全国道の駅ツアークラブ

全国の道の駅を宿場代わりに、史跡、景勝地、温泉などを巡る自動車たび。

道の駅ツアーの訪問県

2011年05月18日 | 今までの訪問県

 
24.4 全国訪問47都道府県中、43県を走破し、本州では神奈川県(現在住)、東京都(道の駅なし)は抜かし、沖縄、北海道が残りました・・・残念!!。

ブログ訪問者数(IP) 17,375
tgaocun910@gmail.com

その他の作品】 

第1作品『ストップ ザ悪』~近未来警察20XX年構想~

第2作品『深イイ漫才』~重箱の隅ツツキ隊~

第3作品『朱の起源』~進化のルーツとは~

第4作品『人検』~人格検定~

第5作品『悲しい異星人』

第6作品『町内会革命』~未来予想図~

第7作品『台風ヤロー!』~バイク野郎の華麗な変身~

第8作品『マー爺さん 空を飛ぶ』~メッセージ被災された皆様へ~

第9作品『人体 ふしぎ発見!』~遺伝子・脳と心・生命~

第10作品『実録 私の町内会奮戦記』 只今、執筆中!

第11作品『生命(いのち)のすみか』 只今、応募中!

◎「電子版小説集

◎「町内会革命・憲章」~今こそ地域から日本を元気に!~

◎「高齢者福祉NPO「地縁


NGO・NPO ブログランキングへ

福岡県編

2011年05月17日 | 福岡県編
《はしがき》

 昨年九月の四国一周旅行から、今回は八ヶ月ぶりの九州四県のツアーである。ただ、今回は三月に起きた「東北地震津波災害」の影響で自粛ムードの中、周囲の反対を押し切って出掛けた。自分なりに、このツアーは歴史勉強のライフワークであり、物見遊山ではないと思っている。それに節電など災害救援に協力すれば、後は普段の生活に戻すべきであり、変な自粛は返って経済を冷え込ませるとも考えたからである。現に、各地の観光地は外国人の減少で閑古鳥が鳴いているという。そこでまず自分が“観光地応援隊”として先鞭を切ることにもしたのである。四月十日の選挙所立会人の仕事を終えて、夜十時前、慌しく出発した。それは四月からの高速道路無料化が無くなったからで、やむなく十日(日曜割引)に出発とした。大阪まで高速で行き、そこから名門大洋フェリーで九州新門司へ向う。コースは九州四県を能率よく一周するため、福岡県はスタートと終盤の2回訪れることになる。大分県へ向かう途中、福岡県では二つの道の駅に寄り、大分観光を終えてまた福岡県に戻るといった具合である。余震のため、家内が体調を崩し、旅行を中断して帰浜したため、福岡では八女の白壁の町並み、三池炭鉱の宮原坑跡、柳川川下りの観光に止まった。しかし、フェリーでの交流、川下りなど、印象深いものになった。

 四月十日夜十時半、出発。愛鷹PAで一泊。浜名湖SA、大津SAで給油、三時過ぎ、大阪南港「名門大洋フェリー乗り場」に到着。手続き後(12800円)、夕方五時、出航。2等大部屋に4人。震災の影響かガラガラ。フェリー内で2人の人と知り合い、ロビーで一緒に飲む。お一人は山口県出身の27歳サラリーマン、お一人は大阪池田の三十代のドライバーさんだった。



 若者はミュージシャンでもありCDも出しており、大阪の友人の結婚式に出ての帰りとのこと。ドライバーさんはトラック便でフェリーを常用しているとのこと。空手が特技のお子さんの写真を見せてもらう。私からは第一作の本をプレゼントする。震災や仕事の話など、いろいろ語り合い楽しいひと時を過ごすことが出来る。感謝! 十時過ぎ、部屋に戻り就寝。


【四月十二日 一日目】

 朝五時半、新門司港に到着。晴れ、無風だが寒い。いよいよ九州上陸、第一歩、いや第一車をかざる。国道10号線を南下、途中、2つの道の駅に寄り、七時十五分、大分県に入る。


 道の駅「おこしかけ」にて


 道の駅「しんよしとみ」にて
 
 この後、大分県を一周し、四月十四日、福岡県の道の駅「たちばな」に到着。福岡県の二日目に入る。


【四月十四日 ニ日目】

 八女茶の本場ということで、お土産にお茶(2000円分)を買う。この後、近くの町並み見物へ。

①八女福島の白壁の町並みにて
 
九時、八女の「横町町屋交流館」に到着。開館前であったが、入ってみる。町並み景観係りの古賀美啓さんに応対いただく。いろいろお話できたが、最後に素朴な質問を一つ。「八女の語源は何ですか」。「・・・・・?」 資料の本のページを写真で撮らせてもらう。そこには次のようにある。
 ──古代になると、日本書紀の中にはじめて八女の地名が見えます。巡幸された景行天皇が「このとても美しい山なみには神が住むのか」とお尋ねになり、この地域を治めていた方いわく「この地方に女神あり、その名を八女津媛という常に山中にある」と答えたとあります。これが、八女という地名の由来になったらしいです。── 
 調べてみたら、「八女津媛」の像まであった。


 八女福島の白壁の町並み


 横町町屋交流館にて

 九時半、お礼を言って大牟田市へ向かう。


②石炭産業科学館にて
 
 十時半、到着。宮原坑跡を探すが、見当たらず科学館で尋ねる。すると違う場所であることが分かる(地図の表記がおかしい)。地図で教えていただき、ロビー展示も見ることが出来る。


 石炭産業科学館にて

 お礼を言っていよいよ宮原坑跡へ。探し回ったすえ、十一時過ぎ、発見!


③三池炭鉱宮原坑跡にて
 
 人家の途切れた一角に忽然と現れた。案内板には次のようにある。
 ──明治三十一年~昭和六年に活躍した三池炭鉱の主力坑でした。鋼鉄製の竪坑櫓(たてこうやぐら)とレンガ造りの巻上機室建物が残る国指定重要文化財・史跡です。世界遺産暫定一覧表に記載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産です。──





