残りわずかな力でも伝えよう。-そして、再起。 

この難病は、私だから授かった『生きる上での宿題』と受け止めたい。生きる「希望」を
胸に。「P病撲滅」が夢。

急転直下…大泣きのあとで…ドタキャンになってごめんね!

2011-06-19 | Weblog
東京へ立つ前ゞ日の深夜、主人がこともなげに言った。

「あっ、そう言えば、大阪の叔母さんが亡くなったんだ。」「エッ!」

「じゃあ、東京どころじゃないじゃない」
「好きにすれば。行くなっていっても、行くくせに…。その判断は全て君に任せるよ。
これまでも好きにしてきたんだから。」

 その夜は痛みと心のきしみで苦しみ抜いて寝れなかった、今更だけど。
そう、私の叔母ではない。でも主人の今があるのは、このお方とオジサンのおかげ。
大きな御恩がある。親戚が大阪に集い、別れを惜しむ日、私はルンルンと東京さ行くのか。
それではまるで「人でなし」ではないか。
そう気がついて、意を決して、O先生にお断りのTELできたのは、翌日の主人の仕事を、法事にでかけた義母の代行でお手伝いして、一段落してからだった。
 なぜか涙が止まらない。丹羽先生の弟子として、特定疾患問題の最前線にいたものとして、若年患者の一人として、お伝えせねばならねこともあったやも知れぬ。
お約束したあの人、この人のお顔が目に浮かぶ。昨日ブログにも書いたのに、(´;ω;`)
みんなごめん!そう言えば、まだあの大事な恩あるお方へのお見舞いもまだだった。
これはきつい警めと受け止めよう。でも思い切れなくて声を上げて泣いた。そしたらすっとした。
IちゃんにTEL。一分の黙祷をお願いする。心清らかでさわやかな美人だった藤岡さんや、前向きな可愛い印象の中野さん、一風変わったキャラだけど気さくで兄のようであった大道さんや、もう一度会いたかった平田さん。
そして、忘れもしない。人のために自分を投げ打って、この患者たちのためにと家族もろとも数年かけて「島根県支部」を、全国で初、いや唯一県内を全域網羅する形で打ち立てた男。偉大なる「野津久男氏」。そしてササユリのような、ひたむきに愛を持って生き抜いた石川さん。この素晴らしい人たちが働き盛りにかかった難病、それが「若年パーキンソン病」。私は社会的観点からすれば、P病により定年まで働けなかった患者や家族は、この若壮年P病の被害者だと思う。後から電話を下さった清徳さんもかねてより4・50代発病を含むと言うお考え。そうだ、卓球大会にも連絡しとかなくっちゃいけなかったし、大阪も…。

 駅ヘ切符の払い戻し。5000円もの丸損。そんなことはいいが、もし期待する方があったら、心からお詫びせねば。旧若年部長としての責務を果たせず、申し訳ないと。
ケアマネにもご迷惑をおかけする次第となったが、身内の不幸事なのでご勘弁いただいた。
keseraseraさんも、ごめんね。でも主人は後でこれでよかったのかもと、ポツリ。
だって、うちはそんなに経済的余力ないもの…。おばさんが行くなって言ったのかも…。

お元気ですか、皆さん?

2011-06-17 | Weblog
 あれから、何年たったのでしょう。ご無沙汰と不義理ばかり重ねているもみじです。

   ー 私の体はもう薬と病気でボロボロ、24年目の患者としてあがいてもいます。

ふと以前のことを振り返ることもある、この頃。もう余り長くないのかな、元気そうだけど。

 
全国からこのP病の若年患者たちが、今度の日曜日、東京に集まるって。


 主催者のお方から、そこに是非来るように、とお声をかけていただいた。

 私はこの方が、実は大好きなので、お断りできない。

 しかも、同じ痛みを持つ患者仲間と会えると思うと、不思議と嬉しくなる。

 楽しみだなあ。家族に感謝、関係者の皆さんにひたすら、ありがとう!

