※…
范蠡は太宰嚭に八名の着飾らせた美女を納めた。
「あなたが越国の罪をお許しになれば、またこ
れより美しい者を献上いたしましょう」
この言葉を受けた伯嚭は、呉王夫差に進言する
に至る。
「いにしえから、国を討つ者は、これを服従さ
せるのみでした。いま、越はすでに我が呉国に
服従しています。これ以上何を求めるのですか」
伍子胥はこれに対して口酸っぱく反論した。
「なりません。呉は越にとって、仇敵の国です。
呉があれば越はなく、越があれば呉はないのだ。
これは変えることができません。……
私はこう聞いております。陸人は陸に居り、水
人は水に居ると。中原は陸人の国です。我々が
これを攻めて勝っても、その地に居ることはで
きません。
越国は、我々と同じ水人の国です。我々がこれ
を攻めて勝てばその地に居ることができ、その
舟に乗ることができます。
この利は、失うべきではありません。君は必ず
これを滅ぼしなさい。この利を失えば、悔やん
でもまた及ばないでしょう」
夫差はしかし、この意見に耳を傾けることはな
かった。すでに太宰嚭は、自身に送られていた
八人の美女のうち、もっとも美しい者を夫差に
献上していたのである。
このとき、選ばれて夫差のもとに送られた女性
の名を施夷光しいこうという。
貧しい薪売りの家に生まれた、胸に持病を抱え
た娘である。
もともと、彼女の住んでいた村に「施」という
姓を持つ家が二軒あり、彼女は村の西側に住ん
でいたため、多くの人々は彼女のことを「西施」
と呼んだ。
彼女は、谷川で洗濯をしているところを范蠡に
見初められ、この役割を担うことになったという。
その代償として貧しさが解消されたことは言うま
でもない。
范蠡はしかし、呉へ彼女を送ることを当初から
意識していたわけではなかった。
もともと彼女の美しさに心を奪われたのは、
范蠡自身だったのである。
彼が施夷光を呉へ送ったことは、苦渋の決断で
ある。范蠡は、彼女の美貌によって国家の窮地
を救おうとしたのであった。
彼女は伯嚭を経由して、夫差のもとに送られる
に至った。すでに夫差は西施の美貌の虜になっ
ている。
「越にはそなた・・・のような美女が数多くい
るのか。だとすれば軽々しく滅ぼすわけにはい
かない」
耳元でいやらしく語りかける夫差に対し、西施
は精一杯の愛想を振りまきながら答えた。
「そんな、私など……貧しい薪売りの娘に過ぎ
ません。もっと品のある女性が世の中には沢山
いることでしょう。
私は幼いころから父の仕事の手伝いをして山の
中を歩き回っていたので……足が大きくて、太
いのです。
それが人の目に触れないように長い裾の服を着
たりして……そんな女のどこがよいと仰られる
のですか」
西施の足が大根のようであったというのは、
事実のようである。
しかし、彼女にまつわる逸話として、川に足を
浸して彼女が洗濯をしていると、魚たちがそれ
に見とれたかのように泳ぐのを忘れた、という
ものがある。
絶世の美女に備わる人間臭さが、またその魅力
になっているといったところであろう。
呉王夫差もそう感じた。「そういうところも含
めて、余はそなたのことが好きだ」
そう言われると、西施自身も悪い気がしなかっ
たであろう。彼女は自分を愛してくれる者を、
愛した。
彼女は范蠡の意図とは関係なく、夫差を愛した
のである。…
※…
松岡浩著『一隅を照らす』という小冊子に、
大阪にある淨信寺(じょうしんじ)というお
寺の副住職、西端春枝(にしばた・はるえ)
さんの話が載っていた。
西端さんは大正11年生まれ、「にもかかわら
ず美しく、頭脳明晰で、しかも明るく楽しい
お人柄」と松岡さんは言う。
西端さんが商業界の最前線から退いて早40年に
なる。後に全国展開をする総合スーパー㈱ニチ
イの創業者・西端行雄氏と結婚したのは1946年、
終戦の翌年だ。
以来、二人は戦後の高度成長と共に商人道を歩
んできた。
㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に出店した、
わずか一坪半の衣料品店「ハトヤ」だった。
戦前、小学校の教員だった夫は商売が下手で、
悪戦苦闘の日々だった。
ある日の夕方、店先に思いもしない人が立って
いた。春枝さんの実家のお母さんだった。
突然の来訪に春枝さんは戸惑った。
なにせ「店を出した」なんて言ってなかったか
らだ。さらにお母さんは、二人が一番恐れてい
たことを口にした。
「今晩泊めてもらうわ」社会全体がまだまだ貧
しい時代だったとはいえ、二人の生活は困窮を
極めていた。
親にだけは見られたくないし、見せたくない生
活だった。
日が暮れた頃、お母さんが言った。「春枝、
ところでお便所はどこ?」
二人の家に水道も便所もなかった。いつも近く
の天満駅の便所を借りていた。
もう開き直るしかなかった。春枝さんはあっけ
らかんと、「お便所ないねん」と言い、咄嗟に
近くにあったバケツを差し出し、「これでして
ちょうだい」と言った。
一瞬たじろいだ表情をしたものの、さすが明治
の女である。お母さんは「こりゃおもしろいね」
と言って、音を立てて用を足した。
翌朝、お母さんは突然「用事があるので帰る」
と言って、朝ご飯も食べずに若い二人の小さな
居住地を後にした。
二人は慌てて靴を履き、天満駅まで送った。
当時の天満駅のホームは長い階段を上っていっ
たところにあった。
階段の下で「それじゃ、無理せんと、西端さん
も気をつけて…」「お母さんも気をつけて…」、
ありふれた別れの言葉を交わした。
階段を上っていくお母さんの後ろ姿を見送って
いた夫が、呻(うめ)くような声で言った。
「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。
今母さんは滝のような涙を流しているに違い
ない」と。
お母さんは頬を伝わって流れる涙を、二人に
気づかれないように、手でぬぐうことなく階
段を上っていた。
だから一度も振り返らなかった。
その背中がすべてを物語っていた。
春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿をバネ
にしよう」
誰にでも「あの日」があると思う。「あの日」
があったから今の自分がある、と言えるような、
忘れてはいけない「あの日」が。
それは、思い出すだけで心のバネになる「あの日」
だったり、感謝で心がいっぱいになる「あの日」
だったり。そんな「あの日」があるはずだ。
そう言えば、「おかん」というロックバンドの
『人として』という楽曲は、今の幸せに繋がった
「あの日」のことを歌っている。
…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が
無ければ笑い合うこと無かったよ…
あの日生まれなかったら
あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら
あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら
あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら
……あの時別れてなかったら
あのとき、『好き』と言ってなかったら
痛み喜び感じずに僕はあなたを知らない
ままだった
悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、
いつかそれは「あの日」になる。
「あの日」をどう捉えて、どう生かすかは、
すべて自分で決めることだ。 …
※…
西端春枝(にしばた・はるえ)
2020年6月12日 脳梗塞(こうそく)で死去、
98歳…
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます