貧者の一灯ブログ

趣味のブログを徒然に 神戸発信…

貧者の一灯・漢の韓信シリーズ

2023-11-28 15:06:44 | 貧者の一灯





















伍子胥は、紅花の言葉に考える仕草をしてみせた。
そして彼はひとつの結論を導き出した。

それは、自分自身に向けた内省的な言葉であった。

「私は、結局楚を滅ぼすことができなかった。そ
ればかりか楚の平王をこの手でうち殺すことも出
来ずじまいだった。

出来たことと言えば、その死体に鞭打ったこと
ばかり……。なんら意味のないことだ。

国を憎んだこの私がやり遂げたことは、まったく
何もないと言っていいだろう。それに対して人を
愛した包胥は、楚を救い、幾千幾万の人民を救った。

我々の争いは、彼の勝利だと言えるだろう。

私は、今後包胥の生き方を学びたいと思っている」  
ここに包胥の唱える「道」の信奉者が、またひと
り誕生した。

「現在の呉は越に勝利し、勢力的には絶頂期にあ
ると言っていいだろう。しかし、私としてはその
絶頂期ゆえの慢心が気になるのだ。

呉王は、越王の裏の意図を深く読み取ろうとせず、
これを生かしている。

あれは……私が見るに、この私と同じ復讐の鬼だ。
残酷なようでも、可能なうちにその意図をくじか
ねばならない」  

奮揚は、これに尋ねた。

「なぜ、越王が復讐の鬼だと断じることができる
のか」  当然の質問であろう。

しかしここで伍子胥は信じられない返答をした。

「あの人相だ。長頸烏喙(首が長く、口がくちば
しのようにとがっている)の相を持つ人物は、一
般に恨みがましい」

「たった、それだけの理由で……!」  

伍子胥としては、内なる疑惑を理由とするよりは、
外見を理由にした方が、まだ説得力があると思っ
たのだろう。しかし、これは失敗に終わった。

奮揚は信じられないとでも言いたそうな表情をし、
紅花に至っては、その眼差しから自分に対しての
軽蔑さえも感じられた。

説明の必要を感じた伍子胥は、補足するように語
を継いだ。 「越王勾践の現在は、厩舎の清掃係だ。

これは奴隷に与えられる仕事だが、彼はそれに
不平も漏らさず、毎日いそしんでいる。呉王や
太宰嚭は、このことに感銘を受けているようだが、
私に言わせれば、これこそが怪しい。…

…人が屈辱に耐えようとするのは、その先にそれ
を晴らす機会があるからなのだ。

もし、その機会がないのであれば、人はすぐさま
叛乱を起こす」 「…………」

「呉王や太宰嚭は越の重臣である文種や范蠡ら
にかどわかされて、その事実に気付いていない。

つまり、越が美女や宝物を呉に送り届けるのは、
敗者としての当然の行為だと考えているのだ。

しかし、実際は違う。

彼らは呉国を骨抜きにして、いずれは越王を釈
放するように画策しているのだ。それは、現状
を覆すためだ。

残念ながらいまの呉国には、それをわかる奴が
いない」  

越は、呉に比べて長期的な視野を持っていたと言
うことができよう。

越が呉王や太宰嚭に私的に贈り物をしているとい
う事実は、奮揚にとっては初めて聞くことであった。

私的な贈り物とは、「賄まいない」に他ならない。  

伍子胥が越に対してことさら嫌悪感を示すのは、
実はこのことに理由があったようだ。













※…武田邦彦メルマガ

地球温暖化の原因物質として二酸化炭素が話題に
なっている。そして、「動物は呼吸をして二酸化
炭素を出し、その分、植物が二酸化炭素を吸収し
て光合成を行い、酸素を出している。」と錯覚し
ている人が多い。  

この錯覚に乗じた訳ではないだろうが、二酸化炭
素の問題をテコに森林の保護などを進めようとす
る役所や団体が「森林が二酸化炭素を吸収する」
と言っているので、ややこしくなっている。

でも特に若い人が世の中の「補助金争い」のため
に環境に対して間違った知識を持つのは感心しな
いので、少し解説を加えることにした。  

植物は、大気中にある二酸化炭素を吸収して光合
成を行い、「還元」してセルロースなどの「還元
された炭素」を合成する。

「還元」という言葉が少し難しいが、内容は簡単
で二酸化炭素という酸素と炭素が結合した化合物
が、炭素と酸素に分かれると言って良い。  

成長期の植物は、その「還元された炭素」で体を
作り、酸素を放出する。

成長が止まると体を大きくする必要が無いので、
毎日、自分で還元された炭素を作り、それをも
う一度、酸素で燃やして生活をする。

これが「定常状態の植物」で、見かけ上、二酸化
炭素も酸素も放出しない。  

やがて、その植物も老化し、体は少しずつ小さく
なり、遂にその生命が終わると微生物が植物の体
(還元された炭素)を分解(酸化)して植物の体
は土に帰り、かつてその植物が若い頃に吸収した
二酸化炭素と同じ量の二酸化炭素を放出して終わ
る。自然とはかくのごときものである。  