 その次の日は、江戸川スポーツセンターで卓球大会に出場。
 もちろん、この患者と関係者による全国大会。思いっきり楽しもう。

 できれば、神経内科医の先生や、研究者、またリハビリ関係者に見に来ていただきたい。

 きっと、パーキンソン病に対するこれまでの印象が軽く浅いものに思えてくると思うから。


 笑顔で行くよ、ケアマネと一緒に。

 友達が笑顔だけは憎めないって褒めてくれたから。

 

ある薬剤師Hさんへの追悼の手紙

2010-07-03 | Weblog

 H様。
 あなたは、患者である私にとって、忘れえぬ数少ない心触れ合えた薬剤師さんでした。
思い起こせば、何度、貴女の優しさ、そしてあなたのお仕事に対するひたむきさに助けられてきたことか。
もう数年前になります。当時、あなたがY店に居られる頃、薬を4日以内に取りにいかないと処方箋は無効になるというのに、パーキンソン病で15年以上になる私は、若くてもすぐに薬が切れ、当時は要介護度4で外出もままなりませんでした。月に1度遠くの病院へ通うのがやっと、薬を待っていたら動けなくなる。なので、近所の薬局で翌日お薬をもらおうとしても、なかなか家族もそれぞれが忙しく、4日なぞすぐにたってしまうのです。「動けないから今日も間に合いません」と電話で言うと、「ではお届けしましょう」と言ってくださったのが、あなたでした。歩けないので、玄関にも出れないこともしばしばでしたが、薬ですからと、何度も足を運んでくださいましたね。他の若い方たちは、けたたましい犬をいやがってか、そそくさとお帰りになるのに、あなたは、丁寧にお薬の説明をされ、薬が増えていることを案じてもくださいました。お心のこもった処方でした。
Hさん、貴女は私のピンチを何度も助けてくださった。
当時、誰もしていなかったことを、あなたは患者の窮地を想うあまり、始めてくださったのです。そのありがたみを知ったのは、あなたが居られなくなってからでしたが。

それがこの度、ひょんなことで、社長様とご主人にお会いする機会があり、その後、貴女様がご入院なさっておられることや一患者でしかない私のことを憶えていてくださったことを社長様のお見舞いの後でお聞きし、私達夫婦は、あなたのことを、感慨を持って思い起こしておりました。
そんな矢先、信じられないことに貴女の悲報、なんということでしょう。こんなにもいい方がこんなにも早くなぜ先に逝ってしまわれるのか。傍目(はため )にも、若い薬剤師さんたちにも信頼され慕われておられるご様子でした。今の貴社のお薬のお届けサービスは商業上のサービスというより、こうした患者さんをなんとか助けてあげたいという、心からの行いから出てきたものだと理解しました。あなたのようなお気持ちをもった薬剤師さんが数多く育っておられるということでしょう。
「さようなら」は言いません。しばらくのお別れです。いずれ私たちもそちらに参りますので。昨日は主人が休みだったため、お通夜の席にお参りに足を運ばせていただくことができ、あなたがどんなに多くの方々に惜しまれ、慕われておられたかを知りました。会館に入りきれないほどの人。お仕事でお疲れの中を駆けつけられた皆さんの中から聞かれる多くのすすり泣きの声、これほどまでにあなたは多くの方の心に良き思い出を刻まれて逝かれるのです。これは悠長にはしておれないと思いました。あちらに行った時、私なぞ相手にしていただけないかもしれません。貴女の千分の一でも真摯に、そして誠実に、残された日々を精一杯生きていきたいと思います。そしてあちらでお会いできたら、お声をかけますので、その時には、思い出してくださいね。


貴女は私の知る「真の良き人」でした。私は「憎まれっ子」なので、もう少し世にはばかっていくことになるかもしれません。そんな私が、貴女という方と、わずかでもこうした触れ合いができたこと、あなたのお仕事へのひたむきさが私に教えてくださった多くのこと、大きな喜びと感謝をもって、貴女に患者を代表して、お礼申し上げます。本当に、ありがとうございました。            
                 


遺されたご遺族の皆様へ
ご主人様、お嬢様、そしてお婿様、あなたの奥様であり、お母様であるY子様を亡くされたお悲しみはいかばかりかと思うと、胸は張り裂けそうですが、精一杯生きてこられ、それを精一杯支えてこられたご家族のこれまでを知り、昨日弔問させていただいて本当によかったと、安堵いたしました。

私は「亡き人想う。そこに亡き人、共にあり。」という言葉が好きです。
もう電話も手紙もいらないんですから。

お母様はご家族の誇りです。どうぞ、思いのたけを込めて、お別れを。
そして、お母様のお人柄を偲んで、これからの毎日を大事にいとおおしんで でお過ごしください。
ご一家の皆様とともに、私達も前を向いて、歩ませていただきとうございます。

