貧者の一灯ブログ

趣味のブログを徒然に 神戸発信…

貧者の一灯・特別編

2023-12-17 13:59:44 | 貧者の一灯





















人は、遠い将来のことを考えた上で行動しなけ
れば必ず身近に心配事が起こって来るものであ
ると言う意味で、現代の私達に諭しています。

以前、地元の中堅問屋のT社長が、次のような
話をされたことがあります。

50代半ばのT社長はゴルフ焼けなのでしょう
か、たくましい感じの顔を些かゆがめながら、
「実は、長年一緒にやってきた常務(義理の弟)
が私に反論し、思うとおりに動いてくれないの
です。

仕事はよくやってくれるのですが、経営陣とし
て今の状態では、他の幹部社員にも悪影響がで
そうです。何とかならないでしょうか。」と話
されるのです。

T社長は、裸一貫で事業を興し、幾多の苦労を
乗り越え、当時では、30億程の商いをされる
程まで成長されていました。

誠実で無茶をしないタイプでまさに努力の人と
いう感じのする人でした。

私は、その他にさまざまなことを聞いた後、最後
に「以前から常務は、社長に反発されていたんで
しょうか?」とたずねました。

T社長は少し考えられて、「若い頃からそうだ
ったが、最近特にひどくなったと感じる。」と
話されました。

私は、“これだな”と思い次のような話をしまし
た。 「社長さん、常務の社長に対する感情や態
度に以前との大きな変化はないと思います。

それより、常務の態度に気をとられている社長の
方が心配です。

以前は、そんな常務とでも、ここまで会社を引
っ張ってこられた情熱が社長にはあったに違い
ありません。

本来、社長の夢は常務の更正ではなく、地域で
ダントツの企業を作ることにあったのではない
でしょうか。

ところが、道中端で常務の力添えの足りないこと
を嘆いておられる。

今こそ、社長自身の力で、自分の夢に邁進する
時でしょう。」 T社長は、「なるほど、そう
でしたね。

私が独立した時の夢は、京都でNo.1の会社
になることでした。若い頃は、このことだけを
考えてやっていましたが、最近は生活が裕福に
なったせいか、すっかり忘れていました。

もう一度初心に還って頑張ります。」とおっし
ゃってお帰りになりました。

もちろん、その後のT社長は、京都でNo.1
の地位を確立され、今では関西でトップクラス
になるための努力をされています。

※…
このような状態に陥った経験はないでしょうか。

卑近な例ですが、私の高校時代は、甲子園を目指
す球児でした。下積みの頃、グランド整備の時に、
ファウルラインがまっすぐ引けない私に対し監督
が、「ファウルラインを引くときは、あの遠くの
外野ポールだけを見て引け!」と言われました。

不安ながらやってみると見事にまっすぐ引けた
ことをよく覚えています。

また、幕末の雄、坂本竜馬の肖像画を見ると気づ
くことがあります。

袴に革グツ、腰に日本刀、懐にはピストルと理
解しがたい風体ながら、その眼は、しっかりと
自分の信じる遠くを見つめているのです。

ご存じの通り竜馬の生きた時代は、波瀾万丈、
現実を生きるのがやっとの時代でした。

しかし、竜馬は浦賀沖に来航した黒船を見て、
日本の将来に向けて、その血をたぎらせたので
しょう。

身近な問題を無視することはできません。

目の前の問題を着実に解決してこそ、企業の発
展があると信じています。

しかし、そこだけにとらわれてしまうことが恐
ろしいのです。

遠い将来を見ることを忘れ、近くのことばかり
にとらわれることは、羅針盤なしで航海に出て
いるようなものでしょう。

身近な問題にとらわれて悩み、疲れ果てて気が
ついたら、白髪の浦島太郎になっていたという
ことにならないようにしたいものです。…















※…青空が見えた誕生日

私の誕生日はいつも雨。それも、外に出られな
いほどの大降りになるんです。

でも今年の天気予報は「曇りときどき雨」。
ヤッター!

そこで、自分で自分を祝おうと思い、何日も
悩んだ末、前から気になっていたケーキ屋さ
んと花屋さんに行こうと決めました。

当日は雨どころか、青空が少し出ていて嬉し
さ倍増。バスで街に着き、まずはケーキ屋さ
んに行きました。

ひそかに狙っていたケーキが1つだけ残ってい
て、心の中でガッツポーズ。

店員さんが「何かのお祝いですか?」と言って
きたので、「誕生日です」と言うと、「ロウソ
クは18本まで無料ですがどうされますか」と聞
かれました。

「すみません。私の誕生日なので、18本じゃ足
りません」と言ったら、サービスでクッキーを
くれ、とびっきりの笑顔で「おめでとうござい
ます!」。

これまで、夫以外の人から「おめでとう」と言
われた記憶がない私は、思わず嬉し泣きしてし
まいました。


※…思わず嬉し泣き

お次は花屋さんへ。気に入った花束を持って
レジに行き、ポイントカードと一緒に店員さん
に渡すと、「あら、今日誕生日なんですね!」
と言って、なんと追加でもう1つ花束をプレゼ
ントしてくれたのです。

