ぼくは、堀端にある料理屋『川たつ』の犬である。名前は『麦』、一歳の柴犬だ。
その日ぼくは、黒木戸小路でさえ子に捕まった。朝めしのあと散歩に出ていたのだが、喫茶店『ルブラン』の前に差し掛かったところ、意表をついて伸びて来た二本のうでに抱え上げられてしまったのである。
「麦ちゃん元気だった、久しぶり。会いたかったわ」さえ子は、ぼくを膝の上に乗せた。
そういや、会うのは半年ぶりくらいである。懐かしい気がしないでもない。
「少し太ったんじゃないの、前より重くなったわ。本当に元気そうだわ麦ちゃん」さえ子はうれしそうである。
ぼくはおとなしく抱かれていた。顔を覗き込んだり鼻や頭を撫でてくるのに任せていた。
さえ子の家は花屋で、主人の店で祝いの座敷などがあると花を持ってくる。胡蝶蘭の鉢を抱えて車を下りてくるさえ子とは、半年前まではちょくちょく顔を合わせていた。
十月も半ばになって、じっとしていると寒いくらいだ。このアーケードの下は日陰だからよけい冷え冷えとしている。
「麦ちゃん寒いでしょ。もうすぐお店が開くからがまんしてね。それまで抱っこしててあげるから」
頭を撫でるさえ子の指は冷たかった。ジャンパーの下で細い身体が震えている。色の褪せたジーンズに梳かしてないような髪。まるで路頭に迷った家出娘みたいだ。
おいおい、しかし、なんだってんだ。ぼくは同情よりも苦笑いをせざるを得なかった。
さえ子の家はここからすぐそこなのだ。八百屋と惣菜店を途中に置いた先に『花ふじ』の看板が見えている。それでも喫茶店に入る必要があるのか。準備中の札が取れるのをわざわざ待っていなくても、ちょっと行けば家で温かいものが飲めるじゃないか。
が、さえ子は黒縁めがねの青白い顔を伏せたまま、動こうとしない。
どうしてまあ、すぐそこに家がある娘が、こんな薄暗い道端のベンチに座ってで身体を縮めていなきゃならんのか、さっぱり理由がわからなかった。
『花ふじ』のシャッターが開いて、腰の曲がった婆さんが箒を持って出て来た。さえ子の祖母である。
ちょうどよかった。さえ子に気が付いて呼んでくれれば、こっちは散歩に戻れる。朝飯の後の散歩は日課である。それを中断させられて、少々迷惑していたのだ。
ところが、さえ子はぼくを抱いたままベンチから立つと、建物の角へ回って身を隠した。
おい、なんだっていうんだ。家族と喧嘩でもして家に帰りづらい事情があるのか。だとしても、いい歳して意地を張ってるなよ。お前、寒くて風邪引きそうなくらい震えてるじゃないか。
吠えたらこっちに気がつくかと思って、ワンと声を出してみたが、婆さんは耳が遠いらしく、店の前にゴミが落ちていないか見ただけで、すぐに引っ込んでしまった。
さえ子はベンチに戻り、喫茶店の『準備中』の札が取れるのをまだ辛抱強く待っている。膝の上の座り心地はよくなかった。細い足が木の棒を二本並べたみたいでごつごつする。それに、なんというか、この女少々におった。年頃の娘に対して言っちゃわるいが、汗臭いというんだか垢臭いというんだか、一週間もキノコ採りに出掛けて戻ってきたときの、よれよれになった主人のような臭いがした。
三十分ほどそうしていただろうか。いいかげん解放してくれないかと思っていたら、通りかかった者があった。
「あら、さえちゃん。久しぶり」
「奈美ちゃん!」さえ子がいきなり立ち上がったので、自分は膝から落ちた。思いがけず乱暴な女だった。
その奈美をベンチの隣に座らせて、さえ子はさかんに喋った。二人は親しい間柄のようだ。さえ子に比べると奈美は身だしなみがよい。女としては大柄でスーツっぽい紺の上下を着ている。やり手の営業員風である。
