残りわずかな力でも伝えよう。-そして、再起。 

この難病は、私だから授かった『生きる上での宿題』と受け止めたい。生きる「希望」を
胸に。「P病撲滅」が夢。

神経内科医の先生方へ

2009-09-05 | Weblog
神経内科医の先生へお願いしたいこと。

000① 個々の対応を丁寧にすれば時間がかかります。いっそ待ち時間に、それまでの変化や聞きたいことを、患者に書かせてはどうでしょうか。主治医の先生がめをとおしやすいように、書式を統一した方がよかろうと、製薬会社からだしてくださったグラフもありますので、患者の方からそれを使う努力をしてみてはいかがでしょう。選択方式もあると、記入がはかどると思います。
② この患者は人目にも明らかで、社会的なリスクを負いやすいのです。その象徴が失業ですが、福祉制度も知らない医師は、患者の生活を思いやる余裕のない医師です。経済的不安がどれほど患者を精神的にも追い詰めるか。患者の生きる手立てとも理解し、患者にまつわる法律や事業ぐらいは知っておいてください。

③回りに聞かれたくないこともあります。待ち席など、気配りしていただきたい。

④専門馬鹿と言う言葉がありますが、あらゆる分野へと波及する難病です。あらゆる科の勉強が必要で奥の深い分野かと思います。研究心を持っていてください。特に副作用の報告は患者しかできません。尊重してください。例えば、ビーシーフロールの多量摂取は脊椎の変形を招くのではないかと言った患者がいました。その人自身がそうなったからですが、主治医はそんな話は聞いたことがないと一蹴したそうです。

⑤ 患者が求めるからと安易に薬を増やす医師も考えものですが、薬の量が明らかに少なすぎて毎日辛い症状のままの患者さんも見てきました。血中濃度から言って体格差も薬の量に関係するのではないでしょうか。

⑥ 神経内科医が手術を勧めるということは、自分の治療の限界と放棄を意味しており、安易に脳外科医に丸投げしてほしくないのです。手術を勧めるなら、電圧調整ぐらいできる技術は身につけておいてほしいものです。

⑦また手術を拒否したからといって、露骨に冷遇し始める医師のことも耳にしたことがあります。
⑧ 死後、装置を除去する場合、大体いくらぐらいかかるのでしょう。地方によって違うでしょうが。火葬の前にとっておかないと、爆発するって本当ですか。
⑨患者が自信を持てるような一言が気分を楽にさせます。明るい気分で帰れる受診は、療養生活を前向きにします。患者を子供だと思って、時には、ほめてやってください。
⑩ 患者の意思や、気づきを大事にしてください。その中に大きなヒントが隠れていることもあると思います。
kkb
⑪ 患者の有志も、ボランティアで巷に出て患者を発掘してます。大学病院の先生も世の中の風にあたって、ボランティアで何か積極的にとりくんではいかがでしょうか。
⑫オンとオフの時で、症状が全く異なる患者が少なくありません。実態に即したものにするためにも記入用紙の工夫を提言してください。

ここでお断りしておかねばならない。要望ばかり並べると不遇なようだが、大多数の患者は老いて尚元気でいようと努力され、善良なる医師や関係機関の方々、製薬会社の応援で、張りのある療養生活を続けている患者さんもずいぶん増えてきた。
また誤解のないようにお断りしておくが、以上の10項目までを、今の主治医は充分満たして余りあるので、自分の主治医にいいたいことではない。
 かつての主治医に言いたかったことや、比較的最近、友人から聞いた医師の話を思い出しながら、書き留めたものを列記させていただいた。

原因究明は、この病の主体者である患者たちの責任として果たさなければならないことだとの認識に至った。
 発症のメカニズムは医学者からの研究で解明されてきている。生活歴の振り返りの集積こそ、原因物質特定のための有効な手段と想像できる。患者会が期待される分野である。
 また患者の実態をいかに正確に主治医にお伝えできるかで、薬も決定されるだけに、そのことへの努力は、個々の患者が惜しんではならないと改めて思う次第である。
 かつ、初発症状の患者の早期発見早期治療が薬に依存しない患者を多くできる一途ともなると期待し、まずヤール1.2の方々の実態解明からと、希望したい。 
『パーキンソン手帳』を思いついた。自分の病歴・薬歴をふくめ、患者としての青写真と日常の記録・メモを記しておくことは有効だろう。このアイディアは、岡山と広島の支部長に託した。


P病患者の皆さんへ

2009-09-05 | Weblog
神経内科医の先生方へ
以下は、患者としての経験からの発言ですが、間違いがありましたらご指摘ください。

1、 もし、ジスキネジアで困ってDBSをお考えでしたら、ジスキネジアはドーパミンの効き過ぎです。薬を減らしましょう。またはジスキネジアを押さえ込むには、シンメトレルが効果的とか。
2、 夜のトイレや起床時のトイレでお困りでしたら、入眠剤と泌尿器系のお薬で樂になれます。3、 薬を飲んでも効かない、限界ぎりぎりまで飲んでいると言われた方、また飲みすぎだと言う自覚のある方へ。私がそうでした。でもアゴニスト系の薬を二つ重ねて飲むと、てきめん効き、手術のお話は延期になったまま、6~7年たちます。その前に6種の薬とゾミサミド(エクセグラン)を飲んでおり、それも効かなくなっていたから、無理もありません。今久しぶりのゾミサニドでまた薬の効きが戻り、また新薬のおかげもあって、Lドーパはあの頃よりも、また半年前からもかなり減っています。薬が効かない原因は、睡眠不足と便秘が考えられます。自然なお通じは大事です。歩くことが多いと良いのですが、薬を使ってでも余り溜め込まない方がよろしいようです。
4、寝ることは若年性患者にとって特に大切です。身体と心のために、先ず寝ましょう。
寝ないのはあなたの黒質を自分で傷つけている行為に他ならないのだと自覚しましょう。
この患者は「がんばらない生きかた」をする努力がいるのかもしれません。

 5、今私たちが待ち望んでいるのが、ロチゴチンという貼り薬。
薬の選択は、患者と医者によって決定されます。選ぶのは主にそれを使った結果を知る患者でしょう。国は基本的に受け入れる姿勢で、そして「タミフル」のように問題のあるものや高価すぎるものを販売停止にしていけばいのでは。
治験は廃止すべきと言うのが私の兼ねてからの主張。治験は国際規模の問題です。発売までに各民族の治験を行い、国際許可規準をWHOが設定監視することで用は足りるはず。
保険診療の対象として許可するかどうかは、それこそ、費用対効果でしょ。753億円も治験にかけるとは、なぜ?何も用がない薬剤師が世にあぶれてるから?大学のあり方や統計局の生かし方など、根本的に考えないといけない。そんなお金があるなら、和漢併合じゃないけど、西洋医学と漢方医学、民間療法なども取り入れ、日本独自の『新薬開発機構』みたいな製薬会社の枠を超えた研究機関をぶち上げた方が、よほど後々の実入りがよいと思いますがいかがでしょう。その意味で、「丸山ワクチン」などは、治癒率から言ったら文句なしに保険対象でしょう。高いゾミサニドは長い治験の結果ですが、拒絶しましょう。「エクセグラン」(商品名)という安い方にしてもらわないと、またP病が、特定疾患の外しの対象にされかねません。何せ5万人枠は、厚労省では生きているんですから。
6、「特定疾患治療研究事業」をP病患者が食いつぶしていると、比率が高いのも、大部分「DBS」によるものですが、これが患者にとって数年~10年の対処療法にしかすぎないのに、一生電極装置付帯患者として生きていくことになると、あなたは、知っていましたか?
手術するのは、P病の専門医ではなく、脳外科医だということ。その事後調節は診療点数にならないし、手術後薬を全く飲まないでよくなったと言う患者はほとんどおられず、次第に薬も増えていき、薬と電圧調整でどちらが先かと聞いたら、先ず薬だと仰せになられる神経内科。脳外科は遠いところ。患者はその調整の難しさにもだえ苦しんでいるんです。
患者にとって最後の賭けとも、健康に近い数年を手に入れるためとも認めてきましたが、
必ずしも患者に好結果をもたらしていないという現実もあるし、手術を受けたことが療養生活の励みとも、自信ともなるような施策を講じていただかないことには、患者として医学の進歩のためにもと貢献してきたDBS患者はうかばれません。例えばDBSの技術はこれからの再生細胞の移植に際しても、かなり役立つはずです。
7、金属を体内に埋め込むということは、CTやMRIにかけられないということを意味する。
ということは、装置付帯者はips細胞の移植から遠のくことになる。7年後からのP病への実施とは、アレだけ期待され、待たれながらなぜこんなにも遅いのだろう。100億の臨床研究予算に加え、本日の新聞によると、今年度補正で創設された先端研究助成基金で研究者30人に一人当たり3~5年で30~150億と言う巨額研究費を投入。総額2700億円が、565人の応募に対し、たった30名に選定。駆け込み選定にこれでいいのかといいたくなりますが、その中にもちろん山中教授の名があることはいうまでもないことです。国がこれだけ支援し、患者も協力的なのになぜPDが7年も先に置かれるのか、それはCTやMRIに変わる装置の開発に要する期間なのかなと、ついいぶかりたくなるのは私だけでしょうか。
8、年間500人もの患者が国内でDBSを受けているという。10年で5000名か。その装置も高ければ、手術代に調整の保障つきといえ、安くはない。その後の調査を友の会ですると言いながら、たかだか患者数20万人に対して7000人の会。実施された様子は今のところない。関係機関の協力のもとに、実施するとなると、患者の本音がどこまで出せるか。医療機関にとって経営上DBSは魅力ある治療法だから、抵抗も予想される。
9、パーキンソン病関連の新刊を数年ぶりに手にした。驚いたのは、現状への疑問も、克服意欲もない妥協した医師たちの執筆ぶり。神経内科医のプライドありやなしや。
10、生きているうちに装置を除去するとなると、肉芽が張り付いているので、それをそぎとるのに、百万はかかるとか。それに対する助成は何もない。針金が出てきて、そこからバイキンなど入ったら大変だ。MRIにはかかれない。装置をつけていることを告げないと命に関わる。電磁波の影響も受け続ける。調整を医師に委ねるしかないDBS患者はめったな批判はできない。それが私ならできる。HOPEの会に「希望」は見出せなかった。
「手術はどこで受けても同じです」と言う名医の言葉に、憤慨を禁じえなかったあの日。
患者の視点というより、医師の視点からの開催であった。

11、手術は人のすること、失敗もある。例えば、脳内出血がある。効果が極端に薄い。痛みがいつまでも続く、脳内感染の疑い、言語障害・よだれなど新たな障害の出現などが、その範疇であろう。誓約書に法的根拠はない。むしろ「おどし」だ。
訴訟を起こせば、ことは明るみになる。TVを見て安易に手術台に上がる人が減ることと、
何より泣き寝入りしている方の救済のため、『被害者の会』が結成されることを願っている。
ただお金がかかるし、闘うことは苦手なのがこの患者たち。誰か助けてくれないかな。
私が力になりたいと心から思った病友は、この手術を受けた結果から絶望を強いられ、精神の変調をきたして、孤独に陥った女性が最初であった。
友の会をあてにしても、彼らの中であえてこの手術を受けた患者が少ないのも実情なのだ。

万歳、万歳、万歳、 馳先生!

2009-09-01 | Weblog
 失礼な事をいたしました。
 
 馳座長(P病WG.金沢)は当選しておられたのです。
 現代の政界における『七人の侍』、暴風の前に今回、出る幕なしかと思いきや、
 なんと、我らが馳浩代議士が比例第1位ということで、当選していてくださった。ごめんなさい。小選挙区しか見てなくて。
  
 馳先生は、選挙期間中も、難病のことを前面に出し、「この方々をなんとしても助けなきゃいかんのだ」「健康なものが病むものを助ける、これはあたりまえのことだ」と、FOPの北岡さんにも街頭で演説してもらい、舛添大臣と感動的な街頭演説をしておられたようです。私個人は橋本先生の結果に、責任を感じ、選挙の怖さを思い知ったというのが率直な感想です。
 
 私の橋本先生の実績を語るべきは、出陣式と言うような身内の晴れがましい席ではなく、地道な患者会活動の中で、一般社会の方々に、「実はこうして頑張っているのも、橋本岳先生のような大政党の姿勢を変えさせる気迫を持って、難病撲滅の力になってくださった先生がいてくださるからなんです」と、伝えていくべきだったかもしれない。平生から、馳先生のように地元の患者さんと交流したり、声に耳を傾ける努力をすべきであったとも思ったり。でもこの経験を生かすべく、私は新たな第一歩を踏み出そうとしています。橋本岳先生の足跡は消えないし、私達が語り継いでいきますから、馳先生の歩みが橋本先生のそれでもあります。

 橋本先生他、男らしい先生がたの悲劇は、幹事長のアホさ加減とそれを変えられなかった党首の器量と、自民党の閉鎖性もありか、また選挙制度のおかしさというか、右と言えば、皆右という怖さもこの国民性として感じるのは、私だけかな。

 いつかの私のように、人間不信にだけはなっていただきたくない。
 あれほど不幸なとらえどころのない落ち込みは、もう味わいたくもない。

 いずれにしても、難病問題の核ともなってつないでくださる大きな星が残ってくださった。無条件に、うれしい。馳先生をお支えしつつ、橋本先生たちの再登壇を待とう。いずれにしても、超党派で取り掛かるべき問題。馳先生は立案はお手の物。人脈も広い。あとは地元患者会がどう実態を訴えていくかだ。10月にお目にかかれるのが楽しみになってきた。この国から「いじめ」をなくすと言っている国会議員は、多分、馳先生お一人だろう。馳先生なら、「いじめ根絶策」を講じれると、私も確信するファンの一人である。では、フレー、フレー、馳先生!

このお母上、ありてこそ。

2009-08-31 | Weblog
「高いところから失礼致します」を言いそびれた冒頭、まるで頭の中でこけて、原稿がどこかへとんでった状態。もうこうなったら、一か八か、気持をそのまま、実績とともに語るっきゃない。腹は決まった。気持は「応援団長ばり」声を張り上げ、真紀子節ならぬ、気迫節。何か口走ったか、笑いを取りに行くゆとりなど、とうに失い、国政に帰られこの大仕事をとか、空恐ろしくもお集まりの支援者の方々に檄を飛ばしていたらしい。
 終えてがっくり、というのも実績報告というか、先生の手がけてこられた人権に根ざした勉強会の成果と真価をしっかりと述べるつもりが、柄にもなくあがってしまい、肝心のそこをはしょってしまったのだ。

それはそうと、心根の違うすばらしい女性に出会った。橋本岳先生の母上、『久美子夫人』である。
感謝に溢れたお言葉、謙虚にして息子を信じ、それを支える方々への敬意すらにじませる奥ゆかしさ。お姑さんのお言葉を引用され、それに学ぶ姿勢。
岳先生のお人柄に触れるたび、いつも想っていたものだ。こういう青年をお育てになるお母様はさぞや飾らない聡明なお方だろうと。そのお方と同席でき、しかもお言葉に触れえた幸運に感謝したい。

 それにしても、暴風は吹き荒れ、今後の国会運営は危なっかしさすら予見させる。何とかチルドレンどころか、素人軍団大行進でしょ、これじゃ。
選挙制度の問題点も重複証明された感があります。あの馳先生や原田先生や橋本先生がなんで負けたんでしょうか。マスコミの刷り込みの怖さでしょうか?党も責任をとっていいただきたい。寅さんを落としたのが、そもそもの間違いよ。
それより年金記録問題に端を発する政治への不信感でしょうね。
それ言ったら、二の句は次げません。でも、地元岸田先生がかろうじて勝ってくださったのは、せめてもの救いだった。
今回、都合3回倉敷入りした。3年前の私なら、一昨日に福岡入りし、原田義昭先生を応援して、金沢に飛び、馳先生の決起集会に参加したかもしれない。
今はその体力に自信がない。倉敷に行っても次の日から3日は毎回「寝たきりおばさん」に昇格。こういうのを症状が進んだって言うのかな。でも回復させるものね、またこれまでと同様に。
世の中がどんなに変わろうとも、私は『咲き満ちて』前へと、生きていくのです。
あの久美子夫人や土井君のように。

私の眼に浮かぶ『七人の侍』 ~政局の裏側からの真実~

2009-08-25 | Weblog
現代版 政局篇『七人の侍』のこと。(あくまでも私見なり)

いつのころからだろう。この国の「おとこ」どもは、軟弱化が進み、ついに女性の時代か、と見くびっていた。

  だがここにきて、全ての責任を負わされ、矢を向けられようとも、己の信念を貫かんと全力で挑む幾多の政治家に、『侍』を見るかのごとく、凛として背筋が伸びる思いでいる。

 思い起こせば、3年前の12月、とある公聴会で私は叫んだ。「自民党を愛する私に2分ください!」と。4万人の病友をなんとしても守る。それしか頭になかった。冒頭、有村治子代議士が、難病団体が初めて与党を頼ってきてくれたこと、またこの難病対策委員会が有志によるボランティア組織にすぎないことを述べられた。代議士の方々の態度はいい加減な方も少なくなく、どんどん中座していかれた。その中で抜きん出ておられた二人の議員。「ここに財務省主計局からきておらんのがおかしい」と開口一番ことの真髄を突かれた馳浩代議士(金沢)この一言に、思わず大いに拍手していた。この時から私は手の届かない政治の世界を変えうるお方と直感し、岳先生の次に、一目ぼれ。のちのP病WGの座長である。そして、患者の声を真摯に受け止め、Yさんの訴えに感銘を受けたと率直に答え、「政治家としての責任の重さを感じる」とおっしゃた福岡資麿代議士(佐賀)のご発言。誠意とすこぶる頭のよさは知るほどに恐れ入るPDWGの事務局次長として岳先生をサポート。

