てい
る。
 好奇心旺盛な哲ちゃんは旅が好きで、今年6月北海道を訪
ねた。初めて見たウミネコの姿に哲ちゃんの目は引き付けら
れた。触って確かめることが出来ず、哲ちゃんには少し不満
の残る旅だった。この旅は哲ちゃんらしい世界の捉え方の一
端をうかがわせてくれた。旅の後描かれたウミネコの絵、哲
ちゃんにしてはいつもの精気の感じられない作品になった。
 哲ちゃんにとって、より深く見るためには触ることが欠か
せないものだった。哲ちゃんにはうまく描こうとか、自分だ
けの世界を描こうといった気負いはない。ただ、その色に惹
かれて描いている。だからこそ、哲ちゃんの絵は哲ちゃんの
脳が捉えた世界を、素直に忠実に表現しているといえる。
 哲ちゃんの永遠のテーマ「仏さま」、いつも自分を救って
くれる大切な存在だった。同じ奈良の大仏でも暗いタッチの
荒い作品もある。その絵を描いたのは十代の半ば、哲ちゃん
にとって最も辛い時期だった。養護学校の仲間とうまくやっ
ていけず、たどたどしい文字で「死なせて下さい、哲士」と
いう言葉を残して、窓から飛び降りたこともあった。
 その当時の作品「はんにゃ」。哲ちゃんの脳が捉えた世界、
その当時の哲ちゃんの心が表れている。哲ちゃんのもう1つ
のテーマは「生きもの」。

 カエルの声に誘われて近くの田んぼにやって来た。生きも
のの思いもかけない表情に接することが哲ちゃんの大きな喜
び。哲ちゃんの描き方は独特、じっくり見て触れて十分感じ
て脳の中にそのものの姿を刻み込んで、下絵も描かず一気に
描き上げる。初めて出合った犬と哲ちゃんはすぐ仲良くなる。
 あのふさふさした犬の毛がそのまま形になる。目で見てい
るものすべてが脳が見ているわけではない。自分が捉えた世
界を人々に伝えたい、その思いから京都の「常寂光寺」で哲
ちゃんは毎年個展(前写真、中央本人)を開く。
 哲ちゃんの心の目で捉えた作品が見る人の心の目と触れ合
う瞬間である。主治医の前田先生も哲ちゃんの心の目が描く
世界に共感を得ている一人である。命あるものに注がれる哲
ちゃんの心の目は、優しさに貫かれている。その心の目は哲
ちゃんが残された半分の脳の中で築き上げてきたものである。
 それが今、他の人の心を捉えるようになった。見て、触れ
て、感じてそれを束ねて脳が世界をつくる。あなたが今目の
当たりにしている世界は、あなた自身の脳がつくり上げた静
的な作品なのである。


②見るということ

 見るとはどういうことなのか。目は世界を無数の光の点と
して写し取る。はっきりとよく見えるのは中心部分だけ。
 目を動かすことで全体を捉える。奥行きのある世界を捉え
るとき、右目と左目があることが重要。目の網膜で映像は二
次元の平面になってしまう。それを脳が再び三次元の世界と
して組み立てる。脳が見る、脳が働かない限り見えないので
ある。私たちも哲ちゃんも目を動かし左右の目の情報のずれ
を合わせ、脳の中で再構成することでこの世界を捉えている。
 ものを見るときミクロの世界では何が起きているのか。新
しい脳、大脳新皮質、そこに謎を解く鍵がある。新しい脳の
表面の特徴は円柱で表現されたコラム、コラムは大脳が働く
ときの最小単位。コラムを1つ取り出してみる。この中に神
経細胞がぎっしりと並んでネットワークをつくっている。
 たくさん手を伸ばしている突起に他の神経細胞の信号が入
る。信号を受け渡す場所、そこを「シナプス」と呼ぶ。1つ
の神経細胞にはシナプスが1000以上ある。神経細胞がお
よそ1000集まって1つのコラムをつくる。1つのコラム
には1000×1000=1000000、つまり百万以上
のシナプス、信号の受け渡し場所がある。(註)大脳新皮質
を含めて大脳皮質全体の神経細胞の数は約140億個ある。
 コラムの中を伝わる信号は整然とタテにつたわっていく。
耳から入った音も考えたりすることも脳の中ではみな同じ電
気の信号である。人の顔を見るとき、脳はまずその輪郭を捉
える。見ているものの輪郭線(0度、30度、60度、90
度、120度、150度、180度)の傾きによって反応す
る神経細胞が決まっている。1つのコラムがすべての傾きに
対応できる神経細胞のセットを持っている。顔の輪郭の微妙
な傾きを1つ1つのコラムが捉え、それが集まって顔の輪郭
線が描き出される。輪郭線の次は奥行き。輪郭を捉える段階
では、同じ場所を見ている右目と左目の信号は、隣同士のコ
ラムが処理する。その後、奥行きを捉える段階で初めて同じ
コラムに入る。そこで右目と左目の信号のズレを計算し、目
の網膜で2次元になった顔が立体に戻る。このように要素に
分けて分析するのが新しい脳の特徴である。見るという1つ
の働きも脳の各部分が輪郭線、奥行き、動き、そして色、丸
や三角の形など、何十もの段階を経て完成する。