      2010年6月24日
                               綾もみじ

若壮年パーキンソン患者の皆さんへ③

2010-07-03 | Weblog
若年部の皆さんへ
過去の事実を正しく認識しなければ、今後の進むべき道の選択を見誤ってしまう。
4年前の特定疾患問題の決着を覆したのは、地方と若壮年患者の「純粋さ」の力であった。
皮肉なことに、その勝利は、現状、約10万人の特定疾患登録患者がいる国で、かなり重症な「平和ボケ現象」を招いてしまった。ともあれ、結果として、友の会はその目論見がどうであれ、ヤール3の方々4万人の医療助成権を守った。だが、本音では世論は覆しても、今回の外しを回避させるつもりも、ヤール3を守る意思もなかったがために、その結果を認めず、せっかくの歴史的成果である「P病WG」も今や風前の灯と化してしまった。

 
 いったい、患者のための会なのかどうか。運動のための運動ではないのか。
この会の意思決定権はいずこに。会員の血税とも言うべき会費で運営しながら、支部連合体。
会員の直接意見具申は、最高決議機関においても封じられ、その意思決定までに予算の殆どが消えるため、行動できる予算はない。民意は吸い上げもされず、情報の共有も特定の箇所からの特定の方の意思を通じてしか発せられないという、極めて非民主的な会に成り下がってきてはいまいか。どうぞ、目を見開いて、耳を澄ませて、この会の行く末を案じていただきたい。
患者が患者を利用してはいまいか。患者が患者を食い物にしてしまうとなると、それはもう法人化しようとも、患者会にあらず。患者が幸福感を得られる活動はできかねる。

先ずは真実の認識を。そして、徹底した議論を。
自分と自分の家族を第一にする方は賢い。ただ人が人を想う気持ちもまた尊いと思う。
次世代の立ち上がりなくして、老人世代の幸福と安定はない。覚醒と連帯の輪が各地に芽生えんことを願う。
関係団体の方々へ・・「組織が間違いない」というのは、妄想に近い。個人であってもその思いの強さがあって、思惟した結果が衆人の求めと一致すれば、時代の一ページを開くこともあるのです。何が本質で、何がまやかしか、見極める力をもっていただきたい。

患者会は、営利団体にあらず。人権擁護の、最後の駆け込み寺。
あくまでも奉仕の精神で。
「任意と善意による会」と称された、今は亡き丹羽先生がなつかしい。
会の代表は、名誉職ではなく、あくまでも一定期間のお世話係。主権は会員である患者に。
明るく、楽しいだけでは、前進も成長もない。向上心あってこその、社会運動。
自己研修が必要なことは語るまでもない。
そうした謙虚で、献身的な情熱と信念を併せ持つ若年患者の登壇を待ちたい。

現時点で確信を持って皆さんにお伝えできることは、
既存の会は、かなり有能なる人格者と見える方々が奮闘努力しておられ、組織も頑強で、
政治志向もはっきりしている。その方々の善意は疑わないにしても、組織的な作為や行き過ぎは罪を産む。私個人はこれからのスタンスを含めて、深く静かに思惟しつつある。

さてどこまで行けるか。前を向いてチャレンジし続けよう。
ただ忘れてはいない。あの時、心底力になってくださったこの国の民を想ってやまない情熱と正義の志士、国会の心ある若き勇者であった。
橋本岳先生、馳浩先生、福岡資麿先生、岸田文雄先生、津島雄二先生、原田先生、有村先生、谷合先生、片山虎之助先生、などなど。
なかでも、この国の命運をある意味握る核心の代議士、馳浩先生について、後日詳しく語らねばならない。私にはその責務もまだ果たせていない。
お断りしておくが、私は特定政党を妄信するものでもなく、今の政治システムそのものが狂っていると痛感してきただけに不審がつきまとう無党派層であろう。
ただ、お金の流れがその時の事実と意図を物語ることは、さすがに体験できたこととして大きい。

若壮年パーキンソン患者の皆さんへ②

2010-07-03 | Weblog
就労問題において、最も困難な疾病『パーキンソン病』
その病態の特徴… 一定しない病状(あてにならない)・進行性・震え・無動など人目に明らか。
歩行障害からのトイレ不安や、通勤の困難さが派生しがち
コミュニケーション能力が下降していく・感情の起伏や精神症状を伴うケースあり
服薬による突発睡眠など、社会的影響が大きい弊害を伴う。(運転免許の更新問題)
病人であることも然り、更には、中高年としても限界も加わってくる。
惜しい人材多し…知的分野のキャリア。スパークする脳。几帳面な仕事ぶり。完ぺき主義。
これを生かすシステムは?法改正による条件整備も可。