 世界遺産の候補になっているようだが、今はまだ 廃坑そのもので、寂しい雰囲気が漂っていた。十一時十五分、柳川市へ向かう。


④柳川川下り
 
 資料には次のようにある。
 ──柳川は近年まで「柳河」と記されていました。文亀年間(1500頃)、蒲池城主の蒲池治久が、社村(現立石の日吉神社付近)に支城としての城を築いたのが柳河の始まりといわれています。
 その孫の鑑盛の代には、大友氏の配下に入り、筑後数郡を統べる旗頭として、柳河を拠点に武威をふるったようですが、天正九年(1681)、蒲池氏は竜造寺氏に滅ぼされ、その家臣鍋島信生が城主として柳河に入ります。秀吉による九州平定後の天正十五年(1587)、立花宗茂が十三万二千石で封ぜられて、以降13年にわたり柳河に居城します。関が原の戦いの後は、西軍に組した立花氏に代わり、石田光成捕縛の功をあげた三河岡崎城主田中吉政が、筑後国三十二万五千石の太守として入部して柳河を拠点とします。吉政は柳河の近世城郭つくりに着手し、有明海生粘土層の軟弱地盤の上に、五層五階地上36mにおよぶ威風堂々の大天守を築造します。
 さらに、柳河城周辺の掘割整備、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の築堤、荒地開墾によって藩の財政的な基盤を固めました。しかし、田中氏は二代で無嗣断絶。元和六年(1620)、立花宗茂が十一万石で再封され、以降、柳河は江戸期を通して立花氏の城下町として繁栄します。四代藩主立花鑑任は、藩主別邸として「松涛館」(御花)を建設します。御花は現在でも立花家当主によって経営されており、一般に公開されて宿泊や結婚式場としても利用されています。明治維新以降、柳河城は柳川県庁舎などとして使用されますが、明治5年の失火により天守閣を含む柳河城は全焼してしまいます。その後、城跡は学校(市立柳城中学・私立柳川高校)となり、石垣は干拓地の堤防に利用されたため、現在では柳川高校の一角にわずかな石垣を残すのみとなっています。
 昭和12年、九州鉄道により柳河駅(現西鉄柳川駅)が市街地の東端に開設されますが、かつての城下町には、いまでも高い建物や大きな工場や商業施設はなく、町は水網の流れの如く緩やかな街並みを見せています。柳川には掘割が縦横に流れることから、水の都または水郷と呼ばれています。  
 この堀割、大雨時には雨水貯留の機能をもち洪水から生活を守り、平時には日常物資を運ぶ幹線交通路として機能し、家の裏側を縦横に走る小さな水路は、住民に飲料水や洗い場を提供してきました。いまでも水際に「くんずば」(汲水場)という独自の水汲み場が残り、水郷に風情を添えています。 
 また、水路の底に溜まった泥は肥料になるので、毎年浚渫されて田の客土に活用され、これが水路の維持管理に役立ってきました。かつて、堀割は住民の生活とともにあったのです。ところが、水運が陸上輸送に代わり、化学肥料が普及して、客土さらえの必要がなくなり、上水道が普及してくると、次第に水質の汚染が目立ち始めます。家庭排水の垂れ流し、糞尿浄化槽の普及による悪水排水が加わり、知らぬ間に水路にゴミが捨てられるようになったといいます。水路にはホテイアオイが繁殖し、ヘドロが溜まって悪臭を放ち、蚊や蠅の発生源になって、絶えず苦情が出されるようになり、昭和50年代の初め、幹線水路の護岸築造と川底のコンクリート化、他の小水路は全面的に埋め立てられる計画がもちあがります。そんな中、市役所職員であった広松伝氏の研究・啓蒙活動と市長への直談判が功を奏して、一転して掘割の保存、整備を進めることとなったことは余りにも有名です。当時、水路の多くはヘドロやゴミで埋没して、上には駐車場や物置き場になるなど、至るところで不法占拠が横行していました。
 昭和53年に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施される一方、地道な住民運動も湧き上がり、不法建築が撤去され住民参加での浚渫(しゅんせつ)作業も行われました。
 宮崎駿製作、高畑勲監督の実写映画『柳川掘割物語』は、住民が荒廃した掘割の再生に取り組む様子を記録したドキュメンタリーとして有名です。いまでは、掘割を巡る「川下り」が柳川の貴重な観光資産となり、水郷柳川は筑後平野の観光名所になっています。──
 インターネットで柳川観光を検索し、「柳川リバー観光」にする。理由はクーポン10%と、船頭体験が出来るとあったからである。昼過ぎ、船着場に到着(70分コース1500円→1350円)。車を駐車場におき、しばらくして車が迎えに来る。
 発着地の船着場に移動して客を待つ。しかし、どんこ舟は10人前後の定員で、私一人だけのようでどうなるのか。結局、貸し切り状態で出航することに。何か気まずい気分。これも地震災害の影響か?


 高口(こうぐち)船頭さんと2人、貸し切り?


 掘割り水門


 咲き誇る花々


 水上売店のお姉さん


 なまこ壁


 並倉 赤レンガ倉庫


 水上歌碑


 田中吉政像


 弥兵衛門橋


 くもで網漁


 まちぼうけの碑


 端午の節句 風に旗めく幟


 この雄姿を見よ!船頭合格となる


 川下り無事終了、イェ~イ!

 たっぷり川下りを楽しんだ後、「うなぎ屋本店」(0944─73─0068)の裏に舟で直接接岸して入店。名物のうなぎ料理(1800円)を食す。広い店内は終始、私一人。川下りといい、明らかに震災の影響が出ている。食事後、しばらく店長さんと懇談し、私のブログに載せることにする。
 二時間二十分の柳川観光を終え、このあと佐賀県に入り、長崎県の観光を終えて再び福岡県北部を周遊する予定でいたが、家内の体調不良があり、長崎市内観光を途中で終えて、夜中3時に帰浜の途につき、1300㎞を18時間かけて無事帰宅した。
 訪問できなかった所が残ったが、これも止むを得ないところか。

 走行距離数 138㎞  訪問道の駅 3駅

                    (福岡県編 終り)



大分県編

2011年05月16日 | 大分県編
《はしがき》

 大分県では何といっても五つ城・城跡を訪れたことである。中津城、杵築城、暘谷城址、臼杵城跡、岡城跡である。中津城では黒田孝高による合元寺(赤壁寺)での謀殺事件が衝撃的だった。杵築城では、「巌流島の決闘」のかかわりで、宮本武蔵がこの城に来ていたという逸話が残っている。臼杵城跡では、鐘楼の「原山時報」の謂れが面白かった。そして岡城跡は滝廉太郎の名曲「荒城の月」の誕生舞台だったとのこと。それぞれに歴史を刻んできたのだろう。史跡では「青の洞門」が印象に残った。工事に当たった禅海和尚の悪評もあったが、どうやら嘘のようで安心した。他に人物でいうと「福沢諭吉」の逸話も面白かった。意外だったのは、世界の観光地「別府温泉」が閑散としていたことである。明らかに大震災による外国人観光客の減少が影響しているように思える。それに「八大地獄めぐり」や「昭和の町」は今一感激が乏しかった。しかし、七つの道の駅を訪問したが、みな親切で、道の駅「くにさき」の岡田美保子さんはまた会いたい一人になった。


【四月十三日 一日目】

①青の洞門にて

 福岡県の二つの道の駅に寄って、大分県最初の訪問地、「青の洞門」に七時三十五分、到着。早朝でまだ寒い。そばの案内板に次のようにある。
 

 青の洞門碑の前で


 ──禅海和尚頌徳碑~今から凡そ二百五十年前(享保二十年)越後の旅僧禅海がこの地に来たり、人馬交通の難渋を救うために、この洞門開さくの大悲願を起こし、独力でこれに着手し、不撓不屈の努力により営々三十年を費やし、この鎖戸をくり抜いたものです。洞門はその後、改修によって当初の姿は変わったが、この入り口に向って右側川沿いの旧洞門の明りとりの窓、堀違いの地点に今ものみの跡がみられ、当時の感激を物語っております。── 









 岩肌に残るのみの跡を見て、唯々感嘆する。三十年の永きにわたる艱難辛苦は如何ばかりであったろう。その慈悲心に敬服するのみ。後に、悪行不埒な禅海和尚の罪滅ぼしの事業と聞いたが、調べてみると、これをモデルとした菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の創作らしい。安心!
 三十分ほど見学して、中津市へ向い、途中、道の駅「耶馬トピア」に寄る。駅長さんが不在で、残念ながら挨拶はできなかった。


 道の駅「耶馬トピア」にて

 トイレ休憩して、八時二十分、中津市の福沢諭吉旧宅へ向う。


②福沢諭吉記念館・旧宅にて

 八時五十分、到着(400円)。パンフには次のようにある。
 ──・・・安政元年(1854)、19歳の時に蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の敵塾で勉強に励みました。安政五年(1858)には藩の命令で、江戸の中屋敷の蘭学塾の教師になりました。これが慶応義塾の始まりです。西洋の文物に触れたいと考えた福沢は、万延元年(1860)幕府使節の護衛船「咸臨丸」に軍艦奉行の従者として乗り組み渡米。文久二年(1862)には、幕府使節の一員としてヨーロッパ諸国も歴訪。議会や郵便制度、銀行、病院、学校などを旺盛な好奇心を持って見聞しました。その後これらの経験をもとに『西洋事情』を著し、続けて『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを次々と発表して、世界と隔絶されていた当時の日本人を啓蒙していったのでした。──


