《はしがき》
九州の中で長崎県は歴史的に一番ドラマチックな所のように思う。江戸時代、唯一の外国への門戸を開いていた「出島」。そんな町で活躍した坂本龍馬はじめ、亀山社中の人々。NHK大河ドラマ「龍馬伝」に登場した長崎奉行所やグラバー邸など、ぜひ行ってみたい所である。一方、悲劇の歴史となった「島原の乱」にまつわる「原城」や「島原城」。ここもしっかり目に焼き付けて置きたい。悲劇といえば最大の悲劇、長崎の被爆をとどめる平和公園へは、広島に続き反核の誓いと鎮魂の祈りを捧げたい。それともう一つ、雲仙・普賢岳の被災現場を見学して、防災の知識を勉強することも目的に入れている。四月十五日に諫早湾道路を通って島原半島に入ったが、諫早湾の環境はどうなのか非常に気にかかった。原城ではちょうど「一夜城祭り」があり、地元の人とも交流できラッキーだった。ラッキーといえば、道の駅ツアーで初めてのことが起きた。長崎市内観光中、木本さんという“歴女”の方とお会いでき、ガイドつきで最後までご一緒できたことである。一人旅の不安も寂しさもなく、今までにない楽しい旅が出来た。今後の反省点としては、もっと訪問地を絞ろうと思う。佐賀県太良町から十一時半、長崎県諫早市諫早湾潮受堤防道路へ。
【四月十五日 一日目】
①諫早湾潮受堤防道路にて
昼前、変な緊張感で堤防道路に入る。途中、堤防駐車場に車を止めて見学。雨模様で風が強く海面は波立っている。何かグレーな風景、淋しい。
堤防駐車場で(左から3台目 愛車)
堤防道路(島原半島方面を望む)
10分ほどいて、出発。天気のせいか、海面は生気を失ったよう。13㎞走って島原半島に到着。国見町の「鶴亀城跡・鍋島邸」に寄ったが、工事中でパス。そのまま島原市へ向かう。
②島原城にて
十三時、到着(520円)。車は市の文化センター(無料)に留める。バンフには次ぎのようにある。
島原城をバックに
──この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和四年(1618)着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。4万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、寛永十四年(1637)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)島原大地変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。明治維新で廃城となり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。昭和三十九年(1964)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。──
天守から島原の町を望む
寛政の大地変では、普賢岳の噴火・眉山(まゆやま)の大崩壊で、約1万の人々が犠牲になった。島原城下町は土石でおおわれ、周辺の村々は流されたという。島原の乱とともに、何か歴史の悲劇を象徴するような城に思われた。30分ほどで見学を終え、近くにある大野木場監視所へ向かう。
③大野木場(監視所)砂防みらい館にて
大野木場(監視所)砂防みらい館にて
一時五十分、到着(無料)。噴火災害当時の写真や映像などを展示しており、普賢岳の噴火を常時警戒する監視所も兼ねている。近くには噴火時の火砕流によって焼失した小学校(旧大野木場小学校)の校舎が被災当時のまま保存されている。監視所の北西には普賢岳がそびえ、北側、眼前には大崩落を起こした眉山が迫る。解説板には次のようにあった。
普賢岳(奥の山)
眉山(左 七面山 右 天狗山)
──雲仙・普賢岳は、1990年11月17日に198年ぶりに噴火活動を再開し、多くの壊滅的被害をもたらしました。そして1991年9月15日に発生した大火砕流によって校舎及び体育館が被災しました。噴火活動は、現在小康状態を保っていますが、普賢岳山頂や山麓周辺には火砕流堆積物が不安定な状態で存在しています。従って、今後住民一人ひとりの安全を確保するためには、砂防事業を継続していくことが大切です。──
旧大野木場小学校の校舎
ひしゃげた窓枠
焼け爛れた壁面
赤裸の茶色の大地が広がるのを見て、ここが決して楽園ではないことを教えられる。30分近くの見学を終え、今日の宿泊駅「みずなし本陣ふかえ」に向かう。 二時半、到着し駅長さんに挨拶、名刺交換。その後、土石流被災家屋保存公園を見学。
道の駅「みずなし本陣ふかえ」にて
土石流被災家屋保存公園で
この後、保険福祉センターの「湯楽里」(500円)で入浴。食事は名物の「具ぞうに」を食し、これが中々の美味。カラオケは途中で見つけた「芝」で、客は私一人で3500円の出費。十二時、道の駅に戻り、十二時半、就寝。
【四月十六日 二日目】
七時、起床。曇りだが暖かい。朝の仕度をして七時四十分、出発。
