そのパーティで大阪芸大の岩宮武二教授が井上青龍について述べた言葉が忘れられない。
それは青龍は“ガラスの心臓をもった男”という評であった。
ガラスのように繊細であり弱さをもっていたという意味だと感じた当時の筆者。
人の痛みに感じやすい心と言うことだろう。都会の喧騒の中で、心休まるところ、親
しみを感じるところ、それが「釜ヶ崎」ということだと思う。
筆者も事件の前によく夕方や夜間高校の終了後、アジトとの往復でよく通った「釜ヶ崎」は、親しみやすい、懐かしさを感じる街であった。青龍も同じように感じていたのだと思う。
ほっとするエルミタージュ(隠れ家)なのだろう。そういう隠れ家で過ごす人々への共感からやがて撮らずにおられなかった青龍。
出版記念パーティは大阪中之島公会堂の二階で行われたが祝いに駆けつけた人々で満杯で熱気があふれた集会であった。
そこでの”ガラスの心臓をもった男”という言葉は大変意外性があった。
そういう繊細な壊れやすい優しさをもった人だからこそ25年も経たないと、隠れ家である「釜ヶ崎」で生きる人々を撮った写真を発表できなかったのだ。撮った人々が
そこからほぼ“消えて”からようやく世に出す決心がついたという。
近年、ここ10年少し前くらい前から、筆者は井上青龍の遺族と知己になった。それ以来、一度も岩宮武二教授の”ガラスの心臓説”を否定するという話は聞いていない。
繰り返しになるが何故かよそよそしく、けばけばしい都会の喧騒の中で過ごして
いると、高知の、のどかな村の出身の青龍には、当時の「釜ヶ崎」は心許せる、親
しみが感じられるエルミタージュ(隠れ家)だったのだというのが筆者の偏見であ
る。
500冊の限定販売の写真集(そのうちの#349を入手) 「釜ヶ崎」の附録で、青龍は土門拳に触れている。
(当時の「釜ヶ崎」では)筆者付記:
「九州弁が多いなと思ったら、炭鉱がダメになったとかね。今おしなべて言葉はゴッ
チャ。当時土門拳は筑豊を撮っていて、その延長線上として釜ヶ崎へきた時に、僕が案内をした。僕の写真を見た土門先生は『オレの余地は無いわ。ここはお前にまかせるよ。』 」 とある。
この土門拳に“「釜ヶ崎」を任された”という話は京都で開かれたJPS(日本写真家
協会)関西の集会でも井上青龍は語っていた。
『オレの余地は無いわ。ここはお前にまかせるよ。』と重過ぎる十字架を背負うこと
になった井上青龍。
すでに「釜ヶ崎」に関して、土門を超えていた青龍。 伝説となって行く青龍。結局十字架の重荷を背負い続けることになる。
この重過ぎる十字架が青龍の命を縮めることになった。56歳という若さで逝った、いかにも頑丈そうだった青龍。
筆者が青龍の突然の死を知ったのはソ連シベリアから帰国する飛行機の中だった。
つづく
(敬称略、失礼の段ご容赦を!)
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