 記念館の庭に建つ福沢諭吉像


 福沢諭吉旧宅前で
 
 館内には、普段着姿で散歩する珍しい諭吉の写真もあり、興味深かった。写真でも分かるように諭吉は当時としてはかなりの長身(170㎝台)だったらしい。三十分ほど見学して、近くの中津城へ向う。




③中津城にて

 九時半、到着(400円)。パンフには次のようにある。
 ──天下最も多きは人なり 最も少なきも人なり(黒田考高)九州を平定し中津16万石を拝領、天正十六年(1588)この城を築く。石垣、濠は当時のままのもので、城郭面積は23、287坪、長子長政・豊臣秀吉の命により文禄元年(1592)兵五千を率いこの地より朝鮮に出征、慶長五年(1600)関が原役の戦功により(福岡)52万石に転封された。講談~城井谷くずれ豪傑~後藤又兵衛、黒田節~母里太兵衛など当時の物語です。その後細川忠興(熊本)亦小笠原長次(小倉)の居城となりましたが、享保二年(1717)徳川譜代奥平昌成(10万石)京都宮津より入城、明治を迎えるまで155年間奥平家の居城でありました。現代の天守閣は奥平家と協力のもとに昭和三十九年に再建されたものです。城内には奥平神社所蔵の戦国時代以来の数々の宝物や中津藩の古記録などが陳列されています。──


 中津城をバックに

 天守閣からの眺望はすばらしく、満開の桜が目にしみた。二十分ほどで合元寺に向う。


 天守から中津市街を望む


④合元寺(赤壁寺)にて

 九時五十分、到着(無料)。境内の案内板に次のようにあった。
 ──通称「赤壁」といわれるこの寺は浄土宗西山派、開山空誉上人は天正十五年(1587)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に来錫した。
その後天正十七年四月孝高が、前領主宇都宮鎮房(しげふさ)を謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、その従臣らが中津城を脱出しこの寺を拠点として奮戦し最期をとげた。以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は現在も庫裏の大黒柱に刀痕が点々と残されている。また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長十六年、黒田長政に福岡城で誘殺された、という哀史を秘めた寺である。──


 合元寺(赤壁寺)


 柱に残る刀傷

 ちょうど境内を掃除していた方がいたので、お願いして「大黒柱に刀痕」を見せてもらう。なんとも生々しく胸に迫るものがあった。合掌してお寺を後にする。10号線を27㎞走って、十時四十五分、豊後高田市の「昭和の町」に到着する。


⑤昭和の町にて


 「昭和の町」入り口で

 昭和ロマン蔵のうち、「駄菓子屋の夢博物館」(600円)、「夢町三丁目館」に入館。昭和の懐かしい展示を楽しむ。出口で駄菓子の詰め合わせ(600円)を買う。昭和十年代生まれのせいか、今一、感動は薄かった。30分で切り上げて、国東半島を横断し、杵築市へ。途中、道の駅「くにさき」に寄る。


 道の駅「くにさき」にて

 挨拶で名刺交換。名刺には国東市サイクリングターミナルとあり、主任の岡田美保子さんに応対いただく。この方が、道の駅には不釣合い?な感じの人で、キャリアウーマン風。聞いてみると東京の証券会社に勤めていたとか。無着成恭さんとも親交があり、中々のインテリ。つい40分も話し込む。こういう人とは一杯やりながら語り合いたいものだ。未練を残して25㎞先の杵築(きつき)城へ。


⑥杵築城にて


 天守をバックに


 天守から杵築の町を望む

 一時十五分、到着(300円)。江戸時代の風情城下町杵築。大友親重(ちかしげ)が築城、最初、竹の尾城と呼ばれ、のち木付城と称した。またの名を台山城・臥牛城とも言う。この城には宮本武蔵が来たという記録が残っている。佐々木小次郎との決闘に勝った武蔵に、その後、小次郎門下との間で争い事が起き、試合の検分役だった松井興長(杵築城主)が一時預かったという。面白い逸話である。20分ほどいて、日出へ。


⑦暘谷(ようこく)城址にて


 暘谷城址にて

 二時、到着。城址は小学校の敷地になっており、ちょうど下校時で、生徒が校門から勢いよく飛び出してきた。傍らの案内板には次のようにある。
──慶長六年(1601)日出藩初代藩主木下延俊(のぶよし)は、姫路より移封入国すると、直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。城の縄張りは義兄の細川忠興(ただあき)が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理(あのうり)右衛門が野面積で築き、木材、鹿鳴越(かなごえ)の大木を用いたといわれる。天守閣は三層、二層の櫓五ヶ所、平櫓一ヶ所あり、小城ながら堅城であった。二代藩主木下俊長が中国古書淮南子(えなんし)より引用して城名を命名した。・・・──


 石垣と堀

 10分ほど散策し、別府市へ向う。


⑧別府温泉八大地獄めぐり

 15㎞走って二時三十五分、到着(2000円、クーポンで18000円)。さっそく、車を駐車場に止めて「海地獄」から地獄めぐりをスタート。


 海地獄


 かまど地獄で


煮えたぎるかまど地獄


 山地獄


 海地獄


 鬼山坊主地獄


 血の池地獄


 龍巻地獄

 一時間半かけて地獄めぐりを終えたが、国指定名勝「海、白池、血の池、龍巻地獄」は良かったが、「山、かまど、鬼山地獄」などは付け足しのようで今一だった。最後の龍巻地獄は、間欠泉で噴き上がるまで30分待たされる。時間ロス! 四時半、35㎞先の道の駅「ゆふいん」へ向う。


 道の駅「ゆふいん」にて

 挨拶、名刺交換後、湯布院温泉「乙丸温泉館」(200円)へ。町の銭湯風、60円で石鹸、シャンプーを買う。食事後、紹介してもらったスナック「旅路」(湯布院町新町85─2835)へ。


 マスター、ワン君、ママさんと


 お店の手彫り看板の前で

 お店は温泉のちょうど真向かいにあり、そのまま歩いて行く。お店は樋口夫妻とワン君(ギン)がスタッフ。何とワン君はお客が歌いだすと一緒に歌いだす特技があった。十時過ぎまで楽しく過ごせた。しかも2000円で、 感謝、感謝!

