走れ、麦公

興味のあることや、その時思ったことなどを書いています

ブレーメン

2016-04-09 14:41:03 | 小説
 改札を出ると、岸本怜美が駅の出口に立っているのが目に入った。俺は慌てて近くの柱に身を隠した。さいわいこっちを見ていない。怜美の目は駅前のロータリーのほうへ向いている。
 怜美は俺が所属している課の上司だから、どこかで会えば会釈の一つもして挨拶しなければならない。が、俺は今日、会社をズル欠してしまっている。中山競馬場へ行っていた。春の重賞レースが抗いがたい力で俺を引き寄せてしまったのだ。これはしかたない。が、急な腹痛のため家で寝ています。と連絡したのが、武蔵野線のホームから出てきたところを見られたら、嘘がバレてしまう。バレたら事である。
 恐る恐る、柱のかげから怜美のようすを観察した。髪は長めで先のほうが肩の下まである。横顔だったが、大きな瞳、ちょっと尖った形のいい唇。美人だ。そのまま女性誌のモデルとかできちゃうんじゃないか。と思えるくらい。が、しかし、鑑賞に浸っている場合ではない。顔がいいわりに怜美は性格がめっちゃきつい。企画課では宣伝班の班長で、別名『オニ長』と呼ばれている。同僚の岡田なんか、出先のイベント会場でうっかり居眠りしたために、肋骨をへし折られているのだ。
 背中が冷たい汗でびっしょり濡れた。見つかったらどうしよう。とはいえ、怖いことと男心ってのはまたちがったもので、俺のハートは怜美の美貌にくすぐられる。ブルブル震えながらも、なんだかいい気持ちになってしまう。ああホントいい女だよなと感嘆したとき、くわえていた焼き鳥の串がよだれと一緒に落ちた。
 突然、怜美が動いた。足早に向かって行く先を見ると、駅前のタクシー乗り場で、そこに男が二人いる。驚いたことに二人ともよく知った顔だ。というか会社の上役たちだ。横幅のある大きい体のハゲ頭は熊川専務だし、細くて背丈のある黒縁眼鏡は課長の鹿島である。怜美班長が仕事で二人と待ち合わせ? と思ったが、どうやらそうではないようだ。上役二人はどこかの宴会の帰りらしく、酔っぱらって上機嫌だ。これから仕事の打ち合わせって様子ではない。そして、彼らに近づいて行く怜美は、肩をそびやかして腕を振り、怒っているようなのである。
「熊川専務、お話があります!」
 怜美の言葉に、それまでにこやかだった熊川専務の顔色が一変した。
「南野ひなのことです、どうするおつもりなのかはっきりお聞きしたいのです」
 詰め寄るように言う。
「なんだねきみは、こんなところまで追いかけて来たのか」
 黒川専務が、いかにも不愉快そうに怜美に向いた。
 帰宅時刻の駅頭である。人通りが多い。彼らのすぐ近くを大勢の人たちが往来していた。二人は声を落として押し問答をし、鹿島課長は周りを気にしておろおろしていた。話はなかなか結着がつかず、熊川専務の四角い顔がだんだんどす黒い色に変わり、歯をむき出していた。
「ひなを元通りにして返せってんだ、この人でなしのハゲおやじ!」
 やがて怜美が大声を上げた。
 そのとたん、鹿島課長が怜美に何かしたらしく、怜美がよろけて尻もちをつきそうになった。
 俺は思わず柱のかげから飛び出していた。俺たちの宣伝班は現場仕事が主だから、社内の事務方と意見が食い違うことはよくある。が、これほど険悪な対立になるなんてことはなかった。よほど重大な何かがあったにちがいない。
「明日出社したら、一番にわたしのデスクに出頭したまえ!」
 押し込むようにして熊川専務をタクシーに乗せた鹿島課長が、厳しい口調で怜美に命令した。 俺が着く前に、二人を乗せたタクシーは駅のロータリーを走り出て行った。
「班長、大丈夫ですか」
 声をかけながら、しまった自分から出て来てズル欠をバラシちまったと思ったが、こうなったらしかたない。叱られるのは覚悟だった。
 振り向いた怜美は顔がまっ赤だった。
「鹿島課長は班長に何をしたんです」
「平気よ、ちょっと胸を突かれただけ。それよりひなが、ひなが専務にひどいことを……」
 言うなり、おれに顔を押し付けて、おいおい泣き始めた。ひなとは同じ宣伝班にいる南野ひなのことらしかった。
 駅頭を往き来する人混みから、女に抱き着かれて泣かれている俺を怪しんだり非難する視線をいくつも感じた。冷やかすようなひそひそ声も聞いた。が、気にならなかった。
 実をいうと、以前から怜美にほれていた。が、相手は二つ年上だったし、上司でもあった。ずっと言いだせなかったのだ。それが、偶然の成り行きでも、こうして恋人同士みたいにして抱き合っている。周りの目なんか気にならなかった。夢がかなった気持ちで俺はただうれしかった。

