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あなたならどうしますか?

重度障害者としての人生

葛藤

2004-11-15 18:06:46 | 中期症状
告知後の私達の間は惨々たるものだった。
毎日、毎晩今後についての話合いを繰り返した。
私と家内の意見は真っ向から対立し、人工呼吸器を着けて生きて欲しい、と懇願する妻に、着けないと言う私との話し合いは何日にも及び、泣き明かす夜も幾度もあった。
この間にも家内は、私に内緒でALSに関する情報を得る為、設立してまもないALS協会山形県支部を訪ねていた。
また、外来診察室では主治医から「人工呼吸器を着けるか否かを、ご家族で相談して早めに意思表示をして下さい」と促されていた。

私としては人工呼吸器を着ける事で、経済的、精神的にもこれ以上の負担を家族に負わせたくなかったのである。
<私にはこの時点で人工呼吸器装着=植物人間程度の知識しか無かった>

その為に、私はALS患者でも受け入れてくれるホスピスが何処かに無いものか、と不自由になった指で、全国電話帳を見ながら電話をかけ続けていた。
しかし、残念ながらALS患者を受け入れてくれる施設を、探せないまま時だけが過ぎていった。

家内は、ALS事務局から情報を得ると、私を説得する日々が続いた。
それでも、人工呼吸器は着けない、と言い張る私に家内は、泣きながら叫んだ。
「せっかく生きられる道があるのに!」
「死んでいくあなたはいいけど、残された私達はどうなるのよ!」


告知

2004-11-13 10:37:01 | 中期症状
平成7年10月の始め、車椅子の私を家内が押しながら、外来診察室に向かった。
よし、今日こそは医学書で見た事を思い切って聞いてみよう、と私は決意を新たにしていた。
素人の私から専門の医師に自分の症状に対して、意見を言う事はかなりの勇気が必要だった。

「具合はどう?」主治医の診察が始まった。
タイミングを見計って、尋ねて見た。
先生、私の病気もしかしてALSではないんでしょうね?
この問いかけに主治医は、一瞬戸惑った様子だったが間もなくして「どうして?」と聞き返して来た。
私は医学書を見てALSが自分の症状に、あまりにも良く似ている事などを話したら、主治医は「そこまで解っているなら」、とALSであることを話してくれた。
え!やっぱりALS?  内心では違って欲しいと願っていただけに、その瞬間、心臓が口から飛出すのではないかと思うほどの動悸を覚えた。
医学書には、3~5年の命、と書かれていた事を思い出し、咄嗟に<後どの位の命ですか?>と尋ねていた。
私の問い掛けに主治医は「そう遠くない時期に呼吸困難になります」
私が発病して2年、その言葉から死が数ヶ月に迫っている事を悟った。

<今にして思えば、告知を遅らせたのはALSと言う病の特殊性から身体の自由が利く内の告知はその残酷さに耐えられなくなる可能性があり、自殺などに配慮したものと思われる>

さらに主治医は話を続けた。
「今の時点では治療法はないが、人工呼吸器を着ければ延命出来ますけどね、只その場合は24時間介護になりますよ」
「人工呼吸器?24時間介護?」聞いた事も見た事も無い言葉だった。
家内はそれを、しきりに質問していたが、私の頭の中はそれどころでは無かった。
[死]の恐怖が頭の中を覆い被さり、このまま、黙って死を待つのかと思うと、とても耐えられるものでは無かった。
思わず「先生、安楽死は出来ませんか」と叫んでいた!


医学書から

2004-11-12 10:15:25 | 中期症状
上海から帰って、3カ月が過ぎた。
私の症状は、一進一退と言う言葉があるが、私の場合は一進一進と言うべきか、日に日に身体の自由が失われていた。
私の代わりに家内が働きに出ていた。
私は動く事が困難な為、座椅子に座りテーブルの上に昼食、飲物、電話など手の届く範囲に置いてもらい、座椅子の脇には尿瓶を置いて留守番をするのが日課になっていた。
ある夜、家内と見ていたテレビで、オランダのALS患者の実情と安楽死までをドキュメンタリーで放映していた。
世の中には、大変な病気があるんだなぁ、と家内と話合った。
いくら呑気な私でも、自分の症状には疑問を抱かない訳ががない「何故病名がわからないのだろう?」
そんな時、ふとした事で家庭用医学書を読み始めた。
読んでいく内に、自分の症状と良く似た症状を示す病名を見つけ、引込まれるように何度も読み返した。
その前後に似た症状の病名があったが、いずれも予後良好で、命に関わる病では無かったが、私が注目したのがテレビで見たALS「筋萎縮性側索硬化症」だった。
その内容はテレビで報じていたように、予後不良、発病から3~5年で死に至る、と記されていた。
私は、まさかと思いながらも、もしかしてと言う一抹の不安を拭い去る事が出来なかった。


