貧者の一灯ブログ

趣味のブログを徒然に 神戸発信…

貧者の一灯・森羅万象

2023-12-22 17:57:43 | 貧者の一灯





















静けさと沈黙が部屋に満ちている。

聴診をしようとしてかがみ込んだ時、胸ポケ
ットに入れていたボールペンが床に落ちた。

拾おうとして顔を横に向けると視線が男の
目の高さに合った。

この世を去ろうとしている人間と窓から見
える少しかすんだ山が同じ視野に入った。

「ああ、この人が見た最後の光景はこれだ」
と私は思った。 何の根拠もないが、そう思
った。

ベッドサイドには家族が揃い、無言で男の
手を握り、足をさすっている。

「先生!」という看護師の声で私は我に返
った。見ると心電図は一直線になっており、
呼吸も停止していた。

心臓マッサージをしようとする看護師と男
の間に割って入るようにして、私は聴診し、
頸動脈に触れ、最後に瞳孔にライトを当てた。

瞳孔どうこうは大きく開いており、もちろん
対光反射(瞳孔に光刺激を与えると瞳孔が小
さくなる反応)もなかった。

そっと乱れた毛布を直し、注視する家族に
「午後4時38分に亡くなられました」と低い
声で告げ、一歩下がって手を合わせ、頭こ
うべを垂たれた。

妻と子供たちは冷たく静かになった夫、父の
傍らに寄り添い、妻はそっとその手を握った。

この夫婦はどんなふうに出会ったのだろうか。
そして、どのような時間を過ごして来たのだ
ろう。

私はその別れに立ち会って、二人にしかわか
らない時の流れを思った。

沈黙の中で妻は手を通して夫と最後の話をし
ているようだった。いろいろな出来事を反芻
はんすうしているのだろう。

楽しいことも悲しいことも喧嘩したことも、
もう別れようと思ったことも、二人で共有
してきたことすべてが、もうすぐ妻の記憶
だけになってしまう。

もし、あの世というものがあるならば、そこ
でまた話せる日までその記憶は閉ざされてし
まう。

「しばらくご一緒にいてあげてください。
またあとでうかがいます」 私は家族に告げ、
看護師と共に今一度彼に手を合わせ一礼した。

妻と子供たちは立ち上がって我々に深々と頭
を下げた。

部屋を出てドアを閉めようとすると、後ろ
から嗚咽おえつの声が響いてきた。

ドアの外はいつもと同じ、少し騒がしい病棟
だった。

ドア1枚を隔てて死者とその家族が別れを惜
しんでいるなど想像もつかない光景だった。

看護師は小走りで忙しそうな表情をしており、
休憩室では談笑する患者の姿も見られた。

私は死亡診断書を書き終わり、家族が落ち着
き病理解剖の話ができるようになるまでのわ
ずかな時間に他病棟の患者を診ておこうと思
い付き、階段を降り始めた。

そして段を降りるに連れて、男に関する記憶
が薄れ始めていくことを感じていた。


桜の散る頃に 結核病棟


「もう大丈夫だね。でもまだ日焼けはほど
ほどにしておいた方がいいよ」

私は聴診器を外しながら彼女に話しかけた。

小麦色の肌に水着の跡がくっきり残り、心
なしか少しふっくらとしたように見える。

「へへ、この間海へ行っちゃいました」 彼
女は入院中には見せることがなかった人懐っ
こい笑顔で答えた。

「大丈夫だとは思うけど、まあ、気をつけて
ね」

「長かったです、本当に」 たくしあげたTシ
ャツをもとに戻しながら彼女は噛み締めるよ
うに言った。

「もう妊娠しても大丈夫だと思うよ。でも、
念のためにこれからは近くの内科と産婦人科
のある病院で診てもらった方がいいね。

紹介状を書いておくよ。それと、もし何かあ
ったら連絡してきなさいね」

「長い間お世話になりました」 初めて会った
時の暗くとんがった感じは消え、礼儀正しく
穏やかに彼女は頭を下げた。

横にはあの日と同じ彼がいる。若い夫婦は
もう一度頭を下げ、手をつないで診察室を
あとにした。

その後ろ姿に「仲がいいね、お幸せに」と
思わず声をかけると、二人は振り返ってニ
コッと笑った。

病院ではあまりお目にかからない微笑まし
い光景だった。

病気が治った患者が喜びに溢れて去っていく
時、臨床医は満足感に浸る。そしてそれまで
の過程が困難であった場合ほど感慨は深い。

1年半前、彼女は家から遠く離れたこの病院
に入院してきた。

彼女は居酒屋で深夜まで働き、そのあと朝ま
で遊んで食事は不規則という生活を送り、結
核を発症した。

外来に現れた彼女は痩やせて顔色は悪く、
不安となげやりな雰囲気をまとっていた。

森に囲まれた小高い丘の上にある、戦後すぐ
に建てられた「結核療養所」は古く、近代的
な病院しか知らない彼女にはカルチャーショ
ックであっただろう。

彼女は「なぜ私はこんなところにいるの、こ
れは現実なの」とでも言いたげな怒りが混じ
った表情を見せていた。

傍らには片時も離れず一人の若者が寄り添っ
ていた。

診察のあと病気やその治療に話が進んでくる
と、彼から事細かな質問が出され、面談は1
時間にも及んだ。。…















生まれたばかりの次男の写真は、どれも二重
まぶたのどんぐり目。

よく乳を飲み、よく泣き、よく眠る。 男の子
にしては、手のかからない赤ん坊でした。

次男は耳が聞こえません。

とりたてて不自由とか不便ということはなく、
ただ聞こえないだけ。

違うところは、日本語ではなく手話で話すと
いうことです。

そんな当たり前のことに気付くのにずいぶん
時間がかかりました。

初めて聞こえないと分かったときは、 身も心
もよじれんばかりに泣きました。

「子供の前で泣いてはいけない」と思いなが
ら、 無邪気に遊ぶ息子の姿にこらえきれない
ときもありました。

アニメに夢中になっていた次男が振り向くと、
いつもと違う母の顔。

まだ二歳にならない次男は、不思議そうに母
の顔をのぞき込み、 小さな手でほおの涙を
ふき取ります。

ところが涙は止まりません。

息子は大急ぎでティッシュを探し、 母の目か
らあふれ出る涙を一生懸命ふき取ります。

その傍らに、何も言わず、じっと見つめる長
男がいました。 その表情を見たときに私はハ
ッとしたのです。

「お母さん、どうして泣いてるの?弟のせい?
弟はお母さんを悲しませる子なの?」 と言
ってるような気がしました。

「違う、何か違う!」

あの日を境に、私の目はすっかり乾きました。
あらゆる情報を求めて、昼間は本屋と図書館
を駆け回り、 夜はパソコンとにらめっこです。

そして意外な言葉に出会ったのです。

「生まれたときから聞こえないから、聞こえ
ないことがフツー。  

手話で自由に話ができるし、不幸でも不便
でもない。  

だから、ひとつの個性として認めてほしい」

正直言って驚きました。 でも、何だかすんな
り理解できました。

それから2カ月。 次男の小さな手が話し始
めました。

「おかし、ちょうだい」 「チョコレート好き」
「いーっぱい」 「ダメー!」 話しはじめの少
ない単語の中に「ダメー」を見たときは、「し
まった!」と思いました。

「○○しちゃダメ」「△△はダメ」 という私
の”ダメダメ攻撃”の裏返しです。

ダメという前に「○○すると××になるよね。