 ドイツ人の女性がいる。14年前に脳血栓で倒れてから、
買い物に出かけられない、テレビが見られないなど、日常生
活で困ったことが起きている。コップに水を注ぐこともその
1つ。水面が上がってきたことが分からず大量にこぼしてし
まう。彼女には動きが見えない。彼女の脳は動きを捉える部
分の左右両方とも損傷を受けている。このような症例は世界
でも彼女しか報告がない。哲ちゃんのように片方の脳でも健
全なら、このようなことは起こらない。彼女にとって外出は
恐怖である。最近やっと主治医のお陰で町に出られるように
なった。私たちには連続して見える映像が、彼女にはフイル
ムのコマを飛ばしたように、飛び飛びに静止した画像が見え
るという。 
 
 相手が動いている上に自分も動いてしまうと、周りの世界
を捉えるのがさらに困難になる。彼女が見ている世界を想像
してみる。みな静止した画像の連続となる。見ることを分担
する32の部分のうち、1つでも欠けると脳で世界を見るこ
とが難しくなる。形をどのように判断しているかはまだ分か
っていない。しかし、多くの研究者たちがその手掛かりを
「側頭葉」(前写真)に見つけ始めている。
 ワシントン大学(アメリカ・シャトル)に入院している女
性、癲癇(てんかん)の症状に悩まされてきた。その原因が
脳の側頭葉にあることが突き止められ、手術を受けることに。
 手術に先立ってテストが行われる。元々こういったテスト
は手術によって言葉が喋れなくなったり、記憶を失ったりす
るような不都合が起きるのを避けようとするもの。
 その中で人間の脳の働きの謎を解く手掛かりが、偶然にも
少しずつ見つかってきた。血管を避ければ脳に電極を当てて
も痛みはなく、そのまま話をすることが出来る。側頭葉で、
ある特定の神経細胞に直接電極を当ててその電気的な活動を
調べる。傾きの違う3つの線を見せ、同じものを選ぶという
方法でテストが進められる。もしその神経細胞が見せられた
形の判断に関わっていれば、電気信号が出るはずである。
 この神経細胞は傾き線に反応したことが直接確かめられた。
このテストの目的は人の顔だけに反応する神経細胞を探すこ
と。山形の図形では調べた12の神経細胞のうち6つが反応、
顔の表情の場合は9つ、しかし顔を選ぶ場合は12の神経細
胞すべてが反応してしまい、顔だけに反応する神経細胞は特
定できなかった。
 複雑な側頭葉の働きを解く手掛かりがごく最近、日本ザル
の研究で明らかになった。5年かけて1000近くもの神経
細胞を丹念に調べた結果である。その中でピーマンに反応す
る神経細胞が側頭葉で見つかった。そして同じ側頭葉が人形
の顔にも反応した。この神経細胞は一体何に反応しているの
か。研究の過程を再現してみる。同じピーマンでも見せる場
所を変えると反応を止めてしまう。人形の下半分を隠すと反
応しない。一方、上半分を隠しても反応している。さらに耳、
鼻を隠しても、唇の色を抜いてみても反応し続ける。結局、
この神経細胞は唇にもピーマンにも共通した濃淡のついた楕
円形の形に反応していた。この神経細胞を含んだコラム全体
が同じ形に反応、こうした基本的な形に反応するコラムが1
00近くも見つかっている。形もアルファベットのように基
本的なパターンがあり、それを組み合わせて複雑な形を捉え
ていると考えられる。しかしこれでもまだ、その組み合わせ
が何を意味するかを判断するには不十分である。形のアルフ
ァベットが分かったのはサルの側頭葉の外側だった。


