1985年(昭和60年)から1990年(平成2年)まで、礼宮さまと川嶋紀子さんの出会いから結婚への過程を綴ります。
※文末の(★)は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せください。
※現在は、「皇室問題INDEX開設準備室」の当該トピックよりデータを転記中です。文中に【関連資料:コメント欄参照】とありますが、まだ転載されていません。
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■1985年(昭和60年)
04月 川嶋紀子さん学習院大学に入学
紀子さんの実父・川嶋辰彦同大教授の計らいで、紀子さんは同大2年だった礼宮さまと学内の書店で出会う。礼宮さまは自然文化研究会というサークルを作り、紀子さんを招く。このサークルは礼宮さまが紀子さんと交際するために作ったサークルといわれ、旅先では2人が同じ部屋に泊まることが黙認されていたという。
【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮さまと紀子さんの出会いの真相)
12月 東宮ご夫妻(当時)に初めて紀子さんを紹介
東宮ご一家が葉山の御用邸に滞在していた時、御用邸近くのホテルに紀子さんが家族と宿泊。礼宮さまがホテルに紀子さんを迎えに行き、御用邸近くの海岸を散歩をしていた東宮夫妻に引き合わせる形で、紀子さんを紹介した。(出所:秘められた5年の愛『女性自身』1989年0906号)
礼宮さまは当時、他の女性たちとも同時進行で交際していた(出所:『噂の真相』1996年7月号ほか)。サークルでの宿泊を伴う旅行、両親への紹介ということ等を考えると、紀子さんが学習院大学在学中に受けたとされる2回の堕胎のうちの第1回がこの年に行われた可能性がある。
【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりの序章となる1985年の出来事)
■1986年(昭和61年)
09月 本命は学習院大学教授の娘!?(『週刊現代』09月13日号)
2人の交際が雑誌で取り上げられる。サークル活動での旅行には、紀子さんのそばに必ず礼宮さまがいた。
※川嶋家が朝日新聞の皇室取材班と接触。以後、同取材班は2人の交際内容を把握していた。【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮さまと紀子さんの出会いの真相)
■1987年(昭和62年)
03月 斑尾高原でのスキー旅行 報道のカメラの前では紀子さんに近づかず。
「ボクには7人の恋人がいる」と級友たちに宣言。
04月 礼宮さまさまがナイトコールされる美人女子大生の家(『週刊現代』4月25日号)
礼宮さまは学習院大学時代、「手の早いやつ」というあだ名をつけられており、情事を持った女性は複数存在した。紀子さんはそのうちの一人で、川嶋家は娘への責任を取るように要求していた。【関連資料:コメント欄参照】(礼宮さま文仁と川島紀子の結婚前後)
■1988年(昭和63年)
礼宮さまの卒業が近づく1988年になると、東宮御所に紀子さんを呼び、東宮内デートを楽しむようになる。
東宮御所を紀子さんが一人で訪ねて来て礼宮さまの部屋に2人きりで数時間もこもり、側近が慌てたという話が『週刊現代』1989年0305号に書かれている。
紀子さんは1987年後半くらいから頻繁に訪ねてくるようになり、最初は微笑ましく見られていたが、近頃は「間違いがないといいが」と心配されているという。「間違い」は起こるべくして起こり、繰り返されたとみられる。【関連資料:コメント欄参照】(紀子さんと礼宮さまの交際)
03月 礼宮さま、学習院大学を卒業
08月 礼宮さま、2年間の予定でオックスフォード大学に留学
■1989年(昭和64年)
01月07日 昭和天皇崩御。
02月24日 大喪の礼。
04月 礼宮さまが皇籍離脱発言(『週刊ポスト』4月7日号)
04月 渦中の女 「浩宮妃」より先に「礼宮さまの恋人」(『FOCUS』5月5・12日号)
『週刊ポスト』によると、兄の皇太子即位が秒読みとなった時点で、礼宮さまは自分との差を改めて実感。同じ兄弟でありながら、皇太子として崇められる兄と比べ、自分は多くの点で差別されている。これは「憲法違反ではないか」と陛下にくってかかり、皇籍離脱を口にしたという。『FOCUS』は、この皇籍離脱発言は兄と比べての待遇不満だけではなく、紀子さんとの結婚に反対する周囲への反発から出たと解説。さらに後の報道では、天皇が紀子さんとの結婚に反対していたことを明かしている。【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりと終わりに噴出した礼宮さま(秋篠宮)の不満 2016-09-11 04:17:53)
05月 スクープ 礼宮さまさまが学習院大教授令嬢と婚約へ(『FLASH』5月9・16日号)
08月 反対だらけだった礼宮さまの結婚(『女性自身』09月06日号)
08月 礼宮さま「ご婚約発表」のあと 平民化に拍車がかかる「新皇室像」
皇籍「離脱」で抵抗した成果(『週刊新潮』09月07日号)
09月 礼宮さま婚約スクープの裏!決め手は両親の赤坂御所訪問だった(『週刊宝石』9月14日号)
09月 ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか(『週刊現代』09月16日号)
09月 プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」(『週刊ポスト』09月15日号)
09月12日 文仁親王(礼宮さま)と川嶋紀子さんの婚約内定、記者会見が行われた。
昭和天皇の喪が明けないうちに婚約が発表される事態となったのはなぜか? 礼宮さまとの交際中に紀子さんは堕胎手術を受けること2回に及び、これに抗議して実父の川嶋辰彦氏が東宮御所に乗り込んだ。川嶋氏と親交があった朝日新聞(岩井克己記者)と解放同盟の力を背景に、結婚の約束を取り付けたとする見方がある(★)。
■1990年(平成2年)
06月29日 文仁親王(25歳)と川嶋紀子さん(23歳)結婚の儀。秋篠宮家創設。
09月 礼宮さま結婚フィーバー 日本はこれでいいのか!「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
沸騰皇室核心論議 右と左と知識人のミカドの肖像(『週刊ポスト』1990年09月13日号)
「秋篠宮家に万が一にも皇位が継承されることがあってはならない」という暗黙の了解が宮内庁内部で共有され受け継がれていたと(後に)報道される(★)。秋篠宮には出生の問題、紀子妃には出自の問題があり、結婚に至る経緯にも上述のような問題があり、これが一般に明らかになれば、皇位継承者としては認められないためとする見方がある(★)。
※文末の(★)は、ソース(情報の出所を示す資料詳細)を調査して付け加えたいという印です。そのソース調査も含め、この年表への追加情報をお寄せください。
※現在は、「皇室問題INDEX開設準備室」の当該トピックよりデータを転記中です。文中に【関連資料:コメント欄参照】とありますが、まだ転載されていません。
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■1985年(昭和60年)
04月 川嶋紀子さん学習院大学に入学
紀子さんの実父・川嶋辰彦同大教授の計らいで、紀子さんは同大2年だった礼宮さまと学内の書店で出会う。礼宮さまは自然文化研究会というサークルを作り、紀子さんを招く。このサークルは礼宮さまが紀子さんと交際するために作ったサークルといわれ、旅先では2人が同じ部屋に泊まることが黙認されていたという。
【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮さまと紀子さんの出会いの真相)
12月 東宮ご夫妻(当時)に初めて紀子さんを紹介
東宮ご一家が葉山の御用邸に滞在していた時、御用邸近くのホテルに紀子さんが家族と宿泊。礼宮さまがホテルに紀子さんを迎えに行き、御用邸近くの海岸を散歩をしていた東宮夫妻に引き合わせる形で、紀子さんを紹介した。(出所:秘められた5年の愛『女性自身』1989年0906号)
礼宮さまは当時、他の女性たちとも同時進行で交際していた(出所:『噂の真相』1996年7月号ほか)。サークルでの宿泊を伴う旅行、両親への紹介ということ等を考えると、紀子さんが学習院大学在学中に受けたとされる2回の堕胎のうちの第1回がこの年に行われた可能性がある。
【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりの序章となる1985年の出来事)
■1986年(昭和61年)
09月 本命は学習院大学教授の娘!?(『週刊現代』09月13日号)
2人の交際が雑誌で取り上げられる。サークル活動での旅行には、紀子さんのそばに必ず礼宮さまがいた。
※川嶋家が朝日新聞の皇室取材班と接触。以後、同取材班は2人の交際内容を把握していた。【関連資料:コメント欄参照】(朝日新聞単独スクープの謎(2) 礼宮さまと紀子さんの出会いの真相)
■1987年(昭和62年)
03月 斑尾高原でのスキー旅行 報道のカメラの前では紀子さんに近づかず。
「ボクには7人の恋人がいる」と級友たちに宣言。
04月 礼宮さまさまがナイトコールされる美人女子大生の家(『週刊現代』4月25日号)
礼宮さまは学習院大学時代、「手の早いやつ」というあだ名をつけられており、情事を持った女性は複数存在した。紀子さんはそのうちの一人で、川嶋家は娘への責任を取るように要求していた。【関連資料:コメント欄参照】(礼宮さま文仁と川島紀子の結婚前後)
■1988年(昭和63年)
礼宮さまの卒業が近づく1988年になると、東宮御所に紀子さんを呼び、東宮内デートを楽しむようになる。
東宮御所を紀子さんが一人で訪ねて来て礼宮さまの部屋に2人きりで数時間もこもり、側近が慌てたという話が『週刊現代』1989年0305号に書かれている。
紀子さんは1987年後半くらいから頻繁に訪ねてくるようになり、最初は微笑ましく見られていたが、近頃は「間違いがないといいが」と心配されているという。「間違い」は起こるべくして起こり、繰り返されたとみられる。【関連資料:コメント欄参照】(紀子さんと礼宮さまの交際)
03月 礼宮さま、学習院大学を卒業
08月 礼宮さま、2年間の予定でオックスフォード大学に留学
■1989年(昭和64年)
01月07日 昭和天皇崩御。
02月24日 大喪の礼。
04月 礼宮さまが皇籍離脱発言(『週刊ポスト』4月7日号)
04月 渦中の女 「浩宮妃」より先に「礼宮さまの恋人」(『FOCUS』5月5・12日号)
『週刊ポスト』によると、兄の皇太子即位が秒読みとなった時点で、礼宮さまは自分との差を改めて実感。同じ兄弟でありながら、皇太子として崇められる兄と比べ、自分は多くの点で差別されている。これは「憲法違反ではないか」と陛下にくってかかり、皇籍離脱を口にしたという。『FOCUS』は、この皇籍離脱発言は兄と比べての待遇不満だけではなく、紀子さんとの結婚に反対する周囲への反発から出たと解説。さらに後の報道では、天皇が紀子さんとの結婚に反対していたことを明かしている。【関連資料:コメント欄参照】(平成の始まりと終わりに噴出した礼宮さま(秋篠宮)の不満 2016-09-11 04:17:53)
05月 スクープ 礼宮さまさまが学習院大教授令嬢と婚約へ(『FLASH』5月9・16日号)
08月 反対だらけだった礼宮さまの結婚(『女性自身』09月06日号)
08月 礼宮さま「ご婚約発表」のあと 平民化に拍車がかかる「新皇室像」
皇籍「離脱」で抵抗した成果(『週刊新潮』09月07日号)
09月 礼宮さま婚約スクープの裏!決め手は両親の赤坂御所訪問だった(『週刊宝石』9月14日号)
09月 ご婚約“突如内定”なぜ急がれたのか(『週刊現代』09月16日号)
09月 プリンセスを生んだ川嶋家の「血族と財産」(『週刊ポスト』09月15日号)
09月12日 文仁親王(礼宮さま)と川嶋紀子さんの婚約内定、記者会見が行われた。
昭和天皇の喪が明けないうちに婚約が発表される事態となったのはなぜか? 礼宮さまとの交際中に紀子さんは堕胎手術を受けること2回に及び、これに抗議して実父の川嶋辰彦氏が東宮御所に乗り込んだ。川嶋氏と親交があった朝日新聞(岩井克己記者)と解放同盟の力を背景に、結婚の約束を取り付けたとする見方がある(★)。
■1990年(平成2年)
06月29日 文仁親王(25歳)と川嶋紀子さん(23歳)結婚の儀。秋篠宮家創設。
09月 礼宮さま結婚フィーバー 日本はこれでいいのか!「奉祝押しつけ」の大騒ぎ報道を排す
沸騰皇室核心論議 右と左と知識人のミカドの肖像(『週刊ポスト』1990年09月13日号)
「秋篠宮家に万が一にも皇位が継承されることがあってはならない」という暗黙の了解が宮内庁内部で共有され受け継がれていたと(後に)報道される(★)。秋篠宮には出生の問題、紀子妃には出自の問題があり、結婚に至る経緯にも上述のような問題があり、これが一般に明らかになれば、皇位継承者としては認められないためとする見方がある(★)。