どう思う?」 と聞かなきゃいけない。

わかってるんだけど、忙しい子育ての中では
なかなか出来ないっ。

何しろ男兄弟は年齢に関係なく、朝から 【起
きる→ケンカ→遊び→ケンカ→遊び→ケンカ→
寝る】というのが日常。

母は、「ナニやってんの!何回言ったらわかん
の!ダメでしょ!」 と怒鳴ってしまう毎日な
のです。

人さし指で軽くほおに触れ、親指を立てると
「お父さん」。 小指を立てると「お母さん」。

次男はすぐに「お父さん」と呼ぶようになりま
した。 もちろん主人は大喜び。 でもなかなか
「お母さん」と呼んでくれません。

「お母さん」と呼んでくれない、 その理由
がやっと分かりました

ある時、部屋の隅で次男がモゾモゾしています。
右手で左手の小指を立てているのです。

二歳になったばかりの息子にとって、 小指を
立てるのはまだ難しかったのです。

添えている右手を離すと、左手の小指はすぐ
に曲がってしまいます。

何度か繰り返しているうちに、 次男は左手
の小指を右手でギュッとつかんでほおに当て、
そのまま私のところに走ってきました。

「おかあさん!」 小さな手で呼んでくれた

「お母さん」は、どんな大きな声よりも、
どんな流暢な日本語よりも、愛おしく頼も
しく思えました。

そして、次男の手話は瞬く間に上達してい
ったのです。

このころ「弟のために手話を覚える」と、家
族の中で一番張り切っていた長男の様子がお
かしくなってきました。

「僕も聞こえなければよかった…」とつぶや
きます。 弟に両親を取られたような寂しさ
があったのでしょう。

主人と相談した結果、「長男と母だけの時間」
を作ることにしました。

公園に行ったり、本を読んだり、映画を見た

り。 一年以上かけて、かたくなになった長男
の心は、 一年たった今、ようやく溶け始め、
自分の意志で弟と向き合うようになりました。

長男が生まれて7年、次男が生まれてから4年。
私は、この子たちから”人として一番大切なこ
と”を教わりました。

家族であっても、相手を思いやる心がないと、
その気持ちを理解することはできない。

相手を知って、相手を認めた上で、 人とし
ての関係が成り立つのだということ。

今になって実家の母が言います。 「あの時、
おまえは息子のことが不憫だったかもしれな
いけど、 私には孫だけでなく”おまえ”も
不憫だったのよ」と。

ここにも計り知れない親心がありました。

「おばあちゃんに千円もらっちゃった。僕
お金持ちー。  

お母さんうらやましい?」 と少しだけ大き
くなった次男の手が舞います。

「僕なんか、一万円も貯金があるんだぞ」 と
少年になりかけている長男の手が揺れると、
「お兄ちゃん、ずるーい」とまたケンカの始
まりです。

これから先、この子たちがどんなことを体験
させてくれるのか? ちょっと怖いけど、楽
しみです。…








貧者の一灯・番外編

2023-12-21 14:23:06 | 貧者の一灯



























歌が好きだったので、「うたごえ」の歌を
先頭で歌った。

「寝たきり老人をなくす」から「平等な社
会を」「変革を」とエスカレートした。

そうしてまた恋に落ちた。共産党事務所
で出会ったKさん、まばゆい光を放ってい
た。一目ぼれ。

恋心を打ち明けられず事務所に行けば彼
に会えると思った私は躊躇なく学生党員
になった。

共産党員として色々な活動もした(結局
離党したが)。

だが、そんな私を両親は許さなかった。

帰宅した私に親は「お前はアカか」と言い
放った。家を出ていけと言われた。

「アカ」っていつの時代だ?小林多喜二か? 
小樽の代表作家じゃないか。そういえば、

『蟹工船』(小林多喜二、文芸誌「戦旗」
が、ブーム再来していたっけ。

理不尽だ。信念は曲げられない。家出を決行
した。 事情を理解してくれた友人宅にバック
一つで転がり込んだ。

その彼女は党員ではなかったが、彼女のご
両親が私の事情を理解し、なんと家出を支
援してくれた。

一か月間友人宅に居候。

友人のご両親の手前もあり両親は折れた。
私を解放してくれた。実習も近かったから、
いずれは家から出なければならなかったの
もある。

幸い、やはり遠くから通学していた友人と共
同生活を始めることで、親元を離れることが
許可された。





親から解放された自由を満喫。

ボランティア、学生運動、そして恋愛の
日々。大学時代は人生最大のモテ期だった。

毎週違う男の子とデートした。あんなに
高校生の時に悩んだ男女の「一線」もひと
夏の経験で簡単に越えてしまった。

夜はススキノ通い。当時ディスコと呼ばれ
た場(今はクラブか)の店員でかつてディ
スコキングだった(なんじゃ、それ?)と
いう男にはまった。

この恋は、完全お互い遊びだったが、結果、
火遊びになってしまった。

遊びで妊娠。全身の血が引くのを感じた。

気が動転した。 産むなんてありえない。し
かも妊娠が判った時はとっくに別れていて
連絡の取りようもなかった。

人工妊娠中絶しか選択できなかった。誰に
も内緒でこっそり中絶。ただ悲しかった、
つらかった。

共同生活をしていた彼女だけが手術後ずっ
と泣きながら手を握っていてくれた。

つらい思いをさせてごめんね。でも、その
罰はやはり下された。

戴帽式の日に腰椎手術・長期入院 私は、
中絶した後、気を紛らわすように病院の
看護助手のアルバイトをした。

働いていると気がまぎれた。患者さんの
笑顔が嬉しかった。誰かの役に立ててい
る実感がわいた。

けれど、看護技術も形しかできていない
実習前の学生だ。車椅子を使用するリハ
ビリ患者の移動を、一日に何度も手伝っ
て腰を痛めた。

実は、小学五年から腰痛持ちでコルセット
着用の日々だった。腰痛はいつものことだ
ったから気にしていなかった。

しかし、突然、足がしびれて動けなくな
った。腰部椎間板ヘルニア。神経麻痺が起
きて完全に歩けなくなっていた。

実習どころではなく入院安静。そして、五
月十二日、ナイチンゲール生誕祭、看護帽
をいただくはずだった戴帽式のその日、私
は腰の手術を受けた。

これで看護師の道は断たれたと思った。
これは神様の罰だ、きっと。





そんな私のところに、党員事務所で会ったK
さんがお見舞いに来てくれた。

あまりの嬉しさに何もかも忘れそうなくらい
ドキドキした。

ひょんなことから、初対面に近いKさんに、
私は両親との確執、中絶のこと、腰椎手術で
留年して看護を諦めるよう言われたことを
打ち明け泣いてしまった。

Kさんはそれから毎日私を見舞うようになった。
親さえも面会に来ない病室に、Kさんは毎日来
てくれた。

きっと私が自殺を図ると心配したのだろう。

「明日も来るからな」、 学校の先生みたいに
言って帰って行く。

そうして入院していた三か月間、本当に一日
も欠かさず来た。

点滴をしていない手にパペットをはめてくれ
たり、本を読んでくれたり、泣きそうになる
と手を握ってくれた(子ども扱い)。

温かくて大きな手。リハビリが許可されると