③心の目

 人間の場合、側頭葉の内側が損傷を受けると、とても不思
議な症状が起きる。磯田久雄さん(67歳)はものが見えて
も顔だけは分からない。磯田さんの脳、側頭葉の内側のやや
底に近いところに、脳梗塞のため損傷を受け機能を失ってい
る。左右とも同じところが損傷している。磯田さんは自分の
写真を見ても分からない。歯の長いことや目じりのシワなど
部分は分かっている。形のアルファベットは健在、でもそれ
を合わせて1つのまとまった顔として捉えることが出来ない。
 見るという過程の中には、不思議な仕組みがたくさんある
ことが徐々に明らかになっている。視覚、触覚、聴覚など私
たちの五感は、互いに係わり合って世界をつくる。手で触れ
て形を捉え、声を出して表現する盲人の子供たち、これはい
わば目の見えない子供たちが、自分の世界をつくるためのト
レーニングである。まったく目の見えない人の安静時の脳の
活動を示す画像、目から光の信号が入っていないのにも拘ら
ず、ものを見たときに働く「後頭葉」が活動している。
 見るのは目だけではない。ほかの感覚との共同作業でより
豊かな世界が生まれる。五感の情報はどのように束ねられる
のか。アメリカ・国立衛生研究所のレスリー・ウンゲライダ
ー博士の研究室では、形、動きなど脳の別々のところで分析
される視覚情報が、どこでまとめられるかをサルの脳で調べ
ている。神経細胞に特殊な色素を入れて、その細胞がどこに
信号を伝えるかを追跡している。顕微鏡で形と動きの両方の
信号を受け止める神経細胞を捉えた。側頭葉の深い溝の奥、
「上側頭溝」と呼ばれるところ。形の信号が届くところ、動
きの信号が届くところ、ここで両方が合わさっている。

 ウンゲライダー博士が語る、
 ――両方の信号が合わさる場所は限られていました。重要
なのは上側頭溝の奥です。私は人間も動きと形の信号をここ
でまとめていると思います。――
 博士の発見した場所「上側頭溝」(前写真左、濃い部分)
実はここには触覚や聴覚の情報もやって来ている。新しい脳、
大脳新皮質の様々な場所で分析された情報がここに集まって
くる。この深く切れ込んだ溝の中に、感覚情報をまとめる秘
密が隠されている。絵で表現された世界と脳で捉えられた世
界の間には隔たりがある。見るとは一体どういうことなのか。
 私たちが何かを見ている時、注意を向けているものだけが
見えている。最近、この点について興味深い仮説が提起され
た。それは見るときには新しい脳だけでなく、脳の奥深いと
ころにある「視床」(前写真右、矢印の部分)が重要な働き
をしているという説である。脳の中央に丸く見えるのが視床、
見る、聞くといった感覚の信号はここを通って新しい脳へ送
られる。視床はいわば情報の中継所である。脳が世界をつく
る、その核心に近づいてきた。ニューヨーグ大学のリーナス
研究室にMEG(脳磁計、次写真)という機械が登場して、
刻々と変化する脳の活動を千分の一秒間で捉えることが出来
る様になった。リーナス教授はこの機械で視床から新しい脳
に届く信号を見つけた。その信号は1秒間に80回という速
さで、新しい脳の全体を前頭葉から後脳葉に向けて走ってい
る。リーナス教授は「視床は灯台の光のように大事なものを
見つけてより強い信号を送ります」と語る。リーナス教授に
よれば何に注意を絞り込むかは、この信号によって決まると
いう。

 表情の異なる500もの「羅漢さん」、哲ちゃんの目にあ
る羅漢さんに惹きつけられていく。哲ちゃんが本当に注意を
向けた時、対象と一体になってしまう。それが哲ちゃん独特
の世界の捉え方であり、哲ちゃんの心なのである。
 哲ちゃんはいつも興味あるものとないものがはっきりして
いる。広い世界の中から何に注意を向けているのか。それは
哲ちゃんの脳が、心の目が選んでいる。新しい脳の中でもま
だ働きがよく分かっていない前頭葉、意識的に何かに注意を
向けて見る時、この前頭葉が活動していることが分かった。
 この前頭葉と注意を絞る視床との共同作業こそが、心の目
の正体かも知れない。
 スティーブン・ピーターセン博士は「何かに注意が向くと、
ここがいつも働きます。しかし、前頭葉が働くのは意識的に
注意を向けたときだけです。例えば、モナリザを見るときで
す。ここに“心の目”を知る鍵があると思います」と語って
いる。

