愚痴日記

愚鈍で痴愚な僕の続いていく毎日

蝶のように舞い、蜂のように

2010-03-01 18:45:09 | 日記
鋭く、刺すように、上手い感じで物事の芯を捉えたい。

と急に思ってツイッターに書こうかとも思ったけど、
ツイッターも結局呟きとはいえ人間関係を意識しなくちゃならんので、
ブログを利用してみました。

ツイッターを利用した恋愛ドラマが始まるらしいですが、
オープンであるはずのコミュニティも
結局突き詰めたらクローズな方に向かうしかないのかもわからんね。
で、狭めれば狭めるほど法律の目が届きにくくなって、
違法性の属性を強めていく、と。出会い系化。純愛なら出会いもおーけーなのか。

別段それほど興味ないですが
テレビ業界が嫌ってるニコ動をドラマの題材にしたら
ちょっと見たいような。

マンドラゴラ

2010-02-27 19:02:18 | 日記
草は動かぬ 喋らぬ
強い欲求がある訳でなし
かといって諦めている訳でもなし
ただただそこにあるのだ
自分で望んだ結果でもなく
誰かに強制された結果でもなく

なんとなくの幸せを享受し
なんとなくの不幸を厭う

世界の片隅で
万物が移りゆく中で
ゆっくりと枯れて
何にも変化を起こすことなく

消えたいのか?
それは嫌だ 嫌だ嫌だ絶対に嫌だ

その時初めて草は世界に関与した
甲高い恐ろしげな叫び声を発する事で
その声で他人を不幸にする事で




意味不明な俺カッケー(^q^)

あたまがずつう

2010-02-27 02:08:06 | 日記
きけんがあぶない

すいーつ的なこと・リア充的なことを愚痴として吐き出したくはないのだけど
やっぱり彼女が居ない状態はとてつもなく寂しいものです。

別に恋人がどうこうだけじゃなくて、
居心地の良い環境を外的要因に強制的に変化させられると
苦痛極まりないですね。

かといって無変化なら退屈だと文句を言い。
本当に身勝手なものですよ。
どっちも苦痛だなんて。


ギリシャ人は芸術を救済としていたという文面が身に沁みます。
人間が本や漫画を読む事、映画やアニメや絵を見る事、ゲームやネットをする事。
非リア共が追体験することで胸をキュンキュンさせたり、
童貞が性欲の解消を見出したりするのです。そこに。

満たされない思いを転化するというネガティヴな姿勢というよりも
そうせざるを得ない。
現実に救いが無いから。
最底辺でもなく、最高潮に幸せでもなく。

多分、現在の日本人の満たされ具合とギリシャ人の満たされ具合ってかなりの部分で相似してますよ。
昔は目に見えてた階級制度による「他人」の上に座るって事が見えにくくなってるだけで。
無論座られてる側はたまったもんじゃないですが、座ってる側は更に自分より上の方に座ってる人の方が座り心地がよく見えます。
更に上の人には、違う場所に座ってる人の方がよく見えて。
だから、劇を見に行ったり、歌を歌わずには居られない。
明確により幸せな状況がある時、人間は現状を幸せに思えない。
「不幸ですか」「不幸ではないけど…」

三点リーダ。沈黙。不満。抑圧。

こころをなくす

2010-02-24 11:29:45 | 日記
と書いて、忙しいと読ます、
その昔のみなさんのとんちっぷりを評価します。

大学が創作漢字コンテストなどという前人の偉業を踏みにじらんとする
ちゃらんぽらんなコンテストをやっていて、
古きを知り、新しきで打破していくロック精神に生きる俺はぜひ参加してやろうじゃないの、と思って要綱をチラ読みした訳ですが
「ダジャレっぽいのはだめよ」
等と意味不明の記述が為されており、真意は不明。
おまけにこのネット全盛期において、ホームページで募集しておきながら
「応募ははがきしか認めぬ」
等と意味不明の記述を繰り返している。詳細は不明。
めんどくさがりな俺は多分出さないでしょう。うん。



『ピンクフラミンゴ』という映画を見ました。
いっつも感銘を受けた映画はレビュー形式な感じでブログに書き込んでるんですが
多分もう一回は見ないだろうなぁと思い、
端書き程度に。

さらってきた女に孕ませた赤ん坊をレズカップルに売りつけたり
鶏を持ち込んでセックスを試みたり(鶏は行為そのものには関与せず死亡)
肛門でダンスしたり
犬のほかほかのうんこを喰ったり
そんな映画。

