集合場所のマングローブパークに集まると、すでに雨が降っていてあいにくの天気です。それでも34名ものたくさんの方々が参加して下さいました。受付をして資料をお渡し、早速車に乗り合わせて現地へと向かいました。青久(あおく)林道の入口(写真1枚目)へ着くと、幸運にも雨は止んでいました。写真もたくさん撮ったのですが、なぜが今回は私のデジカメのメモリーの不具合で、撮ったはずの写真が記録されていませんでした。ですので、文章は当日のことですが、写真は5日ほど前の下見の時のものです。青久林道の入り口でストレッチなどをした後、早速ウォーキングを始めました。ここから、ずっと青久集落までは下り坂なので、ゆっくりと歩き出しました。すでにリュウキュウバライチゴ(写真2枚目)やホウロクイチゴ(写真3枚目)の花が咲いていて、ほかにもオオヤブツルアズキ(写真4枚目)やリュウキュウハナイカダ(写真5枚目)などの花も観られました。
青久林道は最初の約30mほどは舗装されていますが、あとはずっと未舗装の道路で、場所によっては少し急な下り坂もあるので、ゆっくりと注意しながら歩いて行きました。サツマサンキライのぼんぼり状の美しい花(写真2枚目)が咲いていたかと思うと、早くも奄美の固有種・アカボシタツナミソウ(写真3枚目)も紫色の花を咲かせ始めていました。また、アキノキリンソウの花が(写真4枚目)がまだ咲いていたりして、奄美の草花の花期は全般に長いことが分かります。たくさんの実を付けていたのは、これまた奄美の固有種・アマミザンショウ(写真5枚目)でした。
青久林道の入り口から約3km下って行くと、やがて青久集落が見えてきます(写真1枚目)。昭和33年当時は22世帯73人もの人が住んでいた集落も、数十年前から1世帯にまで減り、現在は一人の方のみが住んでいます(写真2枚目)。浜と集落の間に造られている防波堤は、「青久玉石垣」とも呼ばれ、アメリカ軍政下に工事が始まり、奄美の日本復帰後は「奄美群島復興事業」第1号として、引き続き工事がすすめられて昭和30年に完成したものです(写真3枚目)。集落の傍には「むちゃかな之碑」(写真4枚目)があります。今から約200年前、うらとみ(瀬戸内町生間の農家の娘)は、薩摩藩の支配がはじまった頃、役人の欲望を拒否したばかりに、地区全体に重税が課され、あらゆる圧迫を加えられたため、世間への申し訳に困った両親は、泣きわめく18歳のうらとみを、わずかな食料を持たせ小舟に乗せて流し、うらとみの船は喜界島に流れ着きました。やがてうらとみは村人と結婚、生まれた娘・むちゃかなは母に勝る美人で、島の娘たちの妬みをかい、娘たちはむちゃかなをアオサ取りに誘い、海に突き落としました。これを知った母親のうらとみは娘の後を追い入水自殺、むちゃかなの遺体は青久に流れ着き、集落では旧の9月9日は村里離れた墓地で、悲劇の娘の霊を今も慰めているとのことです。
5年前の今日