ところで動物はどうか?動物は光合成をせず、呼
吸だけをするので一生、二酸化炭素を出し続ける。

もし植物が一生を通じて二酸化炭素の収支がプラ
スマイナス・ゼロなら動物が出す二酸化炭素の分
だけ、地球上に二酸化炭素が増えるじゃないか?
と思う人もいる。  


空気中の二酸化炭素は植物に吸収され、植物が死
んだら微生物の体に移り、やがて二酸化炭素になる。

そして動物というのは「従属的」なものだから、
植物の体を食べて動物の体を作り、死んだら植
物と同じように微生物によって分解される。  

つまり「二酸化炭素の出入り」のような基本的な
ことを考える時には、「動物」というのは「植物
に寄生した生物」のようなものであり、

これを「従属栄養」という。

つまり動物というのは独立していない子供のよ
うなものであって、親としての植物の体の一部
なのである。  

動物が吐き出す二酸化炭素は、まだ天寿を全う
していない植物の体を少し早めに二酸化炭素に
しているに過ぎない。

私たちが野菜を全部食べた場合には、その野菜
の体は我々の体の中で2,3日の内には二酸化炭素
になる。  

ところが、人間は一番傲慢だが、動物も得てして
傲慢なもので、自分たちが植物に寄生をしている
ことが判らない。

その典型的な動物が「シカ」と「人間」である。

シカは目の前にある植物を全部食べ尽くして大量
に餓死することがある。

そして、現代の環境問題は人間がシカと同じよう
に、地球が有限で、酸素も二酸化炭素も有限、石
油石炭も有限であることを知らずに、シカのよう
に目の前にあるから食べるということしか出来な
いところにある。

動物でもオオカミ、ライオンなどは限界を知って
いて、持続的生活をしている。  

この話はもう一つ「なぜ、日本の専門家が「森林
が二酸化炭素を吸収する」と間違ったことを言う
のか?」という質問にも答えなければならないが、
それは止めにしたい。

これ以上、人間の批判をしたくないのです。…








貧者の一灯・森羅万象

2023-11-27 15:50:28 | 貧者の一灯


















※……
そんなある日、病床を訪れた私に、彼がかすれ
た声を絞り出すように言った。

「今日は気分がいいので散歩に行ってみたいの
ですが、よろしいですか?」

「いいですよ」と答えたものの、すでに彼は自
力で歩行することはできず、酸素を積んだ車椅
子が必要だった。

「私がついていきましょうか」と、ちょうど病
室を訪れた看護師が言った。

その日は日曜日で病棟も落ち着いており、看護
師が一人少々抜けても問題はないようだった。

車椅子への移乗は看護師二人と私の三人がかり
で行い、申し出た看護師が車椅子を押して廊下
に出た。

彼は車椅子を押す看護師に何か話しかけ、彼女
は腰をかがめて彼の口元に耳を寄せ、頷いた。

私は見送りながら今日は窓から差し込む日射し
も暖かいので、彼はきっと病院の周囲を散歩し
てくるのだろうと思った。

30分程度で彼らは戻って来た。 ちょうど訪れた
家族が手伝って彼はベッドに移った。

「お疲れさま。で、どこに行っていたの?」
私は詰所に戻ってきた看護師に尋ねた。

「7階に行って来ました」 「外に散歩しに行っ
たんじゃないの?」私はちょっと驚いて言った。 「

はい、自分の家が見える階まで連れていってく
れとおっしゃったものですから」

「で、患者さんはどうだった?」

「窓から線路の方を一生懸命眺めて、ああ、あ
の辺りが僕の家だ、とおっしゃいました。

そしてしばらくじっと見つめて、もういい……
と」看護師と私はしばらく無言でいた。

「そうか、お別れに行ったんだね」
「きっとそうだと思います」

彼は死期を悟り、もう二度と生きて帰ることは
ない自分の家に、そして今まで暮らしてきた世
界に別れを告げに行ったのに違いなかった。

しばらくして私は彼の部屋を訪れた。

「おうちは見えましたか?」 私の問いかけに、
彼は余韻を冷まさないように、心に焼き付けた
風景が色褪あせないようにとでもいうように目
をつぶって答えなかった。

しばしの沈黙のあと彼は目を開けて私を見つめ
「先生、良くなりますか?」と言った。

不意の問いかけに私ははっとした。

いつもの彼の丁寧な口調とはどこか違う。嘘は
言わないでくれといった強い意思が伝わってきた。

私は答える代わりに彼を見つめ、彼の手を握り、
ぐっと力を入れた。かすかに彼が握り返してきた
のがわかった。

私は手術の時からのことを思い浮かべながら、
万感の思いを込めて、「頑張ってきましたが、
もう残り時間はいくばくもないと思います」と
手を握りながら心の中で言った。

きっと彼は「わかりました」と握り返したのだ
と私は感じた。彼は穏やかな微笑を口元にたたえ
て目を閉じた。


※…測定不能

彼の容体が悪化したのは、その数日後のことで
あった。 北風が吹く寒いどんよりと曇った日だ
った。

少し曇った病室の窓からは冬の街が見え、遠く
の高速道路には行き交う車が見えた。

そこにはいつか訪れる死を意識はしていないで
あろう、今、生きている人々の生活がある。

この狭い個室には死にゆく患者と家族、自分と
若い看護師しかいないと思うと、私は異次元の
世界にいるような気がした。

死にゆく人の傍らにいる自分を、身体を抜け出
した自分の魂が眺めているような不思議な気が
した。

時間は心拍に併せて、その歩みを遅らせていく
ように思える。

昨夜来、付きっきりの家族は彼の生命が時間と
共に細くなっていく様子を見て、信じられなか
った別れが現実味を帯びてきたことを感じとり、
妻と娘、息子はそれぞれ声をかけながら男の手
を握り一心に足をさすっていた。

