マー爺さん 空を飛ぶ~鳥のように自由に空を飛びたい!~ 

人は誰も一度は空を自由に飛んでみたいと思ったのでは・・・、その夢をかなえた1人の男の勇気と活躍のファンタジー小説!

第8作品『マー爺さん 空を飛ぶ』~メッセージ 被災された皆様へ~

2012-11-14 08:32:49 | 日記

 第8作『マー爺さん 空を飛ぶ』~メッセージ 被災された皆様へ~が日本文学館より文庫本で刊行されました。これ
は2011年度日本文学館「出版大賞ノベル部門特別賞」受
賞作品です。文庫本 103ページ 価格630円(印税は
全額被災地へ寄付)※お近くの書店でご注文下さい。tgaocun910@gmail.com

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第9作『人体 ふしぎ発見!』~遺伝子・脳と心・生命~

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「電子版小説集」

「全国道の駅ツアー」

『町内会革命・憲章』~今こそ地域から日本を元気に!~

◎「高齢者福祉NPO「地縁

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目次

2011-08-10 16:40:43 | 日記
 
第1章 空への芽生え

第2章 パラグライダーとの出会い

第3章 モーパラに魅せられて
 1 モーパラとは
 2 モーパラ講習の日々

第4章 赤いモーパラ空をいく
 1 田舎暮らし
 2 初フライト
 3 住民の冷たい目

第5章 確かな歩み 
 1 活躍はじまる
 2 嬉しいご褒美
 3 再び地域のために

第6章 夢のパラグライダー
 1 鳥にも負けない
 2 災害現場に急げ
 3 箒沢集落が危ない

第7章 高い空から見えたもの

 1 空の先人
 2 ピーターパンの心
 3 モーパラ時代来る

用語解説

山北町全図 

第1章 空への芽生え

2011-08-09 16:56:06 | 日記

 
 人は誰も、一度は鳥のように空を自由に飛んでみたいと思
ったのでは。でも飛行機の登場でその夢も叶った。だが待て
よ・・・、どうも鳥のようにはいかないようである。そのう
ち、多くの人は、そんな夢に付き合ってもいられなくなり、
いつしか忘れ去っていく。この夢を忘れず、鳥のように空に
飛び立った奴がいる。しかも70歳という高齢で。その名を
愛称“マー爺さん”という。これはマー爺さんの冒険と活躍
の物語である。

 マー爺さんの少年時代はいわゆる「科学少年」で、空に憧
れ、盛んにゴムひも動力の紙飛行機を作って遊んでいた。

  
 
 もちろん、凧揚げなどもしたが、興味はやはり飛行機だっ
た。この時代、科学少年は手作りの愛凧が主流で、出来合い
の凧はむしろ肩身が狭かったようである。そういえば凧に限
らず、遊び道具は結構自作物が多かった。たとえば、モータ
ーボート、ヨット、潜水艦、パチンコ、竹水鉄砲、割り箸鉄
砲、糸コマ戦車などなど。他に手作りではないがポンポン蒸
気船、樟脳(しょうのう)船、地球ゴマなど、今は姿を消し
たものが多い。ところでこれらの玩具の中でポンポン蒸気船
や樟脳船は余りお馴染みがないのではないだろうか。

  

 

 ポンポン蒸気船の原理は、船の中にあるボイラーの水が、
蝋燭などの火で熱せられ、蒸気になってポンプの中の水を勢
いよく外へ押し出す。これが船の推進力になって進む。水を
出して圧力が下がると、外の水がパイプからボイラーへ吸い
込まれ、その水が加熱され再び蒸気になり、ポンポン蒸気船
はこの繰り返しで進み続ける。この時、ポンポンポンという
音を出して進む姿が何とも愛らしい。
 樟脳船は、樟脳が水に溶けて水の表面張力を低下させ、船
尾(張力が弱い)と船首(張力が強い)での表面張力の差を
つくり前方に進む。ともに科学的原理を利用して作られた玩
具である。これらが結構、子供たちの科学的好奇心を高める
効果があったようで、今のテレビゲーム遊びとは大違いか。
 マー少年はこれらの玩具すべてで遊んだが、けっきょく、
飛行機に帰ってきた。この当時、ディズニーの長編アニメ
『ピーターパン』が公開された。ちょうどマー爺さんが小学
六年生の頃である。

  