 送ってきたマンションで、怜美はほとんど口を利かなかった。思いつめた様子で項垂れたまま、リビングのソファに座っていた。
 怜美は全部は語らなかったが、言葉の端々から大よその察しはついた。熊川専務は変わった性癖の持ち主で、過去にも何人かの女子社員がひどい目に合わされたといううわさがあった。どんなことをされたのかは知らないが、熊川専務の言いなりにされたために神経を病み、ずっと医務室通いをしている女子社員もいるという。それがこのたび、宣伝班のアイドル的な存在の南野ひなが目をつけられ、そして、ひなはすでにその犠牲者になったらしいのだ。
 ひなは怜美の部下だ。だから怒るのはわかるし、その正義感も立派だと思う。それでも、相手が悪い。黒川専務は次期社長を狙おうかという実力者だ。俺たち下っ端が歯向かえる相手じゃない。俺はウィスキーソーダを作って、二杯立て続けにあおった。
「社内じゃよくある話ですよ。それにこういう問題は本人がそれでいいなら、傍からとやかく言えることではないんだし」
 俺は、いつまでも深刻な表情を変えない怜美に、だんだん苛立ってきていた。聞き分けのない子供じゃあるまいし、組織にいる人間なら、どんな理屈に合わない、たとえ正義にもとることであっても、上には逆らわない分別が必要だって道理はわかっていそうなものだ。それが会社で生きて行くということなのだ。
 怜美がふいに顔を上げた。目がどこかの宙の一点を見つめている。そして、何事かを決心したように、アイスボックスの中から氷を砕くピックを掴み取ると、それを持ったまま部屋を出て行こうとした。
「どこへ行くんです、そんなもので何をするつもりです」
 とっさに怜美の手を掴んだが、怜美はまるで気が狂ったように俺の手を振りほどいた。
「ひなを取り返すのよ!」
「ばかな」
 俺は飛びついて、暴れる怜美を抱きすくめた。
「ばかなことを考えちゃだめだ。そんなことをしたら、クビどころか犯罪者になってしまう」
「放しなさい、あなた、ひなが専務に何をされたか知っているの!」
 凄まじい力で押し返してきた。
「ひなは、ひなはね……」
 俺はこんどは本気で、怜美を押さえつけた。このまま部屋を出て行かせることはできなかった。怜美は抵抗したが、男の力にはかなうはずがなかった。
「ばか! おれは怜美さんがひなを思う以上に怜美さんのことが大事なんだ!」
 アイスピックを取り上げられた怜美は、その場にわっと声を上げて泣き崩れた。
 その姿が痛ましくて、後ろから背中を抱くと、せぐりあげる怜美の身体のふるえと、心臓がはげしく打つ音が伝わってきた。
「そこまでひなのことを。なんて部下思いのいい人なのだろう」
 知らず知らず俺の目にも涙が浮かんでいた。
 やがて、慟哭が止み、伝わって来る脈もおだやかになった。
 覗き込むと、泣き腫らした貌はしもぶくれに膨らんで、瞳を黒く焦がしていた炎もいまは消えてなかった。あどけないようにさえ見える顔つきは、思いがけず、まるで子供がべそをかいているようだった。
 そっと抱き上げて、寝室へはこんでやった。