今、まさに息を引き取ろうとしている男の横に
は彼の家族、そして私と看護師がいる。

もし、自分が死に向かい合った時に、それが逃
れ得ぬ運命と悟った時に、誰が横にいてほしい
だろうかと私は自問していた。

やはり気持ちを通い合わせた人々に手を握り、
目を見つめてもらいたいだろうなと思った。

言葉はいらない。お互いの目に焼き付け合うだ
けでいいと思った。

なぜそんなことを、その日に限って思ったのだ
ろうか。外を吹いている北風の音が呼び起こし
たのだろうか。

今日までの彼の人生を点検し、振り返るように
時間はゆっくり進んでいくかのようだった。

部屋には時々、ピッ、ピッという心電図の機械
的な、冷えた音が響くだけである。

私は彼の手に触れてみた。手を握った日の温か
さはなく、手首では脈はとれない。

ベッドの反対側では看護師が血圧を測ろうと試
みているが測定できず、マンシェット(血圧計
の環状帯)を外した彼女は記録用紙に時刻と
「測定不能」という文字を書き入れた。

自分は何をしようとしているのか。ただ見守っ
ているだけ、つまり死の訪れを待っているのだ
ろうか。何もするまいと私は思った。

最後の幕は閉まりかけているのだと自分に言い
聞かせた。

数週間前、彼はまだ私に笑顔を見せるだけの余
裕があった。回診に行くたびに彼は同じことを
訴えた。

「夜になると痛みがひどいんですよ」 私もい
つも同じように「今、薬を使っていますので、
もうすぐよくなりますよ。

大丈夫。もう少し我慢してくださいね」と繰り
返した。

彼の痛みは癌が脊せき椎ついを侵していること
に起因し、少々の薬ではコントロールできず、
死の間際には大量のモルヒネの錠剤、座薬、さ
らには微量の鎮静剤の点滴を用いていた。

彼は私に事あるごとに「先生に任せています」
と言った。信頼からの言葉だったのか、すがる
思いの言葉だったのか、自分を落ち着かせるた
めの言葉だったのか、外交辞令だったのか、い
やすべてが交じり合った言葉だったのだろう。

もはやなす術もない状態で、私は自分の言葉に
無力さ、空虚さを感じさせないように話すこと
に終始した。

この時代、癌を告知して患者と向き合うことは
少なかった。

病名を告げていないため終末期において患者と
家族、医療者の垣根は高くなり、人生の終幕で
本音の話ができない状態で時は過ぎ、やがて死
を迎えてしまう。そんな時代だった…















※…
そのプリントは、交通事故についての注意など
が書いてあり、 その中には実際にあった話が
書いてありました。

それは交通事故により、加害者の立場で亡くな
った人の家族の話でした。

残されたのはお母さんと子供たち、

上の子が小学二年生、下の子が五歳の男の子
の兄弟です。

この人たちは、事故の補償などで家もなくなり
土地もなくなり、住む家もやっとのことで、
四畳半のせまい所に住めるようになりました。

お母さんは朝6時30分から夜の11時まで働
く毎日です。

そんな日が続くある日、お母さんは、 三人でお
父さんのいる天国に行くことを考えてしまって
いました。


※…(以下、プリントから) …
朝、出かけにお兄ちゃんに、置き手紙をした。
「お兄ちゃん、お鍋にお豆がひたしてあります。  
それを煮て、今晩のおかずにしなさい。  

お豆がやわらかくなったら、おしょう油を少し
入れなさい」

その日も一日働き、私はほんとうに心身ともに
疲れ切ってしまった。

皆で、お父さんのところに行こう。 私はこっそ
りと睡眠薬を買ってきた…

二人の息子は、粗末なフトンで、丸くころがっ
て眠っていた。

壁の子供たちの絵にちょっと目をやりながら、ま
くら元に近づいた。 そこにはお兄ちゃんからの
手紙があった。

「お母さん、ぼくは、お母さんのてがみにあった
ように、お豆をにました。  

お豆がやわらかくなったとき、おしょう油を入
れました。

でも、けんちゃんにそれをだしたら、”お兄ち
ゃん、お豆、しょっぱくて食べれないよ”と言
って、 つめたいごはんに、おみずをかけて、そ
れをたべただけでねちゃった。  

お母さん、ほんとうにごめんなさい。

でもお母さん、ぼくをしんじてください。
ぼくのにたお豆を一つぶたべてみてください。

あしたのあさ、ぼくにもういちど、お豆のにかた
をおしえてください。  

でかけるまえに、ぼくをおこしてください。  
ぼく、さきにねます。

あした、かならずおこしてね。お母さん、おや
すみなさい。」

目からどっと、涙があふれた。

お兄ちゃんは、あんなに小さいのに、こんなに
一生懸命、生きていてくれたんだ。

私は睡眠薬を捨て、子供たちのまくら元にすわ
って、お兄ちゃんの煮てくれたしょっぱい豆を、
涙とともに一つぶ一つぶ、大事に食べました。


※…
このお話を読み終えたとき、私と母の目から、
涙が出てきました。

そうして、何度も、何度も、くり返し読みました。

私は、今まで、交通事故は被害者だけが 悲しい
思いをしていると思っていましたが、 このお話
を読んで、加害者も、 私たち以上に悲しくせつ
ない思いをしていることがわかりました。

毎日、毎日、日本のどこかで、こういう子供たち
が生まれているのかと思うと、とてもたまりま
せん。

どうか、お願いです。 車を運転するみなさん、
交通事故など、絶対におこさないでください・・。








貧者の一灯・番外編

2023-11-25 15:02:19 | 貧者の一灯
























※…

母が私を身ごもって間もなく、父の浮気が始ま
った。父は浮気相手を変えるたびに新車を買い
替えるので、また違う女ができたことがばれる。

浮気、飲み屋のはしごに加えて、ゴルフ、カメ
ラ、釣り、父の高級ブランド趣味、彼は収入の
すべてを使いきる。

生活費は父から一銭も出ていなかった。

私は祖母の貯金と母の財テク、同居する看護師
の伯母のお給料で育てられた。

子ども心にも何となくそんなことはわかっていた
から、専業主婦にだけはなりたくないと思うよう
になった。

母のような苦労をしたくない、男に翻弄されたく
ない。女性でも自立でき、結婚・出産しても続け
られる資格を持った職業に就こうと決めていた。


※… 「女に学歴は必要ないべや」


そんな父に、一度だけ高校進学について相談し
たことがあった。その時に父から言われた言葉
は今でも忘れない。

「女に学歴は必要ないべや」の一言だった。

腹が立った。コイツに相談したのが間違いだった。
私は大学に進学することを決意して進学校に行く
ことを決めた。

こうして私の学歴こだわり人生は始まった。そし
て、一生独身で職業婦人で生きていく! と決めた。

母も同じ思いであったという。習い事はすべて
高校までやめずに続けた。ピアノは先生に指を
叩かれ嫌だったけど、何時間も練習し発表会も
出た。

お茶も次々と免許状を獲得し、書道も展覧会に
出品するほど熱心に続けた。

中学校からは学習塾にも行った。優等生の私は、
成績は学校でも市内でもトップクラスだった。

でも、常にトップの子は並外れて優秀で、上に
は上がいた。ただ、成績が何番だろうと母がそ
れで喜んでくれたことはない。

それでいて「自慢のお嬢さん」と言われるのを
喜ぶ母のため必死だった。しかも、母は勉強が
できない子の世話まで暗黙に要求した。

小学校では、同じクラスに授業中におしっこを
垂れてしまう子、忘れ物をしてくる子も多く、
私は毎日その子たちの世話係。

トイレに連れて行き、おっしっこ漏れを受け
止める座布団を持って学校に通っていた。

忘れ物をしてくる子たちのために鉛筆も消し
ゴムもノートも、その日必要になる学習用品
のすべてを二倍カバンに詰めた。

だんだん重くなり、ある日、ついにかばんの
紐が切れた。中身が地面にこぼれ落ち、泣き
ながら詰めて家に戻ると、母は 「もっと大き
くて丈夫なカバンに替えようね」 と優しく言
った。「うん」と言ったのを覚えている。

そして、かばんは益々大きく丈夫なものに取
り替えられた。強制労働のような学校生活だ
った。





いまや過疎 私が生まれ育った地域は、北海道
の鉄道の発祥地。あの日の繁栄はどこへやら。

貧しい人たちが多く、親の職業は漁師か商店、
もしくはやくざという家が多かった。

中学校は絵にかいたような不良ばかり。テレビ
ドラマで話題になっていた『今日から俺は‼』
日本テレビのドラマが、リアルの中学校だった。

木造平屋の長屋が立ち並ぶ中、私の家だけ車庫
つきの三階建ての一軒家。私は貧民窟の「お嬢
様」だった。

これで容姿が美しければ自信をもてたのかもし
れないが、母から「お前は私に似ていない、可
愛くない」と言われ育った。

母は美しい人だった。自慢のお嬢様の私には自
信もなくコンプレックスしかなかった。

※…クラス女子の集団いじめ

中学二年生のある日、私が教室に入ると、女子
全員がシーンとなって一斉に私を睨みつけた。

最初は気のせいかと思った。でも、同じことが
毎日続いた。

私を見てひそひそ話をする女子軍団。話しかけ
ても無視。もしかして省かれている? やっと
気づいた。

しかし、学校の先生たちの関心は、他校からの
不良乱入とか生徒間の暴力が主の問題でいじめ
は放置。女子集団のいじめは執拗で数か月続いた。

最後に親友と思っていた子から「友達やめたい」
と言われた。その翌日から登校拒否、学校に行
かなかった。

しかし、生徒思いの担任は熱血教師だったので、
先生ならなんとかしてくれると期待したが、家
庭訪問してきた先生は、私に 「なんで学校に
来ないんだ」 と言った。

私は 「行けるわけない、先生だって知ってい
るでしょ!」 と精一杯言った。

それでも先生は 「いいから学校に来い、いいな」
と言い残して帰った。

あら、帰っちゃった。何で? もう少し優しく
してくれても良くない? 

