残りわずかな力でも伝えよう。-そして、再起。 

この難病は、私だから授かった『生きる上での宿題』と受け止めたい。生きる「希望」を
胸に。「P病撲滅」が夢。

お待たせしたお詫びに・・熱海に行きたかった、いちご姉さんより

2008-03-23 | Weblog
 P病のお友達は、みんな個性豊かで、才能のあるかたが多いにゃん。
  ネコではない。鍋ネコならぬ、布団犬がうちにいますが…
 
 そういう方々は、私のブログのこと、思い出してくれるはずと期待して
 約一月遅れたお詫びに、輸血大サービス、ちがった?
 私のここ数年の本業から学んだこと。
 つい書き下ろしの原稿を、付録として、載せますね。

 今年の総会で出た質問の一つ、それがなぜか議事録には見あたらないが、うろ覚えの記憶をたどると・・・
「特定疾患は、厚労省の特定懇で、ヤ-ル3は切られたはずですが、自公の決議で逆転しました。そしてP病WGまでできましたが、どうしてなのか本部の方はその裏事情を知っているはずですが」と言う趣旨の質問であった。これにお答えすべきは私でしたが、あの時、議事運営委員長でもあり控えるべきとの判断をしたが、今ここにお答えしたい。
「鋭いご質問ですね。議案書にもあろうかと思いますが、
第一には、皆さんの各地方からの運動の盛り上がりが、確実に
世論を変えた、と言う点。その主張が『5万人を超えても
難病は難病だ』と言う解りやすさから、世間で即、多くの理解が
得られたからとも言えましょう。皆さんが、後半の矢継早の事務局指令に
よる対応も早く、その事務局も相当多忙を極められた。
しかし、行政は一度言ったことは、簡単には変更しないのが通常です。
今回は、JPAとの連携が上手く実を結び、与党の難病関係の議員の
公聴会で、一部体験談として好感触を得たことと、各支部でさまざまな
人脈から、与党への説得があったおかげでもありますが、公聴会では
新疾病加入が有利との感じを強くもち、切羽詰る思いでその直後に
私は原田幹事長に直訴を許され、翌日の厚労部会で決するということで、
必死で説得、かつ『美しい日本のために』と題するレポートを一読していただき、すぐに「これをすぐに明日の部会の皆さんに配るように」と指示されたのには
驚きでした。

 その内容は、恵まれていると思われがちな、P病患者の知られざる
裏の実情と終わりなき療養生活と絶望との戦い。
そして最も患者が望む原因究明からの完治こそが、
社会補償費の減少化と予防策、偏見の打破につながると、
国力の充実と国民の幸せのために、実情にあった根本的な
総合的施策の見直しと、難病問題に対する国の責務を求めたものでした。

 要は、患者会というものは、おねだりや同情を煽るのではなく、
健康な心身を回復することが、患者家族を含む国民の幸せの
前提条件なのだから、人として当たり前の要求であり、公害の
ような地域環境によるものではなく、食を含む国民の環境問題からだと
見据えるとともに、この問題解決に国家を挙げて取り組んでほしいと
主張しつづける。老いも若いも、東西南北も、右も左もない。
国民が一体となって、『難病大国』の汚名返上に立ち上がることを、
創起させうる社会運動団体なのです。この主張から、難病と諦めず『完治』を目指す患者会と理解され、難病対策は何とかしなくてはという人道的判断で
救われたと考えます。

 そもそも、この特定疾患問題は行政レベルでは解決できる問題
ではなく、国の国民の健康問題への姿勢を問うもので与党がそれを
理解し、動かなければ弱い患者同士が少ないパイを争い奪い合うと
いう結果にしかならないもので、「これまで野党にばかり頼ってきた
患者会が初めて責任政党である自民党を頼ってきてくれた。これまでは
申し訳ないが、犬の遠吠えで自己満足して来たに過ぎない。難病である
この人たちの力になりたい」と冒頭に挨拶されたA先生の言葉に
象徴されるように、与党の理解と支援を得た我々の勝利であったのです。
この背景には難病者の急増と社会保障費の増額という国民的な問題が
あってのことで、特定疾患は制度でなく事業であるため予算の限界もあり、
しかも実施主体は都道府県にあるというものだけに、今後予算獲得だけでなく
難病全体を見据えた形でこれからを共に考えていく姿勢を持たなければ
ならないことを示唆しています。ですから今後、WGが成果を収めつつ、
超党派に拡大していくことが是非必要なのです。以上です。」

 これは答弁と言うより演説に近いが、この特定疾患問題への取り組みを
通して、この友の会は大きく変容したのである。かつて野党に頼って
抵抗運動で自己満足に終わっていた時代は終わりを告げたのでもあるといえる。

 自己愛でなく、献身的使命感は、相手の善意を喚起せずには置かないはず。
 サプライズ、感動と共感がそこにある。
 そう信じている者が、この世にひとりはいてもいいよね。ねえ、甘いかな?