段階別就労問題の具体策(案) あくまでも、就労は個人により千差万別。
ヤール1・2…職場の理解支援を得る。家庭の協力体制、制度の利用も考慮に。
① 能力と器量 ② 意欲 ③ヒューマンパワー(人間力)
最もまずいのが、外部団体からの圧力行動→条件闘争して勝っても、孤立化。
過重な労働の軽減 及び ストレス対策・難病認定や障害基礎年金申請を急ぐ
失職防止策 または失職対応策事前準備
自分からは決して退職の希望を口にしないなど。「自己都合による退職」は避ける。
ヤール3 … 最も苦しい時期。進む病状に薬調整の工夫。
不幸にして「失業」の憂き目→スキルアップのチャンス
「会社都合による退職」と「ポリテクセンター」という優遇
転職に生かす各種制度 「特定疾患」と「障害者手帳」取得を。
年金に裏打ちされた、短時間就労。長期間継続可能。
ヤール4… 重度医療券取得 地域に根ざし、キャリアを生かせるボランティア事業の模索
⇒ 「ボランティア人材センター」(仮称)各県設置へ
特許・創作意欲喚起。チーム開発。IN事業模索。(家族ぐるみ、団体なら可能)
※ 創業はたやすいが、その存続には、信念と大きな体力と知力及び人材求心力を要する。

今後の運動方針(案)
1、 難病患者の恒久的人権擁護と医学の進歩に伴う社会復帰のため、また国の姿勢を明示するためにも、『難病対策基本法』制定を期して、超党派体制の取り組みを。
「希少性」の反対、「広汎性難病」を公然化。P病が代表となって(P病WGを活用)、
「難病」の定義そのものからの根本からの議論に立ち返り、認識をあらたにすべき。
癌同様に国の責務として、難病の抜本的解決策(完治療法の確立と予防法の提唱)を求める。
社会保障全般を見直すべき、医薬界にも包括的指針があらためて示されるべき。
「PDの生きる道」とは、「外部には連携を、仲間とは連帯を」・・・瀬戸貞明氏(石川)
パーキンソン病ワーキンググループの精神とはー
…患者の実情を知ることを旨とした、政管民三位一体での、社会保障全般見直しのための勉強会

2、現状の「難病相談支援室」から、就労対策センターを併合した独立建築物への発展的成長を要望。相談応対の専門家(セラピスト)育成機関としても支援協力する。
そしてそこに難病の患者会も入居。センターをバックアップ(後方支援)する。

全国の難病に関する情報収拾他、ナショナルセンター機能を持った『全国難病対策センター』設立を要望していく。(JPAを通じて、すでに要望してはきている)
             ーがん対策に学ぶべき。 
3、 様々な会派をこえて(リラの会・マグの会など)、年に一回、『若壮年PD患者と応援者のつどい』を持ち、語り合ってはどうか。ついでに日ごろの成果を持ち寄り、研修とリハビリ大会(卓球・ボーリング・カラオケetc)として、楽しくもあり、期待を込めて参加すべき。
個人参加もOK・・・・『若壮年PD患者支援機構 』〔幹事会結成〕するも、時間の都合もあり、検討なし。

若壮年パーキンソン患者の皆さんへ①

2010-07-03 | Weblog
はじめに
『JPDA 若(壮)年部会』の目的(使命)・・・「若年性患者」と言われる患者達自らが立ち上がる中で、老齢年金受給以前のPD患者を対象として、①その実態を把握するとともに、②研修や議論を通じ、社会的困窮にある方々の課題解決に挑むこと。③また参加当事者の交流を図りつつ、相互支援の気運を高めること。④更に自身の療養生活維持改善のための具体的行動を続け、長期療養に耐えつつ、完治療法の確立を待つこと。
今回も、これを前提とした発言と議論に期待するとともに、一つの結論を出せる前向きなものにという主催者の意向に大いに賛同したい。たとえ、それが年一回の参集にしても。
何よりも先ずは、前若年部長としての力不足を、皆様に伏してお詫び申し上げるしだいである。現在体力不足により、お約束の果たせぬ状態にてご無礼を重ねておりますことも併せてお詫びしたい。