公園に連れて行ってくれた。お兄ちゃんみた
いだった。

私は勝手に恋心を抱いていたけれど、Kさんは
捨てられた犬を世話しているようなぶっきら
ぼうな優しさだった。

たまに 「元気になってきたようだから明日は
来ないぞ」 って、

てっきり来ないと思い、リハビリ散歩という
口実で隣の病室のおじさんとパチンコに行っ
て帰ってくると置手紙がある。

「来たけど、いないようだったから帰る」と。

もう来てくれなかったらどうしよう。その頃、
Kさんは超貧乏学生で間借りの下宿、電話など
なく、連絡のしようがなかった。

けれど次の日も来てくれた。退院してもしば
らく彼は私の様子を見に来た。

でも、すっかり元気になってきたことを確認
すると「もう大丈夫だね」、と言って去ろう
とした。

「待って、行かないで、好きなの、傍にいて
ほしいの」 告白して必死にしがみついた。

そして男女の関係になってずっと一緒にいた。
※…











自分の仕事のスタイルや働く時間や場所を
自由にしたいと選択する若者の受け皿とな
っているのが、飲食宅配大手のウーバーイ
ーツなどに代表される、インターネットを
通じて単発の仕事を請け負うギグワークだ。

国が昨年実施した「フリーランス実態調査」
によれば、その約3割を30代までの若者が占
める。

好きな時間に好きなだけ働けるメリットが
ある一方、雇用は不安定で、所得も低いと
いう人が少なくない。

さらに労働法規でまったく守られないと
いう、大きな落とし穴が待ち構えている。






「突然に掲載停止されるまでは、ほぼすべて
の仕事はここに依存していました。

仕事をさらに増やすために、新しいトラック
を購入したり、倉庫も借りたりしたばかりだ
ったので、ものすごいショックでした」

引っ越し業を営む都内在住の男性(31)は当
時を振り返り、そう憤る。

男性は大学卒業後に就職し、主に法人営業を
行っていた。ただ営業マンだったころから、
会社が休みの土日は、引っ越しなど便利屋業
務を行っていた。

「もともと東京郊外の街で育ち、学生時代か
ら地元愛が強くて、お酒を一杯奢ってもらっ
たお礼で引っ越しを手伝うような性分でした。

職人として生きていきたい気質は、企業に
就職した後も続きました」

20代後半で退職し、不用品回収のノウハウを
取得するために、自治体のごみ収集業で働い
たりもしていた。

そんな男性が、このデジタル・プラットフォ
ームと出会ったのはそのころのことだ。

「たまたま知人から、ここは仕事の量が豊富
なので仕事を覚えるためにとりあえず登録し
てみなよと勧められて気軽に始めたら、すっ
かりのめり込んでしまいました」





このプラットフォームはネット上で、引っ越
しや家事代行などのサービス提供者と利用者
をマッチングするものだ。

提供希望者は氏名やメールアドレス、電話番
号などを入力し、登録を申し込む。

依頼が入り稼働すると、契約金額の2割を手数
料としてプラットフォーム側が徴収する。

男性は2019年6月に登録し、審査が完了する
と、プラットフォーム上に個別ページが掲載
された。

「最初からはまりました。ひっきりなしに仕
事の依頼がきて、極力断らずに受けていたら、
口コミでも高く評価されて、さらに仕事が続
く好循環でした」

口コミは利用者によって5点満点で評価され
るもので、高い点数の口コミが増えると、
プラットフォーム上でのランキングも上が
る仕組みだ。

ランキングが上がるとそれを参考にした新規
の顧客がつくため、仕事を受け続けるにはこ
れの上昇が欠かせない。

「ちょっと頑張れば、仕事を始めたばかりの
自分でもランキングがどんどん上がる。自分
がやり手の職人のように思えてきて、ゲーム
のようにのめり込んで行きました」

プラットフォーム会社の「コンサルタント」
と呼ばれる担当者からも、「どんどん売り上
げを伸ばしていきましょう」とアドバイスを
受けて、さらに多量の引っ越し業務をこなす
ために新車のトラックを購入し、貸倉庫の契
約も行った。

一方、そこで最も避けなければならないのが、
利用者から低評価を付けられることだ。

引っ越し作業では、実際現場で追加の仕事が
生じることも多いが、低評価を恐れて料金の
上乗せを躊躇する業者がほとんどだという。

「本来、顧客と業者は対等だと思っています
が、実際にこうした仕組みでは顧客からの理
不尽な値下げ要求などでも飲み込まざるをえ
ませんでした。

ランキングには口コミだけでなく、このプ
ラットフォームでの稼働実績も求められる
ので、条件の悪い仕事でも引き受けていま
した」

そうした疑問を感じながらも、男性は1年近
く、ほぼこのプラットフォーム専業で働き、
月の手取りで平均30万円ほど稼いでいた。

そんな中、やはりこれはおかしいと感じる出
来事があった。

「同業者の中高年の夫婦から、5階建てのマ
ンションの引っ越し作業で2人がかりで一日
かかったのに、手取りは1.5万円と聞いて驚
きました。

彼らは『それでもコンビニで働くよりはも
らえるから』と言ってましたが、さすがに
こんな低料金が横行してはまずいだろうと」





意を決した男性は2020年5月、ツイッター上
にプラットフォームの実名を出し、こんな投
稿を行った。

「当方は、毎月10万円~20万円の『みかじめ
料』を払っています。いい面もありますが、
事実上の下請け業者になっている側面もあり、
この点は強く問題視しています。

仲介屋さんに依存せず、自力でお仕事を取っ
ている同業者のみなさんを尊敬します」

投稿のすぐ翌日に、プラットフォーム会社の
従業員から、「そういう投稿をされるととて
も悲しい」と電話で告げられ、ツイートの削
除を要求された。

男性はそれを受け入れ、関連投稿も含めすべ
て削除した。

ところがその数日後、プラットフォーム会社
から男性に、「出店の継続について審議する
べく掲載停止にする」とのメールが届き、一
方的に男性の個別ページの掲載が停止された。

その後、審議の結果はいつわかるのかなど、
何度も連絡を取ろうとしたが、プラットフォ
ーム会社からの返信はいっさいなかった。

「停止されて収入が途絶えたのは、ちょうど
新型コロナウイルス蔓延の第一波の時で、血
も涙もないと痛感しました。

職人の世界では、たとえ元請け、下請けの関
係であっても両者には一定の緊張関係があり
ます。

でもこうしたプラットフォーム会社には、自
らが一方的に支配できる上下の関係しかあり
えないのでしょう」

この男性のように個人事業主、フリーランス
などと呼ばれ、請負や委託の契約による「個
人請負」で働く人は近年急増しており、全就
業者の5%~7%にあたると言われている。

その業種は多種多様だが、上記のようなイン
ターネットのプラットフォームを介してやり
取りされる単発仕事の「ギグワーク」はその
典型だ。

コロナ禍の中で目下活況を呈している「ウー
バーイーツ」はギグワークの代表例といえる。

単発の仕事といっても、上記の男性のように
ほぼ1社専属で働いている人も少なくないが、
個人事業主という建付け上、労働基準法など
の労働法規はいっさい適用されない。

