走れ、麦公

興味のあることや、その時思ったことなどを書いています

秋光

2015-10-13 06:55:57 | 小説
 ぼくは、堀端にある料理屋『川たつ』の犬である。名前は『麦』、一歳の柴犬だ。
 その日ぼくは、黒木戸小路でさえ子に捕まった。朝めしのあと散歩に出ていたのだが、喫茶店『ルブラン』の前に差し掛かったところ、意表をついて伸びて来た二本のうでに抱え上げられてしまったのである。
「麦ちゃん元気だった、久しぶり。会いたかったわ」さえ子は、ぼくを膝の上に乗せた。
 そういや、会うのは半年ぶりくらいである。懐かしい気がしないでもない。
「少し太ったんじゃないの、前より重くなったわ。本当に元気そうだわ麦ちゃん」さえ子はうれしそうである。
 ぼくはおとなしく抱かれていた。顔を覗き込んだり鼻や頭を撫でてくるのに任せていた。
 さえ子の家は花屋で、主人の店で祝いの座敷などがあると花を持ってくる。胡蝶蘭の鉢を抱えて車を下りてくるさえ子とは、半年前まではちょくちょく顔を合わせていた。
 十月も半ばになって、じっとしていると寒いくらいだ。このアーケードの下は日陰だからよけい冷え冷えとしている。
「麦ちゃん寒いでしょ。もうすぐお店が開くからがまんしてね。それまで抱っこしててあげるから」  
 頭を撫でるさえ子の指は冷たかった。ジャンパーの下で細い身体が震えている。色の褪せたジーンズに梳かしてないような髪。まるで路頭に迷った家出娘みたいだ。
 おいおい、しかし、なんだってんだ。ぼくは同情よりも苦笑いをせざるを得なかった。
 さえ子の家はここからすぐそこなのだ。八百屋と惣菜店を途中に置いた先に『花ふじ』の看板が見えている。それでも喫茶店に入る必要があるのか。準備中の札が取れるのをわざわざ待っていなくても、ちょっと行けば家で温かいものが飲めるじゃないか。
 が、さえ子は黒縁めがねの青白い顔を伏せたまま、動こうとしない。
 どうしてまあ、すぐそこに家がある娘が、こんな薄暗い道端のベンチに座ってで身体を縮めていなきゃならんのか、さっぱり理由がわからなかった。
『花ふじ』のシャッターが開いて、腰の曲がった婆さんが箒を持って出て来た。さえ子の祖母である。
 ちょうどよかった。さえ子に気が付いて呼んでくれれば、こっちは散歩に戻れる。朝飯の後の散歩は日課である。それを中断させられて、少々迷惑していたのだ。
 ところが、さえ子はぼくを抱いたままベンチから立つと、建物の角へ回って身を隠した。
 おい、なんだっていうんだ。家族と喧嘩でもして家に帰りづらい事情があるのか。だとしても、いい歳して意地を張ってるなよ。お前、寒くて風邪引きそうなくらい震えてるじゃないか。
 吠えたらこっちに気がつくかと思って、ワンと声を出してみたが、婆さんは耳が遠いらしく、店の前にゴミが落ちていないか見ただけで、すぐに引っ込んでしまった。
 さえ子はベンチに戻り、喫茶店の『準備中』の札が取れるのをまだ辛抱強く待っている。膝の上の座り心地はよくなかった。細い足が木の棒を二本並べたみたいでごつごつする。それに、なんというか、この女少々におった。年頃の娘に対して言っちゃわるいが、汗臭いというんだか垢臭いというんだか、一週間もキノコ採りに出掛けて戻ってきたときの、よれよれになった主人のような臭いがした。
 三十分ほどそうしていただろうか。いいかげん解放してくれないかと思っていたら、通りかかった者があった。
「あら、さえちゃん。久しぶり」
