ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

学力テストの成績順位にバカ知事ご乱心!?

2008年08月31日 17時46分11秒 | 雑記
 知事様にカンナは見えぬかもしれぬ(渡辺白泉に「鶏にカンナは見えぬかもしれ                  ぬ」という句あり。)
  狂ったかいや正気です自らの行動忘れ怒鳴るだけです

 ネオコン橋下大阪府知事が、文科省の小6・中3学力テストの結果、大坂府は振るわず、全国順位が下位だったのが面白くないと、教育長に何とかしろと文句を言ったそうだ。

 とぼけた野郎だ。前にこの場で書いたが、大阪府下のいくつかの市町の夜間中学への援助打ち切り決めたことなど、とっくに忘れているのだ。

こういう根本馬鹿(学校のお勉強は出来たのかもしれないが、思想とうものがない)は、これから何度でもこういうことをやる。どこまで行っても三歩、歩くとそれまでのこと――「カンナ」を忘れる「鶏さん」と同じだからだ。

単なる軽薄なら「愛嬌」があるが(それでタレントもどきをやっていたのだが)、権力者になったらそれすらなくなってしまった。

 思いついたら何かつついて、またちょっと歩いたら何かつつく、のだ。
関係する連中は迷惑極まりない。最大の被害者はこんな根本馬鹿をえらんだ大阪府民だが、もっと文句言ってやれ、選んでダメなら知事の座から引きずり降ろすことだってできるんだぜ。まあ、こんな阿呆最初から問題にしてないのかもしれないが。

 また、安倍が導入した一斉学力テスト、順位、ランク付けはしないはずだったが、やはり、このことだけがクローズアップされる。

強要はしないと自民党の野中は言って通った、国歌国旗法は、今現在、強制的に公立学校では掲揚され、斉唱させられている。

ネオコン石原東京都知事の教育改悪の柱になったものだ。

こうしたことは、戦後の自民党を中心にした保守派の常套手段で「嘘」「建前」のきれいごとで物事を決め、実際は必ずこうなるのだ。

つまり、橋下はこんなことに反応してはいけないのだ。

もっと言うと、こんなことが、真の学力ではないのだ。問題解答力でしかない。生活の中で忘れてしまう知識にすぎない。この回答力が高い者が、人間的にいいとは限らない。

夜間中学の存在を、教育の本質を考えることのできない橋下に言ってみたところで、通じはしないだろうが。

 ネオコンというのは構造的に同じことをするもんだとつくづく思った次第。

 ところで、大分県教育委員会はどうなっているんだ。不正が発覚した新採用教員はこの2学期からクビにするという。

新採用の教員の抱いた半分だと思ったが、その後の対応は示さない。退職教員でも当てるのだろう。つまり、担任がどう変わろうと構わないということだろう。いい加減なもんだ。

不正に手を貸したり、監督していた者は、警察に引っ張られない限り「停職」で済むそうだ。「臭いものには蓋」というやつだ。

この騒ぎの拡大阻止が目的で、政治家や官僚のやったことが表に出直ことだけが願いなんだろう。

あのおどおど教育委員長、何とかならんか。学力テストに不参加の犬山市の教育委員長のような見識も胆力も感じられない。どうやって選ばれたのか知らないが、こんな騒動が起こらなかったら、けっこう、威張っていたんじゃないのか。

 まあ、定年退職だが、公立学校教育に失望して教員を止めたという意識のある私としてはまったく当たり前の光景のように見える。残念だが。

NGO「ペシャワール会」スタッフ拉致殺害事件について

2008年08月30日 18時15分35秒 | 雑記
  人間の善は恨みを買いもする
  善いことを「しているつもり」と解し得るところに人は住むほかはなく

 アフガニスタンでNGO法人「ペシャワール会」のスタッフ「伊藤和也さん」(31歳)が、アフガン人のための復興事業に関わっていたにもかかわらず、拉致され、殺害されてしまった。

 マスコミはアメリカの一方的攻撃によって荒廃したアフガニスタンの復興事業を妨害するタリバンやその周辺にある組織の手に依る「凶行」だと報じている。

ここへきてアフガニスタンの治安が悪化、ペシャワール会の代表中村哲氏も年内中に日本人スタッフの撤退を進めている最中だったと語っている。

 この事件に対するマスコミのまとめ方には、NGOの活動は「善」、タリバン側は「悪」という基本構図がある。日本の世論もあらかたは同じで、「水戸黄門」の観過ぎではないかと思う。

アフガニスタンの国民(民衆)みんながみんな、虐げられ、余所からの援助がなければ何もできないわけではないことは、当たり前のことだろう。悪代官や政商やヤクザにやられっぱなしの「善良なる百姓」とアフガニスタンの民衆を重ねるのは正しくないと思う。