男性が労基法の適用される労働者だったら、
仮に上記のようなツイートを理由に解雇され
ても、裁判上で争えば解雇権の濫用と認定さ
れるだろうが、個人請負だとそうした保護も
ない。

保護がないばかりか、男性はランキングを
上げるために、プラットフォーム会社が行
うセミナーにお金を払って参加していた。

個人請負からセミナーや研修と称して、金銭
を徴収する業界はほかにもある。





「お金を払った者にだけ仕事を与える制度
はおかしいと声を上げたら、担当クラスを
打ち切られました」 大手のヨガスタジオで
インストラクターとして働く女性はそう話す。

同社で働くインストラクターの多くは個人請
負だが、ある時から彼女らに対しても同社の
有料講習制度や有料認定制度を強制するよう
になった。

「従来どおりの仕事を続けたかったら、会社
にお金を払ってね、ということです」(女性)

これに反発したインストラクターたちは、契
約上では個人請負だが、実態は一年契約を継
続的に更新し、時間や場所、マニュアル等で
の指揮命令も受けており労働者に当たるとして、
労組を結成し団体交渉を行ってきた。

そんな中、コロナ禍を理由として、複数の労
組役員のクラスが一方的に打ち切られた。

「個人請負だから金銭を徴収される一方で、
補償もされずに仕事を切られるような理不尽
が許されるのでしょうか」(女性)

さらには、個人請負に対して約束した仕事を
与えないばかりか、多額の違約金を請求する
ような会社すらある。

「コロナ禍での収入減を補うためアルバイト
を探したところ、『日収2万円以上、月収40
万円以上可』という求人広告に目を引かれ
ました」

タクシー運転手の男性はそう経験を話す。

勤務明けや休日にできるアルバイトで、かつ
上記のような好待遇をうたっていたのが、あ
るバイク便会社の個人請負のバイクライダー
だった。





だが、面接を経て仕事を始めてみると、実態
はまるで違っていた。

1日をその仕事にあてても、配送は1~2件程度
しかなく、「ひと月で12日間、朝から晩まで
働いても収入は2万円台、

日収2万円どころか月収2万円というのが現実
でした」(男性)。

とても割に合わず会社に仕事を辞めると申し
出ると、なんと解約には3カ月前の申告が必要
で、今すぐやめるには計60万円の「違約金」
を支払うよう求められた。

「労働というよりもはや搾取。個人請負を隠
れ蓑にした悪質な雇用詐欺以外の何物でもあ
りません」(男性)

こうしたギグワークで働く人からの相談を受
けている労組、「プレカリアートユニオン」
の清水直子委員長は、「個人請負を悪用する
企業は、人に雇われるよりも、自らが事業主
になったほうが安心などと、巧みにたきつける。

会社に対等なビジネスパートナーなどとおだ
てられ、結局働く側が搾取されるだけのケース
が横行している」と警鐘を鳴らす。

個人請負は政府が働き方改革で掲げる「柔軟な
働き方」の1つとして喧伝される。

だが、同じ業務を行う労働者よりも、はるか
に多くの落とし穴が待ち受ける危険は重々用
心することが欠かせない。…









貧者の一灯・一考編

2023-12-20 17:45:20 | 貧者の一灯


















※…
「農協の独裁者」と呼ばれる男がいる。その
名は中川泰宏。 中川が1995年から会長を務め
る「JAバンク京都信連」(京都府信用農業協同
組合連合会)の貯金残高は、1兆2567億円に達
する。

副会長を務めるJA共済連(全国共済農業協同
組合連合会)の保有契約高は、なんと227兆円
だ。JA共済連で保険商品を売り歩く農協の職員
数は、18万6000人にのぼる。

京都の農協で27年以上にわたってトップに君
臨しながら、中川泰宏は農協の労働組合潰し
や悪質な地上げに手を染めてきた。2005年に
は「小泉チルドレン」として政界に進出し、
野中広務と骨肉の争いを繰り広げる。