 翌朝、俺はマンションのリビングで、窓辺に置かれたチューリップの鉢をながめて一人でにやにやしていた。職場では『オニ長』と怖がられているが、チューリップを育てる乙女チックなところがあったのだ。
「鎌田くん」
 上司に名前を呼ばれると、条件反射的に緊張するのは、会社勤めの性であるらしい。棒立ちのままくるりと怜美を向いて頭を下げた。
「いま帰るところです、長々お邪魔して申し訳ありませんでした!」
「そう、早く帰って支度しないと遅刻するわよ」
 昨夜はあれから、頭に枕をあてがってやったり、涙で汚れた顔を拭いてやったりとずいぶん介抱してやった。だから、目が覚めたら感謝の一つも言われ、もしかしてキスなんてしちゃうのかなと、あらぬ妄想にちょっとわくわくしていたのだが、やっぱり職場の関係以上には進展しないようだ。ま、現実なんてこんなものだろう。残念である。が、それほど悪い気もしなかった。怜美はあんまし色気のないブルーのパジャマ姿だったが、リビングから出ていく後ろ姿は、女性的な曲線で尻が大きかった。なんか『オニ長』はやっぱり女だった。

『ブレーメンの音楽隊クッキー』は専務の発案で開発された新商品である。キャンペーン会場は大入りで、ステージではイベントの寸劇が行なわれている。
 白いタイツをはいて、胴の部分だけ着ぐるみのにわとりが、とさかのついた帽子をかぶってコケコッコーと羽根をパタパタするたびに、どっと会場から笑いが起こった。
 直々に出演し、熊の着ぐるみを着た熊川専務と、鹿の姿の鹿島専務が、四つ這いの台になって、にわとりのひなを支えている。ひなはにわとりの声の真似をしたあと、背中に背負ったラッパも吹く。
 劇は大ウケだったが、にわとりの役をさせられているひなは、顔を赤くして恥ずかしさで今にも気を失いそうだった。
「ひな、がんばるのよ!」
 一番前で、怜美が涙声で声援を叫んでいた。
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公園にて