 アフガニスタン人の多くが「伊藤さん」の死に対し、哀悼の意を示している報道もあったし、「この事件はアフガニスタン人として恥ずかしい」と口にした人もいた。そこに「嘘」はないだろう。

つまり、官房長官の町村なんかの「偽の厳粛性」「正義ぶった嘘」ということは異なるということだ。
中国の四川大地震の救援物資を日中の国民の目につかないようにまでして、自衛隊の海外派兵の実績づくりのため自衛隊機で輸送してみたり、アフガニスタンに行きたがっている自衛隊と裏で手をつないでタイミングを待っているやつの言とは違うということだ。

アフガニスタン人の哀悼は「伊藤さん」の「死」から発しているが、町村の言は「形式」であって、誰にでも何処ででも通用するものだということだ。個人の死などどっちでもいい。

 「ペシャワール会」代表の中村哲氏の言動はさすが、これとは違っていた。伊藤さんの遺骸への敬礼のような振る舞いに万感の思いが込められていたように見えた。どこかで「死」を賭して(覚悟して)いた者同士のお別れのようにも思った。

 こんな取り留めもないことが思い浮かぶのだが、もう一歩踏み込んでおく必要があるように思える。

 アフガン戦争後、アメリカの傀儡政権のごときものを作ったが、アメリカ軍を中心とした多国籍軍(?)が戦後の治安維持に当たっている。カルザイ政権が実質統治しているわけではないし、イスラム原理主義のタリバンが一掃されたわけではない。

タリバンをアフガニスタンの民衆が打倒し、新たな国家を作ったわけではないところが大きな問題なのだ。

黒澤明の「七人の侍」と根本の違いはここにある。アメリカのタリバン掃討戦争は、アフガニスタンの民衆が一致団結して、アメリカにタリバン掃討を頼んだわけではない。アメリカがアフガニスタンのタリバン政権が「9・11テロ」を仕掛けたビン・ラディン率いる「アルカイダ」をかくまっているという理由での報復戦争だ。

つまり黒澤の映画のように、「農民」がなけなしの金を集め、収穫後それを強奪にくる「野盗」をやっつけるために「侍」を雇う(礼金付き依頼)のとはまったく違う。雇った「侍」とともに「農民」自身も「野盗」と戦い、「農民自身」も犠牲者も出す。

アフガン戦争でアメリカがやったのは一般民衆が死ぬことなど織り込み済みで、圧倒的な軍事力でタリバン政権に攻撃をしたのであって、アフガニスタンがイギリスからの独立の時のようなものではない。

 アフガニスタンがソ連の侵攻の結果「親ソ政権」をつくったとき、イスラム原理主義者と手を組んでゲリラ戦を教示し、武器の供給をしていたのがアメリカである。それがめぐりめぐって「9・11のテロ」になった。この時、「アルカイダはアメリカ軍が作ったものだ」と言われたように、アメリカが――低脳ブッシュがアフガニスタンのタリバンを攻撃したのは大きな矛盾、言い掛かりだ。プラグマティズムとは、こういうことか?

 日本がこの時「ショウ・ザ・フラッグ」を強引に解釈して、アメリカの軍艦に洋上給油(洋上無料ガソリンスタンド)を始めたのはこの時だ。

 アフガニスタンの国土の荒廃を目にしたら何らかの手を差し伸べたくなるのは人情というものだろう。

しかし、国土を荒らし、万単位の国民を殺したアメリカが治安を引き受けている状態で、復興事業に携わることは、危険極まりないのだ。異国の、それも今の状況をもたらした国と手組んでやってきた「外国人」を、アフガニスタンの人々はどう見るか?

殺された「伊藤さん」と親しく交わった人たちは、彼に感謝をしたに違いない。しかし、少し離れて、またもっと離れた所から、見ている人にとってはどうだろう。

イエスが故郷に帰っていた時、「大工の息子が何やら偉そうなことを言ってやがる」とかつて近しいところにいた人が言うのをひっくり返してみるとこのあたりのことが分かるような気がする。

つまり、アフガニスタンの人には「伊藤さん」の善意はアメリカの手先、自国を蹂躙したこと延長線上あると考えることができるということだ。

もうちょっと日常的なところで少し角度を変えて言えば、「親切」にされた時、相手の態度に「親切」を施しているということが見えてしまったら、「親切」は消えてしまう。「お前のために良かれ」と思ってやったことだ、というのもほぼ同じである。

「善」が「悪」に簡単にひっくり返るのが私たちの世界、倫理にはあるということだ。

「恩を仇で返さない」と言いきれるほど私(たち)は安定していない。なぜなら、「善」が初めから「善」だと言い切れないからだ。言い換えれば、「いい気になっている」ことが払拭しきれないからだ。殺されるかも知れないではなく、殺されてもいいのだ、といったところまで行ったとき、「善」は働き出すのではないかと思う。