上海

2004-11-11 11:01:53 | 中期症状
ホテルNに一泊した際、先生から「私の気功のパワーはまだ未熟です。上海に私の先生がいますので一度、先生に診て貰ったらいかがですか?」
話は、思わぬ方向に発展しそうだった。
私達は、帰路につくためにホテルを後にした。
6月に入って間もなく東京の姉から「上海の大学で診て貰える約束が取れたから直ぐ準備して!」と電話が入った。
やはり、あの話が現実になったんだ、と思った。
それにしても出発まで時間が無かった。急いでパスポートの申請と慌ただしく時間が過ぎ去った。
出発に辛うじて間に合い、私達夫婦は姉の待つ東京へ向かった。
東京駅には姉が迎えに出ていて、私達一行は車で成田に向かった。
成田空港の出発ゲートは長蛇の列だが、車椅子の私達一行は別ゲートからVIP並の待遇?で搭乗する事が出来た。
上海に着いたのが夜の8時過ぎ、ホテルは花園飯店にチェックイン、初めての中国は私のイメージとは大分懸離れていた。[人民服姿が無い!]
翌日、通訳を伴って某大学に向かった。
事前にアポが取れていたようで、通訳の案内で大学の中に入った。
応接室に案内され、教授と数人の先生方を紹介された。
ここでは気功、針、漢方薬が専門にしており、何が適合するか調べたい、旨を通訳を通して伝えられた。
いよいよ私の症状について、質問が来た。
今までの経緯を話したが、通訳を介しての会話に果して私の訴えが通じているのだろうか?と不安になった。
診察室では、東京で受けたと同じ気功を受けたが、肌寒い日だったが、暖房など無いのに上半身が汗ばみ、身体が軽くなった気がした。
診察室での先生方の会話は解らなかったが、通訳の話しによると、体力が消耗していて、ここで使う針は特殊なので治療出来ないと言う事だった。
<そう言えば発病前は73kgあった体重が50kgまで落ちていた>
先生から、一年位滞在して治療して見てはどうか?との提案があったが、丁重にお断りした。
受けられたのは気功と漢方薬で、気功は上海に滞在中、ホテルに往診してもらったが、はっきり言って期間も短かったこともあり、効いたのかどうかは解らなかった。
この年は、私達夫婦の結婚25周年にあたり姉には悪いが私達には良い思いでとなった。

気功

2004-11-07 18:23:33 | 中期症状
4月も半ばが過ぎ桜が咲き始めた頃、私と家内は外来診察室でK先生(以下、主治医と記す)に尋ねていた。
先生、どうなるんでしょう?
最近、指が・・・物が上手く掴めない・・兎に角、力が入らないんです!
私は今の症状を上手く表現出来ずに苛立っていた。
主治医は直ぐに握力計を出して「握って見て」と渡された。
私は満身の力を込めて握って見たが、左右共15Kgそこそこまでしか表示されなかった。
「少ないなぁ・・」と主治医が呟いた。
先生、治りますよね?と、私のの問い掛けに「草苅さんの病気は難しい病気だからなぁ・・」 
何時もと同じ返事が返って来た。
その夜、東京に住む姉から電話が入った。
「あんた、その後病気の方はどうなのよ?」厳しい口調だった。
姉は私が末っ子と言う事もあって、発病した当時から何かと心配してくれていたので、診察を受けた後は必ず状況を報告していたが、未だに病名すらはっきりしない医師に不信感を抱いている様子だった。
電話は続いた「あのさぁ、あんた気功って知ってる?私の友達でさぁ、癌なんだけどね、今診て貰ってる先生とっても良いらしいのね、それで紹介してくれるそうだから日時が決まったら上京して」
姉の歯切れの良い口調に、私の意見を挟む余地は無かった。
5月に入って姉から「予約が取れたから、X日に上京して、迎えに出るから」と電話があった。
家内に車椅子を押してもらっての新幹線乗車は初めてだった。
予め、駅に連絡しておくと、全て駅員が手伝ってくれるので助かった。
東京駅には姉が迎えに来ていて、直ぐタクシーでホテルNに案内された。
部屋に通されると、姉から「間もなく先生が来るからベッドで横になっていて」と言われ、私は、え?ここで?と聞き返していた。
暫くして、気功の先生が訪ねてきた。
どうやら、他の部屋で施術をしていたらしい。
気功は、体から数センチのところで行われ、40分ぐらいで終わったが、その後動かなくなっていた人差し指が動かせたのには、姉も家内も驚いてしまった。
先生は明日また、来ます。と言って帰って行った。

不安

2004-11-05 12:02:57 | 中期症状
平成7年正月、発病してから一年と4ヶ月、二度目の新年を迎えたが、私の心の中には不安が広がり始めていた。
この日も昔からの酒飲み友達が集まってきた。
気さくな連中だが、会話は私の症状に集中した。おい、足はどうだ?酒の上での会話は他愛もないものだったが本当に心配してくれているのか、からかっているのか分らない程盛上がっていたが、その賑わいの中で私だけが落ち込んでいた。
この時は、私も含め誰も大変な病気になろうとは夢にも思っていなかった。
そんなある日の朝、あの阪神大震災が起きた。
テレビのニュースでは、被害情報は少なく、大した事は無いと思っていた。
ところが時間が経つにつれ、その被害の大きさに度肝を抜かれ、我を忘れてテレビに釘付けになった事を思い出す。
2月を過ぎる頃には、杖では私の体を支えられなくなり、部屋の中でも伝い歩きがようやく出来る状態で、椅子に座ったり立つ事さえ困難になっていた。
人間とは面白いもので、こんな状態になっても今に治る、と信じ込むところがあるようだ。
3月に入って車椅子を購入した。
そうしないと、家内一人では通院も難しくなっていたのである。
おまけに症状は、両手の指にコワバリが出始めていたが、それでも私は一過性のもので、車椅子も一時的なものと思い込んでいた。
そんな時、オウム教団による地下鉄サリン事件が起きた。
1月の阪神大震災につぐ大事件に、今年は大変な年になるぞ、そんな予感がした。
自分にとって最悪な年になる事も知らずに・・・