 とはいえ、要の当の我が会もJPAも、世論はかえても結論を変えさせる気はない
。その証拠が、最後まで1患者の体験発表で終えようとしていた点である。思い起こすと、最初の厚労省でのヒヤリングなどは、むごたらしいものであった。公聴会とは名ばかりで、患者に一応言わせるだけ、あとで野党に直訴する手はずも整っていた。そこに連れて行くことが、当会の本部の主目的であることは明白であった。それはことが議会質問で終えることを意味しているに過ぎないというのに。私は患者のことを真剣に考えていない会の主にあの時涙ながらに食ってかかったことも、鮮明に思い起こすことができる。そこに図らずも、私が杖を忘れたことで、さらにことの本質を知ることにもなってしまうが、それについてはまたの機会としたい。

 私はその最後のチャンスの前夜、徹夜でレポートを作り上げ、ひそかにそれを持ち込んでいだ。事前に時間配分されている公聴会で飛び入りなど許されようはずもなかったが、尋常ならぬ気迫に、あとで個人的に時間をとってくださったのが、その会の原田義昭代表幹事(福岡)と有村治子事務局長(愛知)であった。
その訴えは、当時のあべ政権のスローガンを踏まえつつ、難病問題の根源的解決の責務を国家に求めるものであり、患者の現状と、今回の提起の不合理性を説き、悲惨な事件の頻発を警告するにもいたるもので、若しこれが容認されるようであれば、与党は失政のそしりを免れないだろうと結論づけてもいた。私の訴えを丁寧に聞き入り、レポートを速読するやいなや「すぐこれをコピーして、明日の会議に出る全員に配るように」と秘書の方に指示された原田先生。そして訴え終えたオフの私の目を見て、「高山さん、お任せください。」と力強く言い放たれ、ねぎらってくださった。あの感動のシーンは生涯忘れないだろう。後で知ったことだが、原田先生は弁護士から転身された方だと聞いた。後日奥様にぐうぜん優しくお助けいただいたこともご縁だろうかと懐かしい。
 
 生きることが難しく、ときに絶望を強いられることもあり、またあらゆる方面から搾取されもする難病の私たち。だからこそ、手をつなぎ合い、支えあおうとする患者会の方々。その方々の多くがヤール3の患者でもある。当時すでにわたしはヤール4の身だったが、ヤール3を守ることは友の会を守ることでもあった。

 あの日、次に向った公明党。すでに終えて皆さん座を立とうとしてたので、お隣の岡山の谷合正明先生を呼んでいただき、簡潔に訴えたが、その光景を目の当たりにした方があとで「あの時のあんたは夜叉のような顔をしていたなあ」と述懐されていた。それなのに、谷合先生は「確かに承りました。ご安心ください」と優しくお応えくださった。こうした訴えがあらゆる場面で、多くの方がたの渾身の思いで届けられていた。そうした歩みが、公明党の理解と協力で実を結ばせた。あの逆転劇がなしえ、これまでの3年間、難病への理解も進み、その対策は大きく前進しているが、その核ともなって取り組んでくださったP病WGの70名の先生のお力に今ならないでいつこの大恩をお返しするのか、とも思う次第、人情とわらわれてもいい。自由な言論を奪われ、一言の挨拶も許されなかった屈辱の退任の席上、橋本岳代議士は単身左翼のこの会の総会に乗り込んでこられて、誰にも嘘で固めた事実しか知らされていない一般会員の方々へ、堂々と本当のことを明かしてくださった。
「『パーキンソン病ワーキンググループを作ったのは、高山副会長の長い訴えによるものです。」と、発起人だと公言。左翼の会から一人本気で自民党を頼り、活路を開いた。その見返りに断罪同様の処遇。その時、私をジャンヌダルク呼ばわりして笑う役員の冷たさに比べようもない、先生の責任感と勇気と行動力はこの私が誰より証明する。
嘘をさらに重ね、私を追い落とし勝ち誇るがごとき、自己本位の振る舞いは、やがて恥を重ねたものと見極められよう。人は言わずとも見ているものだ。

 この最初のきっかけをくださったのが、実は地元の岸田文雄代議士(広島)。特定疾患の始まりが国と地方の折半で400億ずつの約束だったことを知る5期当選の正義感の塊で、誠実を絵に描いたような実直人。あくまでも責任を負う「責任政党」の一員としての逃げない姿勢は、他の『侍』先生にひけをとらない。
これらの若き代議士たちは、2世だろうが、初代であろうが、生存権の危機にある患者の実情を汲み取り、事後保障一辺倒から根本的課題解決も含めてと、社会保障のあり方を変革させてこられた勇者である。その真摯なる姿勢は、やがて年長者の意識をも変え、今大きなうねりとなって、最も厄介なP病から難病を皮切りに、社会保障全般の問題にきりこもうとされている。もちろん、それには石崎岳代議士(北海道)が特別会計を含めた国の財政のあり方も視野に入れながら考えたいといわれたように具体的なシュミレーションを形成しつつあるようである。