「本音」が消えて、「建前」だけが横行する現在。
福田首相が水泳の北島の代わりに「伊藤さん」に国民栄誉賞を与える、と言い出したらどうなんだろう?小泉や安倍や石原などがしゃしゃり出てきて、ちょうどいい機会だ、自衛隊員ではないが「安国神社に合祀」しようなんて言い出すかもしれない。

与太話に堕してきた。つまり、もう書くなということだろう。

NGOの海外での活動の難しさを思い知らされた事件である。
親鸞ならNGOのこうした「善」を「聖(しょう)道(どう)の慈悲」と言うだろう、と思った。

初めてクラス担任したクラスの「クラス会」

2008年08月28日 14時13分45秒 | 雑記
    三十年時流れしや流れずや
    笑顔もて「孫かわいい」と教え子が語りかけくるクラス会なり

 8月16日、茨城県に来て、いきなり、それも3年生の時だけ担任したクラスのクラス会に、K市へ泊りがけで行って来た。

3月だったろうか、8月16日の予定を訊く電話が入り、予定に入れておいたものだ。確かに「お盆」の最中だから、こっちの動きを早く押さえておく必要がある。なかなかの配慮、私なんかよりはるかに現実的だ。

3月から4月にかけて、いくつか卒業した時の生徒さんが退職節目のクラス会を開いてくれた。このクラス会が最後だろうと思っていたら、11月に通信制に来て初めてのクラスのクラス会が飛び込んできた。このクラスは私とほとんど年齢が一緒だから、別格。

 私にとって、高校の教員らしい教員としてクラス担任したクラスだけに、また個人的には「糖尿病」発症したのもこの時だったし、長男が忌まれたのもこの時だったので、特に印象の強いクラスである。

進学を目指し、成績のいい生徒をセレクトし、メンバーがほとんど3年間変わらなかったクラスだけにまとまりがよく、30年以上も参加者数はともかくクラス会が続いているのは素晴らしいことだ。今時、こういう人と人のつながりはそうあるものではない。地元で職を得たり、地元に嫁いだ人が多いということもあるかも知れぬが、それだけでは説明できないものがあるように思う。

 オリンピックの年に開くように自然と決まってきたこのクラス会に、私もここ3回、8年前から声がかかり、参加している。

いつも参加するメンバーとは、4年が過ぎているような気がしなかった。みんな50歳は過ぎている、遅生まれの中には51歳になった者もいる。

私の所に寄って来た人とは、いつもの伝でよくしゃべった。私の退職を記念するクラス会なんだから、私が全員にお酌に回ればいいが、ここまでのサービスがどうしてもできない。

なぜなんだろう?議員様などが支援者にお酌して回るのとどこか同じで嫌なのか?教員同士の飲み会でもやったことがない。顔を見るだけで十分な気になってしまうのは、日常性にいつも潜んでいる間の悪さや演劇などが持って時間の密度がないからかもしれない。

 それにしても生徒38人中23人の出席は、ありがたかった。というのは、「先生の退職の節目なので、いつもより出席者が多いんだよ。」と市役所に勤めているS君が言ってくれたからでもある。

退職を記念して、受け皿つきの湯呑を2セットいただいた。受け皿がコーヒーカップのそれより深く、また、緑の釉が茶色の地にほどよく椀ともども掛っていていい。生涯割らずに、使わねばと思った。

最後に一言しゃべらされたが、このクラスの担任をしてからの教員生活の流れを話した。車でここに来る時、これまでどういうわけか、どのクラス会でも話さないできた「お国のために戦場へ行くようにと、生徒に言わないで教員が終えられることは幸運だ」と、今度は言うぞと思ってきたが、お酒のせいか、すっかり忘れて、今度も話さないでしまった。

小学校の教員をしているかつての生徒と教員受難時代のことなど話したから、どこかで、隅に押しやられてしまったのかもしれない。団塊の世代としては、戦争をいつも頭の隅において生きてきたのだから、戦中戦後を忘れ右傾化してきた今の社会だから、話しておかなければならないことだったのに、残念。間抜けな話である。

 かつての女生徒には、もう既に「孫」がいる者が6人もいた。なんと!
私のところの30歳を過ぎた子どもは未婚で、子供がないが、(つまり、私に孫はないが)20代で子どもを産み、その子が子どもを産めば、当然、「孫」がいても何の不思議もない。

 私は時代からすると少々早いリタイヤだが、みんな今が、公私ともに充実するべき時だ。老眼の嘆きは多く聞いたが。

 2次会は、手配してもらった私のホテルの近くの中華店。座りきれないほどで、賑わいはまだ続く。途中、低気圧襲来、近くに落雷があった。これもいい記念だ。

 生徒も先生もない時間が過ぎて、お開き。

 「もうちょっと私がサービス精神を出せばよかった」という悔いが残ったが、自然でいいんだろうとも思った。

 1次会を打ち上げるとき、4年後のクラス会の幹事が決まる。そして、誰だったろうか、私へのメッセージは「先生それまで死ぬなよ」だった。縁起でもないといった考え方が、親鸞に親しんでからなくなっているので、まったく気にならない。むしろ生きていることを見込んで、こんなふうに砕けて言ってもらう方が気持ちがいい。

 「菜の花会」というK高校時代の先生方との集まりがK市でよく行われるから、また訪れることだろう。この鹿島開発以来活発なこの町は、なお元気である。多少の猥雑さを含んでいるのも私は好きだ。

嘘だろう!星野がWBCの監督になる?