 ──ある夜、おとぎ話のピーター・パンが妖精ティンカー
・ベルと共に現れ、ロンドン郊外に住む少女ウェンディたち
に、空を飛べる魔法の粉を振りかけ、悪者のフック船長と戦
いながら夢の“ネバーランド”へと旅立つ。自由自在に空を
飛ぶ姿に憬れ、特に夜景を下に見て飛ぶ様は強く印象に残っ
たようである。
 マー少年に限らず、子供の時は誰でも空を飛んでみたいと
思うのではないだろうか。ただし、すでに高所恐怖症の子供
は除くが。このアニメを見て以来、マー少年はたびたび空を
飛ぶ夢を見るようになる。その夢とは見事に空を飛んでいる
ものだった。しかし、残念ながらピーターパンの様にはいか
ず、鳥の様に手をバタバタさせて飛ぶものだった。落ちそう
になり、必死で手をバタつかせハッと目が覚める。肩には重
い疲労感が残っていた。 もしや睡眠中、本当に手をバタつ
かせていたのでは。確かに下界の景色は俯瞰(ふかん)図に
はなっていたが、時折、黒い翼が視界に入る。マー少年は、
鳥は鳥でもカラスではないだろうか、自分の前世はきっとカ
ラスだったと思い始めた。
 ちなみに「夢占い」では、カラスは縁起の悪い鳥とされ、
夢の中でもトラブルや失敗を意味することが多いという。
 また、「空を飛ぶ」ということは、何かに抑圧されてい
て、そこから解き離れたいという願望が強いとある。さらに
「落ちる」という夢は、何か不安材料があったり、自分自身
に自信が持てないときによく見る夢だという。全く踏んだり
蹴ったりで、よいところがない。ともかくも、その後、飛行
機製作はエスカレートして、ついに翼長2m余りの巨大グラ
イダーを作ってしまう。完成した夜、すぐに飛ばしたくな
り、夜中、近くの広場で飛ばしてみる。飛行機をかざして走
った時、上昇する揚力の手応えがグィと手に伝わり、このま
まグライダーと共に舞い上がるような錯覚にとらわれた。
 この当時、マー少年が特に憧れた飛行機があり、それは
“エンジン機”と呼ばれる模型飛行機だった。

  
     
 エンジン動力で、ワイヤーで引っ張り回転飛行させるも
の。今はこの種の飛行機はラジコン機に変わっている。20
~50㏄クラスの空冷ガソリンエンジンを搭載し、手回しで
プロペラを回転させエンジンを始動する。マー少年は広場で
飛ばしているのを見つけると、必ず飛んで行って見学した。
 ブル~ブル~とエンジンをかけるのであるが、これがなか
なか難しく、そのうちガソリンが漏れ出す。マー少年はその
匂いが堪らなく好きで、凄まじいエンジン音にも痺れたもの
である。しかし、当時は高価だったし、危険なので、子供に
は扱えなかったようである。
 やがて中学から高校へ進学すると、パタッと熱が冷めたよ
うに飛行機作りをやめてしまう。代わりに高校生になると、
空への憧れを別な形で果たすようになった。科学少年の血は
健在で、今度は教科の中で「化学」に興味を持つようにな
る。学校で化学の実験があると、自分でもう一度やってみた
いと思うようになったのである。酸素を発生させての「物の
燃焼実験」、水素を発生させての*1「爆鳴気」の実験など
など。想いが高じてついに自分の家の物置に“化学実験室”
を作っしまう。小遣いをはたいて、試験管、ビーカー、フラ
スコ、アルコールランプなどの実験用具を買い揃え、やがて
塩酸、硫酸、硝酸などの劇薬も手に入れる。当時はまだ規制
が甘く、高校生でも近所の薬局で買えた。いよいよ秘密の実
験室開所である。家族に見つからないように、深夜に抜け出
し、離れの物置で実験開始。白衣まで着込んで・・・。
 
