ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

山桜を観に行く

2007年03月31日 15時18分41秒 | 雑記
 昨日の「わかちゃいるけどやめられない」の間には、同僚の先生のご実父の葬儀に参列が挟まっていた。私の住む所から東へ12・3キロにある海辺の町で葬儀は執り行われた。
 天台宗での告別式そのものは特別のものではなかった。おもしろかった(不謹慎な言い方か?)のは、親族が野辺の送りに就く前に、斎場の正面に設けられた、細木だけでで組んだ縦長の直方体(80×80×180/cm)を左回りに三度回り、最後にその中を通り抜けて往ったことだ。木組みの上の四隅には左から「悟故十方空」「無・南北」「無故三界城」「無・東西」(・は忘れてしまった字―さびしいことだ)の四枚の布がくくりつけてあった。何となくだが、この世と冥土ないしは浄土との境を象徴するもののように考えられた。このあと、死者に不必要なものということだろうか、銭が撒かれ、拾った人が私にひとつくれた。
 年休をとっていたが、同僚から頼まれた香典のお返しがあったので職場に寄ったら、その撒銭は今日中に使うものだと言われた。私は茨城の出身ではないので、どうしてななかわからないが、「仏」と「死者」が融合している「神仏習合」があるのだろうと思った。そういえば、斎場を出てすぐに「塩」でお清めをしたっけ。

 午後は雨だという天気予報なので、近くの山桜の並木を観に行った。それは2キロぐらいあるだろうか。車がひっきりなしに往来しているのだが、ほぼ満開で、染井吉野にくらべ、やはりずっと品がある。本居宣長が「朝日に匂う」と言った、赤い葉とともに咲く「花」は、でしゃばりでないのがいい。例年、幾度か車で往来し観てきたのだが、道路拡張で、来年はもう観られないだろうと思い、騒音の中ポコリポコリ歩いてきた。山桜はもう時代のなかに消えていくしかないのか。
 街の発展とはどういうことをいうのか、街の文化とは何なのか。行政に聴いたところで、ろくな答えはかえってきやしないだろう。期待などしない。
 桜が染井吉野であってもなんでも、その下に憩ったり、ドンチャン騒いだりできればいい。花見は贅沢だ、不謹慎だ、と誰かが言い出さなければ、それでいい。

 昨日の香典返しのお酒を、今夜は飲むつもりである。
 
 

「わかっちゃいるけどやめられない」

2007年03月30日 19時18分19秒 | 雑記
 唯円の問いに同意しながら親鸞は、その問いを唯円のそれよりぐっと引っ張り広げている。
 そのひとつは、「踊躍・歓喜の心が不十分」なのも、「いそぎ浄土へ往きたくない」のも「煩悩」によるといい(ここまでだったら誰か言いそうであるが)、さらに人はそれでいいと言っているところである。<娑婆の縁がつきて、力なくして終る時に、かの土へは参るべきなり。>と。「わかっちゃいるけどやめられない」という生き方の果てに死んでいいのだ。
 私は無宗教なので、こんな程度にしか言えないが、どこか救われるきがするのである。
 もうひとつは、「踊躍・歓喜のこころがある」のや「いそぎ浄土へ参りたい」というのは「煩悩」がなく、<あやし>いことだ、とまで語たっているところだ。こう言われると、「煩悩」とはこの現世を「生きる力」そのものに思えてくる。

 煩悩を何とかしようとしてか、国家に都合のいい国民を目指してか、中教審の答申を受け文科省は高校にも道徳教育の導入するそうだ。煩悩に鈍感な手つきが見え見えだ。私達の「煩悩=わかっちゃいるけどやめられない」を国家が何とかできる
つもりらしい。

「わかっちゃいるけどやめられない」

2007年03月30日 18時15分50秒 | 雑記
 親鸞の一声は「親鸞も同じ疑問をいだいていたのだが、唯円坊よ、(おまえも)同じ心もちだったんだなあ。」である。自分も浄土は素晴らしいはずなのに、そこへはやく往きたいと思えない、というのである。これもまた、正直な答えだ。
 しかし、ここから先に親鸞の思想といっていい、絶対の極楽浄土と現世の人間の在り方が語られる。以下私の半端な訳を書いてみる。
 「よくよく考えてみると、天に踊り、地に躍(おど)るほどに喜んでいいはずのことを喜ばないのだから、ますます、極楽往生は一定(決まっていること)だと、私は思っております。喜んでいいはずの心を抑えて喜ばせないのは、煩悩(ぼんのう)の仕業である。だから、阿弥陀仏は、このことを前々から知っておられて、われわれを煩悩具足の凡夫(煩悩ばかりの凡人)とおっしゃったのだし、そういうわれわれを救おうと誓願を立てられたのだ。このような阿弥陀仏の誓願こそ、われわれのためだと気付かされると、ますます心強く思われる。
 また、浄土へ急いで往きたい心がなくて、病気にかかたったりすると、死んでしまうのではないかと、心細く思ったりするのも、煩悩の仕業である。はるかな昔から今まで、生まれ変わり死に変わりして流転してきた苦悩の故郷は捨てがたく、いまだ生まれたことのない安養浄土(安楽浄土)が恋しく思われないのは、実によくよく煩悩が盛んだということでしょう。(しかし)、この世との別れ難いといくら思っても娑婆(この世)との縁(関係)が尽きて、力がなくなって、命が終わる時に、浄土へ参ればいいのである。阿弥陀仏はわれわれのように、浄土へ急ぎ参りたいという心のない者を、特に憐れんで、誓願をお立てになったのだ。こう考えれば、阿弥陀仏の大悲・大願(大慈悲や大いなる誓願)はたのもしく、(極楽往生)は、決定(けつじょう)だと思うのです。
 踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)の心もあり、はやく浄土へも参りたいというのでしたら、煩悩がないのだろうかと、きっと疑わしくなることでしょう。
 拙い訳で、分かりにくいかとはおもいますが、ここで親鸞は「煩悩具足の凡夫」こそ、つまり「わかっちゃいるけどやめられない」人間の現世での在り方を肯定しています。      ―もう少し何か言ってみたにので、さらに続けます。―

「わかっちゃいるけど、やめられない」

2007年03月30日 10時24分57秒 | 雑記
 コメディアン、役者、歌手の植木等氏が3月27日に亡くなった。
 テレビ報道では、彼がそれまでの路線を変更し、結果的に世に出るきっかけとなった「スーダラ節」を歌うかどうか、迷っていた時、その父親が「スーダラ節」の歌詞の中には親鸞の言葉があるから、歌うべきだと勧めたそうだ。
 私のうろ覚えの歌詞は次のようなものだ。――ちょいと一杯のつもりで呑んで/いつの間にやらはしご酒/気がつきゃホームのベンチでごろ寝/これじゃ体にいいわけないよ/わかっちゃいるけどやめられない/ア、ソレ、スイスイスーダラッタッタ/スラスラスイスイスイ/スイスイスーダララッタ・・・・・――
 さて、どこが親鸞の言葉か?おちゃらかしている全体の歌詞の中で気になるとしたら、「わかっちゃいるけどやめられない」であろう。ここにピッタリ当てはまる文言が『歎異抄』の九条にある。
 『歎異抄』の著者であり、親鸞晩年の弟子とされる唯円が、親鸞に次のように問い、それに答えているところである。「(極楽往生を信じ)念仏を申していましても、踊りあがり喜ぶ心が不十分でありますし、また、急いで浄土へ参りたい心もございません。これはどのように考えたらいいのでしょうか。」(私訳)
 この唯円の問いと、「スーダラ節」と重ねてみれば、極楽浄土は素晴しいところだ、念仏すれば、そこに往ける、と「わかちゃいるけど」ちっともそういう気持ちにならないばかりか、汚辱のこの現世への執着が「やめられない」、ということになる。
 浄土教の信者としての唯円のこの質問は実に大胆だし、また正直だ。現代の私達の心情としても共通するものがある。私達は死者に対して、「ご冥福を祈る」とよく口にするが、はたして「冥土」の存在を信じ、死者は死後そこに往くなどと本気で考えているだろうか。「信」ということのむずかしさがここにはある。
 これに対する親鸞の応えは、すごい。普通なら「おまえの信心が足りない、修行が足りない」というところだが、親鸞は驚くべき応対をする。