2008年08月26日 12時27分46秒 | 雑記
  愛情と実力と商品に差異のあることも分からず気力言う人
  日本を背なに野球はできません / 日の丸を背負って野球はできません

 今、本当に書きたいのは、8月16日に開かれた、「クラス会」のことだが、「帰省」の記憶を記しておこうとしてここに行くのが遅くなってしまった。

ところが、次回のWBCの監督に星野が候補者として挙がっていることを知った以上、一言言っておかねばなるまい。

 今度のオリンピックの結果は、私の予想通りであった。いや、どこかで望んでいたような気もする。一言で言ってしまえば、間違って金メダルを取ったら、民族主義的、国家主義的時代潮流を煽る結果になったろうからだ。

マスコミはいい加減だから、この二流野球人の正体が見えず、また、予選首位通過を過剰評価して、オリンピック前あっちこっちで引っ張りだこだった。この男、私と同じ団塊の世代だが、体育会系の考え方ははっきり違う。

この男自身は、人から管理されることは大嫌いなのに、立場が代われば、人を管理することが大好きになってしまう。ここの所がよく分かっていないから、日本の代表監督になったら途端に国家と自分が重なって、何か偉くなったように思ってしまう。
実際予選は個々の選手の調子もよく、ラッキーな結果だったに過ぎなかったことなど、「気分」のよさのなかで、戦時中の国威発揚的発言に変わっていってしまう。

次のロンドン大会から野球がオリンピックから外されることに話は及ぶことはなく、最後のオリンピック野球だ、勝つんだ、というふうに景気のいい話になる。

現役時代のそのオーバーなパフォーマンスだって、長嶋や王の添え物としてのものでしかなかったというのが、私の印象だ。
監督としても突出しているわけでもない。中日時代もやっとこ優勝したらさっさと辞める。阪神から請われて復帰したが、選手補強で何とか優勝したが、この時も、体調が悪いとのことで辞める。

私はこうした監督としての動きは、選手との関係がうまく築けなかったことだと見ている。つまり、人望がないのではないのか?(もちろん、外目からまた素人の見方だが。)

 オリンピック前のテレビでの発言を通して一番発信していたのは、先に書いたように国家主義的国威発揚的心情だ。これがどこか現在の国民に受けている。
ご本人は無意識なのだろうが、「日の丸を背負って」「日本の野球というものを世界に見せつけてやる」と、幾度も述べていた言葉の裏に流れていたものだ。
マスコミへの単なるリップサービスとは取れなかった。

(これはオリンピック終了後帰国して、野球、男子サッカー、マラソンを名指しで批判していた選手団団長のオリンピックは国と国との戦いなのだから、「国策」として予算強化すべきだという発言と根っこのところでは変わらない。)

アテネの時の長嶋の予選での高校生張りの「つなぎ野球」には「野球が好きだ」「野球は面白い」、というものが出ていて良かった。ホームランは1本もなかったように記憶する。アテネでの本番は長嶋が倒れてうまくいかなかった。ホームランで得点が入った場面があまりに多く、予選と野球が変わったと思った。

今度の「星野ジャパン」も似たような野球をしていた。スポーツ音痴、スポーツ嫌いの辺恒(ナベツネ)巨人の補強のような4番バッターを揃えるような選手の選抜はしなかったが、予選のラッキーが見えていないから、選手の調子には配慮がなかった。巨人の上原の選抜がそれを象徴するだろう。
戦略・戦術、準備もろくにしていなかったようにすら思えた。

いい時の選手のイメージがその時の調子とどのくらい差があるか、考えたらいいだろうと素人目にもはっきり見えた。中日の川上や岩瀬などは昔、中日時代のイメージすら加わっていたのではないか。

選手起用が「観念的」なんだ。私と同じ世代だからなんとなく分かるのだ。「老い」といっていい。体力的に指揮が執れないからと言って阪神辞めてじゃないか。

元々、ムードで野球をやってきた人なんだから、監督選びから間違っていたと私は考える。

ダルビッシュの坊主刈など噴飯ものだ。ミーティングで、星野、荒れたんじゃないの?監督への選手の分かりやすい答案だったように思う。

プロで野球で稼いでいる者が、できれば、アメリカの大リーグで活躍したいと思っている者が、「日の丸背負ってる」と指揮官がいくら力んだところで、さて、選手のモチベーション上がるかねえ?

