何故に私はアメリカに 

人生の目標だと思ったものに向かって前進する 
その過程を通過すること自体が 実は人生の目標だった

頑張って生きた 私の両親

2019-12-07 00:09:30 | 日記
頑張りたく無い 私と
頑張り続けた 私の両親

昭和一桁
母が昭和3(1928)年4月18日生まれ
父が昭和4(1929)年1月5日生まれ

両親共当時の樺太からの引揚者だった

父は引き揚げ当時16歳 獣医の学校に通っていた
1945年8月
当時軍の徴用で 熊本に 石炭を掘りに出向いていた 祖父に替わり
祖母と弟二人妹三人を連れて 着の身着のまま 函館に引き揚げて来た

幕末最後の城として有名な 函館五稜郭に 樺太からの
引揚者住宅があった
仮設住宅であったろうに 私は幼い頃 そこに在った
父や母の実家 祖父母の家を訪ねたのを 記憶している

私が幼い頃 父は「函館サルベージ」という 海難救助の会社に勤めていた

その後 日ソ貿易の会社に移り 
亡くなるまでの間に 
「相互貿易」「住友商事」「?」
と3つ程会社を代わっている

私と妹を 精一杯愛し 育ててくれた
「お前たちに譲る 財産はない 教育だけだ 好きなことを勉強しろ」 
が口癖だった
自分が戦争のために 学校を諦めた影響が強いと思う

当時 幼稚園児だった私に 
「永世中立国のスイスでさえは 自分達を守るために ミサイルを持っているんだ」
と 丸腰の日本を批判した
 
父が家にいる日曜の朝 
「鉄腕アトム」 「時事放談(時事川柳?)」 「兼高かおる世界の旅」 
という番組を一緒に見ていた

今思うと 代わった育ち方をしたかもしれない

中学3年生の時 私の担任佐野先生は 歴史の先生だった
家庭訪問に来て たまたま家にいた父と話をし
尊敬の念を抱いて帰って行った
翌日学校で 
「お前がどうして そんなに変わっているのかが わかったような気がする」
とみんなの前で
「世界に出て仕事をしている人は 見方が違う」 と感動的に語っていた
佐野先生 生きておられるかな


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