J’sてんてんてまり

はじまりは黎明期。今は、記憶と記録。

千の波 万の波

2006年12月08日 | 人にぞっこん
本枯れ鰹節、なると、マグロ、カツオ、サバ、アジ。。。。
焼津市は、海のうまい匂いがする。

平成17年度には、水揚げ日本一の焼津港を有する。

焼津では、「漁師」を「漁士」と書く。
海洋民族であることを誇りとし、勇敢に海に生きる志。

見崎吉男さんは、焼津に生まれた。
漁士が好きで、好きで、小学生の頃から、父の漁船に乗り込み、漁に出た。
学校が休みになる金曜の夜出航し、日曜の夜帰る漁があれば、ついていった。
そうして、同じ漁船に乗り込んだ漁士から、「オレよりうまく釣るな」といわれることを勲章にした。

当時は、駿河湾に少し出てゆけば、大漁のサバが釣れた。
今は魚が少なくなったなあ、と目の光が深くなる。

戦争が始まると、漁船がいなくなった。
物資や兵士を輸送して、揚子江に出向いていたらしい。
出て行った船は、還る事はなかった。

やがて戦争が終わり、新しい日本を作る波が押し寄せる。
見崎さんは、大好きな漁士に、未来を見る。
日本の遠洋漁業の黎明期。
漁労長になっていた。

漁労長。
船長以上の立場に立つ、遠洋漁業の総責任者。
乗組員を統括し、知識と経験を持って漁場に誘導し、航海と漁獲の責任を担う。
丙種ではなく、乙種以上の免許がないとなれないため、勉強も一生懸命にした。

世間には誤解もあるようで、船乗りは酒飲んだり、遊んだり、と思われたりもするけど、
そんな暇はなかったよ。
暇があれば、勉強していた。
なのに、酒を飲んでたと書かれた時は、辛かったなあ。

静かにゆったりと語る見崎さんの目の光が、また深くなる。

彼は、第五福竜丸の漁労長だった。



酒は好きだった。
が、第五福竜丸に乗船してからは、一滴も飲まずに人生をかけていた。

復興する日本の、遠洋漁業の、大事な始まりの時期。

暗いうちから港に行き、他の船の漁労長に声を掛け、盛んに情報を集める。
少しでも、多くの情報を仕入れ、航海に役立てる。
真剣に、真摯に、大好きな漁士としての誇りをかけて、船を、漁を、護る。

第五としたのは、吉数を選んだため。
「福竜丸」の「福」と「竜」、幸福を授ける竜は、海の神様、幸運の象徴。
願いを込めて、夢を求めて、希望に溢れて、未来へ船出した、漁船第五福竜丸。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1954年1月22日午前11時30分、第五福竜丸は焼津港を出航しました。
研ぎ澄まされた冷たい鋼の棒が背中にスーッと入ってくるようです。
港とお別れして海の人間となる、「日本の漁士」に変わる瞬間です。
もう一人の本当の自分が現れます。
日本漁業の黎明期。夜明けです。
若い力を乗せて母の港焼津港を後にしました。
私を信じて支えてくれた若い乗組員たちの表情が次第に海に似てきます。
勇敢に戦い尽くそう、思い出を残すぞ、明日に向かって勇者であろう、
そんな夢と希望を体いっぱいにして海の男になっていくのです。
海は千の波、万の波。
大空にはまた別の美しさ。
この大自然の変化に翻弄され、ある時は美しさに見とれるのです。
私は航海中、大空に輝く星たちを見つめてその日の夢を描き、天に祈り、作戦を立てるのです。
                             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「千の波 万の波」より