              用事があるので一時中断、続きは後ほど
                 

 

趣味の俳句について

2007年03月27日 22時53分03秒 | 雑記
 趣味の俳句について私の近作を掲げながら、ちょっと文句を言ってみたい。

        ① 春眠のシンクロナイズド・スイミング
        ② 欲しければくれてやるとも芥子の花
        ③ 隠れ酒辛夷の花は満開に
        ④ 花びらになってなお飛ぶ過去の夢
        ⑤ 陽炎に溶け出て芯の白くなる

 なかなか上達しない俳句だが、「有季定型」にどこか違和感があるからかもしれない。明治時代俳句の刷新を提唱した正岡子規は、「無季」も「自由律」も認めている。俳句が滅びてもかまわないとすら言っている。子規の継承者を暗に示しながら「守旧派」を掲げ、「俳句」を「発句」に差し戻したのが高浜虚子だ、というのが私の目下の判断だ。俳句界の「師系」などというものが、いまだに喧伝されるのはその証明であろう。
 上の私の句がそれを打ち破るほどのものでないことを承知で、こんな与太を言ってみたくなる。

4年前と今年の「贈る言葉」を比べて③

2007年03月26日 23時19分33秒 | 雑記
 4年前、「贈る言葉」を書いたときにも卒業生の中に「ひきこもり」ぎみの生徒はいたが、今年のように多くはなかったと思う。というより、私の方がそれに鈍かったのであろう。人の関心というものは、本質的に気まぐれなものだ。私は教師を「解体」したような気がしていただけで、キャパが増していたわけではなかったのだ。
 今回の卒業生と4年間付き合ってみて、もちろん、卒業生より途中で学校に来なくなってしまった生徒や4年を過ぎて来年度なお、学校を続ける生徒の方が数多いということを念頭置いていうのだが、「ひきこもり」―「不登校(経験者)」の数の多さは異様ですらあった。また、スクーリングなどでの、一日中誰とも口をきかない、昼食を絶対とらない、お決まりの席についたままそこを離れない、といった光景には、戸惑うばかりであった。
 私は一方的に好き勝手なことを話しかけ、待った。彼らのそういう態度(行動)や心中を聞き出したり、探ることもしなかったつもりである。むしろ平気で私自身のボケ具合や気の短さや頑固さやアホさ加減を表に出した。要はひとりの自分勝手な「じじい」として、自然に振舞ったのだ。だから、卒業していった今でも、彼等が彼ら自身ついて話してくれた以上のことを私は知らない。
 でも、喉の渇きをおぼえた牛は自分で水を飲み出したような手応えはある。水の獲得の仕方や水の飲み方など、どうでもいいではないか。
 こんな具合で、私の内で「学校」というものが次第に「解体」されていった。
 要領よく単位を修得していく者がいてもかまわなかったし、やり直すため、編入してきた生徒の二の腕の刺青も気になどならなかった。いや、そいつの心根のほうが快かった。
 ぎりぎり学校の体をなしている「通信制」はおもしろい。今年の「贈る言葉」に引用した吉本の「偽の厳粛さ」が、学校の効率化とセットになってますますはびこっていく現在、学校などなくなったていいし、楽しくなければ学校ではない、とつくづく思っている。

4年前と今年の「贈る言葉」を比べて②

2007年03月25日 17時20分59秒 | 雑記
 ①では、私の教師としての「解体」の経験を述べたが、このことによってわずかながら私のキャパシティーは増したように思う。立場上説教じみたことを話すときも相当自分の本音が出るようになった。自分を棚上げする度合が減ってきたのである。
 しかし時の流れにつれて、通信制の生徒構成も変化。生徒の若年化が進み年配の方はどんどん減少していった。
 生徒と私との年齢の較差、価値観の違い、発想や行動様式の違いなどにどう対処したらいいのか。またぞろ、私の中に教師面が出てきたような気がしていた。4年前の「贈る言葉」には、そうした私の葛藤が表現されているように思う。国語の教科書からの言葉の多く引用は、それを仮面とし、その裏側へ自分を隠そうとしていたのではないか。
 文末の「学んだ知識など一度忘れてしまうのが良い。」だけが、私の本音のような気がする。「牛に水を飲ませようと、その顔をいくら川の中に押しつけても水を飲みたくない牛は、決して水を飲まない。」と言われるように、人(教師)が人(生徒)をどうにかし得るものではないと承知していたからである。