「奈美ちゃん!」さえ子がいきなり立ち上がったので、自分は膝から落ちた。思いがけず乱暴な女だった。
 その奈美をベンチの隣に座らせて、さえ子はさかんに喋った。二人は親しい間柄のようだ。さえ子に比べると奈美は身だしなみがよい。女としては大柄でスーツっぽい紺の上下を着ている。やり手の営業員風である。
 ぼくはそのまま散歩の続きをはじめてもよかったのだが、さえ子があんまり熱心に話をしているものだから、ついその場で耳を傾けていた。
「社長が夜逃げしてそれっきりなの。離職証明も書けないから次の仕事も見つけられないし、もうさんざんだわ」
 勤めていた造園会社が倒産したも同然なのに、失業保険ももらえず、わずかな貯金で暮らしている身らしい。浴室の給湯がこわれても直すのがもったいない生活らしく、
「それで、知り合いのお宅でシャワーを使わせてもらっていたのだけど、その人が旅行に出掛けちゃって、ここ数日はお風呂に入っていないの」だそうだ。
 道理で汗くさかったわけだ。
「ご両親には相談したの?」
「だめよ。父さんたら私が外で働きたいって言ったら、カンカンに怒っちゃって、二度と戻って来るなって凄い剣幕だったんだもの」
 さえ子は頭を振ってみせたあと、溜息をついた。
「でも、少しだけ助けてもらおうと思って、ここまで来たのだけど、勝手に出ちゃったわけだし、帰りにくいのよね」
「これからどうする気?」
「ここのマスター、私にはコーヒーをタダにしてくれるから、それ飲みながらゆっくり考えようと思って」
 調子のいい自分に自分でも呆れるのか、さえ子はへらへら笑っていた。
「わたし、今こういう仕事をしているのよ」奈美が、抱えていたバッグから、カタログのような冊子を取りだした。
「アメリカのね、ベイカー・コック氏という人がはじめたビジネスのなの。代理店契約をして顧客を増やすとおカネが儲かる仕事よ」
 広い面積のわりに小ぢんまりした目鼻の顔を近づけて、奈美が説明した。
「それって、マルチじゃないの」
「ただのマルチじゃないのよ、すごく儲かるの。ええとね、こういうしくみよ」
 なんかヤバそうな雰囲気である。さえ子は爪を噛んでパンフレットを覗き込んでいる。
 マルチという商売がどういうものか知らないが、あぶく銭が手に入るみたいな話は、たいがいが、それに手を出すと痛い目に合うというパターンだろう。
 ぼくは『花ふじ』へ行って、さっき店から顔を出していた婆さんを呼んで来ようかと思った。婆さんから孫娘に、そんな危なっかしい商売には手を出さないよう、諫めてもらうべきではないかと。
 が、二、三歩足をはこんだところで思い直した。
 さえ子は『花ふじ』の一人娘で、学校の後も店の手伝いをして、世間に出たことがなかった女である。この際、社会の厳しさを経験しておくのもいいのではないか。と考えたのである。
 なんだ仔犬のくせに、ずいぶん娑婆を知ったようなことを言うと思うかもしれない。が、料亭などというところに飼われていると、政治家から芸妓の姐さんまで、さまざまな人の口から出る世間の裏話が耳に入る。そういう談義に相伴しておれば、好むと好まざるとに関わらず、人生についてなにがしかの見識は生じるのである。
 若いうちの苦労は買ってでもしろ。か? 人生は長い。若いうちにどんな経験でも積んだ方が勝ちだ。騙されて泣くことだって今のうちに経験しておけば、きっと将来のためになるだろう。失敗して挫折して人は大人になる。だれだってそうだ。