これまでを振り返る
全国初、『若年問題』を正面から取り組んだのが、2004年の若年部会。初めての形ある成果『若年性患者のアンケート結果』として、冊子発行。(K部長・I副部長)会以外でも、『自由への扉』発行。イーライリリー社後援 助成。本部への不満噴出により、内部改革をと、プロジェクトチーム結成するも、以後本部への意見具申、若年部の下部組織としての吸収という形で、参集を阻まれる。閉会後、即会合を開くべきであった。発起人として、つくづく甘かったと反省している。

就労困難者として自ら会に身を投じてきた次のK部長の功績は大きい。自らアンケート集計の労を取り、部長就任後は、会報を担当しつつ、全国の若年部各支部体制を整備しようとした。また、各地の集会研修において交流をもち、若手の芽を育成した。更に、若年患者による就労・生活文集も初の発行。目的①②③を遂行する部長を支えてきたK副部長は④の本質を説き続けてきた。長期療養を強いられる若年患者にとって、“病気を進行させない”このことこそが、隠れた共有する大きなテーマであり、この度、それに役立つ良書が出た
『オンとオフのある暮らし―パーキンソン病をしなやかに生きるー』

かたや、各地取材し、若年性PDの実態をつぶさに知るI女史の切実なる訴えは、多くのP病応援議員や研究者を輩出させてもきている。彼女の共感力の高さによる代弁は多くの方の心を打った。後に、このことこそが患者会の大きな社会貢献であると行政職の方より聞かされたが、確かにと納得せざるをえない。

大きな岐路として、2006年の「特定疾患問題」が起こる。当初世論は冷淡だったものの、
地方の各支部の必死の取り組みで世論を変え、地方議員からの圧倒的声が高まり、与党議員が動いた。と同時に公明党の強力な連携プレーがあっての奇跡的結果であり、すでに民主、社民連、共産党からも共鳴、支持されてきていた。
この会が長年野党に助けられてきた関係からか、この問題の解決のためには与党を頼るしかないと独走する私は、JPAからも本部からも憎まれた。「いったんは切られる。そこからが勝負だ」JPAのその言葉に反論したのは私だけだった。「(新聞報道がされると)P病では自殺や事件が多発する可能性が高い。よって、誰一人として切らせるわけにはいかないんです」と。
それほど嘆願書に見える現状には厳しいものがあった。にもかかわらず、結果、厚労省ではやはり切られルという結果。患者会側は意外と反応が弱い。その後の一夜の逆転劇は、あの日の公聴会後の体当たりの直訴とその時持参、配布された患者の実態を綴った「Tレポート」によると伝え聞いた。最後まで諦めないで希望をすてず、積極的に生きるべしとのN氏の教えは正しかった。
それは何日も徹夜して書き上げた、いわば友の会とAPPLEとの合作ともいえるものであった。それほど、情報が掲示板はじめサイトにあったともいえる。当時、APPlEの先輩の指摘も容赦なかったと記憶しているが、それが功を奏した結果となった。

しかも、日本の政治史上、癌患者会に次ぐ勉強会、つまり当時の与党内に「P病WG」を創設していただき、そこで障害基礎年金の最低年金アップと、場外ながら、カルテの長期保存化などをお願いした。前者は部会で25%UPを決議するも、3年後の施行を前に政権交代でカラ、後者を実現させると約束してくださったH議員さんは落選。カルテの電子化はしても、永久保存とはならない。よって前担当者としては、何の成果もない。
翻って、諸先輩の功績は大きい。福岡大会ではアンケートをまとめ、データ化して現状を把握しようとされた。東京大会では文集で心情調査、各地での若年部会開催。研修と討議を重ねる。名古屋大会で議論、兵庫大会は兵庫主催でと自発的開催。失敗も反省も部長としては山ほどあるが、そうした場での皆様よりのご発言の数々にご教導いただいた思いであり、今は感謝の念で
いっぱいである。
それぞれの社会的役割
患者会 情報提供、相互支援.相互扶助活動 相談支援活動
人権擁護団体としての現状把握と要望行動
※ 難病患者会は、人権をかけた最底辺からの訴え。「生きる希望をください」と。
よって敵はどこにもない。理解と支援をもとめるのみ。政党を超えた存在である。
立法府…法制・事業化などを通じて、国の社会システムを再検討・再構築
行政…市民の実態に即した施策の執行、地域や住民による個性を尊重。