この文章を見て「オラワクワクしてきたぞ!」ってなる変態さんは必見。
かくいう私も紳士でね。ワクワクしながら見た訳だよ。

やってることは確かにすごい。俳優達が素で変態なのかと見紛う。
けど、行為に必然性が無いから、変態性が薄い。ストーリーも薄い。
まじめ過ぎる社会風俗に対する反抗精神を映像にした感じ。
多分俺自身が飽食の時代に生きてるがためにそういうシチュエーションもワハハで終了しちゃうんです。
本気でひいちゃうほど新鮮味が無い。どこかで食べたような味なのです。

絶賛コメの中に「アメリカ版アンダルシアの犬!」とかいうのもありましたが、
アンダルシアがその時点で持てる技術力をぶち込んで衝撃的な映像を作り出したのに、
この映画はそういった工夫や緊張感が感じられない。
故に、アンダルシア並みのエログロを画面に出した所で、人に衝撃を与えるほどのもんじゃないと思うのですが、
ウォーホール先生なんかも絶賛してるんで、やっぱジェネレーションギャップって激しいなぁ。ロストジェネレーション!


忙しいと言いつつも、映画を見る暇はある。
そんな大学生の春休み。

とろろ昆布汁

2010-02-18 17:11:51 | 日記
最近編み出した。

1.とろろ昆布をお椀にセット
2.ネギ投入
3.あればゴマも
4.醤油をほんのり
5.お湯ジャーッ        完 成

多分即席味噌汁とかよりは栄養摂れると思います。

会話してて思うんですが、
60%確定の「多分」と100%確定の「絶対」を併用する言語って
珍しいんじゃなかろうか。

って思ったけど、これ言語によるものじゃなくて
性格による差異か。

哲学触ってなかったので
機会を作ってニーチェを読ませてもらってるのですが
ほんとこういうの言葉遊びというか、さじ加減というか。
ファイアベントだったかが、「学んで無意味なことなんかねぇだろ!」とか
道元先生が「毎日の暮らしの中から真理学びとれよ!」つってんのに、
哲学を専門にしてる人があんまし現実にコミットしてないように見えるのは
俺が俗っぽいだけなんでしょうか。

とりあえず、頭の回転の速さ・理論構築の丁寧さ、そういったものを上手く学びとっていくことを目標にちょびっとだけ触ってみます。

とろとろおいしーです(^q^)

「っは・・・し、静まれ・・・俺の腕よ・・・怒りを静めろ!!」

2010-02-06 20:06:21 | 面白
っく…!俺が怒りを鎮められる間に…俺の前から消え失せろ!!


さっきちょっと思ったんだけど
ひたすら自分の幸せを追求してる人より
みんなの幸せを願ってる人の方が中二病っぽい。

人が何を考えてるかなんて
どれだけ長く一緒にいる人でも「推測」するしかなく、
思考そのものを覗く事は出来ません。
故に、「みんなの幸せ」について考える事自体が個人の思考の範疇を越えた、
横暴な思考なのです。
「みんな」という言葉を借りて、「自分」の欲求を美化しようとしている事に気づかず、
大衆の為の奉仕者みたいな事を自称する人は
ちょっとこれ選民意識から出た言葉なんじゃないか?
と常に自問自答していかなくては、結局自己満足・自己陶酔野郎になりかねんのです。

それでも俺は自分はちょっぴり幸せな位で良いので
みんなが笑って暮らせるといいなぁと常日頃思うのです。
俺はみんなより包容力ある上位の存在だよー、って意識が見え隠れして気持ち悪いなぁ。

さむい

2010-01-26 01:30:07 | 日記
と感じられる自分が存在している事だけは明白な事実

寒さ→ストレス に自動変換されるこの体は果たして欠陥品なのか完成品なのか

一方で機械の体を手に入れるために宇宙を横断する人が居て
一方で機械の体を抜け出すために切れ目のないレンガ道を歩いてく人がいます。


自身の存在を疑問に思うほどのストレスではないのだから
良しとしておこうかしらん。

ドラえもんを読んでいて、この「かしらん」に違和感を持つのは
ジェネレーションにギャップがあるためでしょうか。

東のエデンの映画見たい

2010-01-10 18:43:42 | 感想
残念ながら、
サブカルといわれる範疇にはエヴァ以前・以後が存在します。
(大人文化=メインカルチャーに対抗して成立したなら、大人の居ない現代社会にメインなど存在するのか?)