                 「贈る言葉」を比べて③へつづく

(24日~25日、30年も前の最初の赴任校の気の合う仲間と毎年やっている飲み会―「菜の花会」に出席。インスリン打ちながらよく飲み、大いに語り合ってきた。お蔭様で胃が文句言い通し。よって、この続きが後日。幾つになってもアホは抜けません。) 

4年前と今年の「贈る言葉」を比べて①

2007年03月24日 10時44分49秒 | 雑記
 4年前の「贈る言葉」を読み返してみて、真っ先に思うことは、私の中で「学校」というものがある種「解体」されているということである。あと1年とはいえなお、教師を続けるつもりがあるのだから自分の中の矛盾がはっきりしてきているとも言える。
 もともと「でもしか教師」としてスタートし、教員生活に常に違和感を抱き続けてきた。どこかで偉そうな人を演じるのは、柄じゃあないな、と思ってきた。20cmほどの高さの上のピエロだと言い聞かせてもきた。しかし人はいいかげんなもので、そういう思いが常に保たれるわけではなく、実際のそれぞれの場面では、いわゆる「教師」として振舞っていた。生徒に対しても、同僚の教師に対しても「いい先生」でありたいと望んだり、評価されたいとしたのである。ひと言で言えば、幾人も生徒を傷つけてきたということだ。生きていくのに、人を傷つけ人に傷つけられずに済まそうと、考えたことはなかったとしてもである。
 こんな私の「教師」としてのあり方が見事に「解体」されたのは、「通信制」に勤務して、退職して間もない60歳のAさん(男性)と、娘さん夫婦と同居している同じく60歳のSさん(女性)を筆頭に年配の生徒さんが多くいるクラスを担任したことに因る。当時43歳だった私が、彼らに何を教えられるというのだ。先生、先生と何かにつけて私を立ててくれるなかで、私が彼らに教えられるのは少々の国語の知識に過ぎぬと思うようになった。彼らの行動や発言には60年を生きてきた重みや厚みがあり、若造の私は、逆に教えられることの方が多かった。
 教師面などここでは何の意味ももたない。20cmの教壇は彼らとの4年間の付き合いの中で消失して行った。勉強ができるとかできないとか、仰々しく騒ぎ立てる昨今の学力基準はもちろん二の次になる。Sさんの英語のテストはいつも合格点ぎりぎりだった。当然評価は「2」だ。「先生、教科書を読み終わると始めの方忘れちゃう。」とこぼしていたSさんの「2」は何を物語るのか?
 Aさんは4年生の秋口体調を崩して入院。退院して、きっちり卒業していったが、その年の夏、死んでしまった。「癌」であった。

                     「贈る言葉」を比べて②へつづく

「贈る言葉」・4年前③

2007年03月23日 21時19分38秒 | 雑記
 ここまで述べてきたことは、第二次大戦後の混乱期に生を受け、団塊の世代といわれる私が、豊かな時代に生まれ、何を考えているかよくわからないといわれる、今時のみなさんと四年間付き合ってきて(私に近い世代の生徒さんは除きます。)抱いたひとつの考え―イメージです。皆で使う教室なのに掃除をしない、上履きを忘れれば、何の躊躇もなく、断りもなく学校のスリッパを履いてしまう、そういうみなさんの行動を見ることは、他人の視線からするとたまらなく寂しいことであり、つまらないことでありました。「今」はどこか稀薄であり、「場」はモザイクのようにバラバラになっているように感じられて仕方なかったのです。
 ウザッタイ言葉を書き連ね、苦手意識を多少緩和して、やっと「ご卒業おめでとうございます。」の後が続けられます。みなさんが通信制での(標準的には)四年間、自分流に学んできたことは紛れもない事実です。そして、田辺聖子の『名を知る風流』のなかの言葉のように、「花鳥の名前を覚えたら」―各教科でさまざまな知識を得たら、「それを知識にとどめず、実際の人生で使いこなすこと」が大切になります。
 国語の教材の文章などもう忘れてしまったという人も多いかもしれません。しかし、それでいいのだと私は思います。私達は食べ物を摂取し、それが形を変え消化されることによってエネルギーになるように、「知識」もまた私達のなかで消化され生きる力にならなければ要をなさないからです。
 パスカルが『パンセ』のなかで述べていた「よく考える」こととはここから始まるのではないでしょうか。知識は考える道具ではありませんし、時に考えることの邪魔さえします。「学んだことなど一度忘れてしまうのはよい。」
 これが私の贈る言葉です。

