ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

フーテンGG気まぐれハイク №307  妄想に・・・

2010年12月23日 09時35分17秒 | 俳句

307                  ○ 妄想につながっている曼珠沙華

 「曼珠沙華」という花は、墓地に咲いていいた幼い時の記憶が強くあって、好きなんだか嫌いなんだかよくわからない花である。

この頃、曼珠沙華の花を群生させて、見せるのがテレビなどで報道されているが、見てみたいとは思わない。

幼い時の記憶がどうも邪魔をしているからだろうと思う。

曼珠沙華→墓地→黄泉の国、土葬された遺体の土に帰っていく様子が連想されるからだ。

この句の「妄想」の核は、どうやらこのあたりにある。

なんとかやり過ごしている、日々の暮らしを相対化するように妄想は広がってとめどがない。

朽ちていく遺体に根を持ち、そこから地上に花だけを突き出している、そんなふうに曼珠沙華はどうしても見えてしまうのだ。

墓地以外でも曼珠沙華は咲くのだから、こんな記憶に拘泥する根拠はない。

だが、大きな生命と個別の死ということを考えたり、くりかえされる生死を思ったりすると、曼珠沙華につながっている妄想は、単なる妄想とも言い切れぬ。

妄想は人間だけが抱き得るものには違いないが、曼珠沙華につながっている、この妄想、意外と深いところに根拠を持っているかもしれない。

 ひるがえって、秋葉系に象徴される若者たちが虚の上に現実(幻想)を展開しているのと、この句の「妄想」はどこかで重なり合っているようにも思われる。

フーテンGG気まぐれハイク №306  痛む歯の・・・

2010年12月18日 10時51分01秒 | 俳句

306                  ○ 痛む歯の火の放ちたい枯野かな

 「痛む歯」に限らず、心身のどこかの調子が悪い時などに、もし枯野にさしかかったら、「火」などつけてみたくなるのではないか。

そんな程度の句である。

子供の頃、まだ悪ガキグループが存在したころのことだが、中流域の狭い河川敷の枯草にみんなで火を点けたことがある。

ガキ大将が、マッチを持っていたからだ。

子供がマッチなど持っていれば、親からきつく怒られた時代のことだ。

ガキ大将が火を点けるまでは、好奇心があふれていて、どうなるかなど、たいして考えていなかった。

ところが、火を点けたら瞬く間に火は広がり、自分たちの手に負えないものになった。

ガキ大将の命令一下、「消せ」ということになった。

10人足らずのガキどもは必死で燃え広がっていく火の境目を踏みまくった。

どこを踏み消せば、火がどっちに広がるかなどというもくろみも働かず、みんな無我夢中だった。

結局、枯草が途切れるところになって、やっと踏み消した。

今思えば、それほどの面積ではなかっと思うが、奇妙な安堵感だけが記憶にある。

昼間のできごとだったので、親にバレることだけが心配だった。

けっこう大人はこうしたことを見ていて、親に連絡することが多々あったからだ。

 俳句とは関係ない話になってしまったが、「火」はこんなことを時折思い出させる。

「火」への恐怖、という原始的な感覚があるのかもしれない。

この句、「枯野」という季語から見ていくと、さほどではないが、句全体が比喩になっていると見ると、もう少し違ってくるように思う。

人は、大人も子供も「痛む歯」のようなものをいつも抱いて生きている。

それは、小さな火のようなものだが、どうかしたきっかけで、大きな火になって、外に現れる。

「枯野」にいるような気分で日々を送っている、私のようなジイさんだって、それは変わらない。

そうとると、「老人」の鬱的状態を詠んだ句と言えないこともない。

老人の自殺、老人の犯罪は、これからますます増加する時代になっていくことを予感した句ということにもなる。

 我田引水きわまりない、自註にもならない文章だが、勝手気ままに書いてみた。

フーテンGG気まぐれハイク №305 漂泊の・・・

2010年12月15日 10時34分53秒 | 俳句

305                ○ 漂泊の思いのなかに引きこもる

 結婚をし、家庭をもって、平凡な俸給生活を送ってきた者にとって「漂泊」することなど、そうそう許されることではない。

社会の網の目のなかに繰りこまれて日々を送る、そうしたことを放棄しなければならないからだ。

 昨年の8月、リタイアを記念して、10泊11日で秋田の横手・八森、海岸線経由で竜飛岬、恐山、大間岬、龍泉洞、浄土ヶ浜、碁石海岸、気仙沼、松島、と海岸線を中心に、約2000kmを旅して来た。