 アーケードから出ると空は秋晴れである。
 さえ子のこれからの人生がどうなるか。犬の寿命は十数年がいいところだから、ゆくゆくどうなっているかまで見届けることはできない。
 はたして彼女が、このまま家を出て暮らしていくのか。はたまた家に戻り、いずれ婿をとって家業を継ぐことになるのかわからない。が、いったんは厳しい父親の反対を押し切って、自ら世間の荒海へ飛び出した女である。そういう強い気持があれば、どうやったって生きて行けるはずだ。
 しばらく歩くと体が暖まり、足に軽快なリズムが出て来た。本日の散歩はこれからはじまる。さえ子の人生も、まずはこれからのようだ。
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2015-10-02 17:31:56 | 小説
読書の秋というが、体を動かしたくなる季節でもある。おれは唐突に『自家製ワインを作りたい』と思った。

 葡萄を育てて発酵させて樽に詰めて、そしてちょうど飲み頃になったところを味わう。なんて幸せ。そう考えるとじっとしていられなくなった。
 読みかけだったホームズを放り出して、ワインの特集記事が載っていた雑誌を探した。
 ワインを作るにはそれ専用の葡萄が要るのだそうだ。カベルネ・ソーヴィニヨンだのピノ・ノワールだの、聞いたこともない。とにかく俺の田舎の家にある二本ばかりのキャンベルの黒葡萄の木ではだめなようだ。
 産地はフランスやイタリアだし、苗木を手に入れるのはたいへんだ。甲府のなんとかいうワイナリーにはそういう葡萄の気があるというんだが・・・、盗みに入ろうかと、ちょっと本気で思った。
 
 まあ試しに、なんでもいいから葡萄を買って酒にしてみようと、窓から顔を出して通りの八百屋を眺めたら、よぼよぼの爺さんが店番をしている。
「あ、やめとこ。あそこには萎んだ山葡萄くらいしか売ってないな」笑って言ったが、その言葉の中においしいキーワードがあることに気が付いた。
「そうだ、山葡萄があるじゃないか!」
 山葡萄なら山へ行けば自然に生えている。引っこ抜いて来てもいいし実だけ集めて来てもいい。ふふふ、グッドアイディアではないか。

 さっそく醸造にくわしいやつに電話をした。
「おい、山葡萄はワインになるか」
「なるよ。なるけどお前、へんな商売考えてるんじゃないよな。バクチみたいなことやめとけよ。競馬はもうやめたんだろ」
「うるせーよ」

 ビジネスチャンスって、ちょっとした思い付きからだよな、アハハハ。山葡萄のワインか、うまいだろうな。誰も作ってねえよな。
 きっといいワインができるぞ。ロマネ・コンティなんて一本百万以上するのもあるからな、高値で売れれば競馬の元手に困らねーな。

 ウキウキしながら、販路をネットで検索した。もう商売にするつもりだった。ところが、山葡萄のワインはもうあった。とっくに商品になっていた。
 「山葡萄のワイン」で検索するといくらでも出て来る。しかも2、3千円くらいだ。
いくらも儲からない。やれやれだ。

 おー、しょせん俺が思いつくような事なんて、とっくに誰かが先に思いついているんだよね。骨折り損な感覚が痛かった。
 
 俺は頭をふりふり、再び読書に戻った。シャーロックホームズの冒険。
『ワトスン、そこのサイドボードにヤマウズラの冷肉とモンラッシェの一瓶がある。それで英気を養って元気いっぱい出掛けよう!』
「ちぇ、いいワイン飲んでんじゃねーよ、ちゃんとまじめに仕事しろよ!」なんかブツブツ言ってる俺がいた。
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シャーク斎藤

2015-10-02 17:30:11 | 小説
老人会に上座を用意されて、機嫌よく酒を注いでもらっているのは、一年生市会議員の斎藤ひろしである。みなはシャーク斎藤と呼ぶ。プロレス団体のレスラーをしていたのだ。
 地方自治とか政治のことは何も知らない。たまたま立候補したら当選してしまった議員だ。