 道の駅に戻り、十時四十分、就寝。夜中、寒さで目が覚める。氷点下か? 毛布を重ね厚着をし、更にポット茶を2本湯たんぽ代わりに持ち込む。


【四月十三日 二日目】

 七時半、起床。晴れ、寒い。朝の仕度をして臼杵市へ向けて出発。

①臼杵城跡(臼杵公園)にて

 76㎞を走破して九時四十五分、到着。平日で人もまばら。傍らの案内板に次のようにある。
 ──弘治二年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生(にゅう)島は、文字通り元々臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅い地の利をいかして、この地を城郭にしたと考えられます。大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長五年(1600)の関が原合戦後、稲葉氏が臼杵藩五万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏に支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。──


 臼杵城跡をバックに


 畳櫓と桜

城内で鐘楼を見つける。その案内板に次のような説明がある。
──この時報楼の鐘は「原山時報」といいます。鐘に刻まれた銘によると、元禄十三年(1700)に改鋳され、江戸末期まで原山時報堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。明治六年頃(1873)の臼杵城廃城後、この鐘が畳櫓横に移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことが出来ました。しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり、「鐘の音」は途絶えたままになっていました。平成二十年、臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約一四〇年ぶりに、ここ時報櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。そこで、平成二十二年六月、臼杵ロータリークラブは、創立五十周年記念行事として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。──


 鐘楼「原山時報」

 記念に少し弱めに撞いてみた。30分近くの散策を終え、佐伯市へ向う。


②国木田独歩館にて

 十一時前、到着(200円)。パンフには次のようにある。
 ──本館の建物は、明治二十六年十月から翌年六月末までの間、独歩と弟収二が下宿した坂本永年邸です。坂本は独歩が教師として勤めた鶴谷学館の館長であり、公私共に面倒を見ていました。独歩は主屋二階に下宿。裏山に当たる城山の山上まで散歩することも多かったようです。このような佐伯と独歩の関わりを彼の過ごした坂本邸でご紹介するために建物を修復し、国木田独歩館として公開することになりました。・・・──


 国木田独歩館の入り口で


 独歩と弟収二が暮らした部屋


 坂本邸の庭園

 見学を終え、玄関で受付の人と話しているとお年寄りが入ってきた。聞くとこの家主の坂本さんだった。私が歴史を訪ねて旅していると話すと、特別に案内したい所があるという。願ってもないことなので、お願いする。それは近くの養賢寺の境内にある非公開の「毛利家」の墓所だった。


 毛利家の墓所

 
 入り口の解説板に次のようにある。
──佐伯藩主毛利氏は、慶長六年(1601)初代高政が日田から転封になり、以来明治四年まで十二代に二百六十九年余にわたって、佐伯二万石の藩政にあたった。ここには藩祖高政の霊廟をはじめ、歴代藩主と奥方やお子様方のお墓が並んでいる。墓塔の様式は、五輪塔で高い台座の上に整然と並び、その重厚さ、均整美は荘厳である。──


 坂本さんと

 坂本さんはもう八十代のご高齢の方と思うが、まさにガイドさんのように淀みなく解説が続いた。有り難かったが時間が押していたので、途中で中断し、お礼を言って失礼する。結局、一時間を要し、その後の小半鍾乳洞、稲積水中鍾乳洞をカット、竹田市へ向う。途中、道の駅「きよかわ」に寄る。駅長さんに挨拶、名刺交換。


 道の駅「きよかわ」にて


③原尻の滝にて

 二時十分、到着。入り口で渋滞していて入るのに時間がかかる。イベントがあるらしい。


 道の駅「原尻の滝」にて

 チューリップフェスタ中で忙しそうであったが、駅長さんに挨拶、名刺交換。聞くとチューリップ畑の白い通路はバージンロードで、結婚式も挙行されるとのこと。何と華やかなことだろう。滝の方は、小型ナイヤガラの様で、平地にある珍しい滝である。


 道の駅とチューリップ畑


 原尻の滝

 30分ほどいて、竹田市の岡城へ。


④岡城跡にて

 岡城跡に向う国道502号線で、タイヤ音が気のせいか、「荒城の月」のメロディーに聞こえた。三時前、到着(300円)。パンフは巻物になっていてシャレている。タイヤ音を聞いてみると、そのように道路に刻みを入れているとのこと。粋! 案内板には次のようにある。
 ──城の外観が牛の伏せたる如きにより、別名「臥牛城」という。文治元年(1185)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄(これよし)が築城。建武中(1333~1338)志賀貞朝から十七代、二百六十年間志賀氏の居城。天正十四年(1586)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。文禄三年(1594)中川秀成が入部してから十三代、二百七十七年間中川氏の居城。──
 入り口に杖が置いてあり、登山道の険しいことを思わせる。一本選んで登山開始。予想通り、急坂をハーハーしながら登る。やがて大きな石垣の塔が現れる。近くの解説板に次のようにある。
 ──大手門は、城の正面に位置する門で、追手門と本来いう。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、篭城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中するのが目的であった。岡城の大手門は、文禄三年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口を切り開かれ、慶長十八年(1613)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。さらに、宝永三年(1706)に建て直し行っている。大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはかなりの注意が払われていた。──


 大手門石垣


 西の丸御殿跡で


 石垣から樹木が!


 城跡から竹田の町を望む

 散策しながら、兵庫県の天空の城「竹田城」に似ていることに気づく。かの滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
40分ほど見て回り、三時半過ぎ、下山。この後、今日の宿泊地、日田市へ向かう。

 五時過ぎ、道の駅「鯛生金山」に到着。駅長さんに挨拶、名刺交換後、津江温泉(400円)へ。入浴後、道の駅に戻る積もりだったが、近くに道の駅「かみつえ」があるので、ここを宿泊駅にする。


 道の駅「鯛生金山」にて


道の駅「かみつえ」にて

 コンビニで宴会セットを買い、独り宴会後、七時半、少し早かったが就寝。


【四月十四日 三日目】

 五時半、起床。寒い。朝の仕度をして六時半、出発。この後、福岡県八女市へ向かう。



 走行距離数431㎞  訪問道の駅 7駅

                      (大分県 終り)

佐賀県編

2011年05月15日 | 佐賀県編
《はしがき》

 道の駅ツアーのコースの関係で、大分県一周のあと、福岡県南部から佐賀県南東部を通り、長崎県に入る予定を立てた。しかし、家内の体調不良のため、長崎周遊を中断して、長崎市から一気に横浜に帰還した。そのため佐賀県と福岡県、長崎県の北部の観光は出来なかった。従って佐賀県では「吉野ヶ里遺跡」「筑後川昇開橋」「大隈重信記念館」「佐賀城本丸歴史館」の4個所の訪問にとどまった。だが少ないなりに中身は濃いものになったように思う。まず「吉野ヶ里遺跡」では、歴史的興味において、今まで訪れてきた青森県の「三内丸山遺跡」や奈良県の遺跡群など、全国に点在する遺跡を集約するような気がしたことである。「筑後川昇開橋」では「えつ伝説」を知った。「大隈重信記念館」では館長の古賀雄三さんと親しく歴史談義が出来た。(古賀さんと言えば八女市の町屋交流館の古賀美啓さんと同姓であるが、偶然か?)「佐賀城本丸歴史館」では、日本の近代化に貢献した佐賀藩の歴史に触れ、佐賀を大いに見直した次第である。それともう一つ、「白い花」の小宮敏子さんも忘れえぬ人となった。

 四月十四日、福岡柳川の「川下り」観光を終え、午後二時、佐賀県に入り「吉野ヶ里遺跡」へ向う。


【四月十四日 一日目】

①吉野ヶ里遺跡にて

 三時過ぎ、到着(400円)。広大な敷地で、入り口のガイドさんと記念写真を撮る。パンフにはつぎのようにある。


 弥生娘と2ショット!