 そのうち学校での実験に飽き足らず、化学雑誌を買ってき
て危険な実験にも手を出し始める。その一つが“黒色火薬”
の製造およびその燃焼実験である。テレビの時代劇などで、
地面にまかれた黒色火薬が蛇のように、シュルシュルと燃え
ながら爆薬に迫っていく・・・、あれがたまらなかった。
 実際にやってみて満足したものの、お陰で物置は煙幕状
態、とんでもなく危ない実験?(遊び)をしたもので、よく
火事にならなかったものである。やがてエスカレートする。
 今度は近くの空き地に行き、手製の導火線に黒色火薬の包
みをつけ、それを地中に埋め、爆薬の威力をみる実験であ
る。導火線に火をつける。テレビのように白い煙をあげて導
火線が燃えていく。とっさに地面に伏せる。バフ~という鈍
い音がした。埋めたところは少し盛り上がり、ひび割れした
隙間から数本の煙が・・・・?
 イメージとはまったく違う結果となった。またまた飽き足
らなくなり、次に目が空に向く。全長60㎝くらいの紙製ロ
ケットを作り、それに黒色火薬をつめて発射実験をしようと
いうもの。この頃、日本のロケット開発も軌道に乗り始めて
いた。1958年9月、K(カッパ)─6型3号機が高度50
㎞の高層物理観測に成功している。


     
 何日かかけてロケットは完成、なかなかの出来栄えであ
る。空き地に発射台を作り、ロケットをセット。そのうち見
物人も集まりだす。ほとんど子供であったが。危険なので地
面に10mくらいの円を描き、入らないように注意する。
 いよいカウントダウン、10、9、8・・・3、2、1
発射・・・!    
 電気火花で点火されたロケットは煙を吐いて発射台を離れ
た。高度は0・05㎞くらいでロケット花火に毛の生えた程
度、観客からは微妙な反応。
この後何度か挑戦するが、所詮、紙製では高度に限界があ
り、その後の実験は立ち消えとなる。
ところで同じ時期、遠いアメリカの地で、同じく高校生がロ
ケット実験をしていたことを後に知る。*2映画『遠い空の
向こうに』で、アメリカの高校生がロケット打ち上げ実験を
していたのである。もちろんレベルが違い、主人公のホーマ
ー・ヒッカムは後、NASAの技術者になっている。
 しかし、マー少年にとっては、同じロケットボーイとし
て、小さな誇を感じている。ちなみに、マー少年の高校時代
の部活は“天文部”であった

第2章 パラグライダーとの出会い

2011-08-08 17:26:15 | 日記

 
 時が流れ、高校から大学、そして社会人となり、社会の荒
波にもまれるうち、空への憧れは波間に消える。さらに時が
過ぎ、辛いサラリーマン時代を乗り越え、60歳で無事リタ
イアした。マー爺さんの始まりである。さっそくサラリーマ
ン時代に抱いていた夢、「自動車で全国を旅行したい」をス
タートさせる。当初(平成14年)、キャンプ道具一式を車
にのせ、オートキャンプ場めぐりを始めたが、何かしっくり
来ず、偶然見つけた「道の駅」がマー爺さんの旅行スタイル
にフィットした。というのは、余り一ヶ所に留まるのではな
く、各地の史跡をめぐり、広く見聞を広げたかったからであ
る。もちろん、歴史ものだけではなく、景勝地や温泉なども
訪れるが、あまりグルメやお土産には興味がなかった。
 要するに、広く全国を旅行するには、道の駅が“宿場”と
して機能したのである。これ以来、道の駅を宿場がわりに、
諸国を漫遊する自動車旅を“全国道の駅ツアー”と名付け、
全国走破を開始した。
 平成15年から神奈川県を中心として、同心円状に西へ山
梨県、静岡県、長野県、岐阜県。平成16年度は東へ群馬
県、栃木県、福島県、宮城県・・・、といった具合である。 
 平成17年3月、茨城県周遊の計画を立てているとき、観
光パンフレットに「パラグライダー」の体験コースを見つけ
る。この瞬間、長く波間に沈んでいた“空への憧れ”がポコ
ッと姿を現した。さっそく予約を取り、茨城県旅行に出掛け
る。3月11日、筑波宇宙センターを見学して、真壁町のパ
ラグライダー・スクール「エアーパーク・クー」へ。雨模様
であったが昼前、到着。着くなり本降りとなる。
 残念ながら滑空は無理で、折角なのでインストラクターの
高橋ひろ子さんからレクチャーを受ける。初挑戦のトライは
ついえたが、次に備えて身体を鍛えることを始める。
 同年7月の新潟県旅行では「上越パラグライダー・スクー
ル」(舞子甲子園スキー場)へ。曇り空で天気はまずまずだ
が、風がやや強く、指導員の吉田光男さんからは中々OKが
でない。30分ほど風待ちするが、そのうち吉田先生はマー
爺を車に乗せ、山の反対側の斜面に向かう。枯葉を投げ上げ
て風の強さを見ていたが、結局、滑空不可の断が下る。用具
をつけ、準備万端だったが又も挑戦不調。パラグライダーは
天候が微妙であることを知る。と共に、先生の安全第一の姿
勢と親切に感謝。もちろん、お金は掛からなかった。
 諦め切れないので、同年9月、石川県旅行では、白山市の
「スカイ獅子吼パラグライダー・スクール」に申し込む。
 9月14日、9時前、到着。いよいよ3度目の挑戦であ
る。しかし、台風の影響かまたも風がやや強く、風待ち。
 このとき、ちょっとしたハプニングが起きる。風待ちの
間、マー爺のパラグライダー歴?をスタッフの人に話す。す
るとスタッフの一人がマー爺に見覚えがあると言い出す。
 実はその人吉美さんは、以前、茨城の「エアーパーク・ク
ー」に居て、そこでマー爺にすでに会っていたのである。何
という奇遇、俄然、元気が出る。そのうち神戸から学生さん
の客が7人みえ、風はまだ強かったがマー爺を含め、8人は
滑空場に移動する。風がこれ以上強くならない内に、簡単な
説明の後、斜面を一気に走りテイクオフ。一瞬、浮上・・・
一瞬、歓喜。3度目の挑戦はほんの数秒で終わる。