若壮年PD患者をめぐる悲嘆と苦悩、変わらぬ”内憂外患”ぶり
外患…つかめない実態(見えない当事者)大きい個人差、急増する患者、若年発症化?
生活苦(制度や事業の活用)長い闘病期間、人目に明らかな病態。DBS術後の難しさ
日内変動・精神症状・薬の社会的弊害・偏見・失職不安・病名隠し・
最再就労困難者(中高年+病人+病気の進行による障害=三重苦)
進行性・社会生活影響大、家庭崩壊増、家計主計者や単身者の悲哀と困窮、そして老親。、
変わらない悪化への片道切符 法の谷間に置き去られたヤール1.2のPD患者。
医師への実態報告の難しさと、薬調整の難しさ
内憂… 患者会活動での「足の引っ張りあいとののしりあい」とまではなくても、
裏切りとか悪口、上位からの圧力(運動家のプロ化と特定政党の下請け組織化からか)。
仲間の少なさ。社会や家族の無理解。
⇔ けなげでまじめな若壮年患者。自己責任と受け止め、勇気と智恵と行動力で切り抜けようと。

『就労』とは、ヤール3まで可能な自己実現方法であり、生活資金を得るための社会参加行動。
ヤール4.5になると、最終的に生きる手立ては、年金を含む福祉施策と家族や友人。
最も大事なことは、病状を悪化させないこと。悪化しても、回復させるという気迫。
天寿を全うできるようになった現在、最後まで自立した生活を営みたい。悪化するということは、回復もする可能性があるということであり、難病イコール障害ではない。為せば成る、自助努力によりヤール度はかなり低くできると、経験してきた。
早期発見早期治療で病状維持。ギアを低速運転に変更。負荷の少ない工夫のある療養生活を。
先ずこの病気になって打つべき手は、福祉施策の活用。つまり、情報と研修がいかに重要か。
あとは、負荷の少ない範囲での就労がベストでは。
その前提条件として、自立した生活の必要最低の生活保障がなくてはならない。



空気の抜ける風船のような私

2010-05-29 | Weblog
  
 ただ今、空気穴をつぶっていないジェット風船のごとき私。

 異様ともいえる前回のようなやる気は、薬による一過性のものらしい。
 
 シュルシュルシュルと消えていくやる気、後に残った虚しい約束や言葉の数々。

 ああ、なぜこうも薬の効きは短いのだろう。2時間もたない時もある。

 「もう、何もかもお約束出来ない身体になりまして_」まさしく私のこと。

 なのに、この見栄っ張りは頭を下げるのが大の苦手。信用も信頼も失うのみ。

 大事な友すら、期待を持たせて裏切る結果になってきているのが辛い。

 もう、先のことは言うまい。そう決めていたというのに_愚かな私。

  助けて、先生!声にならない声で叫ぶ。人のことどころじゃない。

 難儀な病気。しかも社会的な影響が大きすぎる。ドロップアウト。

 サービスもつい気を緩めると、プライバシーも何もあったもんじゃない。

 身ぐるみはがされて、公然と表に出される思いをしたことも。

 仲間から、勝手に泥をかぶせられていたこともあったっけ。

 そこで、「己を知る」この原点に還ろうとしている。

 患者会を変えようとした志は潰えた。皆、自分が可愛いのだ。

 そして、なおも生き恥をさらしてもなお、愚か者の私は生きる。

 オンとオフの大波の日々を、ただ一所懸命に生きる。

 誠実に、誠心誠意、心をこめて伝えなければ、悔いも残る。

 果たせていない約束も、伝えていないお礼の気持ちも、ゆっくりだけれど、

 遅れてでもお伝えしよう。この感謝の想いを詰めて。

 ここ最近、教え子に救われてきた精神面。先日は、大学の恩師の先生より、

 「生きよ」と慈しみのお心を頂戴した。72歳のご一行15名の皆さんの活力に習いたい。

 落伍者の私に、過去のご縁は限りなく優しく、傷口を癒してくださる。

 「ご縁」という言葉も、「ありがたい」という言葉も、古めかしいけど好きな言葉。

 もう誰とも会いたくない自分と、「ありがたい」と手を合わす自分を感じながら、

 何ヶ月かぶりに書き込んでいる。生きてるってことだね、これも。

ありがとう&ごめんなさい

2010-02-10 | Weblog
長い間、留守にしてごめんなさい。

 何ヶ月も更新できなくても、数十人の方が毎日のぞいてくださっていたらしい。
 何回も、何回も。きっと私を実際に知るご縁のある方々が主なのだろう。
 ありがたくて、涙が出そうになる。ここへのお導きを下さった方々へも感謝!