 この3年の取り組みを傍から見させていただいて、ずいぶんマスコミの皆さんが頑張って内情を国民に開示されている面もあり、その逆もあり。民主主義を守ると言うことは言論の自由を尊重し、少数派の意見も尊重されなければならない。私がたまたま知らずに入った患者会は、事実をも変えて配信し、特定の政党とは異なる分子に対しては、容赦なく裏で誹謗中傷もし、経費も出さずと言う偏重ぶりであり、そのご機嫌を損ねないように立ち回る男たちばかり。ついには、会議においても嘘の証言を平気で行う左翼の患者会に成り下がってしまった。
しかしなお患者仲間と希望を失わず、会の中枢部の有能なる健常者の善意をなおも信じつつ、会員の血税の有効活用と、市民運動の一派ともなるべく、開かれた公正かつ積極的中立を貫き、政界からも、市民からも、行政からも信頼される民主的な『任意と善意』の会へと成長してほしいと願う。このままでは、与野党に弄ばれる野心家の巣窟として末代の恥さらし団体とも評されかねない。これまでの3年間の恩も忘れ、難病問題の核ともなるこれからの人材を「超党派」の化けの皮を被り、知らん顔で見捨てようとする卑怯千万なる輩よ、恥を知れと言っておこう。今回の選挙が全てではない。政治は誠意と信頼の上にこそ築かれる。
 よって、何の肩書きもない私は、せめて歴史の真実と、そこに流れていた「誠意」こそが、世に言う「一夜の逆転劇」を生み、その後の難病の生存権回帰への歩みを生んだと言う事実を明かし、いかなる逆風にあろうとも、この侍方を幽閉することなかれと、命かけて訴えよう。

 これからの患者会は、過去の恩讐を越えて、ピラミッド意識は投げ捨て、患者の上下なき関係、つまり真の友の会として、その代表は自薦他薦を問わず、公選にて選出されるかどうかで見極めたい。この現代にあって、20万人はくだらない患者の5%をかなり下回る患者会の組織率の低さの要因は、実はこういうところにあるのでは、なかろうか?
 
 某自民党が大企業金持ち優先だなんて、古い見方だ。いまや、拉致被害者同様、難病患者が悲嘆にくれる事のないように、生きる手立てをともに模索してくれてきた、唯一の党であったことを私は証言させていただこう。そしてその歩みへと導いた『七人の侍』に必ずや返り咲いてただきたい。
彼らの共感力と誠意は、財務省や厚労省の善意を喚起し、左翼も氷解の兆しを見せつつあるし、成果を得て患者会の意義は高まるばかり。ありがたい。
この国家のためというより、この国に住まうすべての民の元気に通じるがゆえに。

夏の終わりのハーモニー

2009-08-23 | Weblog
 日々草の可憐さ、すがすがしい姿は夏の朝、こころを爽やかにしてくれる。
緑の葉が濃いほど、花のきれいな色がひきたつ。

 珍しくほうせんかを今年は種から育てて、結構大きな木に成長した。
あでやかな花びらが優しい葉の下からドレスのように咲き放ち、和ませてくれた。

 今度から、咲いた花をここに載せようかな。

 勝手に隣の駐車場の塀沿いにホウセンカとコスモスを植えた。雑草よりはましだろうと。
そしたら借りている方やら、見知らぬご近所さんから、ご挨拶いただいたり、
話しかけられるようになった。うれしーい変化だった。離れたところから歩いてこられ、花のお礼を言われたこともあったなあ。

 花は人の心を癒す力を持っている。女性も花。笑顔咲かせて、今日もたくさんの方にご挨拶しよう。心なしか、行く夏を寂しく感じるこのごろだからこそ。 

歴史に隠れた「真実」と「誠意」 その3

2009-08-21 | Weblog
 私の患者会活動における反省点
  ○ すぐに素直に受け取るが故に、一部の事柄において、
「謝罪」要求を受け入れてきたこと。
  ○ 各支部に報じる本部事務局からの作為的事実誤認に基づく虚偽的記載に
抗議する気力が失せてしまっていたこと。
  ○ 会議録に関する虚偽記載が多かったのだから、テープなど記録を取るなどの手を自ら講じるべきであった。

 この世は、生き残れるかどうかの、いす取りゲームの繰り返し。
そう思うと、患者会活動が虚しく、急にやる気も失せてきてしまった。
時は選挙選の真っ只中、地元選出の先生にも大変お世話になり、感謝申し上げたい思いでいっぱいながら、私は民間団体の現在の地区代表からは、政敵とも目される存在。
 ことはややこしい。私の誠意がどこまで伝わっているか、またこれからあの先生は何をなそうとしてまた立候補されたのか、根幹に帰って先ずその姿勢と、お考えを聞き、それぞれの党とそれぞれの議員候補を比較検討して、まっさらな気持ちで考え抜いて、後悔のない選択をしようと思う。
 
 自分たちの既得権益を守るために活動してきたのではない。この国全体のこの国に住む居住者、またはこの国を母国と愛する方々にとって、「難病患者としてどう生きるか」と言う命題の前に立ちどまり、全体つまり、みんなのためにも有益となる要求を掲げ、前向きな展開が可能となる言葉を選んで提案してきたつもりだった。そして何より、比較的恵まれているかに見える自身の現状からではなく、同じような境遇にありながらも、困窮に瀕する方々に成り代わって現状を好転させうる力にもなれれば、それが福祉的手立てを得てかろうじて生きる私からの小さな「恩返し」にもなるのではないかとの思いからだった。

 若い患者のみならず、我々難病患者は競争社会の中で、脱落することを恐れ、必死に健常者の仲間に混ざって現状を維持しようとする。しかしこれも長い人生からみれば、わずかな期間の抵抗にすぎない。決して、この社会をこのわずかな人間のために変えていこうとはしないのはなぜ?社会のほうを自分たちに適応するように組み替えることをすることも必要ではないか。それを頭から不可能と決め付けている。でも、わずかなはずのそうした難病患者が増えてきている。これはチャンスだ。
 国会議員は、この国の社会システムを構築するのが仕事。ならば、生きることが困難になってくるこの老人性症状の進行性難病の人材をどう生かすかは、かなり興味深い課題。ニーズはどこにでもある。それに適合するか、いかに掘り起こすかが、難題。例えば、・・・・やめよう。ここで語ることでもあるまい。

 年金にして然り。国民年金を納めてきたか定かではない患者。でももう仕事は無理な病状、年金を納めてきたかどうか、証明する手立てがない。よって、障害基礎年金の支給はあきらめムード。でも生きなくっちゃならない。生活保護は、審査も厳しく、親戚を回って、援助できないという証明をとらなくてはならない。
難病罹患者は、その財産も放棄しなければ、福祉の恩恵に預かることもできないのか!まじめに精勤してきたなれの果てのすがたがこれか。             障害基礎年金の引き上げを要望した数年前のWG。それから程なく最低年金の2割引き上げ決定、おまけに賃貸住居の家賃補填もあったやに記憶する。その新聞報道があったことを掲示板に書いた記憶がある。障害者団体の長年の運動の結実でもあったと後に知った。あの決議は3年後に施行されるということだったように思う。それはいつのことだろう。確かファイリングしていたはずなのに、ない。