長嶋のように、少年に帰って野球やろう、というほうがいい。WBCの王のように、「選手はプロ」であるという前提を絶対崩さず、その能力を信頼する方がいい。

噂で聞いたことだが、中日の監督で優勝したとき、勝ち試合の殊勲者には、星野がポケットマネーで報奨金を出していたそうだ。もちろん、星野に惚れ込んだスポンサーがいたからだが。
これと同じことが今度のオリンピックでもあった。プロ野球の選手団は、オリンピック選手村には入らず、五つ星ホテルにずっといたとのこと。そういえば、野球評論家?の江本が、テレビで野村監督の方が良かったと言いながらすぐ「野村監督ならお金が集まらないか」と否定していた。

昨年、高校野球に関連して、スポーツはいかにお金がかかるか、人の褌で相撲を取ること、を書いたことがあったと思うが、オリンピックのスケールはそれ以上。

見世物オリンピックと割り切れば、「オリンピックは勝たなければだめだ」とか「選手に国民に申し訳ないと言わせているのがつらい」などと寝言を言っている星野でも、スポンサーがたくさん付き、たくさんの金が集まれば、いいということになる。

スポーツがもともと「気晴らし」「遊戯」であることからすれば、現代は行き過ぎということになる。またスポーツの「プロ化は見世物化」にほかならなかった。

企業とスポンサー契約している「隠れプロ」や国家に競技経費を出してもらっている「準公務員プロ」、つまりスポーツ以外のことをしていない選手がほとんどなんだから、もう国家対抗戦を止めて、勝者個人・チームに優勝賞金を与え、出場者全員に出演料を出したらいい。

オリンピックでソフトボールをやりたいなら、ソフトボール関係者はお金を集め、運営供出金をオリンピック開催本部に支払い、優勝賞金を最高額に設定して順次賞金を下げていくようにすればいい。こうすれば、金が集まらず、供出金や賞金の出せない競技は自然淘汰され、膨らみ過ぎた競技種目はオリンピックから縮小できる。

フェンシングがオリンピック種目で剣道がそうでないのか、走り高跳びになぜ、さまざまな競技が導入している体重別のように、身長別がないのか、ちゃちゃを入れたくなる。

 星野から話がずれてきたが、言いたいのは単純で、WCBの監督に星野になって欲しくない、という極めて私的なことが書きたいだけである。

お盆前帰省④⑤

2008年08月25日 14時01分04秒 | 雑記
   やぶからし引き抜きやぶ蚊目を覚ましヒューマニズムと対峙せり
   取り立てて何も話さず孫帰る

 姪の作ってくれた昼食を食べて、息子は、神奈川のM市へ帰って行った。

 時の流れがなんだかとても自然で、それはこの家、「おふくろ」の創り出しているものなのだろう。

元来、日常の生活にドラマのような起承転結があるわけではないが、それでも盛り上がったりすることはある。
それがない。もしかすると息子、お祖母ちゃんと最後のわかれかもしれない。「おふくろ」も庭先の出発する自動車の所まで出てこない。居間に居るままだ。

「知足」とこういうことなのかもしれない。

 無駄を省いた、吉本言うところの「老人は超人間だ」ということなのだろう。                
 「心の欲するところに従へども矩(のり)を踰(こ)えず」(心のままに行動して世にあって従い守るべきことを越え踏み外すことがない)『論語』というべきか。

恬淡として孫や還暦を過ぎた息子(つまり私)のやることをただ、見詰めているだけのように思われる。

 だからか?午後は早くからビールを飲み始め、テレビで見世物オリンピックを見て過ごす。「おふくろ」は何も言わない。「私からの遺伝で、お前が糖尿病になって申し訳ない」と語ったときから、どのくらいの年月が過ぎどんな出来事があったか。どんなふうに心は変化していったか。



  何気なく別れ来たりて高速道ひたすら走るばかりなりけり
  日盛りを帰る紅葉のころ来ます

 今日茨城の方に戻るか、明日にするか、いい加減に考えて今日帰ることにする。

 午前中は、犬の散歩に毎日来てくれるヘルパーさんが、正式の訪問で、部屋掃除、買い物、昼のおかず作りをしてくれる。ありがたいことだ。

 「おふくろ」も信頼している。対話を聞いているとボケはないようだし、我々子どもたちへの対応とに温度差があるのがいい。明るく快活なヘルパーさんにこれからもよろしく面倒をみてくれるようお願いする。

