J’sてんてんてまり

はじまりは黎明期。今は、記憶と記録。

ない

2009年07月06日 | ゆめ・夢

近所のおばさんが旅立った。
大好きな人だった。

自らの中にある、おばさんの記憶や、その関係性は、現実の中で再び繰り返されることは、もうない。
親しい人ほど、くっきりと脳内に刻まれたその人との回路がある。
わたしの中には、まだそれがあるのに、現実ではいきなり失われてしまった。

ぽっかりと穴の開いたような、とか、体の一部を失ったような、というのは、まったく言いえた表現だ。
外界を認知して、構築しなおすのが仕事の脳にとって、
今まで激しくフラッシュして活性化した対象が、なくなったのだ。

体の一部を現実に失った人の話を思い出した。

幻肢という症状がある。
失った手の先が猛烈に痒くなったり、ないはずの足が痛くて我慢できなかったり、
何かに触れるのを感じたり、抜いた歯や、神経治療で感じないはずの歯が痛んだり。
それは非常にリアルでしばしば起こり、何故こういう症状が起こるのかが研究された。

答えは、脳にあった。

体の一部は失われていても、脳内に構築されたカラダの地図は失われておらず、
現実には失われてしまった関係を、何とか修復しようとする脳の仕業らしい。
また、感覚が入力されてこないことから、カラダのほかの部位に充てはめられる、
再配置という症状も、確認されている。

そう考えると、いないはずの人を見たり、触れたりするという現象も、大いに頷ける。
脳は、失ったものを取り戻そうとし、更に貪欲に関係を求める。

この、生き物に埋め込まれた生きる力を活かして作られる義手がある。
筋肉を動かすために発生する、微弱な電位を検知して、動かす義手。
それは、失われたはずの幻肢を動かそうとすることによって生じる電位なのだ。


◎幻肢と通電義手の操作法について
http://www.rehab.go.jp/rehanews/japanese/No263/8_story.html
◎痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/pain-phantom.html
◎「心的現象論」を読む
http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kankei2.html
◎幻肢痛について Q&A
http://www2p.biglobe.ne.jp/~mujintho/qanda/013.htm



生命の進化と、それに伴う脳の発達。
生物は、外界をより正確に捉えようとして、脳の機能を向上させてきた。

私たちは、そのための視力や聴力を上げるのでなく、コミュニケーションや関係性、思考や論理を伸ばす方向に向かった。
つまり、脳内では、より生命維持に役立つよう再構築する方法をとった。
挙句、現実の認識と、脳内で組み立てられる再構築された認識とに、差異が生じることになった。

一人一人の認識が違い、誤解や闘争が起こるのも、このためだ。
器質的な脳の異常や、機能障害がなくしても、認識は、異なっている。
個人個人の頭に、私たちは閉じ込められている。

そこにはメリットもデメリットもある。

だからといって、不可思議な現象を全て、脳内の産物と片付ける気は毛頭ない。
なぜなら、私たちが意識している現実は、字のとおり、意識した部分だけであって、
意識に昇らない膨大な情報を、脳は、知っているはずだからだ。
それらを不要な情報として、意識に上る前に切り捨てることのないように、
自分自身で、脳により自由度を与えることが出来れば、もっと、人の能力は発揮されるだろうと思うからだ。

これが意識的に出来れば達人だが、人はまた、自分で自分に縛られてもいる。
悪いと知る癖を、分かっていても、直すのが難しいように。

簡単に出来ないからこそ、先人の行動に、ヒントが残されている。
過度の心的活動や身体活動の後、いつもの枠を飛び越える瞬間がある。
疲弊した心身、コントロールが緩んだ時、脳はジャンプする。
努力の先、自分の限界を超えた時に、何かを手に入れることが出来るのだろう。

その瞬間を、恒常的に、或いは意識的に起こすには、脳が協力してくれる。
スイッチを入れる、という決まりごとを、作ることだ。
自分なりの、儀式とも言うべき決まりごと。
イチローの、バッターボックスに於けるルーティンや日々の生活の送り方は、よく知られている。
これに慣れれば、達人になれる。

そして、人の世に数多く残る儀式は、様々なスイッチとして有効に働くように、練られて来た。

安定を求め、変化を好む、矛盾と欲求が、私たちを生かしてきた。
その特性を刺激する仕掛けとしての、儀式。

年中行事として、新たな一年を積み重ねながら、変わらぬ関係性を強めるもの、
たとえば、年越しや節句や祭り、存在の安定を確かめ、安心が能力を生むきっかけ。
門出にあたり、新たな関係性を築く始まりの儀式、誕生、結婚、入社、数々の完成式など、
つまりはその後の、いわば面倒なのだが、だからこそ期待もある作業を進められる、変化が生む活力のきっかけ。
または、培った関係性を終了する、切り替えのきっかけを与える儀式。

特に、死を悼む葬儀は、人類がヒトたる証として、考古学でも検証の一つになっている。
脳内に残った関係性が、その対象を失ったことを、自分自身に納得させる儀式。
そして、墓は、頭で納得しても心が理解しない、その距離感を、少しずつ埋めてゆく装置。

今こうして、まとまりのない話を綴っているのも、わたしの一つの儀式。
思考する私の傍らには、大好きな人を失った現実を受け入れがたく痛む感情が存在している。

もしも今夜、おばさんと話をしたら、私はそれを受け入れるだろう。
たとえばそれが、私には知りえない内容だったとしたら、
それが、まだ人類が認識しない人の持てる能力だろうと思う。

そうでなくても、いい。
理屈とは裏腹であろうとも失ったことを悲しむから、失ったという現実の認識が強化される。
脳は、変化を感じて、盛んに動き始める。
そしておばさんは、わたしの中で再配置されて、一緒にいてくれる存在の一人になる。
不思議なことに、このもう一つの現実の世界では、新たにより身近な人になる。
私はおばさんを取り込んだのだろうか、私がおばさんに取り込まれたのだろうか。

知る限りの現実の世界では、別れを言おう。
しかしそれは、本当の別れではないことを、私は認識するのだ。

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