2016-04-09 14:39:32 | 小説
 おれは姉貴の子の美加と、公園の滑り台にのぼっていた。上り切ったとき、何気なく公園のフェンス越しに目をやると、公営団地の横のバス停に立っている一戸友梨佳の姿を見つけた。
 五十メートルくらいの距離か。声を張り上げれば聞こえるだろう。が、おれは声を出さなかった。だって、姪と一緒だとはいえ、いい歳の高校生が滑り台に乗っているところを見られるのは恥ずかしい。
 とはいえ、見過ごしにしてしまうのは惜しかった。じつは彼女とは声を交わしたばかりだ。部活の演奏会の打ち合わせではじめて口をきいたのだ。一戸といえば学年中のアイドル。長い髪、新体操できたえたスタイル。おまけに島崎遥香似。片思いしている男子は星の数である。学校以外で出会えて、もし個人的に仲よくなれたら、こんなラッキーなことはない。そして今はそのチャンスかもしれない。
 走れば六秒で一戸のところへ行けるな。と考えた。しっかし、動きにくいところにいるときに限って行きたいところってできるよな。
「おい、早く降りろよ」
 おれは美加を急かした。はやく行って偶然の出会いを演出しなければならない。
「あたし、こわい」
 美加は、一歩踏み出した足をちぢめて戻した。
 小さい頭越しに、下を覗き込むと、滑り板が三メートルばかり先の地面へ降りている。
「たいしたことねーじゃん、無邪気に滑り下りろよ。バンザイしながらキャーとか声上げて」
「ちょっとまって」
 美加は鼻で息をつくと、スマホを出して、その場に座り込んだ。
「おじちゃん、ジュウリョクカソクドってなに?」
「いーんだよ、お前が滑り台したいっていうから、連れてきたんじゃないか。検索なんかかけてないでさっさと行けよ」
 はりきって滑り台にのぼったくせに、いざとなると思い切りがつかない。こっちは気が急くのに通せんぼされた格好だ。
 一戸友梨佳は、団地の裏の緑の林へ流れ込んでいく丘の小道で、スリムな身体をバス停の標識に寄せ、植え込みの椿へ目を遣るようにして立っている。可憐である。が、バスが来ればたちまち消え去ってしまうだろう。
「おじちゃんが先にすべるから、美加は次に降りてこい。な」
「やだ!」
 断固として拒否した。 
「美加が先にすべる!」
 こわくてもだれかに先を越されるのは嫌らしい。口をとんがらせて上目遣いににらんできた。バスが来ないうちに、滑り台を降りなければならないっていうのに。
「じゃあ、おれが背中を押してやるから。いいな」
 いち、に、さん。と声をかけて、背中を押そうとしたが動かない。みると口からブクブクと泡を吹いて目を回していた。
「小心者!」
 しかたなく、抱き上げて揺すってやった。なんて世話のかかるガキだ。姉貴の子にしてこんなってのは、まあ、わからないこともない。姉貴はわがまま放題のB型だったから、こいつもきっと同じ血のB型にちがいない。早く滑り台から降りなくては。まだ大丈夫、一戸はあそこにいる。
「お友達なの?」
 目を開けた美加は、すばやくおれの視線の先を見ていた。
「え、あ、そう」
「可愛い人ね、お と も だ ち な ん だ」
 ニターッと笑った。まるで口が耳まで裂けるんじゃないかと思うくらいいやらしい笑い方だた。
「いいだろ、べ、べつに」
「でもう、釣り合わないんじゃないかなーって、美加は思うよ。おじちゃんはヘンペー足だってママが言ってたし」
 自分が冴えない男だということは自覚している。たいしてスポーツもできないし勉強の成績も並みだ。たしかに偏平足でもある。しかし、恋をするのは自由じゃないか。どんな男だって恋をして悪いわけはないじゃないか。
「さっき美加のこと、小心者っていったよね。でもあたしから見るとお、おじちゃんは飛んで火にいる夏の…」
 まちがったことわざの使い方してんじゃねーよ。たしかにおれと一戸じゃつりあわねーよ。知ってるよ。でもどんな無茶な恋でもするのが青春だろ。四才のおまえに、夢を見る権利までおちょくられたくねーよ。
 おれは美加を抱いたまま、滑り台を一気にすべり下りると、バス停、いや一戸を目指して走った。
「おしっこ」
「え?」
「美加もらしちゃう、あそこ行きたい」
 公衆トイレを指さしている。しかしその顔つきが、生理現象に逼迫した者が危急を訴えているようには、どうしても見えない。笑ってるし。
「がまん…、できないのか」
「ムリ」
 ぷいと横を向いた。
 おれはUターンして、女子入口へ美加を追い立てると、腕時計をにらんだ。
 出てくるまでに、ぴったり五分かかった。
「待った」
「いや…」
 差し出された小さい手を取って、おれは歩き始めた。バス停にはもう一戸友梨佳の姿はない。バスに乗って行ってしまったのだろう。間に合わなかったのだ。とはいえ、四才の姉の子供を置き去りにできるはずはなかった。
 世の中に、自分の兄弟の子供ほど扱いにくい者がいるだろうか。とくに年上の兄弟の子供。何か気に入らないことをすればすぐに言いつけられるし、こっちが自分の親よりも立場がよわいと知っているからやりたい放題だ。
「トイレでお化粧直ししてきたの、美加かわいくなった?」
 こいつ、色のついたリップクリームをした上に、前髪に軽くカールなんか作ってやがった。
「ママがね、美加は綿の国星のネコさんみたいに可愛いって」
 上等じゃねえか、てめえなんか化け猫だ。アクマだよ。さっきの『おしっこ』わざとだろ。おれが小心者だって言ったことへのお返しだろ。コンビニんときもそうだったよな。カウンターに手が届かないチビって言ったら、お前カゴのなかにこっそりなんとかスキンての入れててくれてたよな。さすがにレジのとき恥ずかしかったわ! 可愛かねーよ、アクマにしか見えねーよ!
「あら、吉田くん。こんにちは」
 後ろに一戸友梨佳が立っていた。
「図書館で勉強しようと思ったんだけど、こんないい天気でしょ。やめて公園にきてみたの。あら、吉田くんの妹さん?」
 美加はつないでいたおれの手を、はじくようにして放すと、一戸の前でおそろしいほどチャーミングなお辞儀をやってみせた。
「こんにちわ、美加です」
 わずかに頭を傾け、両手をひざに揃えて、背中まである栗色の髪がふわりと上がることまで計算しつくしたような、一分の隙も無いキュートなあいさつである。
「可愛い、なんてかわいいの! 美加ちゃんていうの。わたし友梨佳、お兄さんの友達よ」
 すっかり騙されている。
 可愛かねーんだ。そいつちがうんだって。見かけ作ってるだけだから。おれは胸のなかで友梨佳の錯覚へ訂正を要求しながら、それでも友達と言ってもらえたことがうれしくて、泣き笑いのような気持になっていた。
「おじちゃんがね、友梨佳のこと好きみたいよ。仲良くしてあげてね」
 びっくりしておれに向いた一戸に、どうこたえて口を利いていいやらわからなかった。
「あ、いや、そう。えへへ」
 一戸が赤くなり、それがだんだん、うれしそうな表情に変わっていくようすを、おれは目の端に入れながら、さっき一人で降りられなかった滑り台へ、また向かっていこうとする美加のあとを追った。
 空に雲が一刷け、明るい春の光をかがやかせていた。
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ボソボソ教