 

 
 今回も無料体験ということで出費はなかったが、いつか確
しかな講習を受けようと思ったのである。また旅行先では、
必ず航空博物館にも立ち寄っている。岐阜県の各務原市の
「航空博物館」、茨城県つくば市の「筑波宇宙センター」、
青森県三沢市の「航空博物館」である。特に三沢市航空博物
館では、「太平洋無着陸横断」の史実を知った。
 “翼よ! あれがパリの灯だ”で有名なリンドバーグの大
西洋横断は誰でも知っているが、はて?太平洋横断は・・・
・? 資料には次の様にある。
 ──昭和6年(1931)10月、米国人飛行家クライド
・パングボーンとヒュー・ハーンドン(上写真)の二人は、
単発エンジンの単葉機である「ミス・ビードル号」(下写
真)によって現在の三沢市にある淋代(さびしろ)海岸を離
陸、太平洋上を無着陸で横断飛行し、米国ワシントン州ウェ
ナッチ地区に着陸しました。彼らの飛行は世界初の成功を収
めることとなった。──
 


 世紀の太平洋横断が日本に関りがあり、青森県の一寒村、
淋代海岸から飛び立ったなんて、知らなかった。何か誇らし
い限りである。
 一方で、このような趣味のほかに、マー爺さんは地域貢献
のため、町内会の子供会々長として飛行機やロケットのイベ
ントを開催している。自ら紙飛行機(ホワイトウイング)の
インストラクターの資格を取り、紙飛行機競技会や、ペット
ボトル・ロケット競技大会を開催している。もちろん、子供
たちには飛行機が飛ぶ原理や、ロケットの作用反作用の法則
も教えた。
 

 
 話が変わるが、テレビに“鳥人間コンテスト”という番組
があり、マー爺さんはこれを欠かさず見続けている。これは
琵琶湖の松原水泳場を舞台に競われる滑空機や人力プロペラ
機の飛距離競技である。マー爺さんはどちらかというと、数
百メートルしか飛ばない滑空機より、数十キロメートル飛ぶ
プロペラ機の方を好む。
 その後の道の駅ツアーは、平成23年に北は北海道、南は
沖縄まで全国走破を完了。8年の歳月を要した。ちょうど7
0歳を迎える前に、趣味を自動車旅行から「空への夢」に変
えるため、いよいよ本格的なパラグライダーの挑戦へ。この
爺さん、何とパワフルな趣味を選ぶのか、脱帽!

第3章 モーパラに魅せられて

2011-08-07 17:28:11 | 日記

 
 1 モーパラとは
 
 インターネットでパラグライダー・スクールを探す。幸い
神奈川県平塚市に「湘南スカイスポーツスクール」(湘南S
SS)を見つける。しかし、このスクールはパワーハングラ
イダー、パワーパラグライダー専門校で、普通のパラグライ
ダーはやっていなかった。マー爺さんは「鳥人間コンテス
ト」のこともあり、パワーパラグライダー講習を受けること
にする。講習前に、さっそく事前学習を始める。