○遺跡の位置
佐賀県神埼市、神埼郡吉野ヶ里町にまたがる丘陵地帯にあり、北の脊振山山地沿いには多くの遺跡が点在している。

○遺跡の発見
大正時代の末期から昭和時代のはじめには、地元佐賀県や福岡県の研究者に注目され学術雑誌などに概要が報告された。1986年代に入ると圃場設備や宅地化などで小規模な発掘調査が行われ銅剣鋳型、木製品、炭化米など出土している。 1986年、工業団地計画による発掘調査が開始され、1989年、大規模な環濠集落や墳丘墓が「邪馬台国時代のクニ」や「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の集落と同じ作り」等と報道されたため、一躍全国的に注目を集める弥生時代の遺跡となった。

○集落の変遷
吉野ヶ里遺跡では、弥生時代の全時期、さらには古墳時代初めにかけての集落跡や墓地後が発掘されており、ムラからクニの中心集落へ発展していく過程が理解できる。

○環濠集落
吉野ヶ里遺跡では、弥生時代初めに人が住み始
めたと考えられており、この頃から集落を取り囲む大規模な環濠が掘削されている。弥生前期には2・5㌶規模の集落であった吉野ヶ里は、弥生中期には20㌶規模に発展し、弥生後期にはついに40㌶を超す国内最大規模の環濠集落に発展します。弥生後期には、大型の祭殿を持つ首長の居住や祭祀の場と考えられる「北内郭」、高階層の人々の居住区と考えられる「南内郭」、市が行われていたと思われる高床倉庫群が設けられていた。

○巨大墳丘墓と甕棺墓地
弥生前期は土壙墓、甕棺墓などであったが、弥生中期にはそれまで分散していた甕棺墓が600mに及ぶ長大な列状埋葬墓地にまとまっている。
これらの墓地とは別の場所に細形銅剣やガラス製管玉を副葬した高階層の人々だけを葬った巨大な墳丘墓が営まれている。

○遺跡の保存と整備
吉野ヶ里遺跡は、平成三年五月に特別史跡に指定され、平成四年度から「国営吉野ヶ里歴史公園」として整備保存に着手し、平成十三年四月、第一期開園し復元施設等が公開されている。
平成二十年二月現在では、隣接する県立吉野ヶ里遺跡歴史公園と一体的に利用可能な公園として、面積約69㌶(国営公園約38㌶、県立公園約31㌶)が開園している。

 まず、「南のムラ」のゲートから入ると、逆茂木(さかもき)が目に飛び込んでくる。解説板には次のようにある。
 ──米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになった。人々は自分たちの集落を守るため、集落の入り口など特に重要な区域には、とがった木の枝や軸でバリケードを築き、より厳重に守っていた。これを逆茂木という。──


 逆茂木

 ここから右に曲がり、「南内郭」へ向う。ここは王や支配者層が住んでいた場所で、やぐら門、広場、物見櫓、王の家などがある。まず一番目立つ物見やぐらに登り、まわりの位置関係を確かめ、同時に眺望を楽しむ。


 物見櫓


 物見櫓から西側の眺望


 物見櫓から北側の眺望


 物見櫓から南側の眺望


 広場、入り口方面を望む


 大人(だいじん)の妻の家


 人形で復元された内部の様子

 次に「北内郭」に向う。入り口はまっすぐ入って来れないように、鍵型に折れ曲がった構造になっている。こうした作りは、古代中国の城郭都市に多く見られ、吉野ヶ里が影響を受けたと思われます。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと、先祖への祀りが行われていた神聖で最も重要な場所と考えられている。ここの中心的建物が「主祭殿」で、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラムラの長が集まっていた。3階では先祖の霊のお告げを聞く祈りを行っていたと考えられる。


 巨大な3層の主祭殿


 人形で復元された会議の様子

 見学中、主祭殿に入るところで、何とカメラの電池切れ。不覚、ガックリ! 途端に疲れが一気に出て70分で見学を切り上げる。この後、道の駅「吉野ヶ里」に寄り、お勧めのカラオケ屋さんを聞く。吉野ヶ里温泉「卑弥呼の湯」(600円)で食事、入浴。


 道の駅「吉野ヶ里」にて

 入浴後、勧めてもらったカラオケ屋さんを探すことにする。目達原郵便局の近くということで、明るいうちに下見に行く。お店は普通の民家で、営業中の札が掛かっている。ピンポンを鳴らしたが返事がない。裏の玄関にまわったが同じ反応。仕方ないので電話番号を控えて、一旦、温泉の駐車場に戻り30分ほど時間をつぶす。七時ごろ、電話する。営業中とのことでお店に向う。
 お店は「白い花」(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田2143─2 電話0952─52─0165)で、ママは小宮敏子さん。七時過ぎ入店、お客さんが一人いた。道の駅で紹介してもらい、下見に来たが留守だったことを告げる。ちょうどママさんの2日早い誕生会(実際は4/16)に出かけていたとのこと。車をカラオケ屋さんの駐車場に留められて、アルコールがOKに。近くにコンビニもあり、これでトイレも大丈夫。そのうち、お客さんが帰り2人になる。私としては賑やかな方がいいが、これもまたよし。私の旅行の話、ママさんの身の上話などいろいろ語り合う。ママさんの手料理で食事もでき、カラオケもしっかり歌って5100円、大満足。何と十二時二十分まで楽しく過ごす。十二時三十分、就寝。 


 敏子ママさんと


【四月十五日 二日目】

 翌朝六時過ぎ、起床。曇り、時々小雨。ポストにお礼のメモを入れて、六時四十分、出発。私にとってママさんは忘れえぬ佐賀の女(ひと)となった。


②筑後川昇開橋にて

 吉野ヶ里町から20㎞南下して、七時三十五分、諸富町の筑後川昇開橋に到着。雨が急に激しくなる。そばの案内板には次のようにある。
 ──筑後川昇開橋は、旧国鉄佐賀線の鉄橋として昭和十年五月に竣工しましたが、急流の中に船の航行を容易にするため、昇降式可動橋を取り込み、架設されている点に特色のある景観を添えております。この昇降式可動橋は全体で約507mあり、鉄塔の高さは約30m、可動桁の長さは約24mで東洋一の規模を誇り、さらに現存する可動橋としては最古のものといわれています。開通以来、この鉄橋は沿線の地域や住民に故郷のシンボルとして格別の愛着をもって親しまれてきましたが、急激な自動車文化の進展に伴い、大型橋梁の建設と相まって、佐賀線も昭和五十七年の国鉄第二次廃止対象路線となり、昭和六十二年三月、佐賀線の廃止と共に鉄道橋としての使命を終えました。 
 しかし、この橋に寄せる地元住民の愛着と郷愁は止み難く、大川市・諸富町があい携え、歴史的資源並びに地域発展のシンポルとしての保存運動が実り、平成八年四月財団法人筑後川昇開橋観光財団が設立され、遊歩道として生まれ変わりました。また、平成八年十二月に国の登録文化財の第一陣に登録され、さらに平成十五年五月三十日に技術的に優秀かつ歴史的に価値が高いとの理由により、国指定重要文化財に指定されました。──


 筑後川昇開橋入り口で


 筑後若津駅跡地の解説板


 筑後川昇開橋をバックに


 筑後川昇開橋の全景

 施設の前の小さな公園に記念碑があった。その解説板には次のようにある。
 ──日本では、筑後川と有明海にだけ生息する珍魚えつ。その昔、筑後川をはさむ若津と諸富間の渡し場で、若い船頭とみすぼらしい行脚僧の心温まる話がありました。それが若津周辺と対岸の諸富の人々の間に語り継がれており、その伝説にちなみ、ここ若津の渡船場跡に、えつ伝承碑を建立したものです。──
 さらにその石碑の説明には、
 ──九州第一の大河・筑後川の悠久な流れに「よしきり」がなき、その初夏の訪れとともに「えつ」は故郷のこの地へ産卵のため群をなして遡ってくる。「えつ」は我が国で筑後川下流と有明海にだけいる魚で、カタクチ鰯科に属し、その風味は淡白で、酒の肴などに珍重されている。この「えつ」には今なお語り継がれている伝説がある。
 遠い昔、一人の行脚僧がここから筑後川を渡ろうとして、船賃もなく困っていた。それを見かねた若い船頭が、小船をこいで対岸まで渡してやったところ、僧はそのお礼として「もし暮らしにお困りの時はこの魚をおとり下さい」と言って、蘆の葉を取って川の中に投げ入れた。するとその葉は、忽ちに一匹の魚になって夕陽に銀鱗をかがやかせて水底深く消えた。その後、この魚は次第に殖え、若者の船頭はこれを捕らえて平和な一生を終えた。この魚が今日の「えつ」で、行脚僧は弘法大師であったという──と。