④原城跡にて
九時前、到着。ここでアクシデントが起こる。小さな高台に「原城跡」の看板を発見し、そこを回り込んで裏側に入る。しかしそこにはビニールハウス群があり、止む無くバックで後退。ガッンと衝撃、後輪左側が脱輪する。油断! 車は緩い下り坂の左側にあった農業用給水タンクに衝突して止まる。その瞬間、タタリだと思う。脱出を試みたが車輪が空転して無理、2駆の限界。近くにガソリンスタンドを発見、救援のお願いに。忙しくなく2人が軽トラで来てくれる。人力は無理で結局、ロープをつけ車での引き揚げに成功。お礼に2000円を渡したが、その人がタンクの計量計パイプの破損を見つける。オーナーが現れ、お詫びに1万円を払ったが、5千円でよいとのお許しをいただく。呪われたようなショッキングな出来事だったが、今思うと、ラッキーだったかも。タンクがなければ、車全体が坂下に転落していただろうし、近くにガススタンドがなければ・・・・、立ち合った人が全員、善意の人達だった。気を取り直して原城跡へ。進むにつれて賑わってくる。ラッキーなことに今日は「夢一夜城」フェスティバルの日だった。商工会関係の人達が集まり、テント屋台や舞台の設営をしている。
ダンボール原城をバックに
これは後で寄ることにして、城跡へ。入り口付近に空濠(からぼり)と地蔵があった。それぞれの案内板にはつぎのようにある。
──この低地は、島原の乱の時に防衛のため築されたもので、蓮池と同じ、本丸を孤立した「島」とするため、築かれたものです。寛永十五年(1638)二月二十一日の夜襲軍四千余人は、食料・武器等の奪取のため、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍を襲撃したが失敗に終わった。籠城の間は、竹や木で柱を立て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していたところです。──
空濠
──寛永十五年(1638)二月二十八日、島原の乱は終わりを告げた。ホネカミ地蔵は明治二年七月十五日有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花をあげろ三万人も死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」と歌っています。「ホネカミ」とは、「骨をかみ締める」の意味で、そのことから「自分自身のものにする」、更に「人々を済度する」(助ける、救う)と、理解すべきだと言われている。──
ホネカミ地蔵
ホネカミ地蔵に合掌して城内へ。すると石垣の一部が目に飛び込んでくる。かなり破壊された跡なのだろうか。案内板に、
──島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分です。この場所は、築城当時天守相当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所です。・・・この場所で石垣をよじ登ろうとする幕府軍に対し、一揆軍は塀の上から石などを投げ落し必死で防戦しました、とある。明らかに石垣があったであろう斜面には、石垣が余り残っていない。凄まじい幕府軍の執念、怨念を見る思いがした。しばらく歩いて行くと「本丸虎口跡」がある。案内板には次のようにある。
──ここは、本丸北側の虎口空間帯に設けている最も本丸寄りの虎口(出入口)で、島原の乱後、徹底的に壊され埋め込まれていたところです。調査により、埋め込まれた築石やグリ石と共に大量の瓦や人骨が出土しました。また、門柱礎石や虎口床面に玉砂利も検出し、ここに瓦葺の門(櫓門)があつたと思われます。この門は他の門とは違う本丸正面の門として、特に見栄と格式を重視したことがうかがえるとともに、厳重な防御力を備えたものでした。──
本丸虎口跡
また、この近くに「石垣内隅部破却状況」の案内板があり、復元された場所があった。解説に、
──島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣内隅部分です。石垣の上部を取り壊し、その築石やグリ石などを投げ込み埋めた状況です。壁に沿ってL字形に並んでいるのが築城当時の石垣です。原城本丸の石垣で他にも内側に折れた石垣内隅部分は、全てこのような破壊状況です。また、石垣を埋め込む時に、周りにあった一揆軍の死体も一緒に埋め込んだと思われ、石の下からはたくさんの人骨が出土しました、とある。
「石垣内隅部破却状況」
多分、原城跡はどこを掘っても人骨が出てくるのでないだろうか。何と痛ましいことか。今はその多くは歴史の闇に葬り去られ、城跡に咲く桜が一層哀れに感じられた。本丸広場で黙祷し、一時間近くの見学を終えた。この後、暗い気持ちでフェスディバル会場に戻り、朝食をとる。準備中とのことで、おにぎりとペットボトル茶を注文して、商工会のお店テントの中で食事させてもらう。そのうち、「島原ラーメン」の試食まで頂く。美味し!