 帰り、「おふくろ」は、居間。紅葉の頃温泉が新たに出来たようだだから、それも味わいがてら来ることを伝える。息子のときと同じで、時は自然に流れている。

 2kmほどで中央道、来たときとほとんど同じで、最後、常磐道から北関東自動車道にちょっと乗って家に。走っていた時間は4時間を切った。
 
 これが、4泊5日の「お盆前帰省」あらまし。面倒で途中書きたくなったりしたが、記録として書いておく。        (第4・5日目)

お盆前帰省③

2008年08月24日 22時56分21秒 | 雑記
  焼肉をつまむ八十三歳の母受け答えしっかりとして
  孫と来て焼肉ビールコカコーラ

 土曜日は先週茨城の方に帰省していた息子が、約束通り、お墓参りとお祖母さん見舞いにやってきた。昨晩は職場の新人の歓迎会で飲み会だったとのこと。なにはともあれ「飲み会」優先である。先週もそのパターンだった。

 午後、掃き掃除が残っていたお墓参りへ。
 市が分譲した墓地の入り口のところには、駐車場と火葬の「焼き場」がある。昨日来た時は、お骨になるのを身内の人達が待っていたが、今日は、お骨を拾っていた。予定板には、もう一件の予定が入っていた。

会葬の人も暑いだろうと思った。自然科学に親しんだからか、親鸞を少し知ったからか、人類だけが行うという葬送の手続きに余計なことが遠慮なく入り込んでくる。「後生」を信じる度合いが下がっているのではないか。この現実の厚みや蠢く闇が減少していると言えるのではないか。

 墓掃除の仕上げをし、供花とともにたくさん買ってきた線香を焚いた。この線香を焚くことが実は仏教が中国に入ってきたときに儒教を取り入れたものだ、という文章を読んだばかりだから、ちょっとした違和感があった。

 夕飯は、姪との約束で近所にできた焼き肉店に行くことになる。

「おふくろ」がどうするかが問題だったが、一緒に行くと言う。頼もしく楽しいことだ。この冬、体調を崩し、食事もままならぬことがあったからだ。

弟夫妻の死後、生きていること自体が姪のためだと決めて生きてきた約10年。「おやじ」の次に自分自身が入ると決め、戒名も菩提寺(といって「おやじ」からのものだが)からもらって、墓誌には赤字で書き込んであったのをまたいで、息子と嫁の黒字の戒名が並ぶ。姪が、祖母ちゃんと一緒に住むことを決めた時からの生きるスタイルだ。

生きることとは何か?私なんど遥かに凌駕したところで生きているような気がする。

 店まで2~300mほどか、何なく歩いて到着。その間の息子の気配りがいい。車に、道の凹凸に何気なく気が使えているのである。

 「おふくろ」のとって初めての焼き肉屋だが、何があると言うこともない。注文はこっち任せだ。ただ、飲み物だけは、「コーラ」。ここのところの好物なのだ。我々親子はビール、姪はサワー。83歳の「おふくろ」の前歯はほとんどない。ちょっと固い「タン」などは、噛み切れず奥歯でゆっくり噛む。息子は焼けたものの初めはお祖母ちゃんの小皿へ。

 さて、どのくらい食べたろうか。合計100gをどのくらい越えたろうか?野菜サラダをちょっとにご飯一口で、ピタリ食事終了。見事な食べ方だ!食欲はある、出されたものを食す、腹が足りたら終わり。それが「肉」であることが、私にとってなんだか頼もしく楽しいのだ。

 姪は9月に入ったら、2週間、合宿で自動車の運転免許を取るため、家を空けると言う。「おふくろ」は何も言わない。OKなのだ。
食事だの風呂だの、週2回ヘルパーさんが合計2時間半来てくれるとはいえ、どうするのだろう。訊いてどうなる?この二人の関係に他者が入り込むことは難しい。また、その必要もない。
        2008・8・9(第3日目)

お盆前帰省②

2008年08月21日 11時40分33秒 | 雑記
    友の死を知りて老母に会いに行く夾竹桃は日盛りの白
    生前に会へぬ友なり夏の川

 帰省2日目は忙しい一日だった。なにもそうする理由はないのだが、何かが背中を押すのだ。

「おふくろと1年ぶりに再会して、これといって取り立てた話はない。テレビを見ながら、取りとめのないことをポツリポツリ話し、茶を飲む。これで十分だ。日常というものは、こういいものだろう。会いに来たからといって、テレビドラマのように楽しいシーンが生まれるわけではない。「おふくろ」の顔を見、元気そうなのを察すればもう十分だ。

還暦を過ぎてもどこか「子ども」の気分は残っていて(知らずに蘇っていて)自由に振る舞えるのがいい。つまり私は勝手なやつだ、ということなのかもしれない。

 午前中は、七里岩と呼ばれる丘の上にある父、弟、義妹の眠るお墓へ掃除を兼ねてお参りする。猛烈な暑さが気持ちがいい。私がこの墓に入ることはまずあるまいが、死後のことは分からない。現世は死後の私に存しないからだ。親鸞が「遺骸は鴨川の魚の餌にしてくれ」と望んだようであってもかまわないと思っている。