京都駅からJR山陰本線で一駅、京都鉄道
博物館がある梅小路京都西駅から徒歩五分
という「超好立地」に地上げの現場がある。

現場を訪れた二〇二〇年五月、同駅に隣接
した全二〇六室の巨大ホテルが開業に向け
た仕上げの工事を行っていた。

そのホテルの奥に、せり人が行き交う京都市
中央卸売市場が広がる。

市場の一画(本場に隣接するいわゆる場外
市場)が、問題の舞台である。

発端は一四年にさかのぼる。三八一五平方
メートルに及ぶ土地・建物の所有権がJA
京都市から「伊藤土木」なる会社へと移っ
たのだ。

大家が変わったことで、その土地で卸売業を
営んできた二五の事業者の生活は一変した。

理不尽な地上げの実行部隊となったのが伊藤
土木である。

実は、伊藤土木は中川一族のファミリー企業
だ。その登記簿上の代表取締役には中川の長女、
監査役には中川の妻が名を連ねている。

一五年一月に、中川の次男、中川泰國が「伊
藤土木社長」の肩書を名乗って卸売事業者ら
にあいさつにやって来た

(泰國はJA京都〈JA京都市とは別の農協〉
の常務理事を務めている)。

その場で泰國は卸売事業者らに対して、「賃貸
契約は(今まで通りで)変わらない」と話した。

問題の発言はここからだ。

その舌の根の乾かぬうちに「共用の水道は止
める。トイレは撤去する」と言い放ったのだ
った。

呆気に取られる卸売事業者らを残して泰國は
その場を立ち去った。

卸売事業者らが日を改めて設けた「新たな
大家」との意見交換の場には、泰國本人や
その部下が現れることはなかった。





その後、伊藤土木の傍若無人な振る舞いが
相次ぐようになる。

一方的に施設の撤去や封鎖を通告し、期限が
来たら即座に実行する。

卸売事業者が、自費で壁を修繕したいと申し
出ても、取り合ってもらえなかった。

勝手に自費で修繕すると契約違反であるとし
て退去を求められるので、卸売事業者らは
ブルーシートなどによる応急措置でしのぐ
しかなかった。  

卸売事業者らでつくる自治会会長を務める
小林商店代表の小林悟は「応急処置が可能
ならまだましだ。

床が壊れてやむなく閉店した食堂や、トイレ
が遠くなったのがきっかけで廃業した高齢
の経営者もいた。寂しいことだ」と語る。

実際に、共同トイレの閉鎖や水道の止水、
さらには重要な商売道具である大型冷蔵庫
の強制撤去といった嫌がらせにより、事業
者はくしの歯が欠けるように減っていった。

そんなときに、事件は起きた。

後に今回の地上げ手段が裁判所から「違法
認定」を受けるきっかけとなった出来事で
ある。……

※…次回京都の一等地で起こった「ヤバすぎ
る地上げ」…
















向かい合った医師からそう言われ、反応でき
なかった。一瞬、問いの真意がわからなかっ
たのだ。  

「個性……と思いますが」

「これは個性ではありません。専門家なら見
まがうことはない。息子さんは自閉症です」  

当の本人は、床に並べた玩具をひたすらいじ
っている。

妻の胸に抱かれた次男がぐずり始めた。

単語が二語文にならず  区役所の保健所
(当時)に呼び出されたのは、長男・洋介
(仮名)の3歳児健診の後、1996年の
冬のことだ。

言葉が遅いこと、単語は多く発するが、い
っこうに二語文になっていかないことが、
通常の発達と違っていることは感じていた。

公園に行っても、他の子と遊ぶことはなく、
すべり台ばかりを何時間も、日が暮れるま
ですべり続けた。  

当時は、「自閉症スペクトラム」という言葉
が、ようやく聞かれ始めた頃。

いくつかあった専門書を読んだが、自閉の特
徴の中には、わが子には当てはまらないこと
も多くあった。

例えば、「視線が合わない」とか。ときおり、
きらめくように言葉を発することもあって、
「障害」はまだ、僕ら夫婦にとって現実の
問題とはなっていなかったのだ。





だから、保健所から呼ばれたときにも、発達
に関して相談をする程度に思っていた。

部屋に入ると、精神科医とだけ名乗った医師
とカウンセラーが並んでいた。

そして、始まってすぐに突然落ちてきたのは、
その医師の言葉だった。

両親のただならぬ気配を感じ取ったのか、ち
ょうど1歳になる次男が泣き始めた。

すると、医師はこう言った。「今に、この子
が追い抜いてしまいますよ」  

心の準備がなかった妻が、泣き始めた。

僕はといえば、なぜか顔は笑っていた。不思
議なことに、笑いが止められなくなっていた。

周りからどう見えているんだろう、おかしな
親と思われるんじゃないか……と思っても、
それは止められなかった。  

後に、「笑い」をテーマに取材をしたとき、
ある大学の先生から教わった。

人は予想を超えた衝撃を受けると、笑うこと
があるという。

「笑うしかない」というのは、そうしなけれ
ば自分を支えられないからなのだろうか。

どんなに引きつった醜い笑みだったとして
も、あの日の僕は。…





千葉の郡部に引っ越すことが決まっていた
僕らに、「(大都市の)ここなら様々な支
援が受けられますが、引っ越した先には何
もありませんよ。

覚悟してください」 という言葉が追い打ち
をかけた。  

まだ泣いている妻と、傍らで上機嫌にぴょ
んぴょん跳びはねている長男を連れて、区
役所からのバスを待った。

バスはなかなか来なかった。

真っ青に晴れ上がった空に風景がこびりつ
いて、まるで油絵だと思った。  

ようやく来たバスで駅に行き、そこで別れ
た。僕はその足で職場へと向かったのだ。

いつもより遅い時間の都心へ向かう列車
はすいていて、僕はぼんやりと座っていた。

特段、悲しいとも、つらいとも思わなか
った。ただ、それまではかわいいだけだっ
た息子とのいろんな思い出や、他人の言葉
や、漠然とした考えが、意識を出たり入っ
たりした。



 

40分ほどたって、職場に最寄りの水天宮
前駅が近づいた。

当時は、そこが地下鉄の終点だった。心の
中は空白に近かった。

だけど、気がつけば、両目からは涙がボロ
ボロと流れ出ていた。

他の乗客が 怪け訝げん な顔でこちらを見
ている。

人はおかしいから笑うのでなければ、悲し
いから泣くのでもない。ただ、あふれ出る
のだと知った。  

医師の厳しい言葉は、現実を見ない若い両
親の目を覚まさせるためだったのだろうか。 

思えば、僕と息子の歴史は、この日、始ま
ったのだ。……

author: (梅崎正直)








貧者の一灯・歴史への訪問

2023-12-19 16:21:41 | 貧者の一灯





















※…
このささ山には、尻尾が長くて大きなウサギが
います。  

ある日、山へ出かけるおじいさんが太郎に言い
ました。

「夕方には帰ってくる来るから、おかゆをつく
って待っててくれ」 「うん、わかった」  

太郎はおじいさんを見送ると、おかゆを作るな
べを洗い始めました。  

するとその音に気づいたウサギが、 「おや? 
なべを洗っているのか。という事は、今から
飯を作るんだな。

よしよし、飯が出来上がるまで、ひと眠りだ」
と、横になって昼寝をはじめました。  

さて、夕方になるとおかゆも出来あがり、いい
においがしてきました。  ウサギは飛び起きる
と、太郎の家へ行って言いました。

「太郎、何をしているんだ?」
「ああ、おかゆをつくっているんだよ」
「おかゆ? うまいんか、そのおかゆって
 のは?」
「そりゃあ、うまいよ」
「なら、ちょっと食わせてくれや」
「だめだめ、そんな事をしたら、じいさまに
 怒られる」
「なあ、ちょびっとだ、ほんのちょびっとだ
 けだ。おら、おかゆってのを食ってみてえよ」  

