あなたならどうしますか?

重度障害者としての人生

インターネット

2005-02-27 17:25:43 | 在宅の日々
息子達が居なくなった我家は、家内と二人に犬一匹がポツンと、取残された感じだった。
狭い家がやけに広く感じられ、子供だった頃が走馬燈のように想いだされ、結婚が決まった喜び以上の寂しさを、全てが終わった今,ひしひしと感じていた。

この機会に、以前から興味があったインターネットを始めた。とは言っても,パソコンの知識がある訳でもなく、60の手習いからの一歩だった。
私のようなALS患者が使う意思伝達装置にはインターネット、電子メール機能があり、身体の動かせる部位があれば,センサーで感知して意思伝達装置を操作して、インターネットを楽しむ事が出来るのだ。
しかし、私くらいの年齢の患者さんの中には、パソコンアレルギーで意思伝達装置を拒否する患者さんも少なくない。

平成14年6月,ADSLでインターネットが開通、無我夢中で操作を覚え,初メールの相手に届いたか,どうかを家内に電話させた事が今でも忘れられない。
それ以来、インターネットの虜になってしまい、息子達の嫁さんとも連絡はメールで、またALS患者達のネットワークで多くのメル友が出来,充実した日々を送っている。

その時・・・

2005-02-22 14:11:25 | 在宅の日々
婿養子に頂きたい、と正式に相手の両親が来たのは、平成13年11月の私の誕生日だった。
話の中で分かった事だが、お母さんの誕生日が奇しくも私と同じと聞いて,親しみと縁を感じた。
長男達も同席していたので、話はとんとん拍子に進んだ。
この席で、結納は12月吉日、結婚式は平成14年3月に決まった。

次男は嫁を迎えたが、婿に出すのは大分様子が違った。
立場がまるっきり逆になるのだ。
私は娘がいないので、嫁に出す親の気持ちは生涯味わう事はないだろう、と思っていたのに、長男がヒョンな事で婿に行く事になって、嫁に出す親の気持ちを少しだけ分かる思いがした。

結納は12月吉日に、とどこうりなく終わった。
場所は上山温泉の老舗旅館を用意していた。
先方は私の状態を理解してくれ、私は結納には欠席した。
お互いに極近い親戚の出席で行われた。
間もなく、式を前にして養子縁組がなされ、長男は30年馴染んだ我家の戸籍から消えた。
平成14年3月吉日,次男が挙式したホテルで盛大に行われた。

次男の結婚,そして長男の結婚と続けて立会えた喜びに、生きていて本当に良かったと思った。

婿養子

2005-02-17 19:27:06 | 在宅の日々
嬉しい事は続くもので、長男に婿養子の話が持上がったのは、次男の結婚式が終わって間もなくだった。
長男の付合っている相手は二人姉妹で、妹は既に嫁いでいたため、相手側は婿を望んでいた。
長男は私達の事を考え、その事を切出せず悩んでいたらしい。
ところが、弟が結婚した事で決心したようだ。
後で知った事だが、決心するまで親を誰が看るかについて、兄弟で話合ったらしい。

長男が私達に話を切出したのは、弟との話が終わった後だった。
長男と話していて、かなり私達の事を気にしている様子だった。
私達には、反対する理由もなく、唯、幸せになって欲しいと願っている事を伝えた。
その後、長男も気持ちの整理がついたのか表情が明るくなった。

結婚式

2005-02-13 19:08:40 | 在宅の日々
平成13年7月7日、次男の結婚式当日、朝から私の外出準備に追われた。
普通の人と違い、何処も動かせない私の着替えには時間がかかる。おまけに人工呼吸器つきだ。
また、車椅子に乗るまでと、乗ってから身体が落着くまで微調整が必要で、最後に人工呼吸器をセットして、吸引機,吸引消毒液など一式を揃え外出準備が終わった。
私達夫婦は予約していたリフトタクシーで、早めに式場に向かった。

式場には多くの人達が集まっていた。
人工呼吸器を積んだ車椅子の私を見て異様に写ったに違いない,と思った。
<まさか、新郎の父親だったとは・・・>
一通りの儀式も終え、披露宴会場へ入った。
二人の会社関係、大学、高校時代の友人、両家の親戚合わせて120名の立派な披露宴になった。
親の援助無しで、二人だけで良くやった、と感激した。

以下に紹介する原稿は、新郎の親として両家を代表して謝辞を述べたものです。[家内が代読]