またしても嬉し涙がポロリ。

2つの花束とケーキを持って帰りのバスを待っ
ている間、以前親から言われたことを思い出
しました。

「あんたは祝福されて生まれた子じゃない」
「お前なんか、この世からいなくなっちゃえ」。

毎年誕生日に雨が降るのは、生まれてはいけな
かったからだと思って生きてきました。

でも今日は、青空が見える。私、生きててい
いんだよね? 生まれてきてよかったんだよね?
と心の中でつぶやきながら、またしても涙が。

家では夫にも祝ってもらい、とてもハッピー
な一日になりました。












貧者の一灯・漢の韓信シリーズ

2023-12-16 15:52:31 | 貧者の一灯





















※…
范蠡は太宰嚭に八名の着飾らせた美女を納めた。

「あなたが越国の罪をお許しになれば、またこ
れより美しい者を献上いたしましょう」  

この言葉を受けた伯嚭は、呉王夫差に進言する
に至る。

「いにしえから、国を討つ者は、これを服従さ
せるのみでした。いま、越はすでに我が呉国に
服従しています。これ以上何を求めるのですか」  

伍子胥はこれに対して口酸っぱく反論した。

「なりません。呉は越にとって、仇敵の国です。
呉があれば越はなく、越があれば呉はないのだ。
これは変えることができません。……

私はこう聞いております。陸人は陸に居り、水
人は水に居ると。中原は陸人の国です。我々が
これを攻めて勝っても、その地に居ることはで
きません。

越国は、我々と同じ水人の国です。我々がこれ
を攻めて勝てばその地に居ることができ、その
舟に乗ることができます。

この利は、失うべきではありません。君は必ず
これを滅ぼしなさい。この利を失えば、悔やん
でもまた及ばないでしょう」  

夫差はしかし、この意見に耳を傾けることはな
かった。すでに太宰嚭は、自身に送られていた
八人の美女のうち、もっとも美しい者を夫差に
献上していたのである。  

このとき、選ばれて夫差のもとに送られた女性
の名を施夷光しいこうという。

貧しい薪売りの家に生まれた、胸に持病を抱え
た娘である。

もともと、彼女の住んでいた村に「施」という
姓を持つ家が二軒あり、彼女は村の西側に住ん
でいたため、多くの人々は彼女のことを「西施」
と呼んだ。  

彼女は、谷川で洗濯をしているところを范蠡に
見初められ、この役割を担うことになったという。

その代償として貧しさが解消されたことは言うま
でもない。  

范蠡はしかし、呉へ彼女を送ることを当初から
意識していたわけではなかった。

もともと彼女の美しさに心を奪われたのは、
范蠡自身だったのである。

彼が施夷光を呉へ送ったことは、苦渋の決断で
ある。范蠡は、彼女の美貌によって国家の窮地
を救おうとしたのであった。  

彼女は伯嚭を経由して、夫差のもとに送られる
に至った。すでに夫差は西施の美貌の虜になっ
ている。

「越にはそなた・・・のような美女が数多くい
るのか。だとすれば軽々しく滅ぼすわけにはい
かない」  

耳元でいやらしく語りかける夫差に対し、西施
は精一杯の愛想を振りまきながら答えた。

「そんな、私など……貧しい薪売りの娘に過ぎ
ません。もっと品のある女性が世の中には沢山
いることでしょう。

私は幼いころから父の仕事の手伝いをして山の
中を歩き回っていたので……足が大きくて、太
いのです。

それが人の目に触れないように長い裾の服を着
たりして……そんな女のどこがよいと仰られる
のですか」  

西施の足が大根のようであったというのは、
事実のようである。

しかし、彼女にまつわる逸話として、川に足を
浸して彼女が洗濯をしていると、魚たちがそれ
に見とれたかのように泳ぐのを忘れた、という
ものがある。

絶世の美女に備わる人間臭さが、またその魅力
になっているといったところであろう。  

呉王夫差もそう感じた。「そういうところも含
めて、余はそなたのことが好きだ」  

そう言われると、西施自身も悪い気がしなかっ
たであろう。彼女は自分を愛してくれる者を、
愛した。

彼女は范蠡の意図とは関係なく、夫差を愛した
のである。













※…
松岡浩著『一隅を照らす』という小冊子に、
大阪にある淨信寺(じょうしんじ)というお
寺の副住職、西端春枝(にしばた・はるえ)
さんの話が載っていた。

西端さんは大正11年生まれ、「にもかかわら
ず美しく、頭脳明晰で、しかも明るく楽しい
お人柄」と松岡さんは言う。

西端さんが商業界の最前線から退いて早40年に
なる。後に全国展開をする総合スーパー㈱ニチ
イの創業者・西端行雄氏と結婚したのは1946年、
終戦の翌年だ。

以来、二人は戦後の高度成長と共に商人道を歩
んできた。  

㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に出店した、
わずか一坪半の衣料品店「ハトヤ」だった。

戦前、小学校の教員だった夫は商売が下手で、
悪戦苦闘の日々だった。    

ある日の夕方、店先に思いもしない人が立って
いた。春枝さんの実家のお母さんだった。

突然の来訪に春枝さんは戸惑った。

なにせ「店を出した」なんて言ってなかったか
らだ。さらにお母さんは、二人が一番恐れてい
たことを口にした。

「今晩泊めてもらうわ」社会全体がまだまだ貧
しい時代だったとはいえ、二人の生活は困窮を
極めていた。

親にだけは見られたくないし、見せたくない生
活だった。    

日が暮れた頃、お母さんが言った。「春枝、
ところでお便所はどこ?」    

二人の家に水道も便所もなかった。いつも近く
の天満駅の便所を借りていた。

もう開き直るしかなかった。春枝さんはあっけ
らかんと、「お便所ないねん」と言い、咄嗟に
近くにあったバケツを差し出し、「これでして
ちょうだい」と言った。     

一瞬たじろいだ表情をしたものの、さすが明治
の女である。お母さんは「こりゃおもしろいね」
と言って、音を立てて用を足した。  

翌朝、お母さんは突然「用事があるので帰る」
と言って、朝ご飯も食べずに若い二人の小さな
居住地を後にした。

二人は慌てて靴を履き、天満駅まで送った。  

当時の天満駅のホームは長い階段を上っていっ
たところにあった。

階段の下で「それじゃ、無理せんと、西端さん
も気をつけて…」「お母さんも気をつけて…」、
ありふれた別れの言葉を交わした。   

階段を上っていくお母さんの後ろ姿を見送って
いた夫が、呻(うめ)くような声で言った。  

「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。
今母さんは滝のような涙を流しているに違い
ない」と。  

お母さんは頬を伝わって流れる涙を、二人に
気づかれないように、手でぬぐうことなく階
段を上っていた。

だから一度も振り返らなかった。
その背中がすべてを物語っていた。  

春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿をバネ
にしよう」  

誰にでも「あの日」があると思う。「あの日」
があったから今の自分がある、と言えるような、
忘れてはいけない「あの日」が。  

それは、思い出すだけで心のバネになる「あの日」
だったり、感謝で心がいっぱいになる「あの日」
だったり。そんな「あの日」があるはずだ。  

そう言えば、「おかん」というロックバンドの
『人として』という楽曲は、今の幸せに繋がった
「あの日」のことを歌っている。 


…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が
無ければ笑い合うこと無かったよ…
あの日生まれなかったら
あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら
あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら
あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら
……あの時別れてなかったら
あのとき、『好き』と言ってなかったら
痛み喜び感じずに僕はあなたを知らない
ままだった


悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、
いつかそれは「あの日」になる。  

「あの日」をどう捉えて、どう生かすかは、
すべて自分で決めることだ。 …

※…
西端春枝(にしばた・はるえ)
2020年6月12日 脳梗塞(こうそく)で死去、
98歳









貧者の一灯・森羅万象

2023-12-15 15:45:36 | 貧者の一灯





















二日前の夜、その日3度目の回診のため病室の
ドアをノックして開けると、東京に嫁いでいる
娘がいた。彼女は身重だった。

彼は時折襲って来る激痛に堪えつつ、苦しい呼
吸の中で娘と話していた。

彼の首にできた腫瘍は気管、食道を圧迫し神経
をも侵していた。

彼は自分の中の苦痛と不安を振り払うように娘
を見つめ、この世で最後になるかもしれない娘
との時間をいとおしんでいるかのようだった。

娘は途切れ途切れのかすれた小さな声しか出せ
ない父親の口に耳をつけるようにして寄り添っ
ていた。

かすかに「幸せになるんだよ」という言葉が聞
こえ、娘が頷いた。そこには他の誰をも寄せ付
けない空気があった。

彼の脳裏には娘が生まれた時、幼稚園の頃マン
ションの廊下から「お父さん、行ってらっしゃ
い」と叫んでいた姿、帰宅すると飛びついてき
て抱き上げた感触、そして嫁いで行った日のま
ぶしいばかりに輝いていた姿などが次々に浮かび、
一つ一つの記憶を大事に、二度と開けることの
ない引き出しの中にしまいこんでいったのだろう。

そして初孫が誕生する喜びと、おそらくその子
供を自らは抱きしめることができない悔しさを
感じ、いま少しの時間の猶予が与えられる奇跡
を祈っていたのだろうか。

翌日、彼の意識が混濁し始めると、彼は宙をつ
かむような動作、何かを抱きかかえるような動
作を繰り返し、かすかに「よしよし」という声
が聞こえた。

身重の娘が訪れていたことを知っていた年輩の
看護師が言った。 「お孫さんを抱っこしておら
れるのでしょうね」

娘は父に訪れる死の影が信じられずに、自分を
ずっと暖かく包んでくれた大きな存在が消え去
ろうとすることが実感できずに、残された時間
にすがるように、父の顔を脳裏に刻み込むように、
見つめていた。

私は面会時間を大幅に過ぎて部屋にいる娘に声
をかけるように看護師から言われ、部屋の前に
立った。

だが垣間見える父娘の姿に、自分とまだ幼い娘
とを重ねて何も言えずにただ彼らの姿を見ていた。

暗い部屋で二人の周りだけがぼんやりと明るく、
空気も時間も止まっているかのようだった。


※…儀式と演出

医師は客観的な姿勢が大事で感情移入は慎むべ
きだという教えがあり、その一方で共感、シン
パシーを持つべきだという教えもある。

現代医療で感情の入る余地は極めて少なく、診断、
治療は高度に機械化された病院で息つぐ間もなく
行われる。

皮肉にも医師がそのなす術を失い、死の世界へ
の流れを押し止められなくなった時に人間同士
として接する場が残されている。

私は結局何も言えず、しばらくして踵を返して
詰所に戻った。

「部屋へ行ったけれど、まあいいじゃないか。
話し込んでいるし、身重だし、もうすぐ帰るよ、
きっと」 私は詰所に戻ると独り言のように、
言い訳するように、その日の準夜(夕方から深
夜までの勤務)のリーダーに言った。

彼女は私を一瞥すると「まあ、仕方ないですね」
と少し呆れたように言った。

このような時の対応は個人個人で異なり、規則
に忠実な看護師からは非難を受けることもある。

その日は比較的私に好意的な看護師でもあり、
それ以上のことは言わなかった。

やがて消灯時間になり廊下の電気が消えてから、
娘は父のいる空間にできるだけいたいような素
振りで、振り返り振り返りゆっくりと病棟から
去っていった。

静まりかえった部屋には不規則な患者の呼吸と
いうより喘ぐ音が、大きく響いている。

この人の50年に満たない人生の終末に自分が立
ち会っていることは、考えてみればなんと不思
議なことであろうか。

心電図の音の間隔が次第に延びてくる。その時
間の延びを私は本能的に察知し、まず対光反射
を確かめるべくライトを瞳孔に当てた。

左右共に散大しかけており、脳活動の終焉を示
した。呼吸、循環中枢は不規則ながらもまだ働
いている。

「ボスミン(強心剤、アドレナリン)の心注、
用意しましょうか」 看護師が私の顔を覗き込
むようにして言った。

心注とは心腔内注射のことで直接心臓の中に強
心剤を注射し、心臓の働きを高めることである。

私は首を横に振った。数日前から家族には何度
も最期の時が近いことを告げ、砂時計の残りが
少ないことを知らせていたので、家族は見送る
準備ができていると感じていた。

家族の様子を今一度見渡し「もう何もせず、そ
っと送ろう」と決めた。

看護師の表情には「何もしないのですか?」と
いうやや非難、不満の色がうかがえた。

癌末期の患者に対して心臓マッサージ、強心剤
の注射等の蘇生術を行うことを我々は「儀式」
と陰で呼んでいた。

なぜそのようなことを行うのか、みんなわかっ
ているのだろうか。その患者に対して何か思い
残し、後悔があるからそのようなことをするの
だろうか。

一秒でも長く心臓を動かすことが使命だと思っ
てするのだろうか。もはや、何も言わなくなっ
た患者と黙って向かい合うことが怖くてするの
だろうか。

家族に一生懸命やったがだめだったと示し、お
互いが最後に納得し合うために行うのだろうか。

その時間は関係している者すべてにとって「凝
縮した濃厚な時」であり、どう演出するかも医
療者の仕事であると思う。

いろいろと処置をして精一杯努力したという思
いを家族と共有するのも一つであり、この場合、
身体や手を動かしているのであまり考えること
はない。

ただただ心臓が完全に停止するまで処置を続け
るのみ。 流れに従う場合、何もしないという
ことに耐えて死にゆく人を見守るエネルギー、
かつ周囲を見渡し残される人への配慮を考える
というエネルギーがいる。…