ウサギがあんまりしつこいので、太郎はしか
たなくなべをウサギに渡しました。

「じゃあ、ほんのちょびっとだぞ」

するとウサギは、うれしそうにおかゆを食べ
始め、 「あち、あち、あちいがうまい、い
やあ、うまい! じつにうまい! ほんとう
にうまい! ああ、うまかった。

じゃあ、さいなら」 と、ウサギはなべを返す
と、あっという間に山へ帰ってしまいました。  

太郎がなべの中を見ると、なんと空っぽです。  

こうしてウサギは太郎をだまして、おかゆを
みんな食べてしまいました。  

おじいさんが山から帰って来ると、太郎はなべ
をかかえてションボリしています。

「太郎、おめえ、なべをかかえて何をしてるだ
?」 「あっ、じいさま。実は、ウサギにおかゆ
を全部食われちまっただ」

「なんと・・・」  これには、おじいさんも
ガッカリです。  

翌朝、おじいさんは山へ出かける前に、太郎に
言いました。 「太郎、今日はウサギに、おか
ゆを食われるでねえぞ」

「うん、大丈夫だ」  太郎ははりきって、お
かゆを作りはじめました。  

そしてタ方になると、またウサギがやって来
ました。

「あっ、お前は昨日の! やい、お前に食わす
おかゆはないぞ! とっとと帰れ!」  

するとウサギは、まじめな顔をして言いました。
「太郎! そんな事を言ってる場合じゃないぞ! 
お前のじいさまが、山で倒れたんだ!」

「えっ! 本当か!? そりゃあ大変だ!」
太郎はあわてて、山ヘ走って行きました。  

するとその後ろ姿を見送りながら、ウサギは
ニンマリです。 「ウッヒヒヒヒ、うまくいっ
たぞ」

「じいさま、待っていろよ!」 太郎が山を登
って行くと、ちょうどおじいさんが山からおり
て来るところでした。

「これ太郎。そんなにあわてて、どこへ行く
んじゃ?」  元気なおじいさんを見た太郎は、
自分がだまされた事に気づきました。

「しまった!」  おじいさんと太郎が大急ぎ
で家に戻ってみると、おかゆのなべが空っぽに
なっていました。  

またウサギに晩ご飯をを食べられてしまった
二人は、お腹が空いたままふとんにもぐり込
みました。  

そしてまた次の日、太郎がおかゆをつくってい
ると、 「太郎さん」 と、またウサギがやって


来ました。 「また来たなっ! もうかんべん
ならねえ、ウサギ汁にしてやる!」  

人の良い太郎も、さすがに怖い顔です。  

するとウサギは、ペコペコと頭を下げて言い
ました。 「まっ、待ってください。今日は、
あやまりに来たんです。本当に、すまん事です」  

そんなウサギを見て、やさしい太郎はウサギを
許してやりました。 「よし、許してやるから、
とっとと山へ帰れ」

「いや、それではおらの気がすまねえ。じい
さまに、これをやってくれ。これは不老長寿
(ふろうちょうじゅ)の薬じゃ」  

ウサギはそう言うと、竹の水筒を太郎に渡し
ました。

「ふろうちょうじゅって?」  首をかしげる
太郎に、ウサギは言いました。

「お前、じいさまに長生きしてほしいだろ。
これは、長生きの薬なんじゃ」 「本当か?」
「もちろんだ。

でもこの薬は、すぐになべで煮ないとだめなん
だ」 「なべ? お前、うまい事を言って、ま
たおかゆを食うつもりじゃろ?!」

「何を言っているんだ。太郎、お前はじいさま
に長生きしてほしくねえのか?」 「そりゃあ、
長生きしてほしいが」

「そうだろう。さあ、おらがなべを空っぽにし
てやるから、早くその薬を煮込むんだ」  

そう言うとウサギは、またまたおかゆをたいら
げてしまいました。  

やがておじいさんが山から帰って来ると、太郎
はうれしそうに不老長寿の薬の事を話して、さ
っそくなべで煮た薬をおじいさんに差し出しま
した。

「さあ、じいさま。これ飲んで長生きしてくれ」
「ああ、だが、変な色合いじゃのう。それに、
においも少々」  

おじいさんは首をかしげながら、一口飲んでみ
ました。  

そして目を白黒させると、おじいさんは飲み込
んだ物をはき出しました。

「うえ~っ! なんじゃ、こりゃあ! これは、
ウサギのしょんべんでねえか!」  

怒ったおじいさんは、太郎に言いました。
「太郎! まきを切るナタを持って来い! 

今からウサギを、ひどい目にあわせてやる!」  

山では、おかゆをお腹いっぱい食べたウサギが、
草むらで大きくなったお腹をさすっていました。

「ああ、今日も食った食った。さて、明日はど
うやって太郎をだましてやろうか」  

するとそこへ、ナタを振り上げたおじいさんが
やって来たのでビックリ。

「やばい、じいさまだ!」  ウサギは、あわ
てて逃げ出しました。

「このウサギめ! よくもしょうべんを飲ませ
たな! ウサギ汁にしてやるからな!

 えいっ! とうっ!」  おじいさんはナタ
をふりまわしながらウサギを追いかけますが、
ウサギは素早くピョンピョン飛んで、おじいさん
をからかいました。

「やーい、じいさま、年じゃのう。くやしか
ったら、つかまえてみろ」

「このー! これでもくらえっ!」  

おじいさんはウサギめがけて、ナタを投げつけ
ました。  

ウサギはピョンと飛びはねてナタをよけました
が、長い尻尾だけはよけそこなって、ナタでス
パッと切れてしまいました。

「・・・ああっ! いてっ! いてっー!」  

尻尾を切られたウサギはあまりの痛さに、何
日も何日も山の中を泣きながら走りまわりま
した。  

そのためにウサギの目は泣きすぎて赤くなり、
足も走りすぎて前足と後ろ足の長さが違うよ
うになってしまいました。  

それからです、ウサギの尻尾が短く、目が
赤くて後ろ足が長くなったのは。。













※…
僕が妊娠の報せを聞いたとき、クールに「そうか」
と言おうと思っていた。

しかし、その言葉が出る前に、僕の目からは涙が
溢れていた。

実は、ママは子供を授からないことで自分を責め
ていた。それを僕は決して口にしなかった。

涙はふつふつと溢れ、止めることはできなかっ
た。君がまだ生まれる前から、ただママのお腹
にいるだけで、僕たちは幸せを感じていた。

その後の十月十日、僕たちの心は君に向けられ
ていた。

ママは厳しい食事制限を守り、運動を控え、人
混みを避けていた。ママが外出を自粛するなんて、
想像できるだろうか?

そして、君のための準備が進んだ。

君の服を選び、家を清潔に保ち、君の場所を作
るために家具を変え、車まで買い換えた。

僕が手を洗わないでトイレに行くような男だっ
たが、君のために毎日うがいと手洗いを始めた。

最初の三ヶ月間は不安だった。

僕は知らなかった。早期流産の割合が15%もあ
るなんて。…

病院での検査報告を受け取るたび、僕の心は
震えていた。でも、エコーの写真を見ること、
君の心臓の音を聞くことは、僕たちにとって大
きな喜びだった。

つわりのせいで、ママの全身に湿疹が出たこと
もあった。ママの腕や腿は、ひどい状態になる
ほど湿疹が広がった。

強い薬が使えないから、夜中でも痒さに眠れない
こともあった。

辛そうなママを見て、僕は初めて根拠のない嘘
をついた。「大丈夫、絶対に良くなるよ」と。

その時、僕はこれが半年以上続くなら耐えられ
ないと思った。

でも、ママは信じられないほどの意志の強さで
つわりを乗り切った。

それでも、君がお腹にいることで僕たちは幸せ
を感じていた。

おじいちゃんやおばあちゃんも、とても幸せそ
うだった。僕たちは顔を合わせるたびに、君の
ことを話していた。

君の体重がどうなったか、性別はわかったか、
名前を決めたかとかね。君の体重が1グラム増
えるだけで、僕たちは喜んでいた。

そして、君の家族はみんな、君が生まれること
を1年近く心から待ち望んでいた。

ついに君が生まれた瞬間、僕たちはみんな涙を
流した。うれしさで溢れ、うれしさで。

君が生まれてきたことがうれしくて、僕もママ
も、おじいちゃんもおばあちゃんも、ひいおば
あちゃんまでもが泣いた。

君の出産中、僕はあまりに懸念事項が多すぎて
うろたえていた。院長先生に「パパしっかり」
と言われて、やっと声を出して「がんばれ」と
ママに言った。

ママは本当にすごかった。

僕が言いたいのは、君が生まれただけで、神に
感謝して涙を流した人が少なくとも8人もいる。
君は価値ある存在なんだ。…

そして、君が生まれることを通じて、僕自身
も生きていることが許されていると感じること
ができた。

もし君が自信をなくしたり、不安を感じること
があるなら、この話を思い出してほしい。

君は生まれてきただけで、本当に価値がある
存在なんだ。

本当に生まれてきてくれて、ありがとう。…








貧者の一灯・THEライフ

2023-12-18 15:37:37 | 貧者の一灯


















※…飼い主とペットの両方が高齢化する

「ペットの老老介護」では、さまざまな問題
が起きる。「犬が認知症になった場合、夜鳴
きは深刻な問題になる。

多くのケースでは服薬で収まるが、薬が効か
ずに追い詰められてしまった」という






※…

「声なんかなくたって、ママと一緒にいられる
ほうが幸せよね」。

愛犬の頭を優しく撫でながら女性(80代)は
そう語り掛けた。

認知症による夜鳴きを止めるため、犬は一年ほ
ど前に声帯切除手術を受けていた。

発せられるのは、すき間風のような小さな声だけ。

夫に先立たれ、都内のマンションで一人暮らし
をしていた女性にとって我が子以上に大切な家
族だったが、夜鳴きが始まり、近隣からの怒声
や苦情に追い詰められた結果、苦渋の決断に至
った。