残念というのは、
僕自身が中高の多感な時期にエヴァンゲリオンに接触することなく
(みんなが見てるから見る、は嫌だった)
育ってきて、触れたのはつい最近。
「はいはい、セカイの中での自己肯定」みたいな
分ったような分らんような納得を自分の中で出来るようになってしまってから
見てしまったからこそ、衝撃がなくて残念だった、という話。

エヴァ以後、「セカイ系」とまとめてしまえるような作品は確実に増えました。
僕の中ではこの括りは思春期の妄想癖がそのまま世界の命運に直結してしまう、って話の総称です。例として挙げるなら、最終兵器彼女、ラーゼフォン、エウレカ、フリクリ、クロスチャンネル、ワールドイズマイン、トライガン辺りだろうか。好きなの並べただけかもしれん。

それらの作品群には、ロボットとか超能力とか一応僕自身が住むこの世界では現実的でない強大な力を持つ何かが登場してきて、それらの引き金を主人公が背負わされます。
でも、ここでキーになるのが「現実的でない」という点。


最初に書いた以前・以後ってのは、ただ楽しかったアニメ(そりゃガンダムにも人間のやりとりの難しさとか描かれてるが)に現代芸術的なただ実直に人間の内面を打ち込むという荒業を持ち込んだせいで、それ以後は単なるバトルの応酬だけじゃなくより現実の心の問題に肉迫せざるを得なくなちゃったんではないかな、と。

でも、ただ悩んでる姿を絵にしてみても絵にならない。物語にするには、ある程度の疾走感が必要だと思います。
では、なぜ悩むのか。
自分の力ではどうしようもないからだ。
世界が複雑すぎて、大きすぎて、自分の手には負えない。
じゃあリセットしちゃおう。リセットして初めて、その問題に向き合える。
もうどうしようもないこの世界をリセットするには、人知の及ばぬパワーでどうにかしちゃうしかない。
って事でその人知の及ばぬパワーでなんとかしちゃうことで、一人の心の問題はより大きな問題に共有され、物語としての疾走感を手に入れるのです。村上龍のコインロッカーベイビーズなんかはその個別の問題が物語へ成長してく疾走感を見事に描いてると思います。

でも、その人知の及ばぬパワーは結局現実的ではない。
僕にはラーゼフォンもニルヴァーシュも無い。
「あー、面白かった」で完結してしまっていたのです。

で、東のエデンを見るわけです。
これはなんとなく閉塞的な将来に囲まれた僕らの世代の為のセカイ系じゃないか?

確かにニートとか雇用とかの問題も描かれてて現実にしっくり来るというのはありますが、そうではなくて、主人公・滝沢が実際に誰かが出来そうな形で世界を変革してるって点がポイント。

日本国民が現状を変えて!って思いで自民を引きずり落とし民主がそこへ。
何かを誰かが変えてほしいという漠然な願いが彼らを第一党へと導いたはずなのですが、現状はそうでもなく。
むしろ悪い方向へ。


そんな現在の日本を舞台として、滝沢は与えられた100億を自分の思うように使います。無論、現実的ではありませんが、人知の及ばぬパワーが「金」へと移行したことで、少しは想像しやすいパワーになったのです。
「誰かがなんとかしてほしい」というモヤモヤした不満、そういう現実で満たされない思いをを解消してくれるからこそアニメとしての価値があるのです。
人によっちゃそれが「恋」だったり「戦闘」だったりするのかもしれませんが、現状の俺にはよいアニメでした。羽海野さんの絵も好きだ。
まぁ最後まで「ただしイケメンに限る」ではありましたが。あの人、ガチキモは書かんよなぁ。


そんな訳で「続きは映画で商法」にまんまと引っ掛かってしまったのです。

先生あのね

2010-01-08 20:17:53 | 日記
本で読んだか小学校で習ったのかは忘れましたが
「美しい文章はしたこと・みたもの・きいたこと・さわったことを抜いた文章」
である、と。

つまり、感じたことだけで構成される文章こそが至上なのです。
文学的には。

そんなことを一般社会でやってると
頼んだ事もロクに出来ない、プライドばかり高いゆとり世代だと叩かれ
ぼろぼろになるのは自分なので、
そういう不幸を避けるためにも練習は必要だと感じています。

けれども、完全にプライヴェートな(はずの)この空間では
なるべくその「あったこと」をそのまま抜いて
それその物を表現する力を磨いていきたいと思います。

いや、なるべく。ほんと書きたい事があったら書き散らす。掻き乱す。
そんなブログ。

新年の目標、終わり。

twitterするぞー

2009-12-28 12:38:54 | 日記
何を今更…

けど継続的に出来そうな気がしません。
きちんと維持し続けられるって
それだけで価値がありそうな気がしないでもないですよね。

ついった


志村サン…