2016-04-09 14:37:12 | 小説
「あたらしくクラス委員長になった駒形志穂です、ふつつか者ですが、よろしく!」
 オレは教卓に前のめりになって挨拶をした。選出は投票の結果だったが、いっぺんクラス委員長をやってみたくてしかたなかったオレの熱い思いが、クラス全員の気持ちを圧倒した結果だった。
 拍手には多少おざなりに聞こえるものもあった。が、オレは充実感に満ちていた。学校から帰ると、録画しておいた『朝が来た』を観るのが大好きな女子である。頭の中はこれからこの朝霞中二年二組を、どう指揮し発展成長させてゆくかという理想で一杯だった。
 時は春、校庭の桜は満開だ。

 初仕事は、間近に迫った『クラス対抗縄跳び大会』だった。一本のロープをクラス全員で跳ぶ。団結力が必要で、クラスごとの仲良し度を競うものといってよい。
 学年内のしょぼい競技会ではあるが、成績がよければそれなりにうれしい。優勝なんてしたらクラスのみんなだって大喜びだろう。表彰されクラス全員が浴びる満場の拍手、そして胴上げされるオレ。
 そうだ優勝を目指そう。優勝するためには、なんといってもクラスが一丸となる必要がある。

 さっそくホームルームを開いて、ミーティングをはじめた。黒板には『団結力』と大書してある。
 が、教卓の議長席でオレは当惑していた。
 いつのまにか教室内にいくつかの小集団ができていて、それぞれに頭を寄せて話し合いをはじめているのだ。
「なんだあれは、これは全体会議だぞ!」
 怒って、となりに座っていた副委員長の御影鏡子をふりむいた。
「ボソボソ教です」
 ああ、そうか、そうだった。だがホームルームでまでやんなくっていいだろう。
「みんなもう癖になっちゃってるんですよ。大丈夫です。ちゃんと今回のテーマについて意見交換しているのですから」
 それでも、異様である。まるで聞かれちゃまずい話でもするように、ひそひそ声のグループがいくつもできているのだ。

 説明しよう。ボソボソ教とは、しばらく前からクラスに流行りだしたコミュニケーション様式である。中身はただ、やっと聞こえるくらいの声で話す。というだけのものだが、声が小さいためどうしても顔を近づけて話すことになる。その様子がまるで聖職者が密談を交わしているように見えるところから、ボソボソ教と名付けられたのである。
「カルトや、対立によるセクト化ではありませんことよ」
 御影鏡子は澄まして平然としている。
 しかし、こんなふうに教室があちこちのグループに分かれていたのでは、全体の意思統一、目的である縄跳び大会のための力の結束など覚束ない。
「おまえら、としよりの集会みたいなおしゃべりの仕方はやめい。明朗快活であるべき中学生だろ!」
 オレが思い切り教卓を叩いたので、クラス中がびっくりして顔を上げた。

 放課後、オレはボソボソ教の流行の元となった張本人、いはば教祖といえる男子を屋上に呼び出した。
「大竹、ここへ座れ」
 大竹秀俊は相撲取りにしてもいいくらい身体がでかい。そのくせに、非常な小声である。それを面白がって、だれかがまねし始めたのがボソボソ教の起こりであった。
「すみ…ません、ボクふつ…うに、しゃべって…いる、つも…りなんです。けど…」
 大竹はオロオロと弁解した。声の小さいのは地声で、自分でもどうしようもない。それなのに、みんなが真似をするのだと。
「からかわれてい…るみたいで、ボクだっ…ていい気持がしな…いです」
 風に煽られたオレのスカートが、ときどきそのまるっこい顔に当たるのも気にならないようすで、大竹は涙目になってボソボソと訴えた。
 話を聞けば、かわいそうな気もした。が、ボソボソ教を無くすためには、教祖になんとかなってもらわなければならないことは明白だった。
「かわいそうだが、クラスのためだ。ちょいとしんどい目に会ってもらうぞ」
 そのとき、学校の応援団が練習のために屋上に上がってきた。
 オレはあらかじめに団長の轟亮太に話をつけておいてあった。大竹は自分を連れて行く学ランの兄ちゃんたちに、一体なにをされるのかと怯えきって青くなっていたが、オレは手を振って新しい人生への旅立ちを祝ってやった。彼はきっと生まれ変わるはずだった。

 オレの考えは的中した。翌日からもう、大竹は、かすれ声だが精一杯声を張り上げて話すようになった。
 が、しかし、教祖を失ってもボソボソ教は衰えを見せなかった。相変わらず教室のあちこちで、、頭を突き合わせる小グループができていた。
 オレは業を煮やし『明朗快活』と書いた紙を、黒板の上やら引き戸のよく見えるところに貼り出してみた。が、その効果は一向に上がらなかった。
 教室には、バラバラな塊ができ、それぞれに生徒が集まっている。とはいえ、排他的というわけではなく、しばらくすると、数人が離れてほかのグループにくっついて一緒になる。まるでアメーバの生態をながめているようだった。
 大竹だけは一人、ぜえぜえと息を切らしながらも、声をつよく出して話していた。懸命な努力といえた。が、オレはどうしても、事の張本人であるこの男には、冷ややかな眼差しを向けないわけにはいかなかった。
 オレの努力もむなしく、ボソボソ教は大会当日になってもおさまらなかった。

 ところが、優勝したのである。312回跳んだ。新記録である。二番手だった四組になんと倍以上の差をつけたぶっちっぎりだった。
 胴上げをされて教室に戻ったオレは、うれしさよりも当惑のほうが大きかった。なぜあんなバラバラだった状況で優勝できたのだ。どう考えても答えが見つからなかった。
 御影鏡子が教室に入ってきて、オレに近づいてきた。話があるらしく、耳元に顔を近づけようとする。今ではこいつもすっかりボソボソ教の信者になっていた。
 いつもならうでをのばして、距離をとらせ『大きな声で!』と言うところだったが、このときは忘れていた。
「みん…なが、優勝のお祝いをしま…しょう…って、ジュー…ス買って来て、いいですか?」
 小さい声が耳をくすぐる。暖かい息が頬にかかった。見ると鏡子の唇がすぐ近くで動いている。
「ね…え、どうしたの? 志穂。顔が赤くなって…る…よ」
 おっと友達しゃべりだ。常には委員長としてのオレを立てて、敬語を使ってくるのだが。いやいやそれより、オレは気づいたのだった。この肌と肌とが触れ合うがごときコミュニケーションが、クラスを優勝に導いたことを。言葉よりもあたたかい人肌の温もりで、クラスはいつのまにか一つにつながっていたのである。ボソボソ教ばんざい。
 オレは人生初めてのキスを、鏡子の頬にしてやった。
「大竹にはわるいことしちゃった。竹ちゃんどこにいるか知んない」
 オレは久しぶりに、自分の本来の性である女の子しゃべりをした。
「キャ~! わたしキスの初体験が志穂だなんてサイテー」
 とか言いながら、うふんとオレの肩にもたれかかる。
「大竹はどこだって聞いてんだよ!」
 
 病欠しているというので、次の日見舞いに行った。
 大竹の家は寿司屋で、後ろに居宅があった。大竹はパジャマ姿でのどに湿布を貼っていた。オレの顔を見て、あわてて大きな声を出そうとするのをとどめ、オレは頭を下げ、縄跳び大会優勝の賞状とクラスのみんなからの見舞いの寄せ書きを出した。
「あり…がと…う」
 大竹はうれしそうに笑った。
 大竹の家族は、みな小さい声で話した。家業が寿司屋で店で声を張り上げているものだから、家では喉を休めているのだそうだ。
 お昼をごちそうになったが、寿司屋らしく、おかずは卵焼きと刺身だった。オレは、茶碗に盛られたごはんを見て目を見張った。
「お前ん家、話はボソボソだけど、ごはんはつやっつやだな!」
 酢飯だったのである。食べているあいだ中、庭でうぐいすがいい声で鳴いていた。
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紫陽花

