戯言

暇潰し

回想、そして決別

2020-02-18 21:05:46 | 日記
なぜ将棋を続けてしまうのか

将棋がもたらす圧倒的不利益にもかかわらず、将棋を続けてしまう原因について考察する。考えられる原因として以下の5つの仮説を掲げる。

(ⅰ)暇つぶし
(ⅱ)ホメオスタシス
(ⅲ)断念への躊躇、心理的抵抗
(ⅳ)賭博者的依存症状
(ⅴ)将棋関係者への憎悪

(ⅰ)暇つぶし
最大の原因は「退屈」「暇」である。この傾向は、比較的時間が余りやすい週末に顕著にでる。端的に言うと、他にやることがない、だから仕方なく将棋でもして時間つぶすか、ということである。
この依存症状に拍車をかけているのがスマホの利便性である。実際、将棋というのはやろうと思えばスマホ片手に簡単にできるので、思考停止的に将棋を始めることができてしまう。このような利便性の発達が、前述の安易な暇つぶし手段としての認識に寄与しているのは明らかだ。

(ⅱ)ホメオスタシス
ご存じのように、人間にはホメオスタシスという性質がある。ここで詳しく紙面を割いて説明するのは面倒なので、かなり大雑把な定義をすると「現状を維持しようとする機能」である。このホメオスタシスが将棋を辞められない原因なのではないかという説。

(ⅲ)断念への躊躇・心理的抵抗
これは、他の原因に比べやや哲学的側面が強い。今まで長い年月をかけて積み上げてきたものを辞めるのは、やはり心理的には決断が難しい。これだけ時間を費やしたもの断念するのは、悔しさというのはどうしても伴う。

(ⅳ)賭博者的依存症状
平たく言えば「次こそうまくいくかもしれない」という、賭博者の心理構造に類似した病的要因。この心理構造の背後にあるのは盲目的楽観主義である。いわば理性が感情によって完全に抑え込まれている状態であり、事実に即した冷静な判断ができなくなっている。誇大妄想、自己の過大評価、刹那的快楽の追求などを原動力に事実無根の勝手な未来を思い描いている。これは、論理的裏付けに基づいた「ビジョン」とは全く異なる。ただの「夢」「幻想」「ファンタジー」の類である。

(ⅴ)将棋関係者への憎悪
過去に将棋関係者から受けた迫害に対する憎悪が将棋を惰性的に続けさせているという説。将棋関係者から理不尽な理由から迫害を受け、それ以来将棋関係者とは一切関わっていない。これからも永久に関わる気はない。将棋関係者と関わる気がないならもう辞めてしまえばいいではないかと言われればそれまでだが、そんな簡単に辞めれるならとっくに辞めている。逆説的だが、そのような憎悪や怨恨が将棋への執着や未練を惹起しているのだ。
過去に受けた仕打ちにたいする憎悪やトラウマといったものは簡単に消えることはない。過去の出来事への怨恨や憎悪を長引かせるのが、自分にとって何の利益もないことは、無論頭ではわかっている。ただ、理性は感情には基本的に勝てない。ベトナム戦争の帰還兵に「トラウマを引きずるのは合理的でない」と説いたところで水泡に帰すことは想像に難くない。


さて、これら5つの有力な原因に対し、将棋という呪縛から解放されるためには、どのような方策を講じる必要があるだろうか。

(ⅰ)の解決策は明白で、ほかに夢中になれるものを見つければよい(それを見つけるのが難しいのだが)。週末に顕著になるので、仕事に直結しないと意味がないとか、そういった雑念は度外視して純粋に趣味として楽しめるものを探求すればよい。新しい領域に果敢に挑戦していく積極性が肝要である。

(ⅱ)は、今まで続けてきた習慣を改めるため、当然療養期間は長期間にわたる。根気強く取り組んでいく必要があるため、相応の覚悟と粘り強さを要する。

(ⅲ)に関しては、(ⅰ)と同様、ほかに夢中になれるものが見つかれば、案外コロッと心変わりするように思う。元々将棋に特段の拘りもない。将棋より自分の人生にいい影響を与えたゲームなど腐るほどある。

(ⅳ)については、突拍子もない願望ではなく、あらゆる物事に対して現実的な視点を持つ癖をつけるのがよい。現実に即した実践的な方法を用いて現状を徐々に改善していくことを目指す姿勢が大切だろう。

(ⅴ)に関しては、これは年月とともに忘却の彼方に消えるのを祈るしかない。どうせ心療内科なんて行ったところで理解されるわけがない。ただ、将棋自体から離れれば忘れやすくはなると思う。将棋と直接的に関係はないが、幼少期に受けたトラウマの多くは、年月とともに記憶から消えていった。心にどんなに深い傷を受けてもいつかは回復するという事実は、未来に希望を与えてくれ、大きな心の支えになる。