そして、3月1日ビキニ島の水爆実験に遭遇する。

その時の様子、命からがらようやく帰った焼津港でのこと、その後の扱いは、
今年4月出版された「千の波 万の波」に書かれている。

たどり着いた焼津港で、最後にふらふらになりながら陸に上がった見崎さんを、
「酒に酔った」と表現したスクープ記事の偏見と誤解。

遠洋マグロ延縄漁船の放射能汚染、続いて明らかになる他の遠洋マグロ漁船の水揚げする魚の汚染、
被害を受けた第五福竜丸は、水産業界に打撃をもたらした元凶のように見られる。

その間に、自分を含め、仲間たちは、次々に倒れてゆく。

責任は自分にある、と「迷惑をかけた」と思い悩んできた見崎さん。

広告のチラシの裏に、思いを綴って、大きな束になっていった。

やがて、原水爆禁止運動の旗頭のように取り扱われ、新たな波が押し寄せる。
それは、退院時に医師が見崎さんに継げた話を彷彿とさせた。

「もう大丈夫ということの退院ではありません。このことを忘れないで。
 病院では皆さんを守ってきましたが、一歩外に出れば、皆さんを待っている方々がいます。
 政党、団体の方々です。宗教関係の皆さんです。マスコミ、報道関係の皆さんです」

先生方のおっしゃるとおりでした、と、見崎さんは綴っている。

主治医の勧めで、退院後の連絡・親睦会として発足した「福竜会」の信条には、こうある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いかなる政党、団体、組織とも、同じ距離を持って付き合う。
政治的、社会的問題を福竜会に持ち込まない。
特定の政党団体の軍門に下り、降参したり、仲間になって日常の行動を共にすることはない。
その権威に寄りかかることもない。一個人としては自由。
(中略)
毅然として公正、中立の立場を貫く。
(中略)
常に応援してくれている、支持してくれている、多くの人たちに対して恩知らずの卑怯者にならないように。
感謝と謙虚さを置き去りにすることのない、愚直な正直な精神を貫く一人の市民として歩いていく。
これが、福竜会の初心(強い意思)で45年間歩いてきた道です。
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2003年5月12日、焼津中学校の生徒と見崎さんの対話集会が開かれた。

「今でも苦労はありますか」
この事件による個人的な苦労はありません。

「今はどんな気持ちで生活していますか」
人は10人いたら、10の考え方が出てきます。
気持ちを大きく持って、遠くを見て、特定の考え方に支配されず、
公明正大に私心なく判断できる精神力を養うこと。
大事なところはしっかりと自分の考えを話し、しっかりと相手の話も聞く。
「あなたと同じだから」話がまとまるのではない。
「あなたと違うから」こそ語り合い、耳をかたむけよう。
お互い心の扉を開いたとき
自分にとってこの人は大事な人だと分かってきます。
そして、豊かでおおらかな人間関係をつくることができます。



今日初めてスタジオで会った見崎さんは、
辛さを訴えること、何かを非難することも、世間に異を唱えることもなく、
静かに、笑顔で、柔らかく、話をしてくれた。
ただ、いかに自分が海が好きか、漁士を誇りに持っているか、嬉しそうに話してくれた。

否応なく、船を下りることになった人生。
それでも、なお、見崎さんは、航海を続けているのだろう。

深い深い瞳を見た。

瞬間、更に深い海を思わせる瞳の色になった時、思わず、意識もせず、声が詰まった。

私のしゃべり人生で、初めて生放送で声がかすれた瞬間だった。



中学生との対話集会での、もうヒトコマを記して、見崎さんの深い海を分かち合いたい。
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21世紀は地球の環境を考える時代です。地球の7割が海、3割が大陸と大小の島です。
世界で一番よい島は、日本列島です。

私は青年時代、船が清水港に入っている時は、毎日、東海大学の海洋学の教室に通ったのです。
昼は航海科、夜は天文学と。そうして遠洋漁業の漁士になっていきました。
本当は、もっと、ずっと教室に通って世界の海を航海するつもりでした。
学生ではありません。
大小さまざまな各船から、海に希望を持つ、やる気のある若い船員を受け入れて教育してくれたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「千の波 万の波」


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