ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

フーテンGG気まぐれハイク №318   物騒な・・・

2011年02月23日 11時00分05秒 | 俳句

318                  ○ 物騒な涙をこぼす女かな

 「こぼさ」ないにしても、「涙」というものは、その人の感情の表出だから、それを見るとすぐにその理由を考えたくなるものだ。

涙に結実する感情は、は、可笑しいものから悔しいものまでそうとう広範囲にわたる。

それを見ている者にとって、すぐにわかるものから、なぜ泣いたのか、よくよく推量してみないとわからないものもある。

 この句の「涙をこぼしているのは女」だから、何かというとすぐ涙をこぼす女性の場合は、涙の出どころを、さらに複雑にする。

女性自身にその理由を訊いたところで、明確な理由が返ってくるとは限らない。

ご本人だってうまく説明できないのではないか。涙がこぼれちゃったのだから仕方ないという答えも多い。

 「涙」を「こぼした」ときの感情なり思いなりが、時間を置いて、行動、振る舞いとして出てくることはよくあることだし、
心の核のようなところから「涙」が「こぼれ」ていることなれば、人の生き方まで変えることだってあり得る。

「物騒な」という思いは「涙」から時間を置いたところで、その涙を忘れた他人にはよく起こる。

私などは、女性の涙がかわいらしいなどと思うことはまずないから、すぐ忘れてしまう。

もっと深いところからの「涙」の場合は、長い時間をかけて緩やかに、行動や振る舞いや考え方の変化として出てくるから、私のような者の「(人」知」をこえている。

変化に気づいた時点から、振り返ってもその「涙」に思い当たることは、まずないからだ。

 いろいろ屁理屈をつけてみたが、この句は直観的にできたものである。

フーテンGG気まぐれハイク №317  トランプの・・・

2011年02月19日 17時03分24秒 | 俳句

317                 ○ トランプの一番上は寒かろう


 積み上げられたトランプの山の一番上は、片面しか他のカードに触れていないから、「寒いだろう」という句である。

「一番下は重たかろう」ということも含意されているし、「中ほどあたりは安楽だとか、温かろう」いうことも含まれる。

「寒い」というのは季語には違いないが、そこに重力をかけ過ぎると、この句の多義性が消えてしまう。

ないしは、遊び終ったあとのトランプがぽつんとテーブルなどに置かれている妙な思い入れのある情景になってしまう。

実際この句の場合、季語は突出することなく全体の中にまぎれ込んでいる。

そのせいか、積み上げられたトランプ、その一番上は、読み手のさまざまな受取り方を可能にしている。

スペードのAのような組織のトップの寂しさとも、窓際に追いやられた者の悲哀とも、友達から仲間はずれにされた心情などさまざまにとってもかまわない。

 実際の暮らしの中で、トランプを見たり、寒さを感じて作った句ではない。

だいたいの骨子というか、着想は半年も前に得ていたものである。

フーテンGG気まぐれハイク №315  千鳥足・・・

2011年02月15日 14時20分56秒 | 雑記

315                  ○ 千鳥足千両の実を抱きかかえ

 これも兼題。植物の「千両」「万両」という季語を一句に入れる約束。

季語から発想して句を作ることはないから、歳時記を引っ張り出して、季語の説明、例句を読んで、どんなふうに季語が使われているのか当たってみる。

俳句を作っている人は、たいていこんなふうにしているのではないか。

さらに、実際の「千両」や「万両」の木や実を観察したりするのだろう。

そして、写生的に一句なしたり、「千両」「万両」の季語と他の事柄を組み合わせて一句にする。

この句も二つの事柄の組み合わせ、「配合」の句である。

「実千両抱きしめている千鳥足」と作ってもかまわない。

「千鳥足」と「実千両」を配合したことで、少しニュアンスが変わるぐらいだが、多分、このあたりに「詩の表現」の問題がある。

公平に見てこの句がいい作品だとは思わないが、「千鳥足」はいいかげんな私の生き方のようなものであり、そんな私にだって「千両の実」のような赤いものを抱いて生きている、というようなことを重ねたつもりである。