皆様、本日はお忙しい中、私ども、次男○○と○○家、次女○○の結婚式にご参集頂きありがとうございます。
また、ご来席の皆様からは、二人の新たな門出に、心暖まるご祝辞や、ご祝福を頂き、両家を代表しまして心からお礼申し上げます。
今日から二人は、夫婦として歩む事になりますが、世間の荒波は二人だけで乗り切れるものではなく、周りの多くの人達に支えられている事を忘れてはなりません。
そして、二人には社会の一員としての義務と責任を自覚し、皆様に愛される家庭を築いて欲しいと願う次第です。
ここで、私事になりますが、初めてお会いされた方には、私の姿に、大変驚かれた事と思います。
私の病は、ALSと言う難病で、動く事も、話す事も、食べる事さえ出来ない上に、自力で呼吸する事も出来ず、薬も治療法もない現状では、人工呼吸器を着けるより、生きる道がありませんでした。
本来ならば、こうした席は、遠慮すべきところではありますが、二人からの強い要望もあり、病身を忘れ、ご迷惑を承知の上で、末席に座らせて頂きました。
お蔭さまで、二人の晴姿を見る事が出来て、親としてようやく肩の荷をひとつ、降ろせたような気が致します。
何分にも未熟な上に、短所の多い二人ではありますが、皆様の温かいご支援とご指導のほど、どうぞ、宜しくお願い申し上げます。
また、いろいろと不行き届きの点もあったかと思いますが、何卒、このお目出度い席に免じまして、お許し頂きたくお願い申し上げます。

簡単ではありますが、両家を代表しての挨拶とさせて頂きます。
本日は、誠にありがとうございました。

初顔合わせ

2005-02-11 19:22:53 | 在宅の日々
初顔合わせは、平成12年11月吉日に決まった。
場所は相手先の町の某レストランで昼食を摂りながら、と言う事になった。
先方も私の事を気遣ってくれ、当日は家内と次男が行く事になった。

会食は和やかに進み、仲人、結納については、我家の事情を察してくれ、形式に拘る事無く,式についても二人で出来る範囲にまかせ、お互いに親は口を出さずに見守る事になった。
親として少し冷たい態度に思えたが、私の病のせいで何も援助が出来る状態ではなかった。

それでも二人は、経費の事,式場の事,招待者などについて毎週話合っていた。
式場については、二人で何箇所も廻り納得するまで聞いて歩いたようだった。
私には、涙ぐましい努力に見えたが、二人にとっては一番幸せな時だったに違いない。

結婚式は平成13年7月7日、市内の某ホテルに決った。
私は式に出席しない方がいいのでは?と二人に告げたが、親父が行かないと言っても首に縄を付けてでも連れて行くから,と言われた時には、涙が出るほど嬉しかった。

承諾

2005-02-10 18:08:33 | 在宅の日々
次男が相手先の家に行ったのは数日後の事だった。
私達が気を揉んで待っていると、その晩、明るい顔で帰って来た。
はやる気持ちを押さえて、どうだった?と切出した。
次男のこぼれんばかりの笑顔から、大体の予想はつくが親として直に聞きたかった。

普段から口数の少ない次男だが、この日だけは雄弁だった。
相手の母親にも気に入られたようで、結婚を承諾してくれ、夕飯をご馳走になってきたようだ。
その後の話は、親同士の顔合わせの席で、とまで話を決めてきた事を聞いて、大人にになったものだ、と頼もしさを感じた。

2005-02-06 16:56:18 | 在宅の日々
平成12年の夏を過ぎた頃,次男が私の側に来て「僕、結婚しようと思うんだ」と切出した。
眠れない程按じていたのに、突然切出されると流石に狼狽してしまった。
聞きたい事が山ほどあったが、思う様にコミュニケーションが取れず、自分に苛立った。

それでも次男の話しから相手は同じ会社のS市のS空港勤務だという。
家族構成は父親は既に亡く、母親と3人姉妹の次女とわかった。
次男は、どうやって貰いに行ったら良いのか、で悩んでいて私に助言を求めて来た。

私の助言は簡単だった。
先様が、お前の申出に承諾してくれるか、どうかだ。
男の一番が懸かっている、肝を据えて行って来い、だった。
その際、私の病気の事も隠さず話す様に念を押した。
その返事次第で次のアクションが決まる事を教えた。
かなり緊張してる様子が手に取る様にわかった。
無理も無い話だ,何せ初めての事、自分の若かりし頃を思い出していた。

心配事

2005-02-05 18:29:14 | 在宅の日々
平成12年、在宅療養生活も4年目に入った。
これまで熱を出す事も無く、平穏な日々を過ごしていた。
ただ、残酷な事に病は確実に進行していて、僅かに動かせた右手の人差し指も動かなくなり、やっと見つけたコミュニケーションの手段としての「電子式人工喉頭」も舌の萎縮が進み使えなくなっていた。

私にとってALSの進行も気懸かりだが,それ以上に心配な事があった。
私には二人の息子がいる。歳は29と27だ。
これまで二人から結婚話しを聞いたことが無い。
相手がいないのだろうか、私に気を遣っての事だろうか,それとも父親が難病患者と言う事が影響しているのだろうか?
考えると夜も眠れなかった。