愛犬を連れて寒空の下、よたよたと夜通しさ迷
ったこともあった。

獣医師から教わった、昼夜逆転を改善させるた
めの散歩や鎮静剤を与える等の方策は役に立た
なかった。

動物愛護センターに引き取ってもらう……なん
ていう選択肢はあり得ない。

「もう一緒に死ぬしかないんでしょうか」 涙
ながらの訴えに、獣医師が提示してくれたのが
声帯切除だった。

人も、ペットも高齢化している現実 65歳以上の
高齢者の割合が「人口の29%」を超えた

“超高齢化社会”の日本で、犬猫の平均寿命も
延び続けている。

ペットフード協会の調査では、犬 全体の平均
寿命は2022年現在、14.76歳、猫全体の平均
寿命は15.62歳。

1990~1991年の調査では、犬の平均寿命は8.6
歳だったというから、6歳以上も延びたことに
なる。

当然、高齢化に伴う問題も起きてくる。

なかでも深刻なのが、高齢の飼い主による高
齢犬の介護だ。

人間の老々介護でも問題になっている、体力
・メンタル・経済の3点が飼い主に重くのしか
かる。

それを物語るのが、動物愛護センターにおける
飼い主からの動物の引き取り理由だ。

最も多いのは、飼い主の病気、入院、死亡、次
に、引越し、ここ数年増えているのが、犬が高
齢で病気になり世話ができないという理由だと
いう。

※…止まらない夜鳴きが近隣トラブルを招く

高齢犬の病気でもっともやっかいなのは認知症
だろう。

「認知症の犬を初めて診察したのは1980年頃
でした。昼夜が逆転し、夜に徘徊はいかいして、
庭の生け垣に入り込んで動けなくなる。

物悲しい声で鳴き続けると相談されて、人間
の痴呆(当時は認知症をこう呼んでいた)の
ようだという印象を受けました」

そう回想するのは、山口動物病院(千葉県市原
市)の山口靖人院長だ。

同院は、動物を診る大学病院が存在しないこの
地域で、大学病院並みの動物医療の提供を目指し、
1978年の開業以来40数年。年中無休で約1万5000
日、夜間も病院を開けてきた。

山口院長によると、日本で犬にも認知症がある
ことが広く知られるようになったのは1990年頃。

それ以前は、認知症になるくらいまで長生きす
る犬はいなかったという。

「飼い主さんが切羽詰まって受診するのは、夜
鳴きですね。近隣からの苦情や脅迫におびえ、
困り果ててやってきます。

グルグルと同じ方向に回り続ける・部屋の四隅
とか隙間にはさまっても後退できず出られない
といった症状も多いですが、夜鳴きほどには困
らない」

治療には、たとえば同じ方向に回り続ける犬に
対しては、段ボールやお風呂マットでサークル
を作り、疲れるまで歩かせてあげるなどの対策
をアドバイスし、サプリメントも処方する。

※…飼い主の自己責任でいいのか

問題の夜鳴きには、鎮静剤を使う。よく効くの
は、アセプロマジンという薬で、30分くらいで
効果が現れ、少なくても4、5時間、長い場合
は9時間から10時間くらい持続する。

「アセプロマジンがよく効くので、当院では、
夜鳴きが原因で声帯切除に至るというケースは
ないですね。

でも、これ以外の薬を使っている先生のところ
では、追いつめられる患者さんもいるかもしれ
ません」

年金生活の高齢者にとって、ペットの医療費に
かかる経済的負担は重い。

車なしには、通院できない地域もある。何より、
飼い主本人が元気でなければ、ペットの面倒を
見るのは難しい。

ペットの老々介護問題は、単純に、飼い主の自
己責任では済まされないのではないだろうか。

しかし日本では、夜鳴き問題の最後の砦とも言
える声帯切除を引き受ける獣医師は少数派。

「欧米では動物虐待にあたるから」等の理由で、
以前は行っていたがやめたという獣医師もいる。

結果、どうしようもなくなった飼い主が、愛犬
を泣く泣く動物愛護センターに引き取ってもら
い殺処分(※)という事態も起きている。

※…追い詰められて病院に来る人が大多数

ペットの高齢化の問題には、早目の対処の重要
性を強調する。

「治療するための“早目に”ではありません。
要するに、備えるということです。

大多数の場合、飼い主さん的にも犬的にも、
追い詰められて病院に来るんですよ。でも、
早目に心構えや対応の仕方を決めるなどをし
ておけば、場合によっては治療をしなくても
対処できる」 というのも、人の認知症同様、
犬の認知症についても研究が進み、いろいろ
なことがわかってきているからだ。

「たとえば夜鳴きにしても、むやみに鳴いて
いるわけではなく理由がある。

体が痛いとか、不自由だからやってほしいこ
とがあるとか、寂しいから傍にいてほしいと
か。情動という心の動きから鳴いているので、
そこを理解して、上手く接すれば、症状をエ
スカレートさせずに済むんです」

※…早期治療で治る病気もある

一方で、これもまた人間の認知症と同じで、
犬の認知症も原因がよくわかっていないと
ころもある。

たとえば人間の認知症には、アルツハイマー
・レビー小体・血管性に分類される三大認知
症があるが、犬の場合も、脳血管障害に起因
する認知症があると言われており、この認知
症は治療が可能だ。

体の不調で動けないことが、認知機能の衰え
を加速させている場合には、不調の原因を治
療し、動けるようにしてあげることで、認知
機能が改善することもある。

「犬にしてみれば、体の自由が利かないから、
なんで僕は動けないんだとか、あっちに移動
したいのに行けないとか、いろんな理由があ
って鳴いている。

それなのに、多くの飼い主さんは、単純に年
を取ったせいで動きがにぶいとか、寝ている
んだとか判断し、異変のサインを放置してし
まいがちです」

寝ている時間が増えると、高齢だから仕方な
いと思い、歩き方がノロノロしてくると、こ
の子もずいぶん老けたなと考えがちだが、じ
つはそうした動き方の変化の裏には、治療す
れば治る病気が潜んでいることもあるらしい。

「運動を心がけるようにしたり、マッサージ
したりすれば、ペットだって延ばせる健康寿
命がある。

異変のサインを見逃さず、早目に対処できる
ようにしなければ…

ペットを飼うことは、高齢者の健康に対し心
身両面でメリットがあることがわかっている。

※…
2012年の法改正によって、センターは安易
な理由での引き取り要請を拒否できるよう
になり、センターでの殺処分は減っていま
す。…
















亡くなった私の夫がエネミーでした。
(英語のenemy、”敵”敵対する者。という意味)
私と夫は10歳違い。

コトメが男性関係の激しい人で小学生の娘
(コトメコ)を置いて家出。
(「コトメ」の意味は、「小姑」。妻や夫の
姉妹のことを表すコトメコ「しゅうとめ」を
省略


他に身寄りが無いのでうちで面倒を見る事に
なりました。コトメコは気性が荒く、私はとも
かく、夫と合わず頻繁に喧嘩。

家出を繰り返したり、コトメコが暴力を振るう
事もあり、かなり苦労しました。

夫は引き取ってもコトメコの事は丸投げ「女だ
から義務教育でいい」というのを今は高校を出
ていないと将来厳しいからと何とか説き伏せて
コトメコを高校までいかせました。