「贈る言葉」・4年前②

2007年03月23日 06時42分17秒 | 雑記
 最近私が気にいっている言葉に「自己領域化」というのがあります。これは現代文の中の『情報にもてなされるということ』の筆者芹沢俊介の「引きこもり」について書いた本のなかの言葉なのですが、現代の若者の価値観をとらえるのに相当有効な言葉だと思われます。
 これを用いて実際の現象を眺めれば、他人と共に行動しながらたったひとり楽しんでいるウォークマン、どのような場所にも進入してくるように用意されその回線をきることのできない携帯電話、自分の顔が気にいらないといって気軽になされるプチ整形、体のところかまわず付けるピアス等等、すぐに事例が思い浮かびます。ここでは、自己の司宰は自己であり、自己の心身は自己のもの―自己の所有物であるという基本から発想されているのでしょう。
 自己といわれるものの内にあって意識化できない血や細胞や内臓、さまざまにうごめく情念といったものは、さきの仮面のように形を得て他者の視線に曝されるようにはなっていないのです。その意味で素顔―剥き出しの自己はささいなことに動揺し、傷つくしかありませんし、生きて動くことを止めぬ心はちょっとした抗力にその安定を失い、すぐに「切れ」たりするしかありません。
 これは『私の個人主義』で夏目漱石がいった「自己本位」とは違います。漱石は自己の「自己本位」と他者の「自己本位」を原理的に認めるがゆえに、その自己本位を「個人主義」と呼んだのだし、人々と共につくる社会のなかにある「自己本位」ゆえ、「義務」について多くのページを割いていたはずです。他者と共有する領域を拒み、常に自らの居心地のよさを求める限り、自他の輪郭を曖昧にしたまま「自己領域」を肥大化していくほかはありません。しかし、森鴎外が『高瀬舟』のなかで描いていた、喜助の「知足」からはずいぶん遠いものでしょう。

                      「贈る言葉」・4年前③へつづく

「贈る言葉」・4年前①

2007年03月20日 19時13分38秒 | 雑記
 4年前の「贈る言葉」の草稿が見つかったので、今度の「贈る言葉」へどのように変化してきたか、眺めてみたくなった。
 そこでまず、4年前の「贈る言葉」の草稿を述べてみることにする。

 ご卒業おめでとうございます。と書いて、後が続きません。結婚披露宴でのスピーチとおなじで、妙な苦手意識が立ち現れてきてしまうからです。ここでは、こんなことは気にせず、みなさんへのオマージュを述べればすむことなのに、私の中になにか引っかかるものがあるのです。
 みなさんの通信制での頑張りやご苦労がわからぬわけではもちろんないし、その結果の卒業を讃えるのもやぶさかではありません。しかし、みなさんへのオマージュを連ねようとして立ち現れてくるこの苦手意識の底には、私の気持ちを裏切る何か、隠れてしまう何かがあるのです。たぶん紋切り型のオマージュが仮面のように感じられるという私の抵抗感に根ざしているのでしょう。
 現代の私達は仮面という言葉を否定的ニュアンスをもって使います。これは、仮面が私達ひとりひとりの思いを吸いとって一般性を獲得しながらなお、生き生きと社会で機能していた時代が終わったことを意味しているのでしょう。かといって、、素顔が一番という素顔が一体どのような形―輪郭をもって他者の前に表れているのか、はなはだ心もとないものがあります。