「島原ラーメン」に舌鼓
地元の人たちとの交流ですっかり元気になり、九時四十五分、雲仙に向け出発。
⑤雲仙地獄にて
23㎞走って、十時二十五分、到着。駐車場に着くと混み合っており、空いていた所に急いで頭から駐車。小さな駐車場で、全体が噴煙で煙幕のように包まれている。車を留めて、さっそく地獄めぐりをスタート。まず、「清七地獄」がある。案内板には次のようにある。
──豊臣秀吉、徳川家康らの天下統一の時代に、キリスト教を禁ずる政策がとられ、キリシタン禁制と呼ばれました。江戸幕府は、キリストの絵を人々に踏ませる「踏絵」をさせて信者を見つけ出し、この雲仙で処刑しました。キリシタンで長崎に住む清七という男が捕えられ、処刑されましたが、そのころこの地獄が噴出したといわれ、この名がつけられたといわれます。──
雲仙地獄にて
清七地獄
お糸地獄
地獄全景
回っていて、あることを思い出していた。平成十九年六月、青森県むつ市の「恐山」の雰囲気にそっくり。いずれにしても、まさに地獄にふさわしい景色である。途中、「温泉たまご」を買い食す。売店の女の子に、「こんな観光地が無料とは有り難いね」と話す。ところが、「無料じゃありませんよ」との返事。実は駐車料が410円で、料金所が煙幕で見えず、そのまま入場していた。マズイ! もう見終わってしまい、タイミングを失した感じ。結局、そのまま出てしまう。ご免なさい! 十一時前、長崎市へ向かう。
⑥長崎市観光
長駆57㎞走って、十二時二十分、平和公園駐車場に到着。市内観光は車をここに駐車(一日600円)して、あとは市電と「らんらんバス」で周る予定である。まず、平和公園から。
○長崎平和記念公園にて
平和祈念像の前で祈りをささげる。銘盤に次のような文が刻まれている。
──この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌に尽くし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和三十年(1955)八月の原爆十周年記念日に建立されたものです。平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和の進める姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている姿です。
なお、折り曲げた右足は瞑想即ち静、立った左足は救済即ち動、何れも神仏の特性を表現したものであり、本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない雄大な芸術作品でする。──
平成二十一年九月の広島平和記念公園に続き、反核の誓いと鎮魂の祈りをささげる。
平和祈念像
反核の誓いと鎮魂の祈りをささげる
この後、「平和の泉」へ向かう。途中、柵で囲まれた一角がある。そこにある案内板には、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」とあり、次のような説明文があった。
──長崎刑務所浦上刑務支所は、松山町・岡町・橋口町の三ヶ町にまたがる丘の上にあり、敷地約2万平方メートル、庁舎面積約1万3千平方メートルの爆心地にもっとも近い公共の建物であった。昭和20年8月9日、午前11時2分、一発の原子爆弾の炸裂により、職員・官舎居住者・受刑者及び刑事被告人計134人が死亡した。周囲の高さ4mの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突一本を残して倒壊全焼した。──
コンクリート塀の残骸
善人も悪人も、共に地獄の劫火に焼かれ、一塵も残すことなく蒸発し去ったのだろう。何とも痛ましい、黙祷あるのみ。更にその先にチェコスロバキアから寄贈されたという母子像「人生の喜び」があり、外国の人が見つめていた。
母子像「人生の喜び」
そして「平和の泉」の解説板には、
──昭和二十年八月九日、原爆のために体内まで焼け爛れた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら、死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈り、合わせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設しました。今日、ここを訪れてくださいましたあなたに、冥福を祈り、平和を祈念していただければ、誠に幸いと存じます、とある。
「平和の泉」
見学を終え、市電で「松山町」から乗り、「桜町」(120円)で下車。長崎奉行所へ向かう。
○長崎奉行所(歴史文化博物館)にて
実はこの写真、三脚を使わず、「木本ひとみ」さんという女性に撮ってもらったものである。市電を降りて奉行所への地図を見ていた時、通り掛かった女性に行き方を尋ねたが、その人が木本さんだった。木本さんも、奉行所に行くということでご一緒さしてもらうことになる。心強い!