ぼくはそのまま散歩の続きをはじめてもよかったのだが、さえ子があんまり熱心に話をしているものだから、ついその場で耳を傾けていた。
「社長が夜逃げしてそれっきりなの。離職証明も書けないから次の仕事も見つけられないし、もうさんざんだわ」
勤めていた造園会社が倒産したも同然なのに、失業保険ももらえず、わずかな貯金で暮らしている身らしい。浴室の給湯がこわれても直すのがもったいない生活らしく、
「それで、知り合いのお宅でシャワーを使わせてもらっていたのだけど、その人が旅行に出掛けちゃって、ここ数日はお風呂に入っていないの」だそうだ。
道理で汗くさかったわけだ。
「ご両親には相談したの?」
「だめよ。父さんたら私が外で働きたいって言ったら、カンカンに怒っちゃって、二度と戻って来るなって凄い剣幕だったんだもの」
さえ子は頭を振ってみせたあと、溜息をついた。
「でも、少しだけ助けてもらおうと思って、ここまで来たのだけど、勝手に出ちゃったわけだし、帰りにくいのよね」
「これからどうする気?」
「ここのマスター、私にはコーヒーをタダにしてくれるから、それ飲みながらゆっくり考えようと思って」
調子のいい自分に自分でも呆れるのか、さえ子はへらへら笑っていた。
「わたし、今こういう仕事をしているのよ」奈美が、抱えていたバッグから、カタログのような冊子を取りだした。
「アメリカのね、ベイカー・コック氏という人がはじめたビジネスのなの。代理店契約をして顧客を増やすとおカネが儲かる仕事よ」
広い面積のわりに小ぢんまりした目鼻の顔を近づけて、奈美が説明した。
「それって、マルチじゃないの」
「ただのマルチじゃないのよ、すごく儲かるの。ええとね、こういうしくみよ」
なんかヤバそうな雰囲気である。さえ子は爪を噛んでパンフレットを覗き込んでいる。
マルチという商売がどういうものか知らないが、あぶく銭が手に入るみたいな話は、たいがいが、それに手を出すと痛い目に合うというパターンだろう。
ぼくは『花ふじ』へ行って、さっき店から顔を出していた婆さんを呼んで来ようかと思った。婆さんから孫娘に、そんな危なっかしい商売には手を出さないよう、諫めてもらうべきではないかと。
が、二、三歩足をはこんだところで思い直した。
さえ子は『花ふじ』の一人娘で、学校の後も店の手伝いをして、世間に出たことがなかった女である。この際、社会の厳しさを経験しておくのもいいのではないか。と考えたのである。
なんだ仔犬のくせに、ずいぶん娑婆を知ったようなことを言うと思うかもしれない。が、料亭などというところに飼われていると、政治家から芸妓の姐さんまで、さまざまな人の口から出る世間の裏話が耳に入る。そういう談義に相伴しておれば、好むと好まざるとに関わらず、人生についてなにがしかの見識は生じるのである。
若いうちの苦労は買ってでもしろ。か? 人生は長い。若いうちにどんな経験でも積んだ方が勝ちだ。騙されて泣くことだって今のうちに経験しておけば、きっと将来のためになるだろう。失敗して挫折して人は大人になる。だれだってそうだ。
アーケードから出ると空は秋晴れである。
さえ子のこれからの人生がどうなるか。犬の寿命は十数年がいいところだから、ゆくゆくどうなっているかまで見届けることはできない。
はたして彼女が、このまま家を出て暮らしていくのか。はたまた家に戻り、いずれ婿をとって家業を継ぐことになるのかわからない。が、いったんは厳しい父親の反対を押し切って、自ら世間の荒海へ飛び出した女である。そういう強い気持があれば、どうやったって生きて行けるはずだ。
しばらく歩くと体が暖まり、足に軽快なリズムが出て来た。本日の散歩はこれからはじまる。さえ子の人生も、まずはこれからのようだ。