悔しすぎて次の日、学校に行った。先生は「おう、
来たな」とだけ言った。しかし、教室の様子が変
わっていた。… …















理学者のロバート・エモンズとマイケル・マッ
カローは、一連の研究の中で、被験者を2つの
グループに分け、

1つのグループには「ちょっとしたことでもいい
ので、毎日、感謝できることを5つ書いてもらう」
という実験をしました。

被験者は、感謝の対象として両親やローリング
・ストーンズ、朝の目覚めから神さままで、あ
りとあらゆることをリストに書きこみました。

毎日1~2分、感謝する時間をとったことは思い

もかけない効果をもたらしました。

感謝できることを考えたグループは、何もしな
かったグループに比べて、人生をもっと肯定的
に評価できるようになっただけでなく、幸福感
が高くなり、ポジティブな気分を味わえるよう
になりました。

つまり、もっと幸せになって、意志が強くなり、
エネルギッシュで楽観的になったわけです。

また、人に対してもっと優しくできるようにな
り、手伝いを積極的に申し出るようになりました。

最終的に、感謝をしていた人々はよく眠れるよ
うになり、より多く運動をするようになり、身
体的な不調も減ったのです。

エモンズとマッカローの研究が発表される3年前
の1999年9月1日から、私はこのワークを毎日行な
っています。

息子のデイヴィッドが3歳になったときからは、
ちょっと形を変えてこのワークを一緒にするよ
うにしています。

毎晩、私は息子に聞きます。「今日、おもしろ
いこと、何があった?」

そのあと、息子も私に同じ質問をします。

夫婦の間でも、お互いのことや一緒にいられ
ることでありがたいと思えることを定期的に
確かめあっています。

このワークを習慣にすれば、幸せになるために
特別な出来事を必要としなくなります。

今日はノートに何を書こうかと思って日々を送
ると、ふだん起こるいいことにもっと気づきや
すくなるからです。

感謝のリストには、大事に思う人の名前や、
あなたがしたことや誰かがしてくれたこと、
また書いているうちに気がついたことなども
ぜひ入れてみてください。

※…
《あなたが感謝できることは何ですか。
自分の人生でありがたいと思うことは何ですか。》

グッド&ニュー」という、朝礼や、会議の前の
アイスブレイク(なごませる手法)に使われて
いるやり方がある。

24時間以内に起きた「良かったこと(グッド)」
や「新しい出来事(ニュー)」を、簡単に、順
番にスピーチする手法だ。

これを朝礼で発表しようとすると必然的に、朝
起きたとき昨日の「グッド&ニュー」を思い浮
かべるようになる。

つまり、ちょっとした幸せを見つける訓練を毎
日するということだ。

まさに、この感謝ノートも同じ。

仏教の「唯識論」では、「いっさいの存在は、
ただ自分自身の識、つまり心がつくり出した
仮のものだ」という。

つまり、「すべての幸不幸は自分が決めている
(つくり出している)」ということ。

ふだん起こる、ちょっとしたいいことに気づき
やすくなるために…

「感謝ノート」を毎日書き続ける人でありたい。









貧者の一灯・一考編

2023-11-24 14:08:23 | 貧者の一灯





 

 

 











※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。

副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。

京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。






※…
郵政民営化選挙の「刺客」に指名される


「農協のフィクサー」中川泰宏は、どうにかし
て国会議員として中央政界に進出したかった。

だが中川が京都農協のドンであることが、政界
進出を阻む。

チャンスが訪れるたび、同じ京都を地盤とする
野中広務から激しい妨害を受けたのだ。

ところが小泉純一郎の登場によって潮目が変わる。

「郵政民営化」一点張りで勝負をかけた2005年
9月の衆議院総選挙で、「小泉チルドレン」「自
民党守旧派への刺客」に指名されたのだ。


※…〈〇三年、野中は政界を引退した。

野中自身は国会議事堂に雷が落ちたのを天啓の
ように感じたことが引退のきっかけであると語
っているが、実際は政敵である小泉純一郎との
戦いで刀折れ矢尽きたからに他ならなかった。

野中は同年九月、小泉の首相続投を阻止しよう
と政治生命を懸けて自民党総裁選に臨んだ。

しかし、仲間であるはずの平成研究会の有力者
(当時の参議院幹事長の青木幹雄や同派閥会長
代理だった村岡兼造)が次々と小泉陣営に取り
込まれていくのを見て、自らの政治力が衰えて
いることを認めざるを得なかった。