クリスマスに、世界中で演奏され歌われる聖歌
「きよしこの夜」は、どのようにして生まれた
のでしょうか。

実は、あるアクシデントが幸いに転じて誕生し
たのです。






「きよしこの夜」は、約200年前、オーストリ
アの西、美しいアルプスの山並みに近いチロル
地方、オーベルンドルフというところで作られ
ました。

1818年の12月24日の朝、ヨーゼフ・モール神父
は教会のパイプオルガンが壊れているのを知り
ます。

なんと、ネズミがオルガンのふいごをかじって
いたというのです。

修理するにしても、この地方には雪が深く積も
っており、今日中に修理工が来るのは無理でした。

もはやクリスマス・イブの深夜のミサに使えな
いのは明らかです。 このままでは今年のクリス
マス・イブは寂しいものになってしまう。

毎年楽しみしている村人をがっかさせてしまう。
モール神父は、途方に暮れました。



※…赤ちゃんを祝福した帰り道で

そこへ貧しい農婦に赤ん坊が生まれたから祝福
してほしいとの知らせがありました。

モール神父は、その家まで出かけていきました。

生まれたばかりの赤ん坊を祝福したあと、雪道
を通って教会に帰る途中に、モール神父は、初
めてのクリスマスのことを思い巡らしていました。

それは、今から2000年前に馬小屋で生まれたイ
エスの誕生です。 あの貧しい馬小屋にも、も
ちろんオンガンなどなかった。

でも、生まれた赤ん坊を祝福する星が輝き、
母親も父親も、羊飼いたちも、動物たちも、
みんな、喜びあっていたじゃないか。

道すがら、モール神父のなかで、イエスの誕生
の感動が言葉となってあふれてきました。

そしていつのまにか、数節の詩ができあがって
いたのです。

ただ、メロディーがありません。

モール神父は、何とかクリスマスのミサでそれ
を歌いたかったので、曲をつけてもらおうと、
友人の小学校教師フランツ・グルーバーの元に
急ぎました。

「フランツ、この新しい詞に曲をつけてほしい。
深夜のミサで歌おう。

オルガンがあろうとなかろうと構わない!ギ
ターの伴奏で歌おう!」

しかし、グルーバーは、自分はオルガニストで
あってギターはやらないし、作曲などなおさら
だと断りました。

でも、モール神父は引き下がりません。

「ギターコード三つぐらいは知っているだろう。
」 グルーバーがうなずくと、モール神父は続け
ました。

「じゃあ、三つくらいしかコードを使わない簡
単な曲を書いたらいいじゃないか。

今夜、僕たちは新しいキャロルを歌うんだ。」
そこで、グルーバーはモール神父の求めに応じ、
1時間もしない内にその曲を書き上げたのです。



※…美しい聖歌の誕生

その日の深夜のクリスマスのミサ。 できあがっ
た歌は、ギターの伴奏で、モール神父がテノー
ル、グルーバーがバスを担当し、二人の女性と
共に四重唱で歌われました。

その歌声は、星の輝く聖夜、アルプスの山なみ
にある聖堂に響き、村人たちを感動させました。


きよし この夜 星は光り
救いの御子(みこ)は まぶねの中に
眠りたもう いとやすく

きよし この夜 御告(みつ)げ受けし
牧人(まきびと)たちは 御子の御前(みまえ)に
ぬかずきぬ 畏(かしこ)みて

きよし この夜 御子の笑(え)みに
恵みの御世(みよ)の あしたの光
輝けり 朗(ほが)らかに
(訳詞 由木 康)


いま世界中で愛されている賛美歌「きよし
この夜」はこのようにして作られたのです。

わずか数時間でできた歌ですが、クリスマス
ソングとして、これほど世界中で広く親しま
れている歌は他にないでしょう。

考えてみると、オルガンが壊れるというアク
シデントがなければ、この歌は生まれていま
せんでした。

思わぬアクシデントがあったからこそ、この
歌が生まれたと言っていいと思います。

不慮の出来事にもめげず、クリスマスを皆と
ともに喜び祝いたいという気持ちが、この歌
を生んだのです。











貧者の一灯・番外編

2023-12-14 14:18:23 | 貧者の一灯























※…

いじめのターゲットが私以外の誰かに変わって
いた。子どもは飽きっぽい。標的はどの子にな
ったかすぐにわかった。

彼女は他校不良女子から目を付けられる不良の
代表。不思議なことに彼女とはなんだかウマが
あい、余され者同士仲良くなった。

ただ、下校後、彼女は他校女子と喧嘩してくる
とか、彼氏とシンナー吸ってくるとか、私には
全然わからない世界で過ごしていた。

彼女はそんな世界に私を一度も誘ったことはな
かったが、何でも話してくれたし、私も彼女に
は何でも話せた。

一緒に漫画を読みおしゃべり、友達と過ごすっ
てこんな楽しい時間なのかと思った。

そこに熱血担任先生が、今度は 「あいつと付き
合うのはよせ」 と言う。

学校一の不良と学校一の優等生の親友関係。

こんなのあまりない。彼女のお陰で学校に行け
るし、彼女は私を悪い道に誘わない。

私も彼女に干渉しない。私も彼女もお互いに何
かわかっている。いじめ女子軍団が解散しても
私と彼女の関係はずっと続いた。

彼女の生い立ちや、つらいことが自分と重なっ
たし、彼女もそう感じていた。私たちはまさに
仲間だった。

中三のある日、自分の親との行き詰った思いを
彼女に話すと、彼女は、 「ねえ、カバン潰し
てみる?」 と言った。

いつか 「もう重たい教科書入れないであなた
みたいにカバン潰してみたいな」 と言ったこと
を覚えていてくれた。

一週間後、カバンはカッコよく潰れて戻ってきた。
私は何だか晴れ着を手にしたようで嬉しかった。

彼女とそのカバンをソリにして雪の坂道をキャ
ーキャー笑いながら滑ったことを鮮明に思い出す。

私が大学に行ってもずっと親友のままだった。
私は大学生、彼女はキャバクラ嬢で一緒に暮ら
していたこともある。

彼女は私が心を許せた最初の親友。

彼女の人生は波乱万丈で、全身入れ墨の方と
一緒になって彼女自身も太ももに美しい刺青。

刺青は一緒にお風呂に入ると肌から浮き出てそ
れは美しかった。今でも彼女を大切に思う。





高校生になって習い事をやめ恋愛にのめりこんだ。 
母の期待を裏切った。

高校では私よりずっと勉強できる子、ピアノの
上手な子、破格のお嬢様はたくさんいた。

何だか、急に力が抜けた。頑張るのが嫌になった。

一年生の時に好きになった男子に毎日お弁当を
作り、初恋を釣ろうと思っていたが、告白して
見事に撃沈した。

うらぶれて美術部の庭で絵を描いていると毎日、
部室の屋根の上から自作のラブソングを歌って
私を口説く男が現れた。

失恋して心が弱っていたから簡単に恋に落ちた。
恋に落ちると成績も落ちた。高校生女子あるある。

彼は不良っぽく悪いことは率先して行うが、部
活のリーダーでもあった。なのに、修学旅行で
飲酒発覚、停学をくらった。

「彼女のくせに彼をしつけない」 と私を怒る
人もいた。でも、彼は人懐こくて憎めないキャ
ラだった。

「愛し合っているならセックスできるよね」 と
経験者の彼。デートのたびに勝負パンツを履い
てみたが怖くてその一線を越えるとかいうのが
できなかった。

そんな時、授業中に彼が友人に私の秘密を話
しているのを聞いた男子が、私に忠告してきた。

その男子、交際している彼女もいて自分のこと
でもないのに 「別れた方がいい、あなたは傷つ
けられている」 と心配してくれた。

ありがたかったけど悲しかった。

すぐに別れる決心はついた。もう大学受験が
目前だった。成績はガタ落ち、志望校に届く
成績ではなくなっていた。





そんな時に、『マザー・テレサあふれる愛』の
写真集の写真展覧会に、母が気分転換に連れて
行ってくれた。

そして一枚の写真の前に釘付けになった。それ
はインドの市街地の路地裏、ゴミ箱から取り出
されたミイラ化した乳児の写真だった。

雷に打たれたような衝撃。涙がこぼれて止まらず、
「こんな理不尽なことがあっていいのか」、 そ
して、 「私はインドに行ってマザーの手伝いが
したい、看護師になりたい!」 と強く思った。

その場で写真集を買い、サインもいただいた。

何としても看護師になる、インドに行く!目標
が決まった。 恋する勢いで猛勉強を始めた。そ
して目標だった大学に合格した。

大学でボランティア活動から学生運動へ、そし
て家出 大学では、寝たきり老人を訪問する大学
生ボランティア活動に参加し、土曜日、デート
ではなく在宅で寝たきりになってしまった老人
を訪問していた。

学童保育ボランティア班もあったが、私は実は
子どもは苦手だった。

寝たきり老人となって経過が長い方を毎週訪問
していた。後になって、『「寝たきり老人」の
いる国いない国』を読んで知ったが、私もその
時に、日本は傷病を負った老人を寝たきりにさ
せてしまう国と知った。

血の気の多かった若者の私は、すぐに社会改革
運動思想と共産主義について学ぶ活動にはまり、
社会改革を叫ぶシュプレヒコールの波に混じった。












※…
いつの間にか自分にきょうだいが生まれてい
たとわかったら、あなたならどう思うでしょ
うか。

“同じ敵をもつ仲間”と思い、同情すらして
いた父親に、実は前から女性がいて、子ども
までいたと知ったら。

ヒステリックな母親のもと、いつも親の顔色
をうかがいながら過ごしてきた芽衣さん(仮名)
は、大学生のときに異母きょうだいの存在を
知りました。

これまで20年あまり信じてきたものは何だっ
たのか? 「すべてが崩れた」ように感じら
れたといいます。

友人が多く、勉強もでき、数年前には新卒で
希望の仕事に就いた自身を「恵まれている」
と感じながらも、芽衣さんは「いつまでも暖
簾に腕
押ししているような感覚」だといいます。

今も、心に空いた穴はいまもふさがりません。






毎晩、リビングからは怒鳴り声が聞こえていま
した。両親の仲が悪くなったのは、芽衣さんが
小学校にあがった頃からだったと記憶しています。

芽衣さんは、双方から互いの悪口を聞かされて
育ちました。

「養っているのは俺だ」と父が言えば、「あな
たが言ったから会社を辞めたのに、なんでそん
なに偉そうなのか」と母が言い返す。

不仲の根っこには、結婚時に父が母に押しつけた
性別役割分業もあったようです。

「母も自分の非を認めない性格だし、父も家の
なかのことを取り仕切っている母親を認める姿
勢を見せることなく、ただお互いに罵りあって
いるので、なんだかなって思っていました。

言いたいことだけ言って解決に進まない、みた
いな喧嘩でした」

母親はつねに不機嫌でした。芽衣さんが自分の
思いどおりにならないと「なんでこんなことが
できないの?」と怒鳴り続け、ときには手をあ
げることも。

真冬なのに、薄着のまま1時間外に出されたとき
は、近所の人たちに心配されてちょっとした騒ぎ
になりました。

「ストレスのはけ口に私を使っている、みたい
な感じです。

姉もたぶん詰められたり、理不尽に怒られたり
していたと思うんですけれど、手をあげられて
いるのは見たことがない。

姉は割と気が強くて、たぶん私が一番おとなし
いからターゲットになっていました」

一方の父親は、母親の悪口は言うものの「芽衣
も大変だよな」という態度でした。

助けてくれることもなかったのですが、「父と
私は母が嫌い」という共通認識のもと、「なん
となく連帯していた」といいます。

父親がときどき家に帰らなくなったのは、芽衣
さんが中学生になった頃でした。

「残業で終電に間に合わないから、カプセル
ホテルに泊まる」と連絡を入れてくる父の言
葉をそのまま信じ、「すごく忙しいんだな」
と当時は思っていたそう。

高校時代、母からの八つ当たりが減ったのは、
祖父との同居がきっかけでした。

故郷で一人暮らししていた病気の父親を呼び寄
せてから、母があまり怒鳴らなくなったのです。

でも、芽衣さんの居心地がよくなったわけでは
ありませんでした。

みんなイライラしていて、一人の時間が息抜き
「家にいると、みんなイライラしているんです。

両親は仲が悪くて、母はパートの仕事と祖父の
介護で疲れているし、姉も当時は進路が決まら
なくてイライラしている。

だから家事は私もかなりやっていました。

友達はいたけど、学校は遠かったしあまり面白
くなくて。家にいても学校に行ってもしんどい、
みたいになっちゃって……」

高2になると、学校に行かない日が増えました。
朝、家を出ると隣駅のマックで時間をつぶし、
両親が出かけた頃に帰るのです。

祖父はこの頃入院していたため、芽衣さんは家
で一人に。その時間が「すごく息抜きだった」
といいます。

「高校をやめたい」と伝えたところ、母親は
「絶対にやめさせない」「やめるなら死ね」と
反対しました。

「こんなにいい学校に通わせてやっているの
に、やめるなんてバカじゃないか」と腹を立て、
なぜ彼女がそこまで思い詰めたのか耳を傾ける
ことはなかったそう。

退学せずに済んだのは、担任の先生のおかげだ
ったようです。

三者面談で家庭環境を話したところ、ひどく心
配した担任が「1週間学校を休んでいい。欠席
扱いにしないので、ゆっくりしてからまた考え
直して」と言ってくれたのです。

高3のとき「明らかに自分が仲のいい子しかいな
いクラス」になったのも、担任のはからいだっ

のでしょう。

「私の状況を把握してくれた、ということが大
きくて。近くに寄っては来ないけど、そういう、
ふんわりと優しい対応をしてくれたので。『学
校行くか』みたいになって、ときどきは休んで
ましたけど、一応ふつうに卒業はしました」

父親がついに家に帰らなくなったのは、大学1年
の秋でした。

母親との暮らしが限界だったのだろうと当時は
思っていたのですが、後でわかったところ、そ
れは不倫相手に子どもが生まれた時期でした。

でも当時はそんなことは思いもよらず、芽衣さ
んは父親と連絡を取り合い、ときどきご飯を食
べに行ったり、スポーツの試合の観戦に行った
りしていたそう。




大学4年の夏、母親から「ちょっと話がある」と
呼び出され、真剣な顔で見せられたのは父親
の戸籍の写しでした。

離婚調停を申し立てるために、母親が取り寄せ
たものです。そこには「認知」という文字とと
もに、知らない子どもの名前が書かれていました。

「『え?』みたいな感じです。

母は不倫には薄々気づいていたと思うんですけ
れど、子どもの存在は、母も知らなかったみた
いです」

このとき、もう一つ衝撃を受けたことがありまし
た。用紙に記載された子どもの名前が、芽衣さん
と一字違いの、一目できょうだいとわかるものだ
ったことです。

「嫌でしたね。子どもが生まれちゃって、そう
いうことになったのはどうしようもないとして
も、なんでそんな名前をつけたんだろうって。

私たちに言えない子どもに、こんなそっくりの
名前をつけて、どういうマインドなのかまった
く理解できない。

どういう気持ちで、この子の名前を呼んで暮ら
しているんだろう、というのが衝撃でした」

それはおそらく父親としては、いつか事実が露
呈したときのせめてもの罪滅ぼしというか、芽
衣さんに愛情を示したくての命名だったのでは
……と筆者は思うのですが。

以前取材で、やや似た話を聞いたからです。
でも芽衣さんは「それは絶対ない」とのこと。

不幸中の幸いだったのは、このときすでに、
芽衣さんの就職活動が終わっていたことでした。

原因ははっきりしないのですが、芽衣さんはそ
の後まもなく、外に出られなくなってしまった
からです。

「知ってからしばらくは何ともなかったんです
が、翌月くらいから急に肩が凝るし、挙動不審
になっちゃって。

電車に乗ると、周りの人がみんな自分より優れ
て見えて、乗っている人全員が私のことをバカ
にしているように思えてしまう。

人としゃべっていても、相手が自分のコンプレ
ックスを見ている、みたいに感じる。とにかく
怖くなっちゃって、バイトも行けなくなり、内
定式があった秋口まで本当に引きこもっていま
した」

おそらく父親のことで受けた衝撃が大きすぎて、
体調に影響が出たのではないか、といまでは思
っているそう。

父親への怒りが大きすぎたのでは?と尋ねたと
ころ、怒りとは少し違う感情だったといいます。

「腹が立つというか、(異母きょうだいのこと
を)知るまでの20年間、ずっと父のことはなん
となく『同じ敵を持つ仲間だ』みたいな感情だ
ったので、その全体が崩れてしまった。

異母きょうだいがいた事実にショックを受けた
というよりは、父がそんな巨大なうそをついて
いたことに対する悲しい気持ち。

家族ってなんだろう? 信じてたものってなん
だろう? という感じです」





その後、父親と会ったのは一度きりです。

就職が決まったお祝いで、いっしょに食事に行
ったのですが、芽衣さんは何も知らないふりを
しつつ「この人はいま、どういう感情で自分と
会っているんだろう?」と、ずっと考えてしま
ったそう。

「(父の不倫を知っても)母への同情はまった
くないです。私が小さい頃から父は離婚したが
っていたのに、母は子どもをタテに離婚に応じ
なかったですし、

何より私にずっときつく当たってきたことを今
でも許せていないので。若干自業自得、と言っ
たらひどいですが、『もっと早めに手を打って
おけばよかったじゃん』とは思います」

母親とも、就職して家を出てからは一度も会っ
ていません。しつこく連絡を受けたこともあり
ましたが、「もう連絡をとるつもりはないので、
放っておいてほしい」とはっきり伝えてからは
「実害はない」といいます。

「ただ、最近また電話がかかってきて。『ずっ
と追いかけられるのか』みたいな気持ちもあり
ます。

『母が死ぬまで、怯えて暮らさなきゃいけない
のかな』と。母に対しては『かかわらないでほ
しい』っていう気持ちが強いですね」

父に対しては「別にどうでもいい」とのこと。

かかわってもいい? と筆者が尋ねると、否定
はしなかったものの、 「でも、いまさらどうか
かわるんですかね。謝ってほしいとは、まったく
思っていないです。

ただ、一生罪悪感を抱えて生きてほしいな、と
は思います」

芽衣さんが謝ってほしいと思わなくても、父親
は芽衣さんと姉に、全身全霊で謝らなければな
らないだろうと思います。

芽衣さんの心はいまも満たされることがありませ
ん。 「行きたい学校にも行けたし、就活も第一
希望に運よく決まって、友達もたくさんいるし、
いろいろ『恵まれてるな』とは思うんですよね。

自分で言うのも変ですが、苦労していろいろ手に
入れてきたと思う。 でも、実感がないんです。

自分が本当に欲しいものが、いつまでも手に入れ
られていない感じがする。

失敗しても誰かが見てくれる、みたいなものが
私はないから、たぶん安心していないんですよね」

小さい頃から人の顔色をうかがって生きてきたの
で、「自分がこういうことをしたら嫌われるだろ
うか」とつねに考えてしまう癖も抜けません。

いつも気を張っているので、リラックスした気持
ちでやりたいことに飛び込んでいける人が、すご
くうらやましいのだそう。





あまりポジティブに「結婚したい」「子どもが
欲しい」と思えないことも、これまで体験して
きたことの影響です。

結婚したい気持ちもあるものの、式に親を呼び
たくないし、もし結婚しても子どもは欲しくな
い気がする、といいます。

「虐待されてきた子どもは将来虐待してしまう、
みたいな言説があるじゃないですか。あれを見
るたびに傷つきますね。

わからんでもないなとは思うんですけれど。

母の両親も離婚していて、母もたぶん『そうは
ならないぞ』と思って、結婚して子どもを育て
てきたと思うんですけれど、

私はその被害にあったわけで」 虐待されて育っ
て、実際に虐待してしまう人もいれば、しない
人も少なからずいる。

ちょっとほっとしたのが、お姉さんについての
話です。

「私の場合、似た気持ちをずっと共有してきた
姉がいたことはよかったと思います。姉がいな
かったら本当に、いま生きていないと思う。

子どもの頃は仲良くなかったんですが、大人に
なってからはめちゃくちゃ仲が良くて、いまも
毎日連絡を取っています」

ただし、姉にもいま芽衣さんが住んでいる場所
は教えていません。

姉はいまでも母とよく会っているので、姉から
母に芽衣さんの居場所が伝わることを避けたい
からです。

傍目に恵まれた人生を送っていても、芽衣さん
自身の気持ちが晴れないことには意味がない。

もどかしいな。筆者のそんな思いを、彼女は
察したのでしょう。

「友達にも、なんで芽衣はそんなに自信ないの? 
って言われます。もっと調子に乗ってもいいじ
ゃんって」

そう、調子に乗ってくれたらどんなにいいか。
本当にそう思います。

取材を終えて店を出ると、陽は少し傾いていま
した。楽しそうでもなく、ふさぎこむ風でもなく、
芽衣さんは静かに東京の街を歩いていきました。









貧者の一灯・一考編

2023-12-13 13:31:37 | 貧者の一灯


















※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。

副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。

京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。





※…
海外で開催するのに日本人ばかり

「農協のフィクサー」中川泰宏をめぐり、農業
版「桜を見る会」を開催して利益誘導している
のではないか、というキナ臭い疑惑がある。

税金を使ってフランスのベルサイユ宮殿やバチ
カン美術館にVIPを集め、京野菜を使った料理を
振る舞っているのだ。

合計五回開催された農業版「桜を見る会」に、
合計1億2,000万円の税金が投入されていると
いう。

〈中川泰宏が近年、最も力を入れているのが京
野菜を使った料理を海外で振る舞う晩餐会だ。

農産物の輸出拡大のための国の予算が一回当た
り二五〇〇万円も投じられるこのイベントは、
現地在住の招待客より、日本からの参加者のほ
うが多い「いびつ」な構成比率で開催されている。

中川の政治力アップという私的な目的のために
行われている海外晩餐会の虚構を明らかにする。

衆議院議員でなくなってから全国的な脚光を浴
びることがなくなった中川が年に一度、NHKなど
の全国ネットのテレビ番組に登場する機会がある。

自ら陣頭指揮を執って海外で開催する晩餐会だ。

中川は和装で会場に現れ、政府高官ら二〇〇〜
三〇〇人を前にまるで主催者であるかのように
あいさつする(実は主催者ではないのだ)。

まさに晴れの舞台だ。「中川は事前に会場入りし、
カメラの角度などテレビ映えするよう事細かに
指示する」(JAグループ京都関係者)ほどの力
の入れようだという。

水菜や万願寺甘とうなどの京野菜や宇治茶を使
った料理を振る舞うこのイベントには、農産物
輸出拡大のための国の予算が毎回二〇〇〇万〜
二五〇〇万円、

開示されている五回分で合計一億二〇〇〇万円
が使われている(正確には晩餐会だけでなく、
その翌日にレストラン経営者らを対象に行われ
る小規模な試食会など一連のPRイベントに投じ
られる予算を含む)。

フランスのベルサイユ宮殿などの豪華な会場に
大勢のエグゼクティブを集めて開かれる供宴は、
その華やかさもあって国内外の多くのメディア
に取り上げられる。

農産物の貿易自由化反対など、何かと内向きに
なりがちな農業界にあって、中川に「海外市場
を開拓する改革派のリーダー」というイメージ
があるのもこの派手なイベントのおかげだ。

しかし、晩餐会について調べていくと、その主
目的は輸出拡大ではなく、中川の政治的な影響
力の拡大という私的なものなのではないかと考
えざるを得ない実態が浮かび上がってきた。

※…
ベルサイユ宮殿やバチカン美術館で晩餐会を開
く意味

中川泰宏が手がける農業版「桜を見る会」は、
何から何までウサン臭い。1億2,000万円もの税
金を投入したイベントであるにもかかわらず、
およそ農産物輸出を振興し、国益を増大してい
るとは思えないのだ。

まず疑問なのは会場の選定である。

中川はベルサイユ宮殿や英国のハンプトン・
コート宮殿、バチカン市国のバチカン美術館な
ど、食事会などが催されることがないレアな場
所で晩餐会を開くことにこだわっている。

当然、そういった場所を押さえるのは簡単では
ない。たとえば、バチカン美術館は講演会が開
かれたことはあっても食事会の前例はなかった。

そのため美術館側から断られていたが、(中川が)
五回にわたって渡航し、交渉を重ねて開催の許可
を得たという。

ベルサイユ宮殿も同様だ。晩餐会の開催を打診し
たところ「先方のトップに一笑にふされました」

だが、そこで諦める中川ではない。「あらゆる
ツテをたどっていき、宮殿を修理しているスポン
サーだった酒造メーカー、ペルノ・リカール社と
接触することができ」同社と共催するかたちで
晩餐会を実現させた。

しかしである。おいしい料理を味わってもらい
輸出につなげるのが本来の目的のはずなのに、
ベルサイユ宮殿には肝心の厨房施設がない。

料理人が車で三〇分も離れた場所で仕込みをし
て運ぶ「前代未聞の取り組みとなり、かなり困
惑した」(主催者側のある参加者)。

このことから、中川は京野菜の輸出拡大よりも
豪華な会場で開催すること、すなわちテレビ番組
での見栄えを良くすることを優先しているのでは
ないかと疑わざるを得ないのだ。

そして、「そもそも論」になってしまうのだが、
晩餐会を開催した国からして、農産物を輸出し
にくい所が少なくない。

たとえば、一五年度に晩餐会を開いた中国は、
動植物検疫を盾に輸入をブロックしており、
日本から輸出できる生鮮食品は梨、リンゴ、
コメしかない。

京都産農産物のターゲットにする市場は別なの
ではないかと指摘せざるを得ないのだ。

晩餐会の開催国は第一回のフランスから、トルコ、
中国と続くが、この三ヵ国は「世界三大料理の国
というテーマで選ばれた」

晩餐会に出席する日本人のツアーを組んだ農協
観光は、第三回までの晩餐会のテーマが世界三
大料理だったことを認めている。

開催地の選定には、日本からの招待客の受けを
良くしようという視点はあっても、輸出を拡大
するという視点はないように見えるのだ。





農業版「桜を見る会」の予算執行状況に疑問を
抱き、調査報道によってメスを入れる。

するととんでもない実態が浮かび上がってきた。
疑問は招待客の構成だ。

中国における晩餐会に招待されたのは、日本側
(日本から参加した政府関係者やJA関係者ら)
の二四〇人に対し、中国側は一〇〇人しかいな
かった。

これでは何のための晩餐会なのかわからない。
この傾向は中国開催時に限った話ではない。

一三年度のフランス、一四年度のトルコ、一七
年度の英国、一八年度のバチカン市国での開催
でも日本側の客数が現地在住の客数を上回って
いる。

こんな実態のイベントに国の予算が使われてい
ることに問題はないのだろうか。疑問に思って
農水省に情報公開請求を行った。

開示された資料の大部分は黒く塗りつぶされてい
た。公費の使い道についても同様だ。

たとえば、一九年度にスペインで行われた一連
のPRイベントに使われた約二五〇〇万円の内訳
は事務局活動費四三〇万円、イベント開催費一
九一三万円、一般管理費一一七万円、消費税
四〇万円という大枠しか明らかにされなかった。

ただし、農水省にさらに取材すると、前出のイ
ベント開催費には、日本人と外国人の両方の招
待客にかかった会場費と食材費が含まれること
がわかった。

そこで、各国における晩餐会などにかかったイ
ベント開催費を晩餐会と小規模な試食会の参加
者数で割ってみた。

単純計算にはなるが、中国では一人当たり二万
九四一二円だった。その後、財布のひもが緩ん
だのか、ロシアでは五万四九三三円、英国では
七万一七〇六円、バチカン市国では五万五二一
一円、スペインでは六万九二四円に膨らんだ。

豪華な会場で開くだけあって高コストである。

これだけ高級な会食の経費を、輸出につながる
外国人の分はともかく、日本側の招待客の分ま
で日本政府が負担することに国民の理解が得ら
れるとは思えない。

千本木啓文氏が農業版「桜を見る会」について
調査を進めると、意外な人物がVIP待遇を受けて
会合に出席していることがわかった。

小泉純一郎の懐刀・飯島勲だ。 〈

一七年度の英国での晩餐会に日本から招待された
客の「上座」から紹介していこう。

日本側の主賓は、中川と最も親しい政治家とい
える元農相で農林族議員のドンの西川公也
(一六年度の晩餐会以降四回連続出席の常連客)。

次いで在英日本国大使の鶴岡公二、小泉チルド
レン時代から中川とつき合いのある内閣官房参
与の飯島勲(晩餐会七回にすべて出席)と続く。

そうそうたる顔触れだ。〉

海外現地の招待客よりも、日本からの招待客の
ほうが出席者が多い。

こんなイベントに多額の税金を投入することに、
果たしてどれほどの意味があるのだろう。

農業版「桜を見る会」疑惑は、岸田文雄政権に
とって今後頭が痛い火種としてくすぶり続ける
かもしれない。…

※…次回「超好立地」で行った“ヤバすぎる
地上げ”」















※…
カラスは人からあまり好かれない鳥ですが、こ
のカラスのことが大好きな中学生がいました。


大輔君(仮名)は不登校ということで、思春期
外来を受診した男子中学生です。両親、3歳年
下の妹の4人家族です。

幼稚園のころから、人と一緒の行動をすること
が苦手で、自分の興味のあるお絵描きやアリの
巣の観察に一人で熱中していました。

また、首筋に付いている服のタグが皮膚に触れ
ることを嫌がるので、新しい服を購入したら、
お母さんが必ずタグを切り取っていました。  

小学校の高学年になると、クラスで孤立するよ
うになりました。中学校でも友だちができず、
休み時間は一人で鳥の図鑑を読んでいました。  

中学2年に進級してから、朝になると頭痛や腹痛
を訴え、学校を休み出すようになりました。

6月になり、お母さんに連れられて思春期外来
を受診しました。  

初診時の大輔君は非常に緊張した表情を示し、
質問に短く答えるだけでした。

コミュニケーションが苦手で、興味のあること
にはとことん集中し、感覚過敏があるなど、自
閉スペクトラム症の障害特性が認められました。

不登校および自閉スペクトラム症ということで、
母親とともに、2週間に1度の割合で通院する
ことになりました。

同級生に「変人」「オタク」「キモイ」と言われ
通院開始後も、大輔君はなかなか話をしてくれま
せんでした。

そこで診察のたびに、大輔君が好きな将棋をする
ことにしました。初めは主治医が勝っていました
が、そのうちに、大輔君が勝つことも増えました。

その後も不登校が続きましたが、少しずつ話をし
てくれるようになりました。

通院を開始して3か月後の診察では、「小学校
のころから、同級生に『変人』『オタク』『キ
モイ』などと言われてバカにされてきました。

中学生になってからも同じ小学校出身の子がい
て、同じようにバカにしてきました。

僕には友だちもいないし、学校がつらくてしょ
うがなかったので休むようになりました」 と話
してくれました。  

お母さんは、「小さいころからお友だちを作る
ことが苦手だったので、幼稚園や小学校の時に
は、私が大輔の同級生を家に招いて、一緒に遊
んでもらうようにしていました。

そんな時でも、大輔は一人でゲームに没頭して
いました。人よりもモノが好きな子で、大人に
なってからのことがすごく心配です」と述べて
いました。





通院を始めて5か月後の診察で、大輔君はこう
話しました。  

「僕はカラスが好きなんです。学校からの帰
り道で、いつも同じ電柱に同じカラスがとまっ
ています。

学校を休んでからもカラスを見に行きました。

カラスと目が合うこともありますが、カラスは
逃げたり、僕を脅したりはしません。

よく見ると、カラスは黒いけど、きれいな鳥か
もしれない。一羽ずつどれも違うんです。

カラスはみんなから嫌われているけど僕は大好
きです。人に嫌われているところが、僕と似て
いるかもしれない。唯一の友だちです。

そのカラスにいろいろ話しかけていました。

でも、こんなことを同級生に話したら、さらに
バカにされますよね」  

このころになると、お母さんは、大輔君を無理
やり人のなかに入れようとしたり、好きなこと
に一人で没頭するのをじゃましたりすることは
なくなりました。

そして、大輔君が楽しいのであれば、好きなこ
とをとことんさせてあげようと考えるようにな
りました。  

中学2年の3学期から、大輔君は勇気を出して
適応指導教室に通い始めました。

動物が好きということで、高校は、自宅から少し
離れた農業高校に入学しました。

入学後は休まず登校を続けています。気の合う
ゲーム仲間が何人かできたようです。

一般的に、カラスはあまり人から好かれていな
い鳥かもしれません。

昔からカラスは、悪魔や魔女の使い、あるいは
不吉の象徴としてさまざまな物語に描かれてい
ます。

大輔君は、そんなカラスを自分の学校での境遇
と重ね合わせ、好意を抱くようになったと考え
られます。

ひとりぼっちの大輔君のことを、いつも同じ場所
で逃げることなく見守ってくれたのです。

大輔君は、そんなカラスにいろんなことを話し
かけていました。  

教室での同級生との関係に傷つき、人に対する
不信感でいっぱいの思春期の子どもを支えてく
れるものは何でしょうか。

それは人でなくてもよいのかもしれません。

大輔君の場合はそれがカラスで、誰にも言えな
い自分の思いを語ってきたのです。

カラスは、当然、否定することもなく聞いてく
れます。答えてくれることもないのですが。  

でも、カラスに語りかけているうちに自分の考
えが整理され、新たな考えが浮かび、前に進む
エネルギーが湧くようになったのでしょう。  

カラスに対して自分が素直になり、こころを開
いて話すことができたことは、大輔君がもとも
と持っていた力だといえます。

学校で友だちがたくさんいるということだけが、
子どもたちの成長を促すのではありません。

人でなくても、こころを開くことのできる対象
があれば、子どもたちは十分成長する可能性が
あることを、大輔君は私たちに教えてくれたの
だと思います。…

author: (武井明 精神科医)