「ここにまた書き込む勇気を下さった皆さん、待ってくださり、ありがとうございます。」
これからが、本論となるでしょう。心からお礼申し上げます。

 さあ、春です。春が来たのかな、と芽があちこちにふくらんでいる早春の訪れです。
 昨年2月に亡くなった99歳の祖母の喪も明けようとしています。ひとまずこの素晴らしい祖母については後日ということで。
 「PD的うつ」真っ最中だった私は、ついに喪中欠礼状も寒中見舞いも出せないうちに、春を迎えてしまいました。生きてきてこんなこと初めて。まさしく「社会の落伍者」。
 果たせない約束を先に、と思っても、動けないカラダで、がんじがらめだったここ数ヶ月。したいことからほどいていくことと決めました。ともかく、春は私のシーズンと言いたげに、もと「とよのか苺」といたしましては、もう居ても立ってもいられないぐらいの気分の上昇ぶりです。昨今のニュースを見聞きしていると、あの「2006特定疾患問題」における歴史的真実と、そこから得た教訓を語る時が、いいえ、語らねばならない時がやってきたと痛感しております。その思いー
 過去の歩みを正しく認識しなければならない、今後の選択を踏み誤りかねないだけに。
巨悪が眠り、難病問題が脇に追いやられかけていまいか。言葉だけは誠意に満ちた心優しき現首相の信用も問われている国。その国の民として、ある「史実」に関わったことで、この国の根本的問題に気づかされた「生き証人の一人」として、勇気をもって語らねばならない。
大げさに言うなら、民主主義の危機ともなりかねない。今こそ、弱者の団体のありようが問われている、とも言えよう。国民のありようも問われている。真摯に今一度生きる、そう決めた。私はジャンヌ・ダルクのような若さも美しさもなければ、末期も違いすぎる。
落伍者の開き直りほど強いものは無いのだと、自らを奮い立たせよう。
真実は一つ。それが最も強い。全ては今後の『選択』のために。

社会の『落伍者』、その『至福のとき』

2009-09-21 | Weblog

 普通の人たちのような生活は、もう出来ないと悟ったのは何年前だろう。
 頑張っても、頑張っても、タイムベルトからおっこちたままの自分。
 なのに、オンなら、以前と同様、何でもやってやるぐらいの勢い。
 一旦、オフに落ちると、なんで、できるわけないじゃないと、激しい後悔。
 それが、一日何回も毎日続く。結果、当てにならない、「信用」も風前の灯か。

 元気だった頃、若かった頃の「至福の時」は、美味しいものを食べる時。
 周囲に、高く評価され、認められた時。何かに打ち込んでやり遂げた時。

 今はどうだろう。
 歩けなかった自分が、自分に帰って歩ける時。充分寝れた朝の目覚め。
 トイレに行ける喜び。打てる嬉しさ。家族に、友人に手を借りる、その手の温もり。ヘルパーさんの優しさに、ありがたいと感じるとき。「がんばってるね」とほめてもらえる時。当たり前のことが、こんなにも嬉しい人生になった。
毎日が感動の繰り返し。蒔いた種が生えてくる喜び。花が咲いた嬉しさ。その花を揺らす風さえ愛おしいと思える時。全ての植物が光を受けて育まれ、雨に憩い、闇の褥に疲れを癒すと思えるようになった。
 その花や木を生けこむ時が私の一番の至福の時。その時ばかりは凛として、背筋は自然に伸び、その場、その器に応じて、木に問い、花に訊くひととき。鋏を入れる瞬間の迷いを捨てたいさぎよさも小気味よく、その無機質な内なる空間に自然を取り入れ、季節に応じて彩り形作る楽しさに勝るものはない。
 そのひとときと、仏壇の花を自己調達したいということから始まったガーデニング。まかない種も生えてくる。それぞれの性質を知り、生育条件にあった環境と、
程ほどの肥料と水を与える事。これが結構難しい。虫も病気も乗り越えて、きれいに咲いた花を訪れる人に差し上げて喜んでいただける幸せは、これまた最高。違った意味での、我が至福の時。こうして健康だった頃の世間のタイムベルトからドロップアウトして久しいこの「障害者おばさん」なれど、いつかは地域の『花さかばあさん』となりたいとひそかに夢見てもいるのである。