 ど素人の議員先生だったが、出馬地区の老人会は大喜びした。彼が議会内の福祉政策委員会に所属したからである。老人福祉を主導する委員会だ。役所内に大きな権限を持っている。さっそく『シャーク先生を囲む会』という後援会を組織して自分たちの後ろ盾にした。
 おかげで、この地区には老人バスの停留所が増えたし、風呂屋の無料入浴券も他よりよけいに配られた。議員を抱えていれば役所は言うことを聞く。いいことづくめである。
 ということで、地方政治家としての能力が何もないに等しいにも関わらず、斎藤に宴席の上座が用意されるのもわかろうというものである。

「やあ、ありがとう」
 好物の胡麻豆腐に斎藤は感激した。
「存分に召し上がってください。先生のためなら世界中の胡麻が無くなるまでここの主人に作らせますから」
 老人会会長高浜清彦は、重宝この上ない市会議員の先生にほくほく顔だった。
 斎藤は立ち上がって、集まった老人たちに一礼した。
「不肖斎藤、みなさんのために、粉骨砕身働きます」と、筋肉が背広を着たような丸っこい体を折り曲げて挨拶した。
「シャーク先生、万歳!」
 斎藤はシャークの名で呼ばれることを喜んでいた。愛称で呼んでもらえるほど地元のみんなに愛されている気がしたのである。
「よっ、シャーク斎藤!」
 リングネームの掛け声が掛かり、斎藤は両腕に力こぶを作ってみせた。
 盛大な拍手の後は、飲めや歌えの盛り上がりになった。

 そこへ、市役所の人間が二人入ってきた。老人福祉課の職員で斎藤が呼びつけていたのである。
 近く建つ予定の老人会館の土地買収を市が行っていたのだが、地主が因業で、法外な金額をふっかけてきていた。
「出向いて掛け合ってきましたが、話になりませんでした」
 若い方の職員が大げさに首をふってみせた。
「実勢価格の二倍で買うことなんて、とてもとても」
 鞄から書類を出して、斎藤の前に置き、福祉常任委員の承認を得たという認めを貰おうとした。
「買えばいいじゃないか」
「え?」職員は不審げに顔を上げた。
 斎藤は大真面目である。
「いいからその土地を買ってくればよかったじゃないか」
「先生ご冗談を。だって二倍ですよ、一億だなんて言うんです。ばかばかしい。市民の血税を五千万も無駄に使えと言うのですか」
 若い職員は認めを急かして、思わず書類を叩いて差し出した。
「きみ、それが議員の俺に対する態度かね」
 斎藤は、気分を損ねた顔をして、ふんと横を向いた。
「こらッ」
 年配の職員があわてて若い職員を咎めた。
 市の一職員ふぜいと選挙で選ばれた議員とでは、身分がちがうのである。
「あんた達、そんな座敷の真ん中に座っていたら、仲居さんが通るのにじゃまじゃろう。もっと隅に寄らんかね」
 二人をじゃまにして、老人がとがった声を出した。
「市民のための職員のくせに、行儀も知らないのか」
 老人たちが歌をやめて、白い目で不平を言った。

「えへん」斎藤が咳払いして二人の職員に向き直った。
「老人会館ができれば、ここのお年寄りのみさんが喜ぶのだ。いくらでもいいから、この際買ってきたまえ」
 土地買収ができないと、今年の予算案に盛り込めず、工期が遅れてしまうのだ。
「そうそう、早い方がええ。わしらは先がわからん年寄りじゃからのう」
「娯楽室はカラオケ付きがええのう、今から楽しみじゃ」
 老人たちは、すでに会館が出来た気になっているようだった。
「みなさんは平気なのですか。ぼくは、そんな土地は買わない方が自治体の良識だと思います。税金の無駄遣いはできません」
 若い職員が断じるように言って、顔を真っ赤にした。
「若いの、あんたはわしら年寄りをいじめる気かいのう」
「市民を守る役所の人間のくせにあきれたものじゃ」
「老い先みじかいわしらに、カラオケもさせてくれない気じゃ」
 非難の言葉と不平が、老人たちから溢れた。
「財源はみなさんの税金ですよ!わかっていますか、もったいないと思いませんか」
「わしらはもう現役を退職してるでのう、税金というほどのものは納めておらん」
 とたん、座敷に笑いが起こった。
「おい、もうやめておけ。相手は社会的に守られるべき老人のみなさんだ」
 思わず立ち上がりかけた若い職員を、年配の職員がなだめて制した。
「じゃあ、話は決まったな」
 職員二人はブルドーザーのような斎藤ひろしに、座敷から押し出されてしまった。
「シャーク斎藤先生、バンザイ!」歓声が上がった。
「ありがとうありがとう。礼はいいから、今度の選挙のときも清き一票をお願いします」
「先生は器の大きなお方じゃ、わしらみんなで応援しますぞ」
「ありがとうありがとう。よし、次の選挙は国政に出馬するぞ」
「大物じゃ、大物じゃ!」
「シャーク先生万歳、いずれは大臣じゃ!」