コトメコは頭がかなり良かったのと、コトメ譲
りの美人だったので高卒でもちょっと良い企業
に就職。

夫と折り合いが悪いので就職が決まると離れた
所で一人暮らしをして4年間一度も戻りません
でした。

そんなある日、夫が事故死、不倫相手を車に乗せ、
飲酒をした上での接触事故でした。

相手の方が大怪我を負い、過失がこちらにあるの
で、慰謝料で今まで貯めた貯金を殆ど使うことに
なり高校生の息子と大学生の息子を抱え、何より、
ずっと夫に騙されていた事がショックで呆然自失。

どうしていいか解らず、今までの人生は何だった
のだろうかと思うと悲しさと悔しさでやりきれな
い気持ちで死ぬ事さえ、考えていました。


※…
そんな時に、葬式にコトメコがやってきて私に
聞きました。


コトメコ「叔父さんの遺産、どれぐらいあるの?」

私はコトメコが遺産の分け前をもらいに来たと
思ってついカッとなって「ある訳ないじゃない!
慰謝料を払ったら何も残らないわよ!」と怒鳴
ってしまいました。


コトメコが悪い訳では無いのに、怒鳴ってしま
った私にコトメコは怒らず静かに通帳を差し出
して「これ使って」と中を見たら200万入っ
ていてコトメコが一人暮らしをしながら4年間
貯めたお金でした。

もらえないし、使えないと断ったらコトメコが
笑って言いました。

コトメコ「叔父さん(夫)は嫌いだったけど、
叔母さんには本当にお世話になった。

素直になれなかったけど感謝している。だから
これは使って欲しい」とその途端、夫と喧嘩を
して飛び出したコトメコをサンダルで追いかけ
た。

小学生のコトメコがずっと口を利いてくれなか
った事、仲良くなるきっかけを作りたくて毎日
好きなものを作った事

そんな事を思い出して泣いてしまいました。

私のやってきた事は全部無駄じゃないんだ。
感謝される事、報われる事もあったんだと・。


コトメコにもらった200万と私のパート、
息子もバイトをして何とか二人とも社会に出す
事が出来ました。

この前、コトメコから電話があり、今度の10
月に結婚するそうです。

コトメコから「本当のお母さんだと思っている
から出て欲しい」と言われました。

もちろん、喜んで出席する予定です。

夫が亡くなって8年。今から思うと夫はエネミ
ーだと思うことが沢山ありますがコトメコの事
は良かったと思っています

怒鳴った事はコトメコに後で謝りました。コト
メコは笑って「いっつも私叔母さんに怒鳴って
たじゃない気にしないで」と言ってくれました。

※…
事故の事については不倫相手→軽症 夫→死亡
接触事故の相手(バイク)→重症でした。


ちょっとこれ以上は無理です。


相手の方の事も、不倫相手とのいざこざもあり、
詳しく書くと泣いてしまいそうなので。

事故の被害にあった相手の方と家族の方には何
度かお見舞いに行き謝りましたが「あんたがや
った訳じゃないから」と言ってくれて良い方々
だったので余計辛かったです。

コトメコには、お金を返す話を何度かして断ら
れましたがこの前の電話の時に、結婚したらお
金がいるようになるから少しづつでも返済する
と話をした所

「返さなくてもいいから、もし子供が出来たら、
孫だと思って可愛がって欲しい」と言われました。

正直、夫が亡くなるまで、コトメコがこんな
良い子だとは思いませんでした。

夫は高圧的で、コトメコにもいつもコトメの
悪口を言い、コトメコに「お荷物」「お前は
捨てられた」「お前がいるから金が無い」など
と言っていました。

今思うと、夫の態度がコトメコを苛立たせて反
抗的にさせていたのだと思います。

コトメコにもし子供が出来たら、本当の母親以
上にコトメコと子供の手助けをするつもりです。


※…。
まず保険、これは全く保証が無い所か事故の
二年前に自動車者保険と定期預金と合わせて
解約されていました。


家計は全て夫が握っていたので私は知りませ
んでした。どうも、不倫相手との付き合いで
使い込んでしまったようです。


幸い持ち家と他に土地があったのでそれを手放
して被害者の方への慰謝料を支払いました。

不倫相手への慰謝料については、不倫相手にも
家庭があり、その配偶者(不倫夫)から事故で
の怪我の賠償と不倫での慰謝料を請求されたり、
不倫相手の家族(子供)が家に怒鳴り込んでく
るような事が何度もあったらしいです。

あったらしいと言うのは、恥ずかしい話ですが、
この頃の記憶が所々抜けてしまっているので解
りません。

見た目には怒鳴り込んで来た相手にも普通に話
して対応してたらしいのですが、その記憶がど
うしても思い出せないのです。

カウンセリングにも行きましたが無理に思い出
す必要は無い、今、健康で明るく生きられるな
ら忘れたままでもいいと言われました。

不謹慎かもしれませんが、夫がいた時より、今
の生活の方がずっと楽しいです。

身寄りも社会経験も無く、ネットも知ら無い当
時の私は夫との生活が普通だと思っていましたが、
息子からの初ボーナスで買ってもらったパソコン
でネットを見て、今までの生活が異常だった事
にやっと気がつきました。

作った料理が「気分じゃない」の一言で捨てら
れるのも「馬鹿」「クズ」と罵られるのも、毎
日怒鳴られる為びくびくしながら生活するのも、
今ならおかしいのだと解るようになりました。

長い悪夢からやっと目が覚めたような気持ちです。


※…
一つとても良かったと思う事は息子の事です。


夫が「男は偉い。女は役に立たない」と普段
から言う人だったのですが、この時私を守っ
てくれたのは、学生の息子では無く、社会人
のコトメコでした。

すぐに弁護士をつけて、話し合いになり、かな
りごねたらしいのですが最終的にはお互い相殺
に近い形で終わり、被害者の方への慰謝料も少
し負担してもらう形になりました。

息子二人は優しい子ですが夫の影響もあって女
は下と言う所があったのですが、この件でコト
メコが不倫相手の家族と戦っているのを見て考
え方が変わったようです。

仲が悪かったコトメコと息子二人も事故の後で
はコトメコを中心に結束して今ではとても仲良
よくなり。

仕事で困ったりすると「姉ちゃん」と息子から
コトメコに相談するくらいです。

今度の日曜にコトメコが結婚相手を連れて挨拶
に来てくれるそうです。

コトメコの好物の筍とワカメの煮物と茶碗蒸し
を作って待つつもりです。今からすごく楽しみ
です。

暴れるコトメコを青痣だらけになって育てて
いた時にはこんな日が来るとは思ってもいま
せんでした。

夫には恵まれませんでしたが娘と息子には恵
まれたと思っています。今はとても幸せです。
。…