                           「贈る言葉」。4年前②へ続く

景徳鎮千年展(茨城県陶芸美術館)へ行く

2007年03月19日 19時31分07秒 | 雑記
 昨日の午後、笠間市にある茨城県陶芸美術館で開催中の「景徳鎮千年展」を見に行ってきた。
 元や宋時代の初期のものから、上絵付が施され色彩がどんどん豊かになるにつれて、青白磁を焼いた時の「驚き」のようなものが薄れていってるように思われた。かつてご馳走だったものが手軽に食べられる「飽食の時代」といわれる現代を、つい連想てしまった。技巧を推し進めながら「力」を失わないでいることは難しい。人とは傲慢にして狭量なものだ。
 加速していく老いのなか、私もまたケチ臭く己が考え方に固執していくのか?

 「千年展」の第二会場は<7501工程―毛沢東の器>で、白磁に梅と竹を描いた日常の食器がまとめて展示してあったが、もういけません、毛沢東を恐れてか、毛沢東の審美眼を見くびったのか、現代の化粧上手の女の子のようなものの羅列であった。「文化大革命」の正体、ここにあり、という感じだであった。創作と呼べるようなものは皆無で、職人の怯えのような手つきが十個も並んだ杯には漂っていた。
 この時の職人たちの顔写真まで出して紹介する、この展覧会の企画者は何を考えているのだろう。毛沢東は歴史上の有名人だから、そいつが権力にまかせて作らせた物がから価値があるとでも思っているのだろうか。政治的に保守王国を誇る北関東の茨城県人の長く辺境にあったコンプレックスがなせるわざか。共産主義などというようなものを忌み嫌っていたはずだ。満蒙開拓団を率先して輩出ことへの陳謝か、わけがわからない。見て回る人は、マイセンの磁器にも匹敵するととでも思って見ているのだろうか。
 私はさっさと会場を出た。私の鑑賞眼がいいとは、少しも思わないないままに。
つまり、それほど私にとってはおもしろくなかったのだ。

贈る言葉草稿・余波③

2007年03月18日 20時35分38秒 | 雑記
  贈る言葉・余波③
 吉本の『ひきこもれ』の考えざるをえないことの続き、もうひとつは、「子どもの自殺は親の代理死である」という一読して、「ええ!」と思わず虚をつかれてしまうところだ。
 <子どもがいじめられて自殺したような場合、親の代わりに子どもが自殺したのだと思えば、それが一番真実に近い。><親が子どもに、「命は大切だぞ。いくらいじめられても、死んだりするものではないよ」などと、いくら言っても無効だ。なぜなら、子どもの自殺は、親の代理死なのだから。><ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死なない。自殺する子どもは育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶がある。傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすい。><精神の体験として、死を選ぶほどの体験を、子どもがみずからしているわけがない。結局は、親の真似である。心の奥のほうで、無意識のうちに「死にたい」思っているが、実行に移さない親の、その死への傾斜を、これまた無意識のうちに感じ取った子どもが何かのきっかけでそれを実行に移してしまう。><カウンセラーが、自殺願望の強いクライアントと面談したそんの日、なぜだか電車に飛び込みたたくなるそうだが、それはクライアントの自殺願望がカウンセラーに転移してたとしか考えられない。大人だってそうなのだから、親の死にたい気持ちを子どもが実現化してしまうことは十分考えられる。><自分の子どもに自殺された親たちが集まって会を作り、自殺防止の活動を行っていると聞くが、世間を啓蒙して回る前に、自分自身を見つめたほうがはやいにではないか。>
 吉本はこの後、大宰治や三島由紀夫の自殺について書いているが、人の心、人の行動の迷妄に鋭く光を当てている。フロイトの「死の本能」にも触れえているし、親鸞の「阿弥陀仏の誓願(第十八願)」を信ぜずにはいられない、ぎりぎりのところまで迫っているようにも思われる。
 『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』(だいわ文庫)、老いを迎えている私と同じ団塊の世代の人にも、閉塞感を感じつつ気散じに漂流している若者にも読んで欲しい本だ。大勝軒のラーメンより価格は安い。
 