詩にならなかった。

娘からの最高の贈り物  -自分への励ましとしてー

2009-09-16 | Weblog
 実は先日、一世一代の舞台で私は失敗し、生き恥をさらして生きている。ご迷惑をかけてしまったと後悔にもさいなまれても居る。そこでその思いを振り切るためにも、自分を励ますためにも、このお話を記すことをお許しいただきたい。

 この夏、下の娘が結婚した。
 一年前からの婚約期間を経て。二人の固い決意での、当人たちによる結婚で親もどんな内容か内緒にされ、はらはらしながらも、大いに涙し、気遣いしつつも、楽しく新しいご縁の喜びに満ちたひととき。貴重な時間をこの子達のために駆けつけてくださった皆さんが感動と喜びに満ちたお顔でお帰りになられたことも二重の喜びであった。身に余るお言葉の数々、趣向を凝らした自分たちらしいプログラム。二人の周りのこれまでのご縁一つ一つを感謝せずには居られないありがたい感動の一日だった。親が言うのははばかられるが、21歳の花嫁は、我が娘とは思えないほど、まぶしいくらい美しく、喜びに満ち、輝いていた。その娘からの言葉が今の私を支えてくれている。
「お父さん、お母さん、お世話になりました。これまで沢山心配をかけてきたことと思います。今日はこれまでの感謝の気持ちを言葉にして伝えたいと思います。私がうまれてからいろいろなことがありましたね。そして今日、大勢の皆様に祝福されて、こんなに幸せなひと時を過ごせた事に感激しています。
 お父さん、お父さんは、〈中略)そんなお父さんが私の1番の自慢です。
お母さん、お母さんは私が物心ついたときからいつも頑張りやさんでしたね。朝から夜遅くまで家事・育児・仕事と、時には仕事で家にほとんどいられないお父さん的要素ももっていて、毎日3人の年の近い子供を背に働いていたのを覚えています。「3人はお母さんの宝物だからね」とどんなに疲れていても1日1回はそう言って抱きしめてくれてましたね。
 17年前、(ご存知の方もいらっしゃると思いますが)母は病に罹りました。パーキンソン病という身体が硬直して自分の思うようには動けない病気です。その日ははっきりと覚えていて、保育園からの帰りの車の中でお父さんが私とお姉ちゃんに「今日、お母さん、お医者さんに『治らない病気にかかってます」って言われてショックを受けてるから、元気付けてあげてね」と言われました。帰るとお母さんは思っていた以上に明るく振舞っていました。でもその日を境に、動けず悔し泣きするお母さんを何度も何度も見てきました。薬の効いているときだけ別人のように動けるのに、飲むのが遅れると全く動けない。一日飲まないと命も危険になる。そんな浮き沈みの激しい病気で、人様にも理解してもらいにくく、私が思う以上にもどかしい気持ちもあったと思います。そんな病気と闘いながらも、お母さんは、立派に母として、時には人生の先輩として守ってくれたり、相談相手となってくれ、そだててきてくれました。私の目標はお母さんです。お母さんのようにどんな時でも○○さんを精一杯愛し、支えていきます。
 お父さん、お母さん、私は二人の子として生まれて来れて本当に幸せです。21年間育ててくれてありがとう。身体を大切にしていつまでも元気で居てください。そしてこれからも宜しくお願いします。

 私は、病気の件のところで堰を切ったようにこらえきれず嗚咽してしまった。
知らなかった、小さな子供たちがこんなにも胸を痛めて、病む私を見ていたなんて。こんなにも思いやりのある子。自慢の娘です。思いが言葉にならず、涙となって滂沱と流れ落ち、思わず花束を抱えてそばに来た娘を思い切り抱きしめる。
ありがとう、この愚か者の母には過ぎた言葉の数々。過ぎし日の幼きあどけない笑顔と屈託のない笑い声が、いつしか深い思いを秘めた澄んだまなざしと静かな物腰に変わっていった思春期から成人へ、そのアルバムの写真が空を舞うロールスクリーンのように、頭の中を駆け巡った瞬間だった。
 あのさわやかな抜けるような青い、どこまでも青い夏空のもと、
あの瀬戸内の海をはるかに見通すノートルダムの丘で、我が家の真ん中の雛が、
いつの間にか蓄えた大きな翼で飛び立った。ここにこんなにも大きな『感謝の言葉』と言う贈り物を残して。
 ありがとう、あなたにつながる全ての方に「おかげさまです」と、お礼申し上げ、ふつつかなつがいですがよろしくおねがいしますと、深々と幾重にも腰を折る思いの動けない親鳥です。