
こんばんわ。かずやです。
ブログは本当に「時々だけ」書くようになりましたが、消してしまうことはしたくありません。
自分の想いやいろいろな出来事の経緯を伝える場がなくなってしまうのは、もったいないと感じます。
ということで今回ブログで書いていきたいのは「私について」ですかね。
まぁなんとなく読んでもらって笑ってもらえればと思います。
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パルクール屋内練習施設「JUMP & LEAP」は2月2日で1周年を迎えることが出来ました。それを記念して、私自身について、まぁ言ってみれば壁新聞的な情報発信を実施していこうかなと思いました。
経緯としては色々あるのですが、大事な部分として「石沢は何を考え、(店に最近いないけど)何をしているのか、そしてこれから何がどうなっていくのか」ということを、この内容を通じて読者に共有していくことが目的です。
この共有の先の話ですが、自分石沢の考えや行動を知っていれば、この先パルクールがどうなっていくのか、そしてうちの会社(SENDAI X TRAIN LLC.)がそれにどう対応して動いていくのか、さらにはその先の子ども達には(パルクール的に)どんな未来が待っているのかが分かる、ということだと思っています。
ようやくここからが本題なのですが、
「んで、石沢憲哉って誰なん?」
という方は少なくないのではないでしょうか?パルクールの人?会社の社長?協会の人?など、実はよく知らない方でもこの文章を読めば即分かるような感じで書いてみようと思います。大した文章力などありませんが、ポケモンでもやりながら片手間に読んでいただければと思います。
私
石沢は青森県五所川原市という一度殺人事件で全国ニュースに挙がった街の出身です。
夏には立佞武多(たちねぶた)という高さ10数メートルにもなる佞武多が街を練り歩き、外国人観光客が奇声を上げて喜ぶというお祭りがある街でもあります。興味のある方は暴動真っ最中の香港に行くつもりの覚悟でいらしてください。
さて、そんな五所川原市で高校卒業までの18年間をぬるま湯に浸かって生きてきた私です。
その18年間、私がどれほどのぬるま湯に浸かって生きてきたのかをご紹介しましょう。ここからの話は急な話に思えると思いますが私の性格に関係する部分なので、端折らずに書きますね。
私の祖父の話なのですが、樺太近辺やらで軍人として生きていた方でした。
当時樺太はロシア軍だけではなく、領土を得るために様々な国から開拓使を送り込んでおり、私の祖父もその一人としてかなり熾烈かつ過酷な日常を送っていたと話していたのを覚えています。
祖父は最期、認知症になって色々訳わからなくなっていたのですがそれでも「憲哉、ロシア軍が来るからお前は逃げろ」と家族を守るための言動を取っていたのを思い出します。泣けるわ。そんな元軍の祖父は私が子どもの頃は山で猟銃を撃ち、ナイフで家畜を捌くなどいわゆるマタギとしての生活と、役場の営林署(当時は山の管理が仕事)に勤めるという生活にシフトしていたようです。
私はそんな祖父が大好きでした。
猟銃を撃つと聞けば付いて歩き、祖父が撃ったスラッグ弾の空薬莢がお気に入りで、火薬の匂いを嗅ぐのが好きでした。
祖父の家にあった銃を保管するロッカーや弾を作る道具、皮を剥ぐためのナイフが保管されている金庫などが、まるでスパイの家にある保管庫のような印象で、またその部屋には模造刀ではありましたが、数々の剥製の中に刀が置かれていました。
そうした環境の中、私は物心つく頃には軍隊や各国の諜報員などに憧れていました。小学校の頃の将来の夢は「歴戦の特殊部隊への入隊」でした。まさに中二病とはこのことです。家では、御徒町のアメ横で買ったベトナム戦争時代の払い下げ軍服やヘルメットを着用し、エアガンを携えてパトロールごっこ。友達とは軍隊での演習をを模した戦争ごっこ。縄を腰に巻き、2階から飛び降りてラぺリング(降下訓練)の訓練もしていました。アホか。
あ、ちなみに父は私と一緒にサバゲーをやったり、私の小学生の時の誕生日プレゼントにカーショー(有名なナイフメーカー)のナイフを買ってくれたりと、なかなか私とタメを張る中二病です。
その甲斐あって、私は中学生くらいまでマジでこういった生活を続けており、簡単な軍隊用の手信号や地雷の撤去方法、手りゅう弾の仕組みなども着々と身につけていきました。もちろん、今は忘れています。っていうか日本に地雷とか無いし。