その日ぼくは、黒木戸小路でさえ子に捕まった。朝めしのあと散歩に出ていたのだが、喫茶店『ルブラン』の前に差し掛かったところ、意表をついて伸びて来た二本のうでに抱え上げられてしまったのである。
「麦ちゃん元気だった、久しぶり。会いたかったわ」さえ子は、ぼくを膝の上に乗せた。
そういや、会うのは半年ぶりくらいである。懐かしい気がしないでもない。
「少し太ったんじゃないの、前より重くなったわ。本当に元気そうだわ麦ちゃん」さえ子はうれしそうである。
ぼくはおとなしく抱かれていた。顔を覗き込んだり鼻や頭を撫でてくるのに任せていた。
さえ子の家は花屋で、主人の店で祝いの座敷などがあると花を持ってくる。胡蝶蘭の鉢を抱えて車を下りてくるさえ子とは、半年前まではちょくちょく顔を合わせていた。
十月も半ばになって、じっとしていると寒いくらいだ。このアーケードの下は日陰だからよけい冷え冷えとしている。
「麦ちゃん寒いでしょ。もうすぐお店が開くからがまんしてね。それまで抱っこしててあげるから」
頭を撫でるさえ子の指は冷たかった。ジャンパーの下で細い身体が震えている。色の褪せたジーンズに梳かしてないような髪。まるで路頭に迷った家出娘みたいだ。
おいおい、しかし、なんだってんだ。ぼくは同情よりも苦笑いをせざるを得なかった。
さえ子の家はここからすぐそこなのだ。八百屋と惣菜店を途中に置いた先に『花ふじ』の看板が見えている。それでも喫茶店に入る必要があるのか。準備中の札が取れるのをわざわざ待っていなくても、ちょっと行けば家で温かいものが飲めるじゃないか。
が、さえ子は黒縁めがねの青白い顔を伏せたまま、動こうとしない。
どうしてまあ、すぐそこに家がある娘が、こんな薄暗い道端のベンチに座ってで身体を縮めていなきゃならんのか、さっぱり理由がわからなかった。
『花ふじ』のシャッターが開いて、腰の曲がった婆さんが箒を持って出て来た。さえ子の祖母である。
ちょうどよかった。さえ子に気が付いて呼んでくれれば、こっちは散歩に戻れる。朝飯の後の散歩は日課である。それを中断させられて、少々迷惑していたのだ。
ところが、さえ子はぼくを抱いたままベンチから立つと、建物の角へ回って身を隠した。
おい、なんだっていうんだ。家族と喧嘩でもして家に帰りづらい事情があるのか。だとしても、いい歳して意地を張ってるなよ。お前、寒くて風邪引きそうなくらい震えてるじゃないか。
吠えたらこっちに気がつくかと思って、ワンと声を出してみたが、婆さんは耳が遠いらしく、店の前にゴミが落ちていないか見ただけで、すぐに引っ込んでしまった。
さえ子はベンチに戻り、喫茶店の『準備中』の札が取れるのをまだ辛抱強く待っている。膝の上の座り心地はよくなかった。細い足が木の棒を二本並べたみたいでごつごつする。それに、なんというか、この女少々におった。年頃の娘に対して言っちゃわるいが、汗臭いというんだか垢臭いというんだか、一週間もキノコ採りに出掛けて戻ってきたときの、よれよれになった主人のような臭いがした。
三十分ほどそうしていただろうか。いいかげん解放してくれないかと思っていたら、通りかかった者があった。
「あら、さえちゃん。久しぶり」
「奈美ちゃん!」さえ子がいきなり立ち上がったので、自分は膝から落ちた。思いがけず乱暴な女だった。
その奈美をベンチの隣に座らせて、さえ子はさかんに喋った。二人は親しい間柄のようだ。さえ子に比べると奈美は身だしなみがよい。女としては大柄でスーツっぽい紺の上下を着ている。やり手の営業員風である。