傷だらけの四駆車に車中泊の用意(結局車中泊なし)もしての旅だった。

宿はすべて飛び込みでその場その場で決めたから、当たり外れもおもしろかった。

連れのないひとり旅は、風景と自己、自己と自己との対話があるばかりだった。

杜撰な計画で出発したので、宿の予約はしなかったので、その日の宿探しに時間がかかった。

地図で当たりをつけ、カーナビに適当な場所を打ち込んでの移動は、助かりもしたが、そう面白いものではなかった。

小さく目的を設定し、自らを設定のなかに置くからである。

なかなか、足の向くまま気の向くままとはならない。

夜になると、家族割りで無料の電話が、「カミさん」から掛かってきて、その日のできごとを話した。

旅先で話しこんだのは、埼玉の公務員の若者とだけだった。

計画の「大筋」は、アポなしで4人の友人を訪ねることであったが、3人には会うことができた。

この出会いは、意外性があってよかった。

時間が逆転することもなく、昔日とつながったからだ。

30年以上の時間は果たして経過していたのかどうか?

大森荘蔵は「時は流れず」といったが、まさにそういう感じがしたものだ。

人生はよく旅に喩えられるが、さてどうだろうか?

まして漂泊の旅となれば、一層のことだ。

旅の楽しみは、旅に出る前、さまざまに思いをふくらませるところにあるように思う。

「ふうてんの寅さん」を実際にやろうとすれば、映画のように、「楽しく、物悲しく」いくとは思われない。

フーテンGG気まぐれハイク №304 ほのぼのと・・・

2010年12月09日 09時55分29秒 | 俳句

304               ○ ほのぼのとしないところよ舌の根は

 言われてみれば確かにそうだよな、と思う人がいるかもしれないし、「舌の根」が「ほのぼの」するわけがないと思う人もあるかもしれない。

 「舌の根が乾かぬうちに・・・」という言葉もあるから、「舌の根」というやつは、常に蠢いていて何かの拍子で、「言わずもがな」の言葉を含め、言葉を発しようと身構えているものではないか。

私などの場合、くだらないお喋りジジイだから、不用意な発言がとくに多い。まずいことをつい言ってしまい、それを打ち消すべく言葉を重ねて、思いとは逆に、さらに情況を悪化させてしまうことも、しばしばである。

また、人の話を聞いていて、どうしても「突っ込み」を入れたくなることもよくある。

舌の根はもう活発になっているが、ぐっと我慢して言葉となるのを抑えることもままある。

テレビなどは、画面の人がこちらに反応することはないから、言葉に出したり抑えたり、とけっこう忙しく見ている。

「舌の根」は心と身体の合流点のようなところで、いつも蠢いていて、休むことがないように思う。

眠っている時だって、時に「寝言」として言葉を発したりすることだってある。

「舌の根」は寝ても覚めても、意識的にも無意識的にも、なかなか「ほのぼの」としないものではないのか。

フーテンGG気まぐれハイク №303 国言葉・・・

2010年12月03日 20時51分44秒 | 俳句

303                ○ 国言葉瞬時に橋をかけわたす

 そのまんまで、たいしておもしろい句ではない。

「国言葉」を耳にして、その人に同郷だというだけで、わけもなく親しみを覚えた、とか、自らの故郷やそれにまつわる人々を連想したというのが一般的の解釈だからだ。

 以前、俳句は褒めようと思えばいくらでも褒められるものだ、ということを述べたと思う。

その伝で、褒めてみる。

「瞬時に橋」がかかる、というのは、作者は予期せず「国言葉」に出会ったことをよく示している。

この予期せぬ出来事を機に、さまざまに想念が広がっていくのもいい。

 また、この句が異国でつくられたとしたら、「国言葉」は「母国語」ということになる。

そうなるとこの句、きわめて現代的な情景を詠んだことになる。

さらに、異国の人と酒かなんか飲んでいた時、その人の国の言葉が耳に入ってきて、その人がそちらを見る、そんな場面をイメージすることもできる。

こっちの方が、現在の日本ではよく目にする光景だろう。

季節やその移りゆきが曖昧になっている現代日本にあって「季語」を以って句全体をくくったり、支えたりするのよりましではないか。

「褒め」の例を示してみた。そう気分のいいものではない。