贈る言葉草稿・余波②

2007年03月17日 00時42分25秒 | 雑記
    贈る言葉草稿・余波②

 「贈る言葉」の中で引用した吉本の『ひきこもれ』には、「偽の厳粛さ」のほかに考え込まざるをえないことが書いてある。
 そのひとつは、「いじめっ子」もまた、いじめられっ子同様に傷ついているという指摘だ。
 総理大臣の諮問機関である「教育再生機構」のメンバーの居酒屋の経営者や元ヤンキー先生などという連中が、「いじめっ子」を登校禁止にするべきだと声高に語っていたとき、「いじめっ子」のひとりが自殺した。たまたまテレビを見ていたら、元ヤンキー先生の講演が流れていた。その中で彼は「いじめられっ子がいじめる側に回っていた」と、歯切れの悪いことを述べていた。「いじめは悪い」「いじめられる者の苦しさ」を情感たっぷりに繰り返し、聴衆の中には涙する者もいたが、いじめっ子登校禁止論は、ついに語られることはなかった。私の印象に残ったのは、彼の正義ぶった顔の大写しだけだ。いじめっ子の心情ぐらいは自らのヤンキー経験から分かりそうなものだと思えてしかたがなかった。ヤンキー時代の経験より、そこから学校の先生になったことの経歴の方が大切なのか。ヤンキーに走った時と、先生になった時とを繋げることができたていたら、いじめっ子登校禁止は出てこないだろう。自らが荒れていたヤンキー時代、「おめえ、誰もいじめたことはねえのか」と言いたくもなる。
 吉本の「いじめっ子」もまた傷ついているという指摘は、具体的ないじめ行動がなくたって、誰でもが経験したちょっとした意地悪やその時の心情を振り返ってみれば、そこに共通するものがあることに気付かせる。
 いじめは大人の世界でも現に横行しているではないか。リストラと称し、サラリーマンが解雇を強いられたときも「いじめ」的なものが多かった。そういえば、この間の衆議院選挙では自民党の党首が「いじめ」やってた。
 子どもたちはああいうのを見逃してはいないものだと思う。
 追加: 昼間「メレンゲ」という番組にヤンキー先生が出演していた。ヤンキーをやめるきっかけが余市高校の女性教師の愛情にあることを語っていたが、自らの傷ついてヤンキーをやっていたことの自覚はみられなかった。思ったとおりだった。                                余波③へ続く

贈る言葉草稿・余波①

2007年03月15日 19時06分07秒 | 雑記
 卒業生への「贈る言葉」を書き終えて、なおもやもやするものがあるので、それをとりとめもなく書き添えたいと思う。
 あの文章の中に引用していた吉本隆明の『ひきこもれ』という本は相当深いところから発せられていて、我々の常識を突き破っている。
 「偽の厳粛さ」は学校に限らず、我々が大小さまざま属している共同体の中に見出すことができる。私は町内会の班長をこの1年務めてきた。町内を住みよいところにしようという意図はわかるが、実際は、建前に沿った話し合いや行動に終始してきた。町内会を束ねる上部組織があり、そこは市の行政に癒着(言い過ぎか?)していて、動員がかかるさまざまな集会やイベントには市長だの市会議員だの、果ては国会議員の<ご臨席を賜り>、それをありがたがり、なにか有意義な時空がもてたと評価する。そういう人たちを見ていて私の中にはずっとしらじらしいものが滞留していて、速くそこから解放されたいと願うばかりである。
 吉本も学校の「偽の厳粛さ」の後に、<2002年の議員秘書給与の流用問題にしても、あれは結局、偽の真実さを競い合っているのです。実に馬鹿馬鹿しい。あの政治家たちを見ていると、小学校の時の教育が悪かったのだろうと思わずにはいられません。「偽の厳粛さ」を人一倍学習すると、あんなふうになってしまうよ、ということです。子どもの頃にみにつけたものは、長くのこりますから。>と述べている。
 市民集会が「やらせ」なのは、みんなが承知していることであって、日当を出したのどのというマス・メディアの報道などもまた、どこかに自己欺瞞を隠蔽している。