 料理屋の宴会場から、鬨の声に似た大きな歓声がどよもしていた。
「後援会に利益誘導して票を買う。利益を受けた者はよろこび、議員は当選を繰り返す。なんてずぶずぶの関係なんだ」
 若い職員が腹立たし気に言った。
「しかたないさ、それがこの地方の、というか全国どこの市町村でも当たり前の事なのじゃないか」
 年配の職員は冷めた顔つきだった。
「それにしても、斎藤議員は、自分が尊敬されてちやほやされているのではなくて、単に重宝がられているってことを知っていないのでしょうか」
「だから、シャークなんだよ。いまだに昔のリングネームがついて回っているのは、あの人たちにとったら、斎藤議員の頭は自分たちが利用しやすい、せいぜいサメ並みってことなんだろ」

『シャーク先生、万歳!』
 宴会場から、歓声がまだ聞こえていた。
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小さなてのひら

2015-10-02 17:28:24 | 小説
その苦情はもっともで、清は謝るしかなかった。息子の裕太が学校で、近所の電気店の娘の亜季に、無理矢理キスをしようとしたとかなんとか、とにかくそんな悪さをしたらしいのだ。
 ここは繁華街の裏通りで、清がやっているラーメン店の前の道だ、苦情を持ち込んで来ているのは、ここから五軒先の電気屋の奥さんだった。

「親のあんたがちゃんと注意してくれなきゃ、学校へ連絡するしかありませんよ」
 電気店の奥さんは、厳しい態度でキイキイ声を出した。
「まことに、なんとも申し訳ない。今後二度とそんなことはさせませんから」
 清は頭を下げた。息子のみっともない行為に顔が汗を噴いていた。

「それじゃ、たしかにお願いしましたよ」と、電気店の奥さんは不機嫌なまま踵を返して行った。
 清が顔を上げたとき、店の脇道から裕太が学生カバンを持って出て来た。
「ちょっとこっちへ来い!」清は声を張り上げた。

 けげんそうに、しかし、面倒くさそうな態度でやって来た裕太は、背中を見せて帰って行く電気店の奥さんに気付いて、すぐに事情を察したようだった。
「ちッ、亜季のやつ。ババアにチクったのかよ」
「お前、亜季ちゃんに何をした。言ってみろ!」
「あのことだろ、冗談に決まってるじゃん。亜季がどうしたって」
「冗談で済むか、ばか」
 清はげんこつを振り上げた。
 いつもの清なら、うむを言わせず頭の一つも張っていただろう。が、このとき清は、どうしてだか躊躇した。
 裕太は黙っていた。そして上目遣いで睨んでいる。