 パラグライダーは大きく分けると3つの部分で構成されて
いる。①「キャノピー」と呼ばれている布製の翼と、パイロ
ットが座っている椅子「ハーネス」、これらを結ぶ③「ライ
ン」以上の3つ。
 キャノピーは一枚の布の様にも見えるが、内部はいくつも
の仕切り(④「リブ」という)を持つ大きな袋状の構造(⑤
「セル」という)である。②「エアインテーク」(空気の取
り入れ口)からセル内に風をはらむと、きれいな翼を形成す
ることになる。パラグライダーではこれが一番重要となる。
 パグライダーで空を飛ぶ場合、操縦者は⑧「ハーネス」に
座る。胸部と太腿の部分のベルトで体を固定し、飛行中の落
下を防ぐ。次に⑦「ライザー」は、大きく分けてフロントラ
イザー、リアライザーの2本があり、ラインをまとめてキャ
ノピーとハーネスを繋ぐ役割をする。また操縦で、テイクオ
フ時にはフロントライザーとリアライザーを調整しながら、
ライズアップ(キャノピーを立ち上げて滑空可能な状態にす
ること)を行う。⑥「ブレークコード」は、機体をコントロ
ールするためのラインで、キャノピーの両翼端を引っ張るこ
とで空気抵抗を起こし、左右に旋回することができる。
 

         
 モーター・パラグライダー(略称モーパラ)はこれに動力
部分(エンジンユニット)などが加わり、ハーネスの構造や
飛行の仕方などが少し変わる。

○エンジンユニット=排気量200㏄~250㏄、直径90
㎝~130㎝の2枚ないし3枚のプロペラ(巻き込み防止ガ
ードつき)と、ハーネスからなる。重さは14㎏~28㎏。
価格は70~100万円程度。一回の給油で1~2時間飛行
可能。


 
○携帯計器=タコメーター(エンジン用の回転数計)アルチ
メーター(高度計)、バリオメーター(昇降計)の機能をもつ携
帯型GPS、無線機など。

○安全装置=緊急パラシュート(落下傘)、ライフセーバー
(着水時用ライフジャケット)。モーパラの死亡事故は、着
水による溺死が圧倒的である。1994年から5年間の死亡
亡事故は年1~6件。事故の起きるタイミングは、多い順
に、ランディング、墜落、テイクオフである。負傷部位は、
下肢、腰椎がほとんどである。腰椎を傷める事故が多いの
が、このスポーツの特徴である。一般災害における*4事故
率をまとめた表からは、事故率は他のスポーツと比較して低
低いことが分かる。しかし、事故が起きた場合は、激しい衝
撃を受けるため、脊髄損傷などの生涯にわたる重度の後遺症
を伴う怪我になる危険性がある。

○飛行のルール=向かい風0~6 m/S有視界飛行でテイ
クオフすること。従って飛行できない主な場合は、テイクオ
フ方向を向いたとき、追い風であるとき。風速6m/S以上
の時。雪もしくは雨が降っている時。有視界飛行できない時
(夜間、雲中など)。天候の急変が予想される時。強力な乱
気流が発生している時。積乱雲の発生が予見される時。
 航空機がテイクオフ周辺を通過する時。テイクオフ、ラン
ディングのとき以外は、人や民家の上空を低空で飛行しない
こと。建造物の上150m以下には侵入しないこと。海上に
白波(5メートルを超える強風)が確認された時。そして最
低二人以上で行動することなどである。日本の航空法では航
空機ではないため、国家資格は必要ないが、民間航空規約で
は航空機とされ、単独飛行に際しては、技術と知識が必要と
なる。そのため、スクールやクラブに入り、飛行技術と航空
理論、法規及び気象学の教習を受ける必要がある。
 実際に管理されたフライトエリアで飛行するのには、公益
社団法人日本ハング・パラグライディング連盟(以下JH
F)が発行する技能証(パイロット証)とフライヤー登録
(第三者賠償責任保険)が必要である。車の運転免許証と自
賠責保険の関係に似ている。
 モーパラの最大の特徴は、自由に飛行高度や飛行場所を選
ぶことが出来る。地上すれすれの低高度や、1000m以上
の高い高度など自由に選べる上に、飛行ルールに触れない範
囲で飛行ルートも選べる。技能証には、A証=指定された方
向へ直線飛行。B証=左右180度旋回、指定地着陸。C証
=左右360度の旋回、正確なアプローチで指定地着陸。P
(パイロット)証=自己の判断と責任で上昇気流内飛行、5
㎞以内自由飛行。XC(クロスカントリー)証=長時間、長
距離飛行。技能によってランクアップしていく。この他に上
級のタンデム(2人乗り)パイロット技能証などがある。