ここから話は急に変わります。
私は小学校高学年の頃、いわゆるイジメに合っていました。
まぁ、変な子だったのも間違いはないのですが、私は比較的成績が良かったという事も有り、家も比較的裕福だったとうことも有り、さらには結構な自信過剰でも有り、クチも達者で、、とここまで言えばもういじめられる理由は分かると思うのですが、平たく言えば相手を馬鹿にした態度を取る嫌なヤツだったんですよね。きっと。多分。おそらく。
いじめの内容は分かり易くリンチ、物を壊されるとかでした。お金の問題は出なかったですね。
あと私、いじめられているということを私自身が思いたくなかったということもあったし、元々友達多かったってのもあって、あまり孤独にはならなかったんですよね。そういう意味では本当に周りに恵まれていたんだと思います。そういう友達は今もやっぱり友達ですし。
あと親ですかね。親がいじめを知っていたかどうかは分かりませんが、私が中学生のある日、警察に呼び出された時の話なのですが、当時小学生から中学生に上がった私はまだ少しだけいじめの余韻のようなものが残っており、ある日突然、警察から呼び出しがありました。
内容は
「お宅の息子さんの友人が中学校の校舎の窓ガラスを割ったり、スプレーで落書きをしていた。そしてそのスプレーはお宅の息子さんが持ってきたものだと、その友人が話しているので、一度警察署に来て話をして欲しい」
というものでした。
うちの親は私が事件の当日家にいたことを分かっていたし、スプレーなんか渡してもいないと話す私を頑として信じてくれました。
警察署には結局行きましたが、警察は最後まで私を疑い、事情聴取は中学生ながらに結構衝撃的でした。また、取調室でかつ丼を食べたのも、この時が人生で最初で最後だと思います。いや、最後であってくれ。
最終的にはいじめっ子連中が私を道連れにしようとしていたことを自白し、私は何の咎もないとされて釈放。
この時私は、親が私に対して持つ信頼を目の当たりにしました。
また警察の適当さや杜撰さ、さらには、もはや友人ではありませんでしたが、いじめっ子たちのようなクズもこの世にはいるもんだと理解しました。
まぁそのいじめっ子たちも生活背景とかを後に聞くと可哀そうな部分もあるんですけどね。
でもまぁ私はこのあたりから徐々に開花していく感じだったんだと、今思えばそう感じます。
そのあたりから私は自分に自信を持てるようになった気がします。
何があっても信じてくれている親がいて、何があっても友人として関わってくれる本物の友人がいて、ある意味で社会はなんて適当なんだと気付く部分があって。私は自分の思うことや自分のやりたいことはやってもいいんだと思えるようになってきました。
しかしここで、大変なことが起きます。
中学生の私は徐々に分かっていたことにいよいよ気づくのです。
「百戦錬磨の世界の名立たる特殊部隊への入隊」はその時の自分には不可能だということに。
人生で最初の挫折はここだったんじゃないかと思います。
私はここから夢を失い、何かに打ち込むことが一時的になくなりました。
なんとなく高校に行き、何となく先輩の女性が可愛いという理由で弓道部に所属し、何となく可愛い同級生に恋をして、何となくの高校生活を過ごしていました。いや、そんな何となくでもなかったかも知れません。
高校では一通りの高校生が体験するであろう経験はしました。それもこれもすべては一緒にいた友人たちが素晴らしいからでした。
私は非常に交友関係が広いのですが、高校時代の友達が最もメインの親友と呼べるのは間違いありません。
一緒に過ごした高校生活以降、まさに家族と言っても過言ではないような死線をいくつも潜っては…いないのですが、色々大変な思いも共有してきました。
私は彼らがもし人を殺してしまったとしても、きっと何か理由があったに違いないと思えます。それくらい彼らの事を信頼しています。
彼らがいるから、今の自分はこんなにも自信を持って生きているとも断言できます。
さて高校生活も終わる頃、私は進路を選択しなくてはいけませんでした。大学、専門学校、就職、ヒモ野郎。色々な選択肢がある中で私が選択したのは「作業療法士」という職業でした。
作業療法士は、いわゆるリハビリの先生で、脳卒中やSCDなどの神経内科疾患や四肢欠損、骨折などの外傷後のリハビリをする人です。