 去年、「千の風になって」という歌が流行った。「墓の前で泣くな、そこに私はいない、千の風になって吹きわたっている」といったような歌だったと思う。確かに。

仏教でいえば、解脱していない限り輪廻しているはずだからお墓に死者の何があると言うのだ。「お骨」は物質。ただ私にとって、その「お骨」への思い入れが、単なる物質を超えさせる。
人間というものも地水火風という四つの元素からできている、とすれば、人が死んで元素に分解され「風」になっても不思議はない。
とはいえ、「私」と「霊」との関係なら「私」は分解されていないことになり、また「風」との関係なら「私」は分解されて存在しないことになる。

五感で捉えられないことに出会ったとき、「霊」がいるような気がして、ずっと生きてきたが、はっきりとはそのことがわからない。(オーラというものを観てみたいというのが生涯の願いだが、その人の「雰囲気」を感じ取ることは他の人と一緒でできるが、「雰囲気」が色や光となって、視覚的に映じることはない。)

 墓地の草むしりの「暑さ」にどこか気持のよさを感じるのは、死んだ身内への申しわけない気持ちが、つまり「霊」の存在を信じ、多少の自虐があるからかもしれない。

 昼食後は、やることがないままにゴロゴロしていた。

高校時代唯一の友達と言っていい友人Iが3年前に病死したことをこの7月に知ったので、今度の帰郷でその実家に行こうと考えていたが、急に行くことを決め、(いつものパターンだ)手土産を持って出掛けた。

 この友達は、私が大学2年の時会ったきり、音信不通になってしまっていた。実家とも音信不通で「失踪」といっていい。

高校時代「ニヒリズム」などということを教えてくれたのは今でもよく覚えている。授業をサボって映画を観に行ったりもした。寡黙で、私などよりずっと大人に見えた。思い出す面影は、「少年とも青年」ともつかない、「顔」のできてくる前のものだ。それも鼻と唇のあたりの印象が強い。

私の方は彼の生き方からして、親とも連絡を取らないことから、もう会うことはないだろうとずっと思い込んでいた。それがたまたま、この7月に病死したことを知ったのである。

 40年前、同じ市内ではあるが、バスで3~40分かけてI君の実家に遊びに行ったことがあったし、小型ながらカーナビもあるので気楽に出掛けたが、近くまで行って迷った。
信州へ続くバイパスから少しそれた集落は、人が外に出ていない。2,3軒離れた家の縁側におばあさんがいたので聞いてみる。近所に「Iさん」という家はないと言う。集落のはずれまで行って、引き返す。幸い庭先で仕事中の人がいて「Iさん」宅判明。

道路に車を止めて、庭を横切り、玄関で確認。私が姓を名乗ったら名の方を思い出し、つづけてくれた。夏の半年だけここに住み、冬は娘さん(I君の妹)の所で生活しているとのこと。I君のお母さんと会う。足が悪く家の中なのに杖を使っていた。

 お母さんの話によると、3年前、亡くなるまでの9年間はお母さんや弟さん、妹さんと行き来があり、亡くなる前の2年間の病院での治療には弟さん妹さんがよく看病してくれたということだ。

実家との音信が復活したのは、平成8年、お父さんが亡くなった翌年、勤めていた会社からの電話連絡だったそうだ。倒れ脳の大手術を受けたが、結婚もしていなかったので実家に連絡が入ったのである。

 緊急連絡先を正しく実家にしておいたのに、I君の人生を感じたし、こんな状況だとはいえ、前年に死んだお父さんが働いたかと、呪術的なことが脳裏をかすめた。

病気や手術の具体的なことについて、お母さんが話さないので詳しく訊くことがはばかられた。脳腫瘍、脳出血、はっきりしない。それから2年入院して、退院。それから4年、会社に復帰。親弟妹さんとも行き来が復活、みんなで伊豆に旅行したことを思い出すように、お母さんは話した。

 しかし、病気再発。先に書いたように2年の闘病ののち他界したとのこと。

それにしても残念なのは、ここ10年、諦めずに、I君の情報を彼の小学校からの友達からに限定せず、また、私の弟や義妹の死に翻弄されず、試みにI君の実家を訪ねておけば、生前に会って話すことができたろうということだ。

 お盆前だしするので、仏前に線香をとも思ったが、そこにI君がいるとも考えられず、もう一度、この家を訪れるきっかけを残そうという気持ちも働いて、辞去した。

 私が彼の世に逝ってI君と話ができると、信じることもできない。南無阿弥陀仏と唱えられないのと同じ。時代はこういうことを許さないのである。
       2008・8・8(第2日目)