2016-04-09 14:34:24 | 小説
 学校から帰ると、俺は、グローブ二つとボールを持って松崎さん家へ走った。坂の上にあるでかい屋敷だ。
 由美は縁側から白い足を下して庭の紫陽花を見ていた。一度嫁いで家を出たが今は戻って来ていた。
 笹薮を後ろにした紫陽花の花々は盛り上がった毬状で、いくぶん湿り気を含んだ青色をしていた。きれいだったが、ながめているとなんだか悲しい気がしてくるのは、その静かな青色が、どこか遠くの空の色に見えてくるせいかもしれなかった。由美の顔つきも小さく息をついているようだった。
「おい、キャッチボールしようぜ」
 俺はわざと大きな声を出して、目の前に飛び出して行った
「健太ちゃんはいつも元気ね」
 由美はクスッと笑った。保育園のときの先生だ。俺はいま小4だが、教え子ということになる。
「でも、雨が降ってきたわ。今日はダメよ」
 いつのまにか地面に、点々と黒い染みが出来ていた。曇っていた空が雨を落としはじめていたのだ。俺はちぇっと口を尖らせた。
「余った灯油は物置に入れておきましたよ。来年まで使わなくていいでしょう」
 縁側の角に、魚竹が顔を出した。本名は竹村修三だが港町にある『魚竹』という寿司屋である。俺と同じくこの屋敷にしょっちゅう出入りしている男だ。
「健太、また来たのか」
「魚竹こそ、女所帯に入り込んで泥棒猫みたいな真似をすんなよ」
「もう一度言ってみろ、崖下の海へ放り込んでやる」
 俺をひょいと持ち上げて、庭を横切ろうとした。
「ほんとね」
 雨戸を立てながら、由美が言った。
「健太ちゃんはわたしのパンツを持ってったことがあったし、魚竹さんはもしかしたら出戻り女の心のすきを狙っているのかしら」
 ニヤニヤして、冷やかしている目だ。俺は自分のささやかな悪事を暴露されたことに、手足を振って抗議したが、魚竹はまじめくさって角刈りの頭をブルブル振った。こういうところはいかにも魚竹らしかった。何事につけ不器用で律儀な男なのだ。
 以前は『鬼竹』という物騒な通り名で、港町界隈ではおそれられた極道だったが、亡くなった由美の父親に拾われて、港町に寿司屋をもたせてもらった。
 由美の父親のおかげで、喧嘩出入りの明け暮れから人並みのカタギになれたのだ。何かあればすぐに駆け付けて来て、この屋敷の力になっているのは、その恩義をずっと忘れないでいるためだろう。
 県会議員をしていた由美の父親が亡くなったのは、二年前の秋だったが、葬式の場で人目もはばからず、男泣きに号泣していた姿を俺はよく覚えている。
 奥からひどく咳き込む声がして、由美と魚竹は慌てて向かって行った。由美の母親は認知症でずっと寝たきりなのだ。

 屋敷を出ると、門柱のインターホンを押そうとしている者がいた。その顔を俺は知っていた。朝六時の地方番組でニュースを読んでいる男だ。テレビで見るのとちがってネクタイもせずラフなセーターを着ていたが。
 由美が嫁いで行った先の男もテレビの関係者だと聞いている。だから、俺はテレビ局の人間が嫌いだった。由美が戻ってきたくらいだから、きっとろくなやつがいないのだ。
「留守だぜ」
 男はびっくりした様子で、はてと俺を見たが、テレビ画面の向こうのやつが、俺を知るはずもなかった。
 帰りなと、俺は坂の下のほうを指さしてやった。
 それでも男は、二度三度とインターホンを押した。が、応答はなかった。出てくるとき魚竹と由美の二人で母親を風呂に入れるところだったから、手が離せないのだろう。
 男は諦めたらしく、海岸のほうへ下りて行った。