理学療法士や言語聴覚士という職業もあるのですが、それとはまた異なり、作業療法士は「現状の能力でどうやって生活していくか」を一緒に考えながら能力を再獲得していくことを支援する職業です。なんかパルクールっぽいですよね。
その中でも私は小児分野に興味があり、脳性まひや重度心身障害者の他にも、軽度発達障害(注意傷害や自閉症、アスペルガー障害など)などを持つお子さんたちとその保護者さんを相手に仕事をしていました。
まぁなんでこの職業を選択したかって話ですが、当時高校生だった私は夢がありませんでした。でも一つあったのは「モテたい」という気持ちです。
ある程度の勉学で成就し、ある程度の収入がもらえ、ある程度ステータスの有る職業という限局的なカテゴリーを作り、その中から自分の現状の能力で容易に辿り着けるものを消去法で探しました。その結果が「作業療法士」でした。ただそれだけです。
そして私は特に難しい受験勉強をせずに、仙台にあるリハビリテーションの専門学校(3年制)に入学していくわけです。もう私は一人暮らしがしたくしたくて堪らず。親が心配していることなど、当時一つも気に掛けなかったことを覚えています。
話はその専門学校時代にシフトしていきます。今でも覚えています。
専門学校の教室へ入ると、全部で40名ほどの生徒がいて、なんと男子はわずか6名だけ。おかげでこのうち5名(1名は途中退学)は結束が強く、今でも深い絆があると、私は思っています。専門学生時代の私は2つのキーワードで話がまとめられます。「女性関係」「勉強」の2つです。まず女性関係から話をしていこうと思いますが、さすがに大っぴらなこの場できわどいお話は出来ないのでやめておき「勉強」というキーワードでお話をしていこうと思います。
今思えばですが、私はおそらく勉強が好きです。学生の頃から本を読むことがあまり苦ではなく、教科書も漫画も辞書も地図も、読んだり見たりするのが好きでした。
ちなみに今現在も月に2~3冊の本は読みます。ビジネス書や投資、自己啓発や社会学的な本、漫画やアニメも大好きで移動時間はほぼそれに時間を費やしています。
なので、実は私は専門学生になって国家試験の勉強をする時期までは、あまり勉強らしい勉強をしたことがありませんでした。
国家資格を取得する時は、おそらく平均で14時間/1日くらい勉強をしていました。過去問10年分の問題を全部総復習し、その全てで満点を取れる状況を作った上で友人と重箱の隅をつつく問題を出し合い、分からない部分は徹底的に先生に聞くというスタイルでした。その甲斐あってか私は国家資格(高校受験もですが)は何とか合格することが出来ました。
何となくですが、私は勉強というものに対する考え方が一般的ではないように、自分では感じています。
私の思う勉強は「目的を達成するために必要な知識を得る手段」です。
つまり目的によって必要な知識は異なり、目的に見合っていない勉強はその時の自分にとっては不要なものなのです。
では、その目的というものがどの程度の抽象度(規模や展開)で設定されているか、という事がここからの話の重要点となります
(話がややこしくなってきましたよ)
例えを出しましょう。
【高校受験に合格する】という目標を掲げたとしましょう。これは非常に抽象度が高く、規模や展開が広すぎて展開が見えにくいです。
どこの高校で、どんな科で、そのためにはどの科目をどの程度の点数を取ればいいのかが分かりません。
では次の目標はどうでしょう【宮城県の労災病院付属の看護学校を受験して合格する】
これは明確に必要な受験科目や合格に必要な点数などが分かるため具体的ですよね。
こういう具体的な目標設定ということを、私は小さいころからのオリジナル軍事訓練(自宅警備レベルですが)で培ってきました。
敵兵がどの程度いて、戦況がどういう状況で、自分の使える武器や兵力を勘案し、どうやって戦えば勝てるのかといった具合です。
重要な点は具体的かつ短期的な目標設定です。
「まずここまでを達成するんだ!」と仮でもいいから決め、そこまでに無駄な努力をしないよう計画を立てるのです。
努力には価値があります。努力の無駄遣いはよくありません。
でもどうやって目標を設定すればいいか。。。。。。。。。。。
疲れたので、続きはまた今度。。
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