お盆前帰省①

2008年08月20日 10時24分11秒 | 雑記
   故郷へ猛暑かき分け一気なり
   退職後四ッ月も経ちて故郷の母に会はんとする我や如何

 朝9:15に家を出て、常磐道を三郷から外環で大泉、大泉から関越道で鶴が島JCTで圏央道に乗り換え八王子、中央道で私の故郷N市まで。300km弱の道のり、途中の食事休憩を入れて4時間半。全体の10km弱が一般道だからほとんどを高速道をはしったことになる。

 見るべき車窓の風景と言えば、中央道の笹子峠の5kmほどの長いトンネルを抜けて、しばらくすると見えてくる甲府盆地ぐらいのものだ。騒音の問題が大きいのだろうが、遮音壁や樹木で仕切られた中に高速道はある。やはり、経済的視点が最優先で物流のためのものだろう。

私のような帰郷ないし観光旅行の場合も目的地にいかに労力をかけず短時間で着くかが、移動のプロセスを楽しむようにはなっていない。観光バスでのカラオケ移動は私の最も嫌いなものだが、高速道路の車窓風景からすれば、「むべなるかな」である。目的地へ着くまでの時間つぶし(暇つぶし)が生じるのである。極めて現代ふうの状況の出現と言っていい。

 寸暇を惜しんで「ゲーム」に興じる子供たちとさほどの差はない。効率的であることが私たちの生活をいかに貧弱にするか、ということを童話作家ミヒャエル・エンデは『モモ』で書いている。

「モモ」という少女が「時間ドロボウ」と戦う話だが、時間というものに対する深い考察が背後にあって、大人が読むのに十分である。

目的にいかに早くいかに無駄なく到達するか、これが現代の特徴で大人も子どもも、そこを圧縮してこなし残った時間を「余暇」と呼び、自分の自由時間として使う。しかし、時間というものは「お金」のように積み立てておくことはできない。時間の本質は仕事をはじめ何かをしている時にしか生じてこない。

 それにしても、「圏央道」の開通は3年後ぐらいになるそうだ。そうすると、私のM市からは「つくばJCT」あたりで乗り代えるとさらに時間的に短縮できるだろうし、ETC車にすれば、料金も下がるだろう。便利を求める心が私の中にないわけではない。

 高速道路見直しがあった時に、猪瀬みたいな視野の狭いやつなど無視して「民主党案」――高速道路の一般道化(ドイツのアウトバーンのように無料化)をしておけば、経済の活性化という点からいっても良かったのにと思う。日本の古代からの官僚中心的やりかたを温存したから、今度の「道路特定財源」問題だって、改革なんか起こらないのだ。

 実家について、昼のビールはうまかった。

      2008・8.8(第1日目)

学者先生信ずるに足らず!

2008年08月06日 16時59分17秒 | 雑記
 
   ・ 感性や情念と切れれば卓見の学者なれども思想なきなり
   ・ 陥穽(かんせい)はいい気でおのれふりかえり

 加地伸行の『沈黙の宗教――儒教』がいいので、親鸞を考えていくのにさまざまな示唆が得られるだろうと予想して、本文を読みながら、加地編著の古い文庫本(『日本は「神の国」ではないですか』)ネットで1円(本代)+340円(送料)を購入して読んでみた。

 当時の森喜朗首相が小渕首相の急死を引き継いですぐ「日本は天皇を中心にした神の国である」と発言し物議を醸したことに対し、一見多角的にこの物議を検討する本の形態をとりながら、森の発言を肯定するものになっていた。

ジャーナリズムの代表としての田原総一朗もいい面の皮だが、こんな本にでも自分の見解がでることがうれしいのだろうか?もう(やはり)駄目だね、この人。
西部邁はまずまずとして、山口昌男、ペマ・ギャルポ(チベット出身の学者?テレビに出演がかなり)などは「刺身のつま」だ。

ほとんどは加地をはじめとする、学者の発言で埋め尽くされている。読むに堪えないんだな、これが。ちなみに学者の名前を挙げておく。長谷川三千子、大原康男、坂本多加雄、中西輝政、西 修。

 森の発言を肯定するにとどまらず、天の肯定、メディア非難など自民党を中心とした保守政権のプロパガンダに堕していた。でも、こんなのが大学教授として、専門家、識者と見做されているのだから、やっぱり日本は「天皇を中心とした神の国」何だろうと思う。

 『沈黙の宗教――儒教』は三分の一で止まっているが、続きは読むだろうとおもっている。

 ブログにこのことを書くのがイヤで、「ブログ書き」ちょっと遠のいた。福田のよく分からない「内閣改造」についても、旧態依然たる保守自民党を良しとすることから出られない、彼の考えが出ていておもしろかったが、書く時期を逸してしまった。

 今度の衆議院の総選挙では「老人パワー」を見せつけてやることも書きたかったが、またの機会にしよう。