Ⅲ―1 人生をつむぐ臓器~記憶~

2012-10-04 18:23:52 | 日記

 
 突然、数十秒前のことさえ記憶できなくなった青年、脳の
重い障害を持って生まれたにもかかわらず超人的な記憶力を
発揮するサヴァン症候群の男性・・・。こうした実例を手が
かりに、急速に進む記憶力のメカニズムに迫る。記憶が作ら
れる瞬間の分子メカニズムや、年をとると記憶力が悪くなる
原因など、様々な脳科学の成果を紹介。更に、私たちは夢を
見ている間に記憶をつくっているという大胆な仮説にも踏み
込む。


①レスリー・レムケさんの場合

 レスリー・レムケさん(写真)、目が不自由で知能は小学
生ほどであるが、ある特殊な記憶力を持っている。レスリー
さんはどんな曲でも一度聞いた曲は最後まで覚えてしまい、
ピアノで弾くことが出来る。知能の遅れを持ちながら、ある
分野に並外れた記憶力を持った人たちは“サヴァン症候群”
と呼ばれ、これまでに100人近くが確認されている。もう
1人のサヴァン、ニューヨークに住むジョージ・フィンさん、
彼の頭の中には8万年間のカレンダーが収められている。

「フィン、1945年3月3日は何曜日?」「土曜日」、
「2000年1月の第2木曜日は?」「13日」、「126
95年12月25日は何曜日?」「水曜日」。

 記憶、この不思議な働きは私たちの脳の一体どこに秘めら
れているのか。脳にはもう1つ記憶力がある。音楽に対する
驚異的な記憶力を見せてくれたサヴァン症候群のレスリーさ
ん、脳に重い障害を持って生まれ施設に預けられた。彼を引
き取って息子のように育てたのがメイ・レムケさん。メイさ
んは彼に音楽的な才能を見出し、繰り返し練習させた。
 そのお陰でレスリーさんは現在の記憶力を花開くのと反対
に、メイさんの記憶力は次第に衰え、ついにアルツハイマー
型痴呆症になった。メイさんは最近ではほとんど何も反応を
示さなくなった。レスリーさんの記憶力の背景には取り付か
れたようにピアノを練習していたという事実がある。こうし
て体を使って憶えこむ記憶も、実は脳が生み出している。
 MRIで脳の働きを見る。この実験では、ピアノを弾くよ
うに決まった順番に指を動かすときの脳の働きを調べる。
 結果は、指の動きが上達したとき海馬とは全く違う場所が
活動することを示していた。この記憶は大脳基底核と小脳で
つくられ、最終的には大脳新皮質の運動を司る部分の近くに
貯蔵される。人間の記憶には海馬を使う知識や思い出の記憶
と、もう1つ技の記憶と呼べる記憶がある。技の記憶は海馬
の記憶に比べて、長期関繰り返し練習を続けなければ覚えな
いが、逆に一度身につけると中々忘れることはない。
 この記憶力は厳しい訓練によって人から人へ受け継がれ、
私たちの生活を豊かに彩る数々の華麗な妙技を生み出してきた。
 この6月、レスリーさんは育ての親メイさんの誕生日を祝
うコンサートを開いた。今年93歳になるメイさん、自分の
ためのコンサートであることも分かっていない様子だった。
 レスリーさんはそんなメイさんに昔2人でつくった思い出
の曲をささげた。
 ♪~奇跡を祈るメイという女性がいた 神が息子を治して
くれるようにと 奇跡を信じるとつぶやいた ああ、素晴ら
しき神よ そう、私は奇跡を信じる しかしそれは待つしか
ない その時が訪れるまで神が奇跡を起こしてくれるまで~ 

 2人の思い出の曲はメイさんの心を癒し、つかの間昔の自
分を取り戻させたようだった。


②ジェレミー・カスさんの場合

 手汗握る漕艇、胸高鳴る大声、私たちの脳は、目の前から
次々に消えていく出来事を記憶として焼きつけ、思い出の名
場面を一つ一つ刻み込んでいく。もし、ある日突然この記憶
力が失われたら、私たちの人生はどうなってしまうのか。
 ジェレミー・カスさん、かつてケンブリッジ大学のボート
部(イメージ写真)で活躍し、将来は弁護士を志したほどの
記憶力と才能の持ち主だった。