「早過ぎる」と惜しむ声が多かった野中の政界
引退に、中川の存在が影響していたとみる京都
の政治関係者は少なくない。

野中は、金庫番として頼ってきた秘書が電子機
器メーカーなどから約五〇〇〇万円の提供を受
けていた問題が浮上するなど弱みを抱えていた。

このような野中の泣きどころを探し出し、地元
・京都での影響力をそぐのが中川の役割だった。

中川は、小泉一派が仕込んだ「毒針」だった
のだ。


※…
「猛毒が要る」「誰ですか?」「中川だ」

野中広務は、小泉純一郎の「郵政民営化旋風」
を阻もうとしていた張本人だ。

自らの権力基盤を盤石に固めるため、小泉は
野中広務一派を潰す「刺客」を送りこみ、野
中の後釜にとどめを刺しておきたかった。

野中広務潰しの計略を練ったのは、小泉純一郎
秘書官として長年にわたってブレーンを務めて
きたスキンヘッドの男・飯島勲だ。

〈郵政民営化法案に反対した造反議員に対して
送り込まれた刺客としては堀江貴文(当時はラ
イブドア社長)や小池百合子といった著名人が
注目されたが、

政治的に最も重要なのは、「郵政族のドン」だ
った野中の本丸、京都四区の刺客だった。

小泉の側近で刺客の選定を任されていた首相秘
書官、飯島勲は田中に勝てる候補者探しに腐心
していた。

京都四区では現役を退いたとはいえ野中の人気
がいまだ高く、手足となって動く地方議員たち
も多い。

土地にゆかりのない落下傘候補では太刀打ちで
きないことは目に見えていた。


そうした状況で、中川に白羽の矢が立てられる
までの経緯は、大下英治が著した『野中広務
権力闘争全史』に詳しい。

中川は大下の取材を受け、同書が発行されると
親しい支援者らに献本までしているので、同書
は中川の立場から見た郵政選挙の「正史」だと
いえる。

同書によると、自民党は財務省のキャリア官僚
を京都四区の公認候補にすることを決定していた。

ところが、ある“著名な人物”が飯島にかけた
一本の電話で、公認候補の決定がひっくり返る
ことになる。

その人物は、「毒(野中一派)を制すには毒が
必要だ。毒に餡蜜(あんみつ)(財務官僚)は
似合わない」と語ったという。

飯島は聞いた。 「どれくらいの毒が必要か?」
「猛毒が要る」 「猛毒とは、誰ですか?」

「JA京都の中川というのが、(筆者註・野中
一派の)田中に対して猛毒になる」

中川を「猛毒」と表現した著名な人物は相当な
見識の持ち主に違いない。

なぜなら、野中の牙城に送り込まれる刺客は極
めて厳しい選挙を戦わなければならないし、仮
に当選できても京都の自民党議員のほとんどは
野中の息が掛かっており、四面楚歌になること
は目に見えている。

相当にタフでなければ刺客は務まらない。その
任に堪えるのは中川をおいて他にいなかった。


※…
野中広務が伊吹文明に放った恫喝

2005年の「郵政民営化選挙」は、すでに政界を
引退したはずの野中広務にとって、中川泰宏と
の代理戦争の様相を呈した。

〈郵政選挙の公示日八月三〇日を迎える前から、
野中と中川の鞘(さや)当ては始まっていた。

野中は同月一八日、京都市の自民党京都府連で
記者会見を開き、「(中川は〇二年の)京都府
知事選挙で自民党に反旗を翻した人だ。

党本部はその経緯を咀嚼しないまま公認した。

私は先頭に立ってやります」と宣戦布告した。
(略) 舞台裏ではもっと緊迫する場面があった。

場所はやはり自民党京都府連の会議室だった。
同府連会長だった伊吹文明ら京都府選出の国会
議員が居並ぶ幹部会議で、野中は「もし府連が
中川を全面的にバックアップするなら私は京都
一区から出ます」と啖呵(たんか)を切ってみ
せた。