こんな意図をこえたところがあればと思うのだが、酔っ払いが、正月用の「実千両」を大事に抱えて帰宅するぐらいのイメージぐらいしか作っていないのだろう。

とはいえ、神棚も仏壇もない家庭が増えている。

歳用意のための餅つきをする家庭はほとんどないし、鏡餅だって、スーパーで大小様々のサイズで売っている。

それもカビないようにしっかりラップされている。

そういう点からすると、「実千両」という季語と現実での生活は乖離している。

この間、テレビで「食べ物の旬」を当てる番組をやっていた。

その時「苺」の旬は「冬」が正解。

季題集で見ると「苺」は「夏」。

露地栽培の苺は、市場としては「旬」を構成していないことになる。

俳句には「季感」が大切だなどと言われると、首を傾げたくなる。

フーテンGG気まぐれハイク №314  神々の・・・

2011年02月12日 10時21分50秒 | 雑記

314                  ○ 神々の憎悪を思う核兵器

 この句、兼題、「核」に応えた句である。

つまり、句の中に「核」という語を入れるという約束から作ったものだ。

「核心」でも「核家族」でも「~の核」でも、「核」の字さえ入っていればいい。

季語を用いようとすると、季語の使い方ににも工夫しなければならないから、だいたいは、季語一句と「核」を含んだ一句とに分ける二句一章になることが多い。

それぞれの二句をぶつけたり、二句の間に比喩的表現しなければなる。

無季の句の場合は、季語に句全体を統御させることも、季語の伝統に左右されることはないから気が楽だと言えば言える。

しかし、季語がかもしだす安定感は期待できないから、一句に仕立て上げるのには苦労することになる。

 内容的にはさほどのことを表現しているとも思えない。

さまざまな神々にとって「核兵器」の前ではそれぞれが無力であることを思い知らされ、「憎悪」していると、作者が考えているというだけだ。

今評判の「トイレの神様」だって、「核兵器」を憎悪しているに違いない。

いや、汚れも臭いも削減された「トイレ」には、もう「神」は住んでいないのかもしれない。

人の欲望がトイレの清潔感を追求した結果である。

敵にいかに打撃を与えるかを追求して「核兵器」も誕生した。

 節分の豆まきは、家の中の「鬼(邪神)」を追い出すためのものだが、さて、今時の家に「鬼」の住む場所があるのか、そんなこと思ったりもする。

フーテンGG気まぐれハイク №313  飛行機は・・・

2011年02月07日 16時38分53秒 | 俳句

313                  ○ 飛行機ときたら休暇ばかり乗せ

 正月、ハワイなど海外から続々芸能人たちが帰国している情況をテレビのレポーターが大げさに報道しているのを見ていて作った句である。

レジャー以外の乗客もいたに違いないが、消費で社会が成り立っているとすれば、ビジネスの乗客も「休暇」のなかに含めてもいいように思う。

ビジネスシートは、エコノミーシートより値段が高いではないか。

 すし詰めシートの格安航空が日本にも乗り入れ、評判になっているが、こうなると、旅のプロセスは棚上げされて、飛行機のみならず交通機関は、移動の手段だけに効率化される。

「休暇」を乗せた飛行機は、実は「休暇」を乗せないという皮肉になってしまう。

 この頃、一万歩を目標に散歩に出ることがよくある。

道はたいがいつながっているから、車道をそれ、利用者の少ない道を歩くのだが、何の変哲もない家のたたずまいがけっこうおもしろい。

金をかけて建てた家、そうでない家。新しい家、古い家。持ち家、借家。駐車場付きの今風のアパート。空き家を思わせるほど静かな家。等々。

どんな人がどんなふうに暮らしているかまで詳しくは想像しないが、住人が若い世代か、そうでないかぐらいはわかる。

結局私なんかと同じように平凡に暮らしているのだろうと思う。

 車を運転してサッと通り過ぎていた道路端の家もそうだが、そのちょっと奥、ちょっと入り込んだところなどを歩くのは、けっこう発見がある。

今日は一万歩とはいかなかったが、散歩していたら、孟宗竹の林の伐採場面に出くわした。

パワーショベルの先のアタッチメントを変えて竹の一本をつかまえ、一定方向に軽く倒し気味にしておいて、もう一人がチェーンソーで切る。

竹はいとも簡単にほぼ