 俺は機嫌よく晩飯をどんぶりで二杯食ってから、また出かけた。二番目の兄貴がトランプを貸してくれたのでそれで由美と遊ぶつもりだった。病人がいるからテレビゲームはできないのだ。
 屋敷の近くまで来ると、争う声がして俺は足を止めた。インターホンを押していたあの男が由美ともめていた。
 いつの間に戻ってきたのだ、俺がいない間に。場所が門を入ってすぐのところだったから、暗くなってもまだ夕日が残っていた。由美が泣いている。俺は激昂した『てめえ、何してる!』そう叫ぼうとしたが、男が出した大声のほうが先だった。
「謝って済むとおもっているのか由美! お前は結婚をどう考えているのだ。電話には出ない、連絡も取れない。何も説明しないのはどういうつもりだ!」
 なんなんだよこいつ。何様なんだ。由美を呼び捨てか。ローカルニュースでは舌噛むくせに。ぺらぺらよく口が回るじゃないか。
「許して、あなた。私もう…」
「あいつのことを愛しているのか」
 男は蒼白になって、声が震えていた。
「ええ、彼を愛しているわ」
「じゃあなんで俺と結婚した!」
 平手打ちが由美の顔に高い音を立てた。
「気が済むようにしてちょうだい、あなたのいいように」
 そう言う由美の顔は、俺が一度も見たことのない表情をしていた。

 気が付くと俺は道を返していた。頭では男と由美の関係がおぼろげだったがわかった気がしていた。だが、胸の中は、由美が殴られたことへの怒りで一杯だった。俺は魚竹の店がある港へ全力で走っていた。魚竹とボコボコにしてやる、見てろ。そう思うと、それできっと気が晴れるはずだろうに、へんにやたら涙が出た。

 夜遅くなってから、俺も加勢するつもりで、魚竹が男を呼び出すと言った砂浜へやって来た。
 途中、潮が入り込んでいる砂州を通ったが、月が明るくて、潮に浸った砂が御影石みたいに光っていた。
 男は由美が結婚した相手だった。こんどはちゃんとスーツを着て、朝のニュースを読んでいる姿で立っていた。
 魚竹はどこだとみると、驚いたことにその足元にいた。男の前に手をついて、頭を下げていた。
 うそだろ。目を拭った。
「どうか、由美さんを離縁してやってくれませんでしょうか」
 男は無言だ。
「浮気をした由美さんが悪いことはよくわかっています。ですがそこを曲げて、自由にしてやってもらいたいのです」
「どうするかは私の問題だ。あなたには関わりない」
「いえ、それでは松崎の親父さんに恩を受けた俺の男が立ちません」
 謝っている、お願いしている。懲らしめようという気色はまるでなかった。
 俺はたまらず飛び出した。
「なにやってんだよ、そいつが由美を殴ったんだぞ。やっつけろよ!」
「健太」
 魚竹の目はギラギラして、この土下座が命がけのものだと云っていた。
「由美さんを、この人から許してもらわなけりゃならない」
 魚竹は懐のドスを、男の靴の先に置いていた。
 俺は男を見上げた。口を引き結んで苦い顔をしていた。
「きみは」
 えらそうにそう言いかけたとき、俺はそいつ目がけて突進していた。驚いて尻もちをついた上に飛び乗ると、顔といわず胸といわず、砂をつかんで投げつけた。
「悪くたって、どんなに由美が悪くたって、女に手を上げていいわけがねえだろ!」
 男の胸倉をつかんでやろうとしたとき、唸り声を上げて後ろからきた魚竹に抑えつけられた。あとは記憶がない。

 二週間くらいして、由美は門司というところへ行ってしまった。今度結婚する相手は、高校で同じ美術部だった男だそうだ。
 認知症のお母さんは施設に入り、魚竹が面倒をみている。
 俺はときどき、空き家になった屋敷へ行って、門から庭を覗いた。いつも由美がいた縁側の前には、紫陽花がまだ咲いていた。雨降りの日だったが、紫陽花は鮮やかな青い色の花を揺らしていた。そして、由美がよく紫陽花を見ていたのは、雨の日のようなときにも、青い空を忘れたくなかったからなのかな。と考えていた。


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