ぼくはそのまま散歩の続きをはじめてもよかったのだが、さえ子があんまり熱心に話をしているものだから、ついその場で耳を傾けていた。
「社長が夜逃げしてそれっきりなの。離職証明も書けないから次の仕事も見つけられないし、もうさんざんだわ」
勤めていた造園会社が倒産したも同然なのに、失業保険ももらえず、わずかな貯金で暮らしている身らしい。浴室の給湯がこわれても直すのがもったいない生活らしく、
「それで、知り合いのお宅でシャワーを使わせてもらっていたのだけど、その人が旅行に出掛けちゃって、ここ数日はお風呂に入っていないの」だそうだ。
道理で汗くさかったわけだ。
「ご両親には相談したの?」
「だめよ。父さんたら私が外で働きたいって言ったら、カンカンに怒っちゃって、二度と戻って来るなって凄い剣幕だったんだもの」
さえ子は頭を振ってみせたあと、溜息をついた。
「でも、少しだけ助けてもらおうと思って、ここまで来たのだけど、勝手に出ちゃったわけだし、帰りにくいのよね」
「これからどうする気?」
「ここのマスター、私にはコーヒーをタダにしてくれるから、それ飲みながらゆっくり考えようと思って」
調子のいい自分に自分でも呆れるのか、さえ子はへらへら笑っていた。
「わたし、今こういう仕事をしているのよ」奈美が、抱えていたバッグから、カタログのような冊子を取りだした。
「アメリカのね、ベイカー・コック氏という人がはじめたビジネスのなの。代理店契約をして顧客を増やすとおカネが儲かる仕事よ」
広い面積のわりに小ぢんまりした目鼻の顔を近づけて、奈美が説明した。
「それって、マルチじゃないの」
「ただのマルチじゃないのよ、すごく儲かるの。ええとね、こういうしくみよ」
なんかヤバそうな雰囲気である。さえ子は爪を噛んでパンフレットを覗き込んでいる。
マルチという商売がどういうものか知らないが、あぶく銭が手に入るみたいな話は、たいがいが、それに手を出すと痛い目に合うというパターンだろう。
ぼくは『花ふじ』へ行って、さっき店から顔を出していた婆さんを呼んで来ようかと思った。婆さんから孫娘に、そんな危なっかしい商売には手を出さないよう、諫めてもらうべきではないかと。
が、二、三歩足をはこんだところで思い直した。
さえ子は『花ふじ』の一人娘で、学校の後も店の手伝いをして、世間に出たことがなかった女である。この際、社会の厳しさを経験しておくのもいいのではないか。と考えたのである。
なんだ仔犬のくせに、ずいぶん娑婆を知ったようなことを言うと思うかもしれない。が、料亭などというところに飼われていると、政治家から芸妓の姐さんまで、さまざまな人の口から出る世間の裏話が耳に入る。そういう談義に相伴しておれば、好むと好まざるとに関わらず、人生についてなにがしかの見識は生じるのである。
若いうちの苦労は買ってでもしろ。か? 人生は長い。若いうちにどんな経験でも積んだ方が勝ちだ。騙されて泣くことだって今のうちに経験しておけば、きっと将来のためになるだろう。失敗して挫折して人は大人になる。だれだってそうだ。
アーケードから出ると空は秋晴れである。
さえ子のこれからの人生がどうなるか。犬の寿命は十数年がいいところだから、ゆくゆくどうなっているかまで見届けることはできない。
はたして彼女が、このまま家を出て暮らしていくのか。はたまた家に戻り、いずれ婿をとって家業を継ぐことになるのかわからない。が、いったんは厳しい父親の反対を押し切って、自ら世間の荒海へ飛び出した女である。そういう強い気持があれば、どうやったって生きて行けるはずだ。
しばらく歩くと体が暖まり、足に軽快なリズムが出て来た。本日の散歩はこれからはじまる。さえ子の人生も、まずはこれからのようだ。