 彼はいま毎日、テープレコーダーを使ってその時間への出
来事を録音し続けている。ジェレミーさんはある日突然記憶
力を失ってしまった。昔の記憶は残っているが、新しいこと
はわずか十数秒前のことさえ覚えることが出来ない。
 記憶力を失ってから、1人暮らしのジェレミーさんの生活
には様々な困難が起き始めた。食事をするときも何を料理し
ていたのか、これから何をすればよいのかを次々と忘れてし
まう。「レタスは・・・、いやライスだ」書き留めておかな
いと、昨日食べたものを忘れてしまい、同じものを作ってし
まう。作ったことを書いて置かないとそれさえ忘れてしまう。
 それだけでなく、新しい人間関係を作ることも困難になっ
た。初めて会った人と、どんなに楽しい時を過ごしてもすぐ
忘れてしまうので、中々心を開くことが出来ない。記憶力が
なくなったことで、それまで心を許してきた人との間にも、
わだかまりが生まれてしまった。
 ジェレミーさんの母親は、彼が大学受験を控えた時期に父
親と離婚し家を出て行った。それはそれまでの母親との幸せ
な思い出の数々を、すべて覆す最後の辛い記憶になった。
 その直後に新しいことが覚えられなくなったので、母親へ
の辛い思い出を書き換えることが難しくなったのである。そ
んなある日、遠く離れて暮らしている母親から、久し振りに
週末を一緒に過ごさないかという誘いの手紙が来た。新しい
人間関係を作り難くなったジェレミーさんには、一度壊れて
しまった母親との絆を修復したいという気持ちも芽生えてい
た。ジェレミーさんの母親は、ロンドンから北西300km
離れたリバプールで1人で暮らしている。
 ルーシー・カスさん、「息子が記憶力を失う直前に憶えた
のは私が家を出るという悲しい出来事でした。この苦い思い
ではどうしても私が繕わなければならないのです」

 普通の人なら繕えなくはない思い出のほころび、このほこ
ろびを新しい糸で縫い合わすことが、記憶力を失った彼には
とても難しいことになってしまった。イギリスの若きエリー
トが集まるケンブリッジ大学、この大学にジェレミーさんは
奨学金を与えられるほど優秀な成績で入学した。
 ところが担任教授の部屋で指導を受けていたある日、痙攣
を起こして床にバッタリ倒れた。ジェレミーさんの脳の血管
には動脈瘤があり、突然破裂して周りの組織が破壊されてし
まった。そしてこの場所はちょうど海馬の情報が入って来る
回路の一部だったのである。それ以来、彼は見たり聞いたり
することは出来ても、その情報が海馬に入ってこないので、
新しいことが記憶できなくなってしまった。
 ジェルミーさんは「一番辛いのは自分の将来が、自信に満
ちた弁護士から全く違うものになったことです。とても辛く
悔しい気持ちで一杯でした。弁護士になれないと分かって将
来、自分に何が出来るのだろうと」と語る。
 新しいことを記憶できなくなったジェレミーさんは、弁護
士になるどころか大学に残ることすら出来なくなった。その
後も2年半の間、一人で法律の勉強を続けた。しかし、いく
ら努力しても記憶が戻らないと分かってからは、それを諦め
ざるを得なくなった。ジェレミーさんのように脳に損傷を受
けなくても、記憶は年を取ると次第に悪くなっていく。
 ジェレミーさんは人に頼らない生活をしたいという思いか
ら、独自の記憶システムをつくり出し、新しいことを覚えら
れないハンディキャップを補おうとしている。彼が記憶でき
ない脳の代わりに使ったのは、テープレコーダー、システム
手帳、そしてアラーム時計だった。
 例えば、電話がかかってくると、一旦、テープレコーダー
に録音し、電話を切ってから聞き返し、その内容をシステム
手帳に書き込んでいく。ジエルミーさんには70人余りの知
り合い1人ずつのページがあって、話したことが詳しく書か
れている。アラーム時計には必要な時刻とメモがセットされ
る。このアラームが鳴ると、表示された文字を手掛かりにシ
ステム手帳を見て、誰とどんな約束だったかを知る。
 ジェレミーさんの日課は、毎晩夜遅くまでかかって、その
日吹き込んだテープをすべて聞き返し、その一字一句を書き
止めていく。ジェルミーさんの闘いは、自分という存在を、
脳が記憶していく働きを脳に変わって記録していく闘いでも
ある。
 人目に触れないように大切にしまわれた木箱、鍵のかかっ
たその木箱の中には、彼が記憶力を失ってからこれまでに書
き留められてきたすべての日記がしまわれていた。この日記
だけがジェレミー・カスが何者なのか残してくれる。知識や
思い出は憶えられなくなったジェルミーさんにも、幸いこの
海馬を使わない技の記憶力は残っていた。彼はこの記憶力を
使って家具職人(イメージ写真)として生きていこうと決心
し籐の家具を編む訓練を続けている。

 弁護士になる夢を中々諦められなかったジェルミーさんで
あるが、いま彼は職人さんとしての第2の人生をスタートさ
せようとしている。久し振りに訪れるリバプール、ジェレミ
ーさんの母親は姉夫婦の近くで暮らしている。お母さんがジ
ェレミーさんの元を去ってはや8年、これまで2人の間には
心のわだかまりを乗り越える機会が中々なかった。お母さん
は新しい思い出をつくることが難しいのならば、せめて息子
と一緒に過ごした日々をなぞることで、自分との楽しかった
思い出を取り戻してもらおうと考えた。

母「この野菜は早く大きくなるから、子供が育てるには丁度
いいの。あなたが小さかった頃、こんな野菜を育てていたの
よ。これほど大きな畑じゃなかったけどね。今日はたくさん
摘んだわね」 
息子「ああ、摘んだ」 
母「野菜のこと憶えていてくれて嬉しいわ」 


 ジェレミーさんの幸せな日々の思い出はどこにいってしま
ったのか。ジェレミーさんは1人息子で母親に愛されて育て
られた。その思い出は脳のどこかにしまわれているはずであ
る。脳に記憶された思い出は、どのようにして思い出される
のか。海馬でつくられた記憶の回路は大脳新皮質に貯蔵され
る。ここでは1つ1つの記憶が幾つかの細胞の組み合わせと
してしまわれている。それは星座が幾つかの星の組み合わせ
(前写真)から出来ているのに似ている。
 そして例えば、双子のように関係が深い記憶は細胞を共有
して貯蔵されている。こうして双子の兄を思い出すと、弟が
連想されて思い出されると考えられている。私たちの脳の中
には、思い出の星座が思い出の数だけ重なり合ってしまわれ
ているのである。ジェレミーさんの思い出の星座も大脳新皮
質の神経細胞の森のどこかにあるはずである。一緒に過ごし
た子供の頃の思い出を何とか思い出してほしい、そして息子
との間に出来てしまった心のほころびを少しでも繕いたい。
 お母さんの根気強い働きかけはその後も続いた。

母「ジェレミーが私を手伝っていた時には火傷はしなかった
わ、火傷をしたこと憶えてない?」 
息子「えっ?いつ?11歳くらいの時留守番をしていてヤカ
ンを火にかけたまま物を取ろうとしてお腹に熱湯がかかった
んだ」
母「あら、覚えてないわ、すごいじゃない」 
息子「それで電話したんだ」 
母「思い出した、思い出したわよ、よく覚えていたわね、思
い出したわ、覚えているわ」 

 ほんの小さな思い出だったが、この時彼は母親の前で自分
の子供の頃の思い出をはっきり口にした。音楽の好きなジェ
レミーさんの家族は一緒に暮らしていた頃、よく歌を歌った。
 ジェレミーさんはカメラを手にする。写真、それはこの時
間が消え去る前に、大切な思い出として残したいという彼の
心の現われだった。ロンドンに戻る前の日、ジェレミーさん
はお母さんの傷んだ椅子を修理することになった。
 彼が家具職人として母親のために腕を振るう姿を見せるの
は、これが初めてのことだった。記憶力を失ったことで起き
た母との心のすれ違い、そのほころびを繕ってくれたのも、
また人間の脳の記憶の力だった。人間の記憶、それは生涯を
共にする神経細胞とともにあなただけが巡り会えたかけがえ
のない思い出を一生かけて織り上げていく脳の営みである。
 ジェレミーさんはいま残された技の記憶と再び手にした母
の思い出を丹念に織り上げ、彼にしか編めないこの宇宙でた
った1つの思い出を紡いでいこうとしているのである。