 これら考え合わせても、国として、『難病対策基本法』の制定は、急を要するぐらい必要とされているのではなかろうか。特定疾患はすでに自己矛盾をきたし、限界を超えて久しい。

 やっと、難病団体が為政者の会議で提案すると言う機会を得た。それでも、対峙しようとする癖はどこか残る。3年前の記憶。初めてのヒヤリングを前に、私はおとりの場所へと案内されるところだった。それが何の強運か、偶然にも本当の場所へ。そこでの一部始終も患者会の本質を物語るものとして、公開した。友誼団体にすぎないJPA。主体は個々の患者会の合意事項のはず。それがなんともはや、我が会の代表数名は上の支持に従う姿勢。そこでJPA代表格に問い質した私。
「いったいあなた方はどこをゴールとお考えですか。どういうおつもりなんでしょう。」切れ者のかのお方ははっきりと応えた。「いったんは切られるだろう。そこからが勝負だ。」反論したのは私だけ。「これは短期決戦です。次回新聞報道でこれを覆す。ヤール3は一人も切らせない。でなければ、パーキンには悲観して自殺者が出る可能性も高い。パーキンにはパーキンの事情がある。これは譲れない。」と言い放った。怖いものはなにもなかった。もう一つの団体の若き代表たちはすこぶる頭がいい。「勝手に条件を出されて、それに応じる事のないように」と、それまでの私の個人的勇み足を皮肉られた事も今はなつかしい。「あなた方にとっては、こうした運動はゲームなんでしょうね」と言いたい気持ちを抑えるのがやっとだった。その切れ者を、やがて自分が発起人だとされるパーキンソン病ワーキンググループへ参加を促す事になろうとは、そのとき夢にも思わなかった。                                                                      

橋本岳代議士の4年の活動の一端、その歴史的成果を知るごくわずかな市民の一人として

2009-08-21 | Weblog
 難病患者パーキンソン病の全国組織の患者の副代表として、初めてお会いし、はや3年。
 先ずこの患者会は、患者の生存権のための人権擁護団体であり、社会運動団体であって、決して「おねだりの会」ではありません。患者のための「利益供与団体」だと勘違いなさる方も時にありますので、はじめにお断りしておきますことを、お許し下さい。つまり、P病だけはとか、難病だけは、というような、自己本位な発想も発言もないという意味で申し上げております。
 
 これまでに一部認定された難病には「特定疾患治療研究事業」という事業として、毎年予算折衝を経て一部医療助成金があり、高い薬代で生活を圧迫されている難病患者の療養生活を支えてきた厚生労働省の予算があります。年々、その患者が増えている難病は、一部軽症からはずしていこうという社会保障費の激増と財務省との折衝に苦悩するがゆえの選択だったようですが、これは事業であって、制度ではありませんので、毎年の予算の攻防があり、シーリングにもかけられます。その上、P病は、他の難病とは事情が大きく異なり、すでに軽症ヤール1・2は認定時よりはずされており、3年前ターゲットにされたヤール3は、中等症の薬も増え、失職の危機にさらされる時期でもあり、脳下の手術に踏み切る方も多い。それほど切羽詰った情況で唯一の福祉的手立てを失うことになる。それに、あと残るのは、ヤール4・5の重症患者のみ。これには重度医療という政策がある。つまりP病のヤール3を外すということは、特定疾患の形骸化を意味する重大な誤認に基づく失政を意味していたのです。
 それを見破り、人道的見地から、ヤール3の4万人とともに、潰瘍性大腸炎患者は自公の政治判断で逆転し、守る事ができました。
 
 あの運動の最後に、私は岡山県支部長のご縁で橋本先生の下へ。私の「私達は難病に拉致されたようなものです」と言う訴えの一言で、この問題は生存権に帰する問題であり、行政判断の不合理性はもとより、国が取り組むべき課題だと見抜かれ、難病患者たちの置かれた状況のおおかたを悟り、自民党の先生の間を「なぜパーキンなんだ」と、怒られ怒られしながらも、説得して回られたという橋本先生は、ついに日本政治史上で『がん患者会』に続くものとして、難病患者会では史上初の『パーキンソン病ワーキンググループ』を立ち上がらせました。『患者の声から国民の実態を把握し、これまでの医療・福祉施策を見直す機会ともする」趣旨の作業部会でした。その本質を見抜く洞察力と英知、勇断を持って臨む行動力は傑出しておられ、一歩も二歩も先んじてその後の難病対策の核として馳座長を筆頭に組まれたわけですが、その後、当の患者会からの、野党にスタンスを戻そうとする一派から作為的妨害行為があってもひるまず、相手にもせず、先生の「弱者のために政治はある」との信念はゆるぎようもなく、根本的解決のための布石を着実に積み上げてこられ、以後3年間、60万人以上の私たちに、当面の医療助成を保障しつつ、研究促進を図ることで、完治への生きる希望をつないできてくださったのです。
 