 これ、次に続く人に託したい思い①です。自慢話ではありませんのでお許しを。

『相田みつを』に会っちゃった!

2008-03-23 | Weblog

 言葉の大切さと、その力におそれ入る、相田作品の数々
 作品にはどれも人間が好きだと書いてある。
 そして記念館のファンは老若男女を問わずというものの、
 やはり癒されたいのか、女性がかなり多い。


   患者会の全国誌の編集に携わっていた3・4年前、まだ血気盛んな頃、
  「相田みつを」の詩をカラーグラビアで使わせて
  いただいた。無論、記念館の許可をいただいてのことである。
その担当者のお声は、きびきびとした女性、しかもたおやかさがあって
きっと美しい、凛とした方だろうと想像したことを、妙に覚えている。

   「ただいるだけで」
 あなたがそこにただいるだけで 
その場の空気があかるくなる 
あなたがそこにただいるだけで 
みんなのこころがやすらぐ 
そんなあなたにわたしもなりたい 

写真は、白い一面の雪の中に、一羽の鳥
それを撮影したのは、P病を罹患されたある歯科医の先生。
写真集を出したり、受賞経験もあり、個展も開いたりと、結構知られた方だが
図らずも、真っ白な明るい画面にこの詩を載せたいという
ひそかな願望が叶ったものであった

この詩がまた、生きる力が小さくなっていく進行性神経難病のP病患者にとっては
勇気がわく、とてもぴったりの詩だと直感した。
というのも、P病は薬でかなり改善されたとはいえ、人としての自信を奪い、
つらく、悲しい日々と、絶望と隣り合わせの中をくぐりぬけ、前向きに生きる方が多い。
その笑顔は、ひときわ癒しのパワーに満ち、明るく、人の心に染み入る何かを持っている。
そのご家族も、同じ思いを共にされるからだろうか。その瞳に宿る光、限りなく優しく、
これを『慈愛』に満ちた、と表現すれば、ぴったりくるのかもしれない。そんな思いからの1ページであった。

昨年の春、広島県支部長、上京の折、ご講演をと館長さんに依頼すると、
快くお引き受けくださったという。恐るべし!わが支部長の積極性。
これも愛知の支部長、N氏の「積極的に生きる」の薫陶ゆえだろうか。
広島の人はおとなしいとよく言われるけど、p病は例外みたい。
「高山さん、相田みつを、知ってる?」と、聞かれる
「もちろん、好きですよ。(おいおい、会報読んでないの~トホホ)」

 夏、ついに講演当日。
 積極性を見習って、自ら講師係に。
 長身なのに、腰の低い方である。
 とても有名なお父上の息子さんという感じではない。
 「謙虚」という言葉がぴったりのすてきな方で、お話もウイットに富んで、
 笑いあり、感動ありの、あっと言う間のご講演であった。
 わずかな空席が申し訳ないやら、もったいないやらで、宣伝不足だったなと、
 内心後悔しきりなのは、私ばかりではなかったろう。
 最後に、あるフィルム上映をしてくださるという。
 と、あれは、なんと相田みつを先生、その人ではないか!
 生き返られたかのよう。そして語られる、淡々とした口調で。
 幼き頃の体験に基づく、平和と幸せを希求してやまない思い。
 肉親を失った悲しみも心に痛い!
 あふれる涙、鼻をすすりあげえる音があちこちから。
 しゃくりあげそうで、それを抑えるのがやっとだ。
 「滂沱として流れる涙」とは、これをいうのか。

 そして、フィルムが終わった時、つい思った。
 「相田みつを先生に会っちゃった」と。
 「すご-い!残すって、記録って、こんなにすごいことなんだ」
 言葉の力、それを伝えようとする人の尊い思い。
 ありがたい!館長先生のお仕事も、彼にしかできない使命。
 お父上の遺産の上に、デンと乗っかり、胡坐をかいていても人生。
 なのに、敬虔というぐらい、みつをの心を今も汲もうとされている。
 自分がはずかしくなってくる。
 記念館そのものが、癒される空間であり、
 どこか凛とした空気に満たされていたことも
 思い出された。かの電話の主は、はたして「かぐやひめ」を彷彿とさせる美女で あったが、控えめで凛とした雰囲気は、館内そのものの、真摯な姿勢の写し絵で あったのだろう。

 この講演で、生きる力をいただいた方は少なくない。
 感動の感想文の一つも支部の会報に後日寄せられ、
 あの日の感動を新たにした人も多いはず。

 「いやあ、人間って、ほんと、いいですねえ。」