 その濃い眉毛が、父親である自分の眉とそっくりだった。
 子供が成長するのは早い。子供だと思っていたのがあっという間に大人になる。裕太ももう中学三年になった。
 近頃の裕太は、眉毛だけではない、頬骨の張った顔の作りや、利かん気らしく肩の反った感じが自分によく似てきていた。親子であるから当たり前といえばそうなのだが。
「お前、悪いと思ってないのか」
「知らねえよ」
 そっぽを向いた返事も、自分の日頃の口癖のままである。
 生意気な態度は、年頃の反抗期のせいなのだろうが、やがてそんな時期も過ぎて、裕太はこれから、ますます自分に似てくるのだろうか。そして、何もかもが俺とそっくりな男になるのだろうか。ふとそんな想像に駆られて、清はちょっと空恐ろしいものを感じた。

 清が決断をしかねていると、
「くそ親父、殴りたいなら殴れよ」裕太が言った。ふくれっ面をして口を尖らせるのは小さい頃からのくせだった。

 清はにわかに怒る元気が挫けた。
 「女の子にいたずらするのが恥ずかしいことだって知っているな。二度とするんじゃないぞ」
 上げていた手を降ろした。

 裕太は舌打ちを残して、表通りの方へ駈けて行った。清は店に入ろうとしたが、すぐ「ちくしょう」という裕太の声が聞こえて来た。
「どうした」
 清が表通りへ出て行ってみると、裕太が地団太を踏んで、停留所を遠ざかって行くバスを見送っていた。
「なんだ、バスに乗るつもりだったのか。どこへ行こうとしていたんだ。まさかバスケじゃないな」
「よく言ってくれるよ。親父が辞めさせたんだろ。行くところは塾に決まってるじゃないか」
 裕太はバスを逃した腹立ちからか、それとも無理解な親への憤懣からか、顔を真っ赤にしていた。

「そうか、そうだったな」
 高校受験に集中させるために、ジュニアリーグのバスケットクラブに退部届を出させたのはこの夏休みが終わった日だった。そのとき裕太は食事もろくにせず、三日も口を利かなかった。
 こっそり部屋を覗くと、膝を抱えて泣いているようだった。が、結局逆らいはしなかった。親の自分が言うことを、ちゃんと聞き分けたのだ。

 歩道の端に自転車が何台か停めてあった。清は鍵がついていない一台を持ち上げた。
「これに乗って行け」
「誰のだよ。俺そんな自転車知らないよ」
「塾の時間に間に合わないと困るんじゃないのか、テストとか毎日やるんだろ」
「そうだけど」
 戸惑う裕太を急かし、清は裕太が跨った自転車の後ろをつかんで、通りへ押し出してやった。
 自転車はバスを追うようにして、銀杏並木の道を走って行った。

 とうとう裕太を叱り損ねてしまった。叱りつけるどころか、こっちが自転車盗の不良行為をしてしまった。
 まあ、いいさ。
「転ぶんじゃないぞ、気を付けて行けよ」
 遠ざかって行く自転車に手を振った。

「あんた、人のを勝手に使ったら泥棒じゃないか」
 遅れてバス停にやって来て、さっきから清たち親子を見ていたワイシャツの男が、帰ろうとする清を引き留めて声をかけた。
「何が悪い」
 清は男に向き直った。
「あんた、他人の自転車に自分の子を乗せたじゃないかね。勝手なことをしたらだめだろう」
「何が悪いってんだ。迷惑駐車をしているほうがよほど悪いだろ。盗まれたくなかったら、鍵をつけておけばいいじゃないか」
 怒鳴りつけるように言うと、男は後ずさりした。清は仕事着の白いエプロンの胸を反らして、呆れ顔の男の前を通った。

 路地に戻って、清は古い家並の中にある自分の小さなラーメン店を眺めた。景気が悪い近頃では、汚れた看板を新調するのもままならない。
「俺にもう少し、商売の才があればな」五分刈りの頭を掻いた。