 「えつ」の記念碑

 雨に煙る歴史遺産を前に、かつての渡し場の賑わいの姿を偲ぶ。30分ほどゆっくり散策し、八時、佐賀市へ向う。


③大隈記念館・生家にて

 八時半、到着(300円)。開館は9時で、外で待っているとスタッフの方が出勤してきた。挨拶すると館長さんだった。名刺交換、「古賀雄三」さんとある。早めに入館でき見学する。パンフには次のようにある。
 ──世界的政治家として、また早稲田大学の創設者として有名な大隈重信侯の生誕120年を記念して、昭和四十一年十一月、大隈記念館が落成しました。・・・重信侯は天保九年(1838)ここで生まれました。生家は天保以前の武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されています。平屋茅葺きに一部二階建ての瓦葺きの家屋は、重信侯が産声をあげて成長した八太郎の時代の家庭とその遺徳をしのぶことができる貴重な遺跡になっている。・・・・──
 

 記念館に建つ大隈重信の像


 大隈重信の生家


 生家の裏庭

 記念館を見学していて、大隈重信使用の義足の展示を見る。説明には、明治二十二年(1889)十月十八日、外務官邸前で暴漢に襲われ、右脚切断の重症を負い、その後、義足を使用した、とある。知らなかった。痛ましい。ともかくも、佐賀八賢人にも上げられ、晩年は摂生して84歳の長寿を全うしたとある。館長さんにお礼を言って九時、失礼する。近くにある佐賀城へ向う。


④佐賀城本丸歴史館にて

 九時過ぎに着いたが、開館は九時半で、今度は待たされた。待ち時間を利用して歴史館の周りを見てまわる。そして九時半、入城(気持200円)。


 佐賀城鯱の門をバックに


 天守台と咲を誇る桜


 本丸歴史館全景


 建物遺構を示す区割り


 石垣を潜る水路

 パンフには次のようにある。
 ──幕末・維新期の激動の時代。最も輝いていた佐賀藩、そして先人たち。佐賀城本丸歴史館はその時代を、わかりやすく伝える施設として佐賀城本丸跡に開館しました。天保期の佐賀城本丸御殿の遺構を保護しながら復元したこの施設は、木造復元物としては全国最大級の規模を誇ります。日本の近代化に貢献した先人達の活躍を振り返り、世界的視野で、常に世の中を見つめていたその精神を学び、時代の息吹を感じてください。・・・江戸時代の佐賀藩(36万石)は、外様各藩の中で、八番目の石高を誇り、藩祖鍋島直茂から十一代鍋島直大まで260年もの長きにわたり、安定した藩政が行われた。・・・十代藩主鍋島直正が再建した本丸御殿。当時の「志賀城御本丸差図」や古写真などを基に、当時のままに復元されました。・・・・佐賀藩が輩出した100名を超す偉人達の業績などを映像や情報機器などを使って分かりやすく紹介。日本の近代化に貢献した人々のエネルギーや力強い人間性を知ることが出来ます。
 ・・・外御書院=一之間・二之間・三之間・四之間を合わせると320畳の大広間となります。お世継ぎのお披露目、幕府からの贈答品のお披露目など、佐賀藩の公式行事が行われていました。天保九年(1838)本丸完成披露の時には、この場所に1000人の家臣が集まりました。──


 外御書院の廊下部分


 歴史館の展示(佐賀藩の反射炉)


 40分にわたる見学を終え、ある種の感動に包まれた。今まで佐賀県は、余り目立たない地味な県のイメージであったが、大いに見直す。
 九時四十五分、長崎県に向けて出発。途中、道の駅「鹿島千菜市」、「太良」に寄る。


 道の駅「鹿島千菜市」にて


 道の駅「太良」にて

 駅長さんに挨拶、「鹿島」では名刺を頂く。十一時半、長崎県諫早市へ入る。

 走行距離数 118㎞  訪問道の駅 3駅

                         (佐賀県編 終り)

長崎県編

2011年05月14日 | 長崎県編
《はしがき》

 九州の中で長崎県は歴史的に一番ドラマチックな所のように思う。江戸時代、唯一の外国への門戸を開いていた「出島」。そんな町で活躍した坂本龍馬はじめ、亀山社中の人々。NHK大河ドラマ「龍馬伝」に登場した長崎奉行所やグラバー邸など、ぜひ行ってみたい所である。一方、悲劇の歴史となった「島原の乱」にまつわる「原城」や「島原城」。ここもしっかり目に焼き付けて置きたい。悲劇といえば最大の悲劇、長崎の被爆をとどめる平和公園へは、広島に続き反核の誓いと鎮魂の祈りを捧げたい。それともう一つ、雲仙・普賢岳の被災現場を見学して、防災の知識を勉強することも目的に入れている。四月十五日に諫早湾道路を通って島原半島に入ったが、諫早湾の環境はどうなのか非常に気にかかった。原城ではちょうど「一夜城祭り」があり、地元の人とも交流できラッキーだった。ラッキーといえば、道の駅ツアーで初めてのことが起きた。長崎市内観光中、木本さんという“歴女”の方とお会いでき、ガイドつきで最後までご一緒できたことである。一人旅の不安も寂しさもなく、今までにない楽しい旅が出来た。今後の反省点としては、もっと訪問地を絞ろうと思う。佐賀県太良町から十一時半、長崎県諫早市諫早湾潮受堤防道路へ。


【四月十五日 一日目】

①諫早湾潮受堤防道路にて

 昼前、変な緊張感で堤防道路に入る。途中、堤防駐車場に車を止めて見学。雨模様で風が強く海面は波立っている。何かグレーな風景、淋しい。


 堤防駐車場で(左から3台目 愛車)


 堤防道路(島原半島方面を望む)

 10分ほどいて、出発。天気のせいか、海面は生気を失ったよう。13㎞走って島原半島に到着。国見町の「鶴亀城跡・鍋島邸」に寄ったが、工事中でパス。そのまま島原市へ向かう。


②島原城にて

 十三時、到着(520円)。車は市の文化センター(無料)に留める。バンフには次ぎのようにある。
 

 島原城をバックに

 ──この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和四年(1618)着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。4万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、寛永十四年(1637)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)島原大地変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。明治維新で廃城となり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。昭和三十九年(1964)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。──


 天守から島原の町を望む

 寛政の大地変では、普賢岳の噴火・眉山(まゆやま)の大崩壊で、約1万の人々が犠牲になった。島原城下町は土石でおおわれ、周辺の村々は流されたという。島原の乱とともに、何か歴史の悲劇を象徴するような城に思われた。30分ほどで見学を終え、近くにある大野木場監視所へ向かう。


③大野木場(監視所)砂防みらい館にて


 大野木場(監視所)砂防みらい館にて

 一時五十分、到着(無料)。噴火災害当時の写真や映像などを展示しており、普賢岳の噴火を常時警戒する監視所も兼ねている。近くには噴火時の火砕流によって焼失した小学校(旧大野木場小学校)の校舎が被災当時のまま保存されている。監視所の北西には普賢岳がそびえ、北側、眼前には大崩落を起こした眉山が迫る。解説板には次のようにあった。


 普賢岳(奥の山)


 眉山(左 七面山 右 天狗山)