 実際その歳、家族殺人や放置死や虐待死を報じる記事は多く、P病で死ぬことはなく、長期にわたり家族をも苦しめぬく中枢神経難病は、悲惨な事件も引き起こす事が時にありますが、あれからはそうした記事を見た記憶がありません。その意味で、『橋本岳』という一人の人道主義者は、最底辺に捨て置かれていた、難病により生存権の危機に瀕する弱者の底上げと転換こそが、この国を新しく作り上げる一歩だと、泰然と見通しつつ、証明してこられた、と同時に、4万人のP病患者の生活と、ひいては命を守ってきたともいえるのです。3年前、難病対策決議文を発表し、行政判断を覆した自民党は、橋本先生が作られたこの「場」を核として勉強し、民主党議員よりよほど実情を把握しておられます。またP病WGは、長いこと野党側からしか物を言おうとしなかった方々をも偏見なく引き入れ、右も左もなく、政管民が力を合わせて、患者の実情からも社会保障費の見直しを図るという、財務省も引き入れた画期的な試みの、有志によるボランティア組織です。橋本先生がいかに有能であろうと、一人では何も出来ません。先生は今汗をかいて努力する方を支え、万人が自由に意見が述べられることで、総力を結集し、新たな意識改革をなしえたのです。それが7年ぶりの難病対策会議の再開を可能とし、他の難病も数多く『難病』と認めると言う結果を生んできております。この結果は、生き生きと暮らせる、次世代の明るい未来を想起させうるに充分な一歩ではないでしょうか。

 また橋本先生は、難病患者の我々を決して低く見おろすことなく、むしろ難病当事者として、その代弁者として、敬意すらにじませていたわってくださいました。施策の受益者こそ検証対象にふさわしいのは、考えてみれば当然かもしれません。

 日本は、長老大国でありながら、高齢者が飼われているかのような福祉社会。尊厳ある孤老死か、従順なる管理生活か、などと表現されることもままあります。岳先生なら、この国の礎を築き、余生を送る先人に穏やかで尊厳ある日々を復活させうる、そう直感するのは私だけでしょうか。先生のPDWGの会は、難病関係の予算配分を根本的解決へと移譲させつつ、拡大させてきたなど、その功績は大きく、今や、諸先輩国会議員の方々の信任も厚く、ただ今70名余りを抱える会へと成長し、更に今後益々党派を超えて拡大していくのは必至です。難病問題においても、国会の核としてのそのご活躍と謙虚にして、勇気ある行動。平素はややシャイでいらして気さくなお人柄。地道で最も厄介な社会保障費にも関わるこの道半ばの、大事業を成就するという天命が残されております。健常者が生きがいを持って働き、青少年は社会人となることを夢見る。女性は安心して産み育て、子供の笑い声とお年よりの笑顔にあふれた風景、そんな当たり前の人間らしいかつての日本社会の善さを取り戻せる大きな手立てを講じうる方として、大勢の患者家族より期待されており、実際私もその一人です。

「功罪」という言葉を思い出します。今や、長期間、この国の責任を負ってきた責任政党が、その「功」を当然とする方々に、「罪」をあげつらわれる昨今ですが、この倉敷が生んだ逸材を更に大きくはぐくむ一票になさるか、国政にとって待たれておるこの大きな若木を4年間も幽閉してしまうか。選択は自由です。ただ、ここ倉敷をこよなく家族と同様に愛し、難病問題とともに、倉敷も「どぎゃんかせんといかん」と、熱い志に燃える代表が、自民党のみならず国政に携わる方々の意識をここ数年で大きく変えてきたという成果を明らかにする時、党を諌めるつもりの一票などは、ここ倉敷にとっては何の意味もないと思うしだいです。かけがえのないあなたの一票は、この国に生かせる力にしていただきたいとも願わずにはおれません。

 倉敷にとっても、日本にとっても、何より困窮に瀕する患者にとっても、まだまだ道はなかば、これからが本論です。誤解を招きやすく、生きていくことが辛すぎるP病の実態を最も知る橋本先生には引き続き、血の通った政治へと更に推し進めて行っていただかなければなりません。倉敷の皆様と不肖ながら私には、送り出す責任があるとすら自認しております。また全国の難病患者と家族の方々は、倉敷・早島の皆さんに、岳先生への1票をと、呼びかけていただきたいのです。
病める者、貧しきもの心に寄り添い、即改善へと行動できる「正義の志」を、再び国政へと送り出すには、今回の逆風は強すぎて、あと一歩、あと一歩なのです。
どうかこの国の民のために、命かけても、お願い申し上げる次第でございます。


 以上が、8/18に、倉敷において言いたかったことを、かみ砕いて申し述べたものです。2分が5分になったスピーチ。それでも市民の皆さんに真意が伝わったかどうか、不安でなりません。それでこのように、書いて記憶にとどめることにいたしました。あわせて、末筆ながら、大事な出陣の日に、私のような一市民に、応援する時間をくださった橋本先生の広いお心に深甚の感謝を申し上げる次第でございます。