(略) 京都府連が郵政選挙で中川を応援する
ならば、離党してでも自らの古巣と徹底的に戦
うという覚悟を示したものだった。

そして、よりによって野中が出馬すると言った
京都一区は自民党京都府連の会長である伊吹の
選挙区なのだった。

野中の発言は、国政を引退した顧問が現役の執
行部に対してクーデターを起こす可能性をちら
つかせる脅迫に近いものだった。

野中は当時七九歳である。

(略) 野中が啖呵を切った後、会議室は水を打
ったように静まり返った。

伊吹はしばらく間を置いて「そんなこと(中川
への全面的な支援)はしません」と言うのが精
いっぱいだったという。〉

野中広務と「農協のフィクサー」の罵り合いは
その後ますますヒートアップした。

「中川泰宏を選挙で絶対に落とすわけにはいか
ない」と躍起の小泉純一郎首相は、選挙期間中
二度にわたって京都入りし、中川への応援演説
をブッている。

小泉が中川と握手を交わし、演壇に上がると会
場の熱狂は最高潮に達した。

小泉は三〇分に及ぶ大演説を行い、メイン会場
だけでなく、予備の会場にも足を運んだ。

SPは止めたがっていたが、小泉は、聴衆一人
ひとりと握手をして回った。

「勝負師」と称された小泉はこのとき、完全に
戦闘モードに入っていた。

野中陣営にとどめを刺しに行っていたのだ。

こうして「農協のフィクサー」は、156票差と
いうギリギリの僅差を制して、「小泉チルド
レン」として衆議院議員に当選したのだ。

小泉純一郎と飯島勲と「農協のフィクサー」の
暗躍によって、野中広務は戦いに敗れた。…


※…次回《農業版「桜を見る会」疑惑》















不登校の子どもたちは、「誰も自分の本当の
気持ちをわかってくれない」と思い続けてい
ます。

周りがみんな敵に見えることもあるでしょう。

でも、そんな子どもたちが、一人の教師と出
会うことによって変化し、成長していく姿を、
思春期外来では見ることができます。


※…高校でも友だちを作れず

達也君(仮名)は、両親、弟との4人家族です。
幼児期は折り紙が大好きで、いつも一人で折っ
ていました。

掃除機や換気扇の大きな音が苦手で、耳をふさ
ぐことがありました。

小学校入学後は、なかなか友だちができず、
休み時間はいつも一人で本を読んでいました。

融通がきかず、相手と折り合いをつけること
が苦手でした。  

中学校時代もほとんど友だちができませんで
した。自宅では「フォートナイト」というオ
ンラインゲームに夢中でした。

学校の成績は優秀だったので、高校は地元の
進学校に入学しました。  

この高校では毎日のように大量の宿題が出ま
したが、達也君は、それを期限までにやり終
えることがほとんどできませんでした。

計画的に宿題をこなすことができず、とうとう
提出しなくなりました。そのため、成績は下が
る一方でした。

そして、高校でもなかなか友だちを作ること
ができません。高校1年の夏休み明けからは
学校を休みだし、その年の10月、お母さん
と一緒に思春期外来を受診しました。


※…母は「せっかく進学校に入学したのに…」  

診察室の達也君はとても緊張し、主治医から
の質問にも「はい」「いいえ」としか答えて
くれませんでした。

自宅ではフォートナイトに没頭し、昼夜逆転
の生活を送っています。  

同伴したお母さんは、 「せっかく進学校に
入学したのに、不登校になってしまい残念で
しかたありません。

このままでは人生の落ちこぼれになってしま
います。だから私は毎朝、達也を必死になって
起こそうとしました。

でも、達也はベッドから出てこようとはしま
せん。夫は『好きなようにさせておけ』と言
うだけです。

私は、何とかして登校させようと思います」と、
時折涙ぐみながら話をしてくれました。  

不登校ということで、主治医は、2週間に1
度の割合で通院してもらうことにしました。

達也君には多少、発達の偏りがあるかもしれ
ないことを頭に置きながら面接をしていくこ
とにしました。  

通院を始めて1か月がたちましたが、不登校
は続いています。

診察室で達也君は、「僕には味方が一人もい
ないんです。学校ではいつも一人っきりで、
それがつらくて学校を休むようになりました。

でも、家ではお母さんが、毎日のように『学
校に行け』とうるさく言う。

弟も登校できない僕をバカにしてくる。

誰も僕のことをわかってくれない」 と言って、
涙を流しました。


※…登校を続けられるようになったきっかけ  

ところが、その1か月後から、達也君は登校を
続けるようになりました。

たまたま登校した日、副担任の先生から「昼
休みに一緒にお弁当を食べよう」と誘われた
のをきっかけに、生徒相談室でこの先生と過
ごすようになったのです。

お弁当を食べながら、達也君は、オンライン
ゲームの話を副担任の先生にしています。

副担任の先生はゲームのことは全くわからず、
話についていけませんでした。

達也君は、ゲームの基本的なことから、一つ
一つ先生に教えてあげました。  

副担任の先生とのお弁当が始まってから、達
也君は学校を休むことがなくなりました。

でも、教室では依然として孤立していました。  

副担任の先生は、達也君に対する自分の関わり
がこのままでよいか不安となり、本人とお母さ
んの承諾を得て、主治医のところに相談に訪れ
ました。

主治医からは、「達也君は、先生という味方
を初めて見つけることができました。

先生も大変かもしれませんが、このまま一緒
のお弁当を続けてください」 と話しました。


※…卒業まで付き合ってくれた先生  

副担任の先生とのお弁当は、その後も続きまし
た。学年が上がって副担任ではなくなりました
が、この先生は卒業までお弁当に付き合ってく
れました。  

達也君は無事に卒業式を迎え、専門学校に進
学しました。

卒業後の診察時に、高校時代の一番の思い出を
聞いたところ、「先生とお弁当を食べた時間が、
一番楽しい思い出です。

先生はゲームのことを知らないのに、僕の話に
付き合ってくれていました。

親や弟でも自分の話を聞いてくれなかったのに、
先生はいつも真剣に聞いてくれました。

副担任の先生と一緒にいるうちに、なんだか元
気が湧いてきて、がんばろうという気持ちにな
ったんです」と話しました。


※…「味方」になるには「見方」を変えること  

私たち大人は、思春期の子どもたちを、どうし
ても「自分より未熟な存在」として見てしまい、
対等な関係を作ることが難しくなります。

不登校の子どもであれば、なおさらそういう見
方をしてしまいがちです。

その結果、大人は、子どもたちに「世の中の当
たり前」を押しつけることになります。

「できないこと」や「やらないこと」があるなら、
がんばってできるようになることが学校や社会
で生きていくために必要だと、子どもたちに教
え込もうとします。

しかし、そんな話を聞かされ、子どもたちがす
ぐに変わることはまずありません。  

達也君は友だちがおらず、家族も味方にはなっ
てくれませんでした。

そんななか、副担任の先生との出会いは、達也
君が変わる転機になりました。

この先生は、教師の立場から「がんばり」を一
方的に求めるのではなく、達也君が興味を持つ
オンラインゲームの話をひたすら聞き続け、達
也君を先生役として、ゲームの解説を受けました。