 ──雲仙・普賢岳は、1990年11月17日に198年ぶりに噴火活動を再開し、多くの壊滅的被害をもたらしました。そして1991年9月15日に発生した大火砕流によって校舎及び体育館が被災しました。噴火活動は、現在小康状態を保っていますが、普賢岳山頂や山麓周辺には火砕流堆積物が不安定な状態で存在しています。従って、今後住民一人ひとりの安全を確保するためには、砂防事業を継続していくことが大切です。──


 旧大野木場小学校の校舎


 ひしゃげた窓枠


 焼け爛れた壁面

 赤裸の茶色の大地が広がるのを見て、ここが決して楽園ではないことを教えられる。30分近くの見学を終え、今日の宿泊駅「みずなし本陣ふかえ」に向かう。 二時半、到着し駅長さんに挨拶、名刺交換。その後、土石流被災家屋保存公園を見学。


 道の駅「みずなし本陣ふかえ」にて


 土石流被災家屋保存公園で

 この後、保険福祉センターの「湯楽里」(500円)で入浴。食事は名物の「具ぞうに」を食し、これが中々の美味。カラオケは途中で見つけた「芝」で、客は私一人で3500円の出費。十二時、道の駅に戻り、十二時半、就寝。


【四月十六日 二日目】

七時、起床。曇りだが暖かい。朝の仕度をして七時四十分、出発。

④原城跡にて

 九時前、到着。ここでアクシデントが起こる。小さな高台に「原城跡」の看板を発見し、そこを回り込んで裏側に入る。しかしそこにはビニールハウス群があり、止む無くバックで後退。ガッンと衝撃、後輪左側が脱輪する。油断! 車は緩い下り坂の左側にあった農業用給水タンクに衝突して止まる。その瞬間、タタリだと思う。脱出を試みたが車輪が空転して無理、2駆の限界。近くにガソリンスタンドを発見、救援のお願いに。忙しくなく2人が軽トラで来てくれる。人力は無理で結局、ロープをつけ車での引き揚げに成功。お礼に2000円を渡したが、その人がタンクの計量計パイプの破損を見つける。オーナーが現れ、お詫びに1万円を払ったが、5千円でよいとのお許しをいただく。呪われたようなショッキングな出来事だったが、今思うと、ラッキーだったかも。タンクがなければ、車全体が坂下に転落していただろうし、近くにガススタンドがなければ・・・・、立ち合った人が全員、善意の人達だった。気を取り直して原城跡へ。進むにつれて賑わってくる。ラッキーなことに今日は「夢一夜城」フェスティバルの日だった。商工会関係の人達が集まり、テント屋台や舞台の設営をしている。


 ダンボール原城をバックに

 これは後で寄ることにして、城跡へ。入り口付近に空濠(からぼり)と地蔵があった。それぞれの案内板にはつぎのようにある。
 ──この低地は、島原の乱の時に防衛のため築されたもので、蓮池と同じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。寛永十五年(1638)二月二十一日の夜襲軍四千余人は、食料・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍を襲撃したが失敗に終わった。籠城の間は、竹や木で柱を立て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。──


 空濠

 ──寛永十五年(1638)二月二十八日、島原の乱は終わりを告げた。ホネカミ地蔵は明治二年七月十五日有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花をあげろ三万人も死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」と歌っています。「ホネカミ」とは、「骨をかみ締める」の意味で、そのことから「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する」(助ける、救う)と、理解すべきだと言われている。──


 ホネカミ地蔵

 ホネカミ地蔵に合掌して城内へ。すると石垣の一部が目に飛び込んでくる。かなり破壊された跡なのだろうか。案内板に、
 ──島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分です。この場所は、築城当時天守相当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所です。・・・この場所で石垣をよじ登ろうとする幕府軍に対し、一揆軍は塀の上から石などを投げ落し必死で防戦しました、とある。明らかに石垣があったであろう斜面には、石垣が余り残っていない。凄まじい幕府軍の執念、怨念を見る思いがした。しばらく歩いて行くと「本丸虎口跡」がある。案内板には次のようにある。







 ──ここは、本丸北側の虎口空間帯に設けている最も本丸寄りの虎口(出入口)で、島原の乱後、徹底的に壊され埋め込まれていたところです。調査により、埋め込まれた築石やグリ石と共に大量の瓦や人骨が出土しました。また、門柱礎石や虎口床面に玉砂利も検出し、ここに瓦葺の門(櫓門)があつたと思われます。この門は他の門とは違う本丸正面の門として、特に見栄と格式を重視したことがうかがえるとともに、厳重な防御力を備えたものでした。──


 本丸虎口跡

 また、この近くに「石垣内隅部破却状況」の案内板があり、復元された場所があった。解説に、
 ──島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣内隅部分です。石垣の上部を取り壊し、その築石やグリ石などを投げ込み埋めた状況です。壁に沿ってL字形に並んでいるのが築城当時の石垣です。原城本丸の石垣で他にも内側に折れた石垣内隅部分は、全てこのような破壊状況です。また、石垣を埋め込む時に、周りにあった一揆軍の死体も一緒に埋め込んだと思われ、石の下からはたくさんの人骨が出土しました、とある。



 「石垣内隅部破却状況」

 多分、原城跡はどこを掘っても人骨が出てくるのでないだろうか。何と痛ましいことか。今はその多くは歴史の闇に葬り去られ、城跡に咲く桜が一層哀れに感じられた。本丸広場で黙祷し、一時間近くの見学を終えた。この後、暗い気持ちでフェスディバル会場に戻り、朝食をとる。準備中とのことで、おにぎりとペットボトル茶を注文して、商工会のお店テントの中で食事させてもらう。そのうち、「島原ラーメン」の試食まで頂く。美味し!


 「島原ラーメン」に舌鼓

 地元の人たちとの交流ですっかり元気になり、九時四十五分、雲仙に向け出発。


⑤雲仙地獄にて

 23㎞走って、十時二十五分、到着。駐車場に着くと混み合っており、空いていた所に急いで頭から駐車。小さな駐車場で、全体が噴煙で煙幕のように包まれている。車を留めて、さっそく地獄めぐりをスタート。まず、「清七地獄」がある。案内板には次のようにある。
 ──豊臣秀吉、徳川家康らの天下統一の時代に、キリスト教を禁ずる政策がとられ、キリシタン禁制と呼ばれました。江戸幕府は、キリストの絵を人々に踏ませる「踏絵」をさせて信者を見つけ出し、この雲仙で処刑しました。キリシタンで長崎に住む清七という男が捕えられ、処刑されましたが、そのころこの地獄が噴出したといわれ、この名がつけられたといわれます。──


 雲仙地獄にて


 清七地獄


 お糸地獄


 地獄全景

 回っていて、あることを思い出していた。平成十九年六月、青森県むつ市の「恐山」の雰囲気にそっくり。いずれにしても、まさに地獄にふさわしい景色である。途中、「温泉たまご」を買い食す。売店の女の子に、「こんな観光地が無料とは有り難いね」と話す。ところが、「無料じゃありませんよ」との返事。実は駐車料が410円で、料金所が煙幕で見えず、そのまま入場していた。マズイ! もう見終わってしまい、タイミングを失した感じ。結局、そのまま出てしまう。ご免なさい! 十一時前、長崎市へ向かう。


⑥長崎市観光

 長駆57㎞走って、十二時二十分、平和公園駐車場に到着。市内観光は車をここに駐車(一日600円)して、あとは市電と「らんらんバス」で周る予定である。まず、平和公園から。