2 モーパラ講習の日々

 平成23年6月14日、予約を取って午前10時、出発。
東名青葉ICから小田原厚木道路から平塚へ。40分余りで
到着。お店は留守で、携帯電話で連絡、「唐ヶ原」の海岸に
いるとのこと。予め、ナビに入れてある「高浜台」の海岸に
向かう。しかし、そこは土・日講習の会場で、更に電話して
平日用の唐ヶ原へ。近づいた頃、海岸に目を凝らすがモーパ
ラの飛んでいる姿が無い。再度、電話。ファミリーマートの
駐車場とのこと。やっと1時間後、到着。校長さんは海の堤
防にいて初対面の挨拶、名刺交換。「飯塚幸雄」さんとあ
る。今日はあいにく「北風」でフライト不可とのことだっ
た。ショック!初日は不発に終わる。マー爺さんは道の駅で
の3度の挑戦のことを思い出していた。折角なので昼食に誘
い、いろいろ話を聞く。2時過ぎ、次の予約をして帰る。
 6月20日、まずまずの天気か。スクールに電話したが、
こちらは雨とのこと、残念。しばらくして返信があり、OK
とのこと。11時過ぎ、出発。11時45分、到着。写真を
撮ってくれる「川戸さん」の紹介をしてもらう。砂浜で装備
を着けレクチャーを受ける。
 しかし、着くなり風が弱まる。仕方ないので風待ちに。そ
の間、校長、川戸さんとモーパラ談義に花が咲く。校長より
漁師言葉の「海をウサギが跳ぶ」を教わる。その意味は「強
風で白い波が海面に立つ様子が、白いうさぎが跳んでいるよ
うに見える」ということで、フライトは注意信号とのこと。    
 また、校長オリジナルの「羊の集団が攻めてくる」(フラ
イト危険)という言葉も教わる。なかなか謂い得て妙、面白
いと思った。結局、この日は風が弱い状態のままで諦める。
 明日にかけることにする。しかし、次の日は雨で、明日2
2日、茅ヶ崎漁港の海岸に来て欲しいとのことで、いよいよ
その日が近いことを予感させた。
 翌日、快晴。風もまずまずか。ただ現地がどうかは、行か
ないと分からない。9時半、マー爺さんは勇んで家を出る。
今度は厚木ICで下り、129号線で現地へ。到着して電
話。無料駐車場の奥でテントを張っているとのこと。今日は
3台のモーパラが置いてあり、本格的。さっそく練習開始。
 



 
 この日は海水浴客もいて離れたところにある砂丘状の斜面
に移動して風を待つ。風か出たところで何度か挑戦するが、
キャノピーがすぐつぶれてしまい失敗。
 先生もクロスや湘南スクール方式(上写真=キャノピーを
作っておいて、それをハーネスのカラビナにつける)でいろ
いろトライするが、マー爺さんはもたつき、いいところまで
いくが失敗。何せ小学生1人分(約20㎏)を背負って、砂
浜の斜面を機敏に動かなければならない。日ごろの運動不足
と寄る年波には勝てなかった。それにも増して、この日の風
力(2~3m)では、初心者が飛び上がるには無理だったよ
うである。疲れ果てたところで休憩。テントに戻り、ほかの
人のフライトを見学。その中に西川さんというドクターがい
た。もちろん、飯塚校長の生徒である。テントの前の砂浜か
らテイクオフしたが、近くに海水浴客がいて、マー爺さんは
危ないのではと感じた。ランディング(着陸)後、西川さん
は減量(現在、70数㎏)するように注意された。重いため
予想以上に離陸距離が伸びたのである。マー爺さん(62
㎏)も、腹が出てきてとても他人事とは思えなかった。
 見学中、校長の来歴などを聞く。
 

 
 ──もともと山登りやスキーが趣味で、下山の時、パラグ
ライダーの利用を思い立つ。きっかけは、「兼高かおる」の
テレビで、ハワイ・ダイヤモンドヘッドからの垂直降下を見
て衝撃を受けたという。以来、30数年無事故、日本で5本
の指に入る凄い先生だった。マー爺さんが練習を開始した時
期が、梅雨時でタイミングが悪く、余り捗(はかど)らかっ
た。しかし、7月に入ってからは天候も安定し、週2~3回
のペースで猛特訓し、先生の教えもあって、年内に何とかP
証を獲得したのである。