 俺の人生はこんなはずじゃなかったかもしれない。だが、そばを打つくらいしか俺には能がなかった。だが裕太はちがう。どんなに顔かたちが俺に似て来たって、あいつはあいつ、俺とは違ってこれからがある。ちゃんと勉強すればきっと立派な人間になってくれる。そんな思いがした。
 他人の自転車を勝手に使うくらいがなんだい。世の中なんて正直なだけじゃ渡っていけないじゃないか。
 そうだよ、俺より悪い事をしているやつが世の中には大勢いる。
 清は頭に血が上って来て、路上に唾を吐いた。それに、そうさ。裕太だって、あいつも年頃なんだし、女の子をかまうことだってあるさ。
裕太が勉強さえしてくれれば、世間の事なんかどうだっていい。

 口笛を吹いてエプロンを締めなおしたとき、女の子が一人路地へ入ってきた。学校帰りの亜季だった。裕太が悪さをしかけた相手である。

 亜季はていねいにお辞儀した。清も挨拶し、裕太に代わって謝ろうとした。が、口から出たのは、
「あのことは、お母さんにあやまっておいたから」
 素っ気のない、他人事のように言う言葉だった。
 清は自分の思いがけない態度に驚いた。親として息子が彼女にかけた迷惑を詫びる責任があったはずではないか。それなのに。

 亜季は恥ずかしそうにちょこんと頭を下げて、去って行った。
 清はしばらくそこに立ったままだった。
 俺はどうしてあの子にちゃんと謝らなかったのだろう、いや、なんで謝れなかったのだろう。

 急に、自分がなにか大きな間違いをしたような気がして、不安げに見回すと、店の換気扇から、すっかり煮詰まってしまったらしい仕込みのスープのにおいが、狭い路次に欝々と漂って来ていた。
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安保の夜2

2015-10-02 17:26:40 | 小説
 国会議事堂正面玄関前、安保反対の大群衆の先頭に立った、正義の美少女戦士マジカルゆゆりんは、最新鋭国産10式戦車の上でブリーフ一枚の姿になったイシバと対峙していた。

 こんなヘンタイと、美少女ヒロインの私がどうして戦わなくてはならないの。ゆゆりんは苦し気に目をそむけて自問をした。
 しかし、後ろにひしめく群衆は、立ちふさがるイシバを倒して、議事堂への道を開いてくれることを彼女に期待している。
 ヒロインのかなしい定めである。敵は選べない、こんなやつでも。そして、そう、私たちの未来をこんな恥知らずのオヤジたちに決めさせてはならない。
「イシバ、あなたを倒す!」

「政権に抗議をするのは民主主義の権利でしょう。それを民意というのでしょう、否定はしません。でもね」
 イシバはさらに諭すように言った。
「戦争に反対しているあなたたちが、暴力で事態を解決しようというのは、どういうことなのでしょう。それはあなたたちの言ってることと、今現在やろうとしていることが、矛盾しているということなのではないのでしょうか」
 いかにも持って回ったような言い方だったが、しかししごく正当ではあるこの指摘に、群衆が、うッ、と痛いところを突かれて動揺した一瞬のことだった。
 スルリと車内に潜り込んだイシバは、いきなり戦車を起動した。カタパルトが唸りを上げ、車体が回転して群衆のほうを向いた。ヤッホーと言う声が戦車の中から聞こえた。
 ホント、戦車が好きなんだなお前!

「イシバ、うらわかき少女の前でパンツ一つになった無礼を、今すぐ謝るんなら許してあげてもよかったけど、あなたにその気はないようね」
 砲を上げた戦車に向かって、ゆゆりんは決戦の指を突きつけた。その勇ましい姿に、群衆はそれまでの熱気を一気に取り戻した。
「やっちまえ、ゆゆりん。そうだイシバを倒せ。俺たちは国会へ乗り込むぞ!」
 
 そのとき、一人の青年が叫んだ。
「ゆゆりん、だめです。あの戦車とだけは戦ってはだめです!」
 眼鏡をかけ、ワイシャツの胸にミニタリーマガジンを抱いた、やせた青年だった。
「あら、ありがとう。でも、あなたはどんなアニメを観ているのかしら、『正義のヒロイン、マジカルゆゆりん』は土曜の午後6時からよッ」
 ゆゆりんは、長い髪をかき上げると、地面を蹴って軽々と空中へ跳んだ。