歴史に隠れた「真実」と「誠意」  その2

2009-08-15 | Weblog
 寂しい一件が思い起こされる。津島雄二代議士の突如の引退。
私個人は、政治オンチを自認しているし、単なる一主婦。それが、P病になり、「あと5年で完治の薬が出るよ」と言う言葉を真に受けて、早17年。10年すぎて、とうとう仕事をリタイアして障害者の仲間入りを許された。
 その福祉の恩恵に預かる身となった時、決意した。この社会に少しでも恩返ししたいと。残された僅かな力を誰かのためにお役にたてたら、こんな私でも生きてよかったと満足して笑顔で死ねるような気もした。
 その頃、否が応でも体験させられる試練の数々があった。この与えられる試練は無駄じゃない。意味がある。当時、まだ子供たちは、多感な時期でもあり、大事な学齢期であった。そのうえ、自閉症の長男、手がかかる大事な時期。でも自分が朽ちては、家族全員最低辺をさまようしかない。死ねない病気、しかも老人性で進行していく。いずれ意思も伝えられず寝たきりになると聞く。私は復帰する、いつか。それには完治を手元に引き寄せるのみ。つらい息子との葛藤に明け暮れるのは、病気の進行を助けるのみ。光が見出せるのは、まず自分の病状の方と見極めた。
 そして首をつっこんだ患者会活動。そこでみる困窮の実態の一部と、搾取される患者たち、その社会的経済構造。そして私物と化し、上位者の思いのままの患者団体と見る。患者会を第二のにしてはならない。「おねだり団体になっては、この国も患者もうかばれない」難病だからこそ、言える最底辺からの訴えがある。私たちにも生きる権利がある。精神神経難病ゆえの、偏見と重圧。老人性であり、露呈する症状ゆえの、自尊心をうち砕く日々。失職、孤独、自信喪失、家族内離散、薬の弊害、その多様な病態、個人内変動、日内変動による誤解。とてもじゃないけど、受身でいたら自分を責める日々に。積極的に、人を食った態度でもいいから、虚勢でもいいから、生き抜こうよ。そう呼びかけたいぐらい、家計の主計者である男性や、独身者、そして手術しても好転しない患者たちの、絶望と隣り合わせの断崖絶壁にたたずむかの心。ヤール3は、そういう患者層だと訴え、この中等症の患者の医療助成はずしを難病全体と潰瘍性大腸炎とともに阻んだ3年前。地方からの声が世論を変えた。共同通信社デスクに嘆願書をコピー、協力をお願いし、精読していただいたことも、思い起こされる。「お力になれれば…」とのお言葉は、殊のほかうれしかった。いくつもの壁があり、仲間が仲間でない苦しさがあった。負け犬を演じ、被害者意識をあおることで、患者会組織を増強させ、この社会を根本から覆そうとする野党支持者のお歴々が、患者会を牛耳っていたあの頃。特定疾患問題は、その野党たたきの一手でもあったかともみえる。言い換えれば、我々は長いこと、政争の具と弄ばれ、野党与党とその覇権の目論見に揺れ、下らぬ内部抗争にも明け暮れてきたのだ。会員の血税をいずこかへ垂れ流すことを容認する各地のリーダーありての現実。患者会の不当と非合理を見知った多くの賢人は去り、物言わぬ組織を守ろうとする事なかれ主義者が、これこそ平和と勘違いして集うのみ。かくして、事実をゆがめ、配信する核たる個人がその機関紙も会計も、意のままにしようとする北朝鮮顔負けの独裁体制でもあった。長年責任を負って任を果たすと言うことは、その功も罪も小さからぬものがあって当然。今の自民党と似ては居るまいか。それが、この9月の支部長役員合同会議で、副代表たるお立場からの、『会則・諸規定改正』の提案ありて、協議の上、各支部再検討の芽も残しつつ、改正実現できるか。次回総会を公選で次期の体制作りができ、患者主体の会となしうるかどうか、見極めたい。1年前に副会長を辞した後、JPA代表をP病WGへの参画を促した責任を取るべく、一会員としてJPAの勉強会に2度出席、無論会からの経費補填は一切なし。自腹で行き、代表の姿勢を質した。孤独極まりない数時間でもあったが、悔いはない。
私が闘った会の主が、帰途共にして、夕餉を共に杯を傾け、互いを深いところで理解しあっていたことを知った。私はあの至福の時間を忘れない。そして思想を尚超えて敬愛してやまないところもある。過日、基金創設人として、「パーキンソン病歴史編纂委員会』の提唱をお願いしたが、承認されたと聞き、喜んでもいる。私たちの先人のあきらめない姿勢と、皮肉にも激増する難病という現実が、この国の為政者の誠意を呼び覚ました。その結晶体としての「P病WG」。ここには人道主義者のるつぼ。この灯を守らなければ。あれから3年間、予算確保と患者の実態から、医療制度改革や福祉策の見直しを図りたいと言われ、
研究費も増強。60万人の療養生活を守り、完治への希望の灯を眼前に引き寄せたのは、若き志士達。その発起人が、橋本岳事務局長(倉敷)。この方なくしてこれからの明るい療養生活があろうか。馳浩座長は財務省の理解を得た。大型予算と新規認定は、左も右も国民の中に飛び込んで聞くこの先生の姿勢から。福岡代議士は、カルテの長期保存を約束してくださった。原田義昭代議士は、難病対策議員連盟の代表格で、公聴会後、直訴を聞き入れ、P病の実態をレポートしたものを配布、人道的見地からP病4万人を守ると、約束してくださった。この方々と、津島先生の理解と支援を得たのは、おねだりでも同情ほしさの訴えでもなく、国民全体と根本的解決のための、偽りのない現状を訴えたからだ。
無論、感謝の思いも忘れることなくにじませて。地元岸田先生のご支援にも感謝。
そして何より当事者の訴えが最も強かった。その方を丹羽先生に推薦したが、公明党の代表も丹羽さんを通じてなら会うと、あの当時はその程度の会であった。

ちょっと、一息、雨上がりの朝のブレークタイム。

2009-08-15 | Weblog
 また雨の朝、おかげで水やりがさぼれます。ありがとう、雷様。
でも、水がめをけちらすのだけは、ご遠慮くださいね。下界では大迷惑してなのですから、と、朝から独り言。
 表をのぞくと、日々草がホッと一息ついてるようです。でも、ハイビスカスのマダムユミやカンナは少し物足りなさそうな風情。その双方をテーブルの上に活けると、いっぺんにリビングが華やいで明るくなりました。
 これで、遅い朝ごはん。と見ると、お鍋に夕べのカレー。娘婿殿が、ハヤシライス系が好物と言うことで、久方ぶりに作ったゆうべのカレー。ここで、つい悪さしてしまいたくなる私。INで仕入れた情報を試すチャンス。
一晩寝かせたルーを2種類混ぜて作ったカレーに、先ず、お好みソースを投入…うん、メリハリが利いてきた。ついでにバターを少々…うん、コクが増したな。さらに勇気を出して、残っていたコンデンスミルクをトローリ…うん、深みが出て、絶品!これいける!
 皆さん、お試しあれ。しかし、朝からこの食欲。犬の散歩がきくのか。PDになると、普通やせると聞くが、PDは私の性にあっているのか、一向にやせる気配がなく、ダイエットに再挑戦せねばと思うくらい。
 お盆のまっさい中、お父さんと息子はお仕事に、さあ、母さんはやりかけの原稿やお礼状をがんばらねば。それにしても、明日は大阪、飛んで倉敷、その次帰ってすぐ神戸。ハードやなあ。でも自分で選んだこと。約束は果たしたい。その前に本論を書いておこう。