○長崎平和記念公園にて

 平和祈念像の前で祈りをささげる。銘盤に次のような文が刻まれている。
 ──この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌に尽くし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和三十年(1955)八月の原爆十周年記念日に建立されたものです。平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和の進める姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている姿です。
 なお、折り曲げた右足は瞑想即ち静、立った左足は救済即ち動、何れも神仏の特性を表現したものであり、本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない雄大な芸術作品でする。──
 平成二十一年九月の広島平和記念公園に続き、反核の誓いと鎮魂の祈りをささげる。


 平和祈念像


 反核の誓いと鎮魂の祈りをささげる

 この後、「平和の泉」へ向かう。途中、柵で囲まれた一角がある。そこにある案内板には、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」とあり、次のような説明文があった。
 ──長崎刑務所浦上刑務支所は、松山町・岡町・橋口町の三ヶ町にまたがる丘の上にあり、敷地約2万平方メートル、庁舎面積約1万3千平方メートルの爆心地にもっとも近い公共の建物であった。昭和20年8月9日、午前11時2分、一発の原子爆弾の炸裂により、職員・官舎居住者・受刑者及び刑事被告人計134人が死亡した。周囲の高さ4mの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突一本を残して倒壊全焼した。──


 コンクリート塀の残骸

 善人も悪人も、共に地獄の劫火に焼かれ、一塵も残すことなく蒸発し去ったのだろう。何とも痛ましい、黙祷あるのみ。更にその先にチェコスロバキアから寄贈されたという母子像「人生の喜び」があり、外国の人が見つめていた。


 母子像「人生の喜び」

 そして「平和の泉」の解説板には、
 ──昭和二十年八月九日、原爆のために体内まで焼け爛れた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら、死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈り、合わせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設しました。今日、ここを訪れてくださいましたあなたに、冥福を祈り、平和を祈念していただければ、誠に幸いと存じます、とある。


 「平和の泉」

 見学を終え、市電で「松山町」から乗り、「桜町」(120円)で下車。長崎奉行所へ向かう。

○長崎奉行所(歴史文化博物館)にて

 実はこの写真、三脚を使わず、「木本ひとみ」さんという女性に撮ってもらったものである。市電を降りて奉行所への地図を見ていた時、通り掛かった女性に行き方を尋ねたが、その人が木本さんだった。木本さんも、奉行所に行くということでご一緒さしてもらうことになる。心強い!


 歴史文化博物館の前で

 大河ドラマ館(500円)だけを見学。木本さんは年間パスポートを持つ“歴女”でもあった。館内は撮影禁止だったので、ウエブサイトから、奉行所の復元建物を載せた。見学後、お礼を言ってお別れしようとしたが、何と次の「亀山社中」も同じ訪問先だった。ラッキー! しかし、移動手段として予定していた「らんらんバス」が、先月で廃止されていた。アンラッキー! 止む無く、徒歩で向かう。


○亀山社中にて

 2人旅になったので、徒歩も長い階段もそれほど苦にならなかった。入り口で龍馬に迎えられ、入館(300円)。建物については次ぎのようにある。
 

 亀山社中への階段の起点


 龍馬、木本さんと、亀山社中の入り口で

 ──この建物は坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近い形で整備し、平成21年8月1日から公開しているものです。亀山社中記念館のある場所は、幕末に亀山焼の再興を図った一族が大正9年まで所有していたと登記簿に記されています。また、幕末の長崎地図に描かれた亀山一帯の建物は当建物らしいものを含めわずかであり、亀山社中が寄寓した建物であった可能性は高いと推測されます。母屋は10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれていました。


 龍馬のブーツ(復元)


 龍馬の愛刀「陸奥守吉行」(複製)


 見学する木本さん、観光客
 
 龍馬がもたれかかって座ったと伝えられる10畳座敷の柱など黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を忠実に再現しています。その先の縁側からは長崎の街と港が一望できました。一方、土間の北側には玄関があり、かつてはそこから出入りをしていたようです。この土間はガラス張りの床ごしに確認することができます。また土間と3畳の部屋の上側には中二階がありました。有事の際には大人数人が潜むのに十分な広さです。現在は失われていますが、母屋の北側には土蔵と馬小屋もあったとされています。──


 縁側から長崎の町を望む

 見学後、予定になかったが木本さんの勧めで「長崎まちなか龍馬館」に寄る。


○長崎まちなか龍馬館にて


 祈る龍馬像の前で木本さんと

 木本さんは良く立ち寄るとのことで、主任さんにガイドいただく。展示は充実していて、最初から寄れば良かったと思う。しかし、時間も押してきたので、申し訳なかったが失礼する。この後、市電で「グラバー園」に向かう。


○グラバー園にて


 旧三菱第二ジックハウス


 グラバー園から長崎港を望む


 木本さんと、グラバー邸の前で


 天井裏の隠し部屋

 グラバーの妻ツルが使っていた夫人部屋の廊下の天井には、窓のない隠し部屋がある。グラバーは討幕派の薩摩藩、長州藩などに肩入れし、国禁を犯し自分の船で薩摩の若者をイギリスに密航させたり、長州へ大量の武器を売っていた。グラバー住宅にはそんな幕末の志士たちが出入りし密談をしていたのであろう。この後、最後の訪問地、「出島」へ向かう。


○出島にて

 四時前、到着(500円)。「出島復元」というパンフには次のようにある。
 ──鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」。しかし明治以降、出島周辺の埋め立てが進み、明治三十七年(1904)、出島はその姿を消してしまいました。今、その歴史的価値を未来に残そうと、出島復元整備事業が進んでいます。平成十二年には「ヘルト部屋」をはじめとした5棟が完成し、すでに一般公開されています。平成十八年春には「カピタン部屋」「乙名(おとな)部屋」「拝礼筆者蘭人部屋」「三番蔵」「水門」の5棟が完成。建物の復元とあわせて石垣などの周辺整備も進められています。・・・──
 東側ゲートの旧出島神学校を抜け、フレンドシップメモリー、ミニ出島、ケンペル・シュンベリー記念碑、水門、カピタン部屋、料理部屋、一番船船頭部屋、ヘルト部屋など、細かく見て周る。


 旧出島神学校


 フレンドシップメモリー


 ミニ出島


 ケンペル・シュンベリー記念碑


 水門の前で


 水門全景


 水門前の柵(この先は海だった)


 カピタン部屋


 料理部屋


 一番船船頭部屋、ヘルト部屋


 水溜め(井戸は無かった)

 一時間ほどかけ、じっくり見学。充実した展示が多く、満足する。五時過ぎ、、いよいよお別れ。これから「道の尾温泉」へ。すると何と木本さんはその近くにお住まいとのこと。ビツクリ! お送りすることにする。市電で平和公園に向かう。慌てて手前の「浜口町」で下車。失敗! しかし、これが結果的に良かった。


⑦原爆投下中心地にて

 「松山町」を目指し歩いていると、原爆投下中心地に出くわす。もう少しで見落とすところで、私には引きつけられたとの想いがした。


 原爆落下中心地漂柱


 浦上天主堂遺壁


 被爆当時の地層展示


 被爆当時の地層


山里町の高台からの爆心地の記録写真

 ここは平和公園以上に生々しく、原爆落下中心地標柱の前で、敬虔な供養の題目をあげる。これで長崎観光の予定は終了し、木本さんを道の尾温泉まで送くる。入浴(550円)、夕食後、宿泊駅「夕陽が丘そとめ」へ。


 道の駅「夕陽が丘そとめ」にて

 家内が地震の余震で体調を崩し、夜中、三時二十分、この先の予定をすべてカットして帰路へ。1300㎞を走破、18時間かけて九時過ぎ、帰着する。疲れ~~た!


 走行距離数 1476㎞ 訪問道の駅 2駅

                        (長崎県編 終り)