「グラビガ!!」
 容赦のない最強魔法がイシバの10式戦車を襲った。方向直下型引力の凄まじいエネルギーが天から戦車を押しつぶした。44tの鋼鉄の巨体が金属の軋む音を立てて、土煙のなかにたちまち消えて見えなくなった。
「すげえーッ」
「いきなりだ」
「なんて自由な女だ」

 勝負は呆気なかった。ゆゆりんはイシバオヤジのブリーフ姿を見せられたショックでかなり本気だったようだ。
「お礼はいいわ、みなさん。でも土曜の夜はゆゆりんのアニメ見てね」
 ゆゆりんはみんなと握手をして回った。笑顔のかわいい中学生である。

 しかし、そんな歓喜もつかのま、破壊されたかに見えたイシバの10式戦車が、グラビガのエネルギー柱をはねのけて、地中からガガガガッと跳び上がるようにして躍り出た。
「え、壊れてなかったの。ぬか喜びだったの?なによ」
 現れた無疵の10式戦車に、ゆゆりんはひるんだ。

「そいつの装甲は、二菱が開発した炭素繊維とセラミックを含んだものが使われていてめっちゃ頑丈なんです。列強国の砲弾にもすべて耐えてしまうのです」
 ミニタリーマガジンを抱えた眼鏡の青年が、震える声で叫んだ。

「えいッ、えいッ、えい!!」
 ゆゆりんが連発するグラビガを、イシバの10式戦車は、戦車とは思えない足回りでかわした。
 垂直に落ちるグラビガは一発も当たらない。
「それが、その戦車の特徴なんです。圧倒的な機動性、スピードがあって旧来の戦車よりずっと軽量で小回りが利くんです。時速70?で動き回る怪物なんです。そ、そしてなにより脅威なのは、国産軍事技術の粋を集めて開発した、ジャイロ照準機能による世界一の砲安定装置。一度狙った目標物は、決して、決して…、その砲撃から逃れることはできない…」
 眼鏡の青年は、みずからのことばの恐ろしさにふるえて、立ったまま卒倒した。
 イシバの10式戦車は、激しく動き回りながら、しかし、そのライフル砲身の筒先が、ピタリとゆゆりんを捕捉してはなさない。

「なによ、なによ、しつこいわね。なによー」
 ゆゆりんを照準に捕らえたまま10式戦車は走る。目標をロックオンしたまま、自在に動き回っているのだ。

 そして、ついに砲が火を噴いた。44口径120ミリ滑空砲である。砲弾の威力は世界一頑丈だといわれるアメリカ製エイブラムス戦車の、分厚い劣化ウラン装甲さえ貫く。

 ゆゆりんは倒れた。えび茶色の制服の美少女戦士は、地面にのびてしまった。
 そして、美少女戦士の敗北とともに、安保反対の民意は、ここに終焉を告げた。

「国の軍事技術を軽くみてはいけませんよ」
 カパッと開いた砲塔の蓋から、イシバが顔を出した。
 
 正義は潰えた。失意の群衆は、ただ、降り出した東京の夜の雨を仰いでいた。

「民意がすなわち正義でしょうか。正義とは現実を正しく見て最善の道を選ぶことでしょう。戦争がない世の中は望ましいことです。しかし、現実に戦争がある以上、われわれはそれからみなさんを守らなければならないのです。国際情勢と向き合っているわれわれ政治家のほうが、諸君の思い込みとはうらはらによほど理性的であり、そして、それが正義というのではないでしょうか」

 救急車のストレッチャーで搬ばれていくゆゆりんを、鼻をほじりながら見ていたイシバが、ところでと、正面に向き直って、誰に問うでもなく言った。
「あなた、あなたのことです。リリカのことを忘れていたでしょう!」
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