日本福音ルーテル札幌教会 札幌礼拝堂

日本福音ルーテル札幌教会 札幌礼拝堂の最新情報です。

教会学校 午前9時より 主日礼拝 午前10時半より

愛する者の死    ~Memento mori(死を覚えよ)12~

2009年10月29日 | 札幌礼拝堂

             札幌教会月報 Kairos 第25号 重富克彦牧師によるエッセイより転載

       「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」  詩編23編1

 愛する者の死は、残された者にもある種の死を体験させる。キューボラー・ロス

士が提示する「否認・・取引・・抑鬱・・悲嘆・・受容」の心理プロセスは、残された

者が通るプロセスでもある。まさか妻が(否認)・・何とかして(取引)・・やはりだめ

なんだ(抑鬱)・・ひたすら悲しい(悲嘆)・・精一杯心を込めて送って上げよう(受

容)。わたしもまたそういう心の変遷をたどった。

 残された者は、このそれぞれの心理状態を、行きつ戻りつ体験する。ある人は現

を受け入れられない状態が何年も続く。ある人は長い間抑圧状態にとどまり続

ける。ある人は悲嘆にくれ、涙が涸れるまで泣く。

 泣きすぎて涙が涸れるというのは、かならずしも嘘ではないように思う。わたしも

いぶん泣いた。度々涙が溢れ出たのは車の運転中だった。妻の死期が近くなっ

てからは、車に乗ると、まるで習慣のように涙があふれ出て止まらなかった。車と

いう密閉された空間がそうさせたのだろう。前が見えなくなって、路肩に停車し、涙

を乾かしたことも度々あった。

 あのとき以来、涙するようなことがあっただろうか。涙が涸れてしまったような気

がする。妻の死ほどの心的な体験は、そうあるものではないので、感受性もにぶく

なったかもれない。

 愛する者の死は、自分の中心にたしかな場所を占めていた、かけがえのない領

域の喪失でもある。その喪失感は深い。人は、自分を抜け殻のように感じる。この

喪失感は、最初、生傷の痛みにも似ているが、次第に心深くに沈澱してゆく。だ

が、喪失感から抜け出すには何年もかかる。いや、完全に抜け出すことは出来な

いのではないかと思う。だが、残された者は、生きなければならず、そこに身を沈

めるわけにはいかない。

 このように、愛する者の死が、ある意味で自分の死でもある反面、決して自分の

死ではない。代ってはやれない。いかに看病し、いかに最後の日々を共に過ごして

も、死ぬのは愛する者であり自分ではない。自分は傍観者でもある。愛する者が

次第に弱り、病院食も殆ど喉を通らなくなっても、自分は3度の食事を食べる。死に

向かう者の傍らで、自分は生きようとする。その落差があまりにも大きく、ふと自分

の愛すら疑わしくなる。

 一般に、愛する者に先立たれた時、悔いを持たない者が、どれほどいるだろう

か。彼女の、あるいは彼の死に、負い目を感じない者がどれほどいるだろうか。

負い目にはいろいろある。臨終の時に傍にいてやることが出来なかったことをいつ

までも後ろめたく感じている人もいる。愛する者が幼い子供の場合、親の感情は

複雑だろう。事故死であれば尚更である。自分の近くにいたのに、幼い子が事故

にあって死ぬようなこともある。親はどんなに自分を責めることだろうか。

 私の場合は、最期を看取ってやることは出来た。そこに負い目はない。けれど、

彼女を早死にさせたのは自分のせいではないかという罪責感はぬぐいきれない。

それは喪失感と対を成して、心に深く沈澱する。愛する者を失った悲しみの中には

罪責感も含まれるのである。

 むろん赦しを信じている。仮に自分のせいで、見えないところで無理を重ねて、早

死にするようなことになっていたとしても、すでに彼女の心は、キリストの心と一つ

になっているから、全てを赦してくれていると信じている。だから、沈澱したものを

心の底に持ちつつも、それを包んでくれる愛の中で平安に過ごさせてもらっている

のも確かだ。

 心から悲しみを知る人には、人の思いを超えたところから、不思議な慰めが与え

られる。それはすべてを赦し、すべてを包む大きな慰めである。「悲しむ人は幸い

だ」と言われる主の言葉は本当のことである。

 愛する者の死を通して人は何を学び、確信するだろうか。愛する者が死んだと

き、人が必ず持つ思いがある。「こんなにも愛は確かに存在したのだから、それが

死によって消えてなくなるはずがない」という思いである。それは確信でもある。

愛が深いほど、その確信も強い。愛の永遠性。愛する者を失った人が、悲しみの

中で知るのはそのことである。ヨハネの手紙で「愛する者は神を知る」と言われて

いるのは、愛の永遠性を感受する時、同時に、神を感受するからである。愛の永

遠性は、この世での愛を失うことによってこそ確かなものになる。人は、その愛を通

して神を見る。そして希望を持つ。その希望が、愛する者の死を受容させてくれる

のだ。


11月1日の礼拝案内

2009年10月29日 | 札幌礼拝堂

   *札幌礼拝堂(中央区南12条西18丁目2-27)の礼拝は、毎週日曜日10時半からです。

聖霊降臨後第22主日 / 全聖徒主日

  説教 : 「天地一つの礼拝」       重富克彦牧師

  聖書 : 旧約聖書 「エゼキエル書」      37章1~14

        新約聖書 「ローマの信徒への手紙」 6章1~11節

               「ヨハネによる福音書」  15章1~17節

  

            ♯ たよりまつる わが主よ

             み声聞きて  安けし。

                われはただ主に  たよりまつる

                恵みあふるる   わが主よ。

           ♯ わが主近く  いまさば

             いざないにも 勝つを得ん。

            ♯ 悩む時も   さちにも

              主のいませば 安けし。

           ♯ 教えたまえ  み旨を

             果たしたまえ みちかい。

           ♯ きよきみ子よ われをば

             君のものと  したまえ。     この日歌われる教会讃美歌374番より 

     ”全聖徒の日”とは召天者記念礼拝。主にある者全てを聖徒として覚え

     その信仰をしのび、祈る日です。この日、亡くなられた教会員のご遺族の

     方々も多く集ってくださり、共に、パネルに並んだ遺影に在りし日へ思いを

     はせながら、主がお導き下さることを感謝します。

     礼拝ごとに告白する使徒信条の一節「我は、聖なるキリスト教会、すなわ 

     ち、聖徒の交わり・・・を信ず」から来ています。カトリックにおける聖人とは

     異なり、プロテスタントではその人が聖なのではなく、キリストの<聖>に

     あずかっている<徒>という意味です。

     10月12日、北海道教区では函館で「えぞキリシタンに学ぶ」と題した修養

     会を開きました。島原の乱の翌年1639年、幕府の命により松前藩主もキリ 

     スト教徒狩りを行い、本州から逃れ金山に隠れ信仰を守っていた106人の

     キリスト教徒が処刑されました。修養会の後、有志で松前にも行きました

     が、暮れなずむ空の向こうに、隠れ住み、最後には処刑の場となった大千

     軒岳の厳しい姿が見えました。そうした人たちがいたこと、また遠くヨーロ

     ッパから福音を伝えに来た宣教師たち、その福音を聴き呼び覚まされて、

     己の実存をかけた人たちがいたことを忘れはしまい。この日の祈りは、

     10月の修養会で学んだことも加わりそうです。

    *修養会のすばらしい準備と運営をしてくださった函館教会の皆さんに感謝しつつ。


10月25日の礼拝案内

2009年10月22日 | 札幌礼拝堂

   *札幌礼拝堂(中央区南12条西12丁目2-27)の礼拝は、毎週日曜日10時半からです。

宗教改革主日

  説教 : 「絡まっていませんか」    岡田 薫 牧師

  聖書 : 旧約聖書 「列王記」下         22章8~20節

        新約聖書 「ガラテヤ人への手紙」  5章1~6節

               「ヨハネによる福音書」  2章13~22節

    

    主よ、憐れんで下さい。

    危険が私たちを取り囲み、誘惑は私たちに牙をむいています。私たちに、

    この世の挑戦に決然として臨む勇気を与えてください。挫けるときには

    赦しを、傷付くときには癒しを、謙虚に叫び求めることが出来るように

    してください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。

                   ~10月18日の礼拝の祈りより~

   10月31日午後2時より、日本福音ルーテル教会と日本ルーテル教団合同の

    宗教改革記念礼拝が、北区北31条西4丁目1-5にある札幌北礼拝堂で

    行われます。 宗教改革は、16世紀ドイツのウィッテンベルグ大学神学教授

    であったマルチン・ルターが、人間の救いは善行によらず、ただ福音の信仰

    のみによるものであると主張し、1517年10月31日、「95カ条の堤題」をウイ

    ッテンベルグ城内の教会の門扉に掲示して、当時のカトリック教会の問題に

    ついての議論を提案したことから始まりました。ルターは聖書のドイツ語訳

    を完成させ、改革運動も進めていきました。さまざまな論争や経緯ののち、

    ルター派の存在は認められ北ヨーロッパに拡大していきました。

    日本のルーテル教会は、そのドイツやアメリカ、フィンランドなどから福音が

    もたらされ、生まれた教会です。

    


10月18日の礼拝案内

2009年10月11日 | 札幌礼拝堂

  *札幌礼拝堂(中央区南12条西12丁目2-27)の礼拝は、毎週日曜日10時半からです。

聖霊降臨後第20主日

  説教 : 「財産と神の国」     重富克彦牧師

  聖書 : 旧約聖書  「アモス書」          5章6~15節

        新約聖書  「ヘブライ人への手紙」  3章1~16節

                「マルコによる福音書」  10章17~31節

   

   「ぺトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参

   りました。」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのた

   めまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれで

   も、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後

   の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多

   くの者が先になる」                  マルコ10:28~31


10月11日の礼拝案内

2009年10月09日 | 札幌礼拝堂

       *札幌礼拝堂(中央区南12西12-2-27)の礼拝は、毎週日曜日10時半からです。

聖霊降臨後第19主日

 説教 : 「祝福」     岡田 薫 牧師

 聖書 : 旧約聖書 「創世記」         2章18~24節

       新約聖書 「ヘブライ人への手紙」  2章5~9節

              「マルコによる福音書」 10章1~16節

   「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちは

    この人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。

    『 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は

     このような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国   

     を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない。』 そして

     子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」  マルコ10:13~16

       

         11日の礼拝を終えて翌日は、函館教会を会場に北海道特別教区の修養会。

   テーマは 「蝦夷切支丹の歴史に学ぶ」。

   島原の乱勃発の翌年1939年、本州の迫害を逃れてはるばる蝦夷地に渡り、金山に潜

   って信仰を守っていたキリスト教徒たち106人が捕らえられ、松前町の背後にそびえる

   千軒岳で殉教したことを、トラピスト修道院の司祭さまを通して学びます。札幌からも

   16人余参加予定です。