歴史文化博物館の前で
大河ドラマ館(500円)だけを見学。木本さんは年間パスポートを持つ“歴女”でもあった。館内は撮影禁止だったので、ウエブサイトから、奉行所の復元建物を載せた。見学後、お礼を言ってお別れしようとしたが、何と次の「亀山社中」も同じ訪問先だった。ラッキー! しかし、移動手段として予定していた「らんらんバス」が、先月で廃止されていた。アンラッキー! 止む無く、徒歩で向かう。
○亀山社中にて
2人旅になったので、徒歩も長い階段もそれほど苦にならなかった。入り口で龍馬に迎えられ、入館(300円)。建物については次ぎのようにある。
亀山社中への階段の起点
龍馬、木本さんと、亀山社中の入り口で
──この建物は坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を所有されている方のご厚意により、長崎市が当時の姿により近い形で整備し、平成21年8月1日から公開しているものです。亀山社中記念館のある場所は、幕末に亀山焼の再興を図った一族が大正9年まで所有していたと登記簿に記されています。また、幕末の長崎地図に描かれた亀山一帯の建物は当建物らしいものを含めわずかであり、亀山社中が寄寓した建物であった可能性は高いと推測されます。母屋は10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれていました。
龍馬のブーツ(復元)
龍馬の愛刀「陸奥守吉行」(複製)
見学する木本さん、観光客
龍馬がもたれかかって座ったと伝えられる10畳座敷の柱など黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を忠実に再現しています。その先の縁側からは長崎の街と港が一望できました。一方、土間の北側には玄関があり、かつてはそこから出入りをしていたようです。この土間はガラス張りの床ごしに確認することができます。また土間と3畳の部屋の上側には中二階がありました。有事の際には大人数人が潜むのに十分な広さです。現在は失われていますが、母屋の北側には土蔵と馬小屋もあったとされています。──
縁側から長崎の町を望む
見学後、予定になかったが木本さんの勧めで「長崎まちなか龍馬館」に寄る。
○長崎まちなか龍馬館にて
祈る龍馬像の前で木本さんと
木本さんは良く立ち寄るとのことで、主任さんにガイドいただく。展示は充実していて、最初から寄れば良かったと思う。しかし、時間も押してきたので、申し訳なかったが失礼する。この後、市電で「グラバー園」に向かう。
○グラバー園にて
旧三菱第二ジックハウス
グラバー園から長崎港を望む
木本さんと、グラバー邸の前で
天井裏の隠し部屋
グラバーの妻ツルが使っていた夫人部屋の廊下の天井には、窓のない隠し部屋がある。グラバーは討幕派の薩摩藩、長州藩などに肩入れし、国禁を犯し自分の船で薩摩の若者をイギリスに密航させたり、長州へ大量の武器を売っていた。グラバー住宅にはそんな幕末の志士たちが出入りし密談をしていたのであろう。この後、最後の訪問地、「出島」へ向かう。
○出島にて
四時前、到着(500円)。「出島復元」というパンフには次のようにある。
──鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」。しかし明治以降、出島周辺の埋め立てが進み、明治三十七年(1904)、出島はその姿を消してしまいました。今、その歴史的価値を未来に残そうと、出島復元整備事業が進んでいます。平成十二年には「ヘルト部屋」をはじめとした5棟が完成し、すでに一般公開されています。平成十八年春には「カピタン部屋」「乙名(おとな)部屋」「拝礼筆者蘭人部屋」「三番蔵」「水門」の5棟が完成。建物の復元とあわせて石垣などの周辺整備も進められています。・・・──
東側ゲートの旧出島神学校を抜け、フレンドシップメモリー、ミニ出島、ケンペル・シュンベリー記念碑、水門、カピタン部屋、料理部屋、一番船船頭部屋、ヘルト部屋など、細かく見て周る。
旧出島神学校
フレンドシップメモリー
ミニ出島
ケンペル・シュンベリー記念碑
水門の前で
水門全景
水門前の柵(この先は海だった)
カピタン部屋
料理部屋
一番船船頭部屋、ヘルト部屋
水溜め(井戸は無かった)
一時間ほどかけ、じっくり見学。充実した展示が多く、満足する。五時過ぎ、、いよいよお別れ。これから「道の尾温泉」へ。すると何と木本さんはその近くにお住まいとのこと。ビツクリ! お送りすることにする。市電で平和公園に向かう。慌てて手前の「浜口町」で下車。失敗! しかし、これが結果的に良かった。
⑦原爆投下中心地にて
「松山町」を目指し歩いていると、原爆投下中心地に出くわす。もう少しで見落とすところで、私には引きつけられたとの想いがした。
原爆落下中心地漂柱
浦上天主堂遺壁
被爆当時の地層展示
被爆当時の地層
山里町の高台からの爆心地の記録写真
ここは平和公園以上に生々しく、原爆落下中心地標柱の前で、敬虔な供養の題目をあげる。これで長崎観光の予定は終了し、木本さんを道の尾温泉まで送くる。入浴(550円)、夕食後、宿泊駅「夕陽が丘そとめ」へ。
道の駅「夕陽が丘そとめ」にて
家内が地震の余震で体調を崩し、夜中、三時二十分、この先の予定をすべてカットして帰路へ。1300㎞を走破、18時間かけて九時過ぎ、帰着する。疲れ~~た!
走行距離数 1476㎞ 訪問道の駅 2駅
(長崎県編 終り)