浩宮さまの立太子(1991年/平成3年)、雅子さまとの出会いからご結婚(1993年/平成5年)までを綴ります。
※文末の(★)は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せください。
※現在は、「皇室問題INDEX開設準備室」の当該トピックよりデータを転記中です。文中に【関連資料:コメント欄参照】とありますが、まだ転載されていません。
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■1991年(平成3年)
02月23日 立太子の礼。徳仁親王が正式に皇太子となられる(31歳)。
10月23日 秋篠宮家に長女・眞子内親王誕生。
■1992年(平成4年)
08月16日 JICA総裁の柳谷謙介氏宅にて、皇太子殿下と雅子さんが5年ぶりに再会。
10月03日 宮内庁新浜鴨場(千葉県市川市)で殿下が雅子さんにプロポーズ。
10月中旬 悩んだ末に雅子さんがお断りになり、柳谷氏が説得にあたる。
12月12日 雅子さんが東宮御所を訪問、受諾のお返事。
12月25日 天皇皇后両陛下におひきあわせ。
皇太子殿下と小和田雅子さんは1986年10月、スペインのエレナ王女の来日歓迎レセプションで初めて出会う。
翌87年に高円宮邸のホームパーティや東宮御所への招待があり、お妃候補としてマスコミに騒がれる事態となる。
翌88年から90年まで、雅子さんは英国オックスフォード大学へ留学。将来を嘱望される外交官としての道を歩み始め、お妃候補からは完全に外れたとみられた。だが殿下の思いは一途で、92年8月、5年ぶりの再会を実現、10月にはプロポーズに至る。
雅子さんがそれを受諾されるまでの紆余曲折については、コメント欄の詳細資料を参照されたい。小和田家が皇太子妃の座を狙っていたなどという作り話がネットに書き立てられているが、まったくの捏造であることは明らかだ。
【コメント欄】(出会いからご結婚まで)(関連記事)(記事・その2)(入江為年氏の証言)(野心について)
■1993年(平成5年)
01月06日 ワシントンポストが皇太子殿下の婚約をスクープ
皇太子さまと小和田雅子さんの婚約について海外メディアが最初に報じた。宮内庁から正式発表まで統制がかけられていたが、宮内庁記者クラブに所属しない海外メディアは報道協定に縛られないためスクープ可能だった。これを受けて国内外のメディアが一斉に記事を掲載する。【関連資料:コメント欄参照】(1993年 2016-08-24 23:16:32)(1993年・その2 2016-08-25 10:30:06)(1993年・その3 2016-08-25 10:41:11)
01月19日 皇室会議
8時30分から19分間行われ、小和田雅子さんを皇太子妃と内定し、記者会見が行われた。
04月12日 納采の儀
06月09日 皇太子徳仁親王(33歳)と小和田雅子さん(29歳)結婚の儀。
ご結婚当日、雅子さまを紀子妃が鬼の形相で睨みつけていたという目撃証言多数。ご結婚前には「私の十二単をお貸しする」という発言もあり、国民を仰天させた(★)。
「宮中に慣れるため3年は懐妊を控えるように」と、美智子皇后のアドバイスがあったと報じられる。ご結婚からしばらくの間、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて子作りが出来るのか」という記事も書かれた。【関連資料:コメント欄参照】(ブラック企業? 新婚当時の雅子さまのご公務)
※文末の(★)は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せください。
※現在は、「皇室問題INDEX開設準備室」の当該トピックよりデータを転記中です。文中に【関連資料:コメント欄参照】とありますが、まだ転載されていません。
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■1991年(平成3年)
02月23日 立太子の礼。徳仁親王が正式に皇太子となられる(31歳)。
10月23日 秋篠宮家に長女・眞子内親王誕生。
■1992年(平成4年)
08月16日 JICA総裁の柳谷謙介氏宅にて、皇太子殿下と雅子さんが5年ぶりに再会。
10月03日 宮内庁新浜鴨場(千葉県市川市)で殿下が雅子さんにプロポーズ。
10月中旬 悩んだ末に雅子さんがお断りになり、柳谷氏が説得にあたる。
12月12日 雅子さんが東宮御所を訪問、受諾のお返事。
12月25日 天皇皇后両陛下におひきあわせ。
皇太子殿下と小和田雅子さんは1986年10月、スペインのエレナ王女の来日歓迎レセプションで初めて出会う。
翌87年に高円宮邸のホームパーティや東宮御所への招待があり、お妃候補としてマスコミに騒がれる事態となる。
翌88年から90年まで、雅子さんは英国オックスフォード大学へ留学。将来を嘱望される外交官としての道を歩み始め、お妃候補からは完全に外れたとみられた。だが殿下の思いは一途で、92年8月、5年ぶりの再会を実現、10月にはプロポーズに至る。
雅子さんがそれを受諾されるまでの紆余曲折については、コメント欄の詳細資料を参照されたい。小和田家が皇太子妃の座を狙っていたなどという作り話がネットに書き立てられているが、まったくの捏造であることは明らかだ。
【コメント欄】(出会いからご結婚まで)(関連記事)(記事・その2)(入江為年氏の証言)(野心について)
■1993年(平成5年)
01月06日 ワシントンポストが皇太子殿下の婚約をスクープ
皇太子さまと小和田雅子さんの婚約について海外メディアが最初に報じた。宮内庁から正式発表まで統制がかけられていたが、宮内庁記者クラブに所属しない海外メディアは報道協定に縛られないためスクープ可能だった。これを受けて国内外のメディアが一斉に記事を掲載する。【関連資料:コメント欄参照】(1993年 2016-08-24 23:16:32)(1993年・その2 2016-08-25 10:30:06)(1993年・その3 2016-08-25 10:41:11)
01月19日 皇室会議
8時30分から19分間行われ、小和田雅子さんを皇太子妃と内定し、記者会見が行われた。
04月12日 納采の儀
06月09日 皇太子徳仁親王(33歳)と小和田雅子さん(29歳)結婚の儀。
ご結婚当日、雅子さまを紀子妃が鬼の形相で睨みつけていたという目撃証言多数。ご結婚前には「私の十二単をお貸しする」という発言もあり、国民を仰天させた(★)。
「宮中に慣れるため3年は懐妊を控えるように」と、美智子皇后のアドバイスがあったと報じられる。ご結婚からしばらくの間、すさまじいまでのご公務のスケジュールに、「こんな忙しくて子作りが出来るのか」という記事も書かれた。【関連資料:コメント欄参照】(ブラック企業? 新婚当時の雅子さまのご公務)