達也君を自分の意思や気持ちをしっかりと持っ
た一人の人間として認め、向き合うことを続け
ました。

先生が味方になってくれ、自分を認めてくれた
と実感できた達也君は、不登校を乗り越え、前
に向かって進むことができるようになりました。  

私たち大人が子どもたちの「味方」になるには、
まず、子どもたちに対する「見方」を変えるこ
と、ということでしょうか。 …

author: (武井明 精神科医)








貧者の一灯・歴史への訪問

2023-11-23 16:45:41 | 貧者の一灯




















※…
ある日、二人はそろって粟(あわ)の穂(ほ)を取
りに出かけました。  

ところが小僧さんは大きくて取りやすい物ばか
り選んで、小さくて取りにくい穂は全部残して
いきます。  

それを見た和尚さんが、小僧さんに注意しました。

「こら! なまけないで、小さい穂も取りなさい」
すると小僧さんが、負けじと言い返しました。

「和尚さま。この小さい穂はへくさ穂といって、
とてもくさくて食べられたものではありません。

だからわたしは、わざと取らないようにしてい
るのです」 「ほう、そうか。なら、へくさ穂が
どれだけくさいか、わしが試してやる」  

こうして大きい穂の粟飯と小さい穂の粟飯をた
きわけて、へくさ穂と言われた小さい穂がどれ
だけくさいかを試すことになったのです。  

もちろん、へくさ穂なんてうそだったので、小
僧さんは困ってしまいました。

(どうしよう。小さい方がくさくないと、和尚
さまに怒られてしまう。

なにか、うまい方法は・・・。そうだ)  ゆら
ゆらとおいしそうに炊きあがる湯気を見て、小
僧さんはある名案を思いつきました。  

小僧さんは小さい穂の粟飯のおかまのふたを開
けると、 (へっへへ。これならくさくなるぞ) と、

お尻を突き出して、♪ぷーー と、おならをして、
すぐにふたを閉めたのです。  

さて、粟飯が炊きあがると、小僧さんは何くわ
ぬ顔で和尚さんを呼びました。

「さあ、和尚さま。わたしの言葉が嘘か本当か、
しっかりと確かめて下さい」

「ほう。自信ありげだな。だが、ふたを取れば
わかることだ」  

和尚さんはまず、へくさ穂のなべのふたを取り
ました。すると湯気と一緒に、小僧さんがした
くさいおならのにおいがぷーんと立ち上って来
ました。

「うむ、確かにこれはくさい」次に大きい穂の
なべのふたを取ると、こちらは美味しそうない
いにおいです。

「なるほど。確かに、お前の言う通りだ」  

和尚さんはすっかり感心して、それからは大き
な穂ばかり取らせたという事です。。













※…
お袋は元々ちょっと頭が弱く、よく家族を困ら
せていた。

思春期の俺は、普通とは違う母親に腹が立ち邪
険に扱っていた。

非道いとは自分なりに認めてはいたが、生理的
に許せなかった。

高校を出て家を離れた俺は、そんな母親の顔を
見ずに大人になった。

その間、実家に帰ったのは3年に1回程度だった。


※…
俺もそれなりの家庭を持つようになったある日、
お袋が危篤だと聞き、急いで病院に駆けつけた。

意識が朦朧として、長患いのため痩せ衰えた母
親を見ても、幼少期の悪い印象が強くあまり悲
しみも感じなかった。

そんな母親が臨終の際、俺の手を弱々しく握り
こう言った。

「ダメなお母さんでごめんね」 精神薄弱のお袋
の口から出るには、あまりにも現実離れした言葉
だった。

「嘘だろ?今更そんなこと言わないでくれよ!」
間もなくお袋は逝った。


その後、葬式の手配やら何やらで不眠不休で動
き回り、お袋が逝ってから丸一日過ぎた真夜中
のこと。

家族全員でお袋の私物を整理していた折、一枚
の写真が出てきた。

かなり色褪せた何十年も前の家族の写真。

まだ俺がお袋を純粋に大好きだった頃。 皆幸
せそうに笑っている。

裏には下手な字(お袋は字が下手だった)で、
家族の名前と当時の年齢が書いてあった。

それを見た途端、何故だか泣けてきた。それも
大きな嗚咽交じりに。 いい大人がおえっおえ
っと泣いている姿はとても見苦しい。

自制しようとした。でも止めどなく涙が出てきた。
どうしようもなく涙が出てきた。

俺は救いようがない親不孝者だ。

格好なんて気にすべきじゃなかった。やり直せ
るならやり直したい。 でもお袋はもう居ない。

後悔先に立たずとは正にこれのことだったんだ。

その時、妹の声がした。「お母さん、笑ってる!」
皆が布団に横たわる母親に注目した。

決して安らかな死に顔ではなかったはずなのに、
表情が落ち着いている。 薄っすら笑みを浮かべ
ているようにさえ見えた。

「みんな悲しいってよ、お袋…。一人じゃない
んだよ…」

気が付くと、そこに居た家族全員が泣いていた。


※ …
あれから俺は事ある毎に、両親は大切にしろと
皆に言っています。 ご健在であるならば是非
ご両親を大切にして欲しい。

でないと、俺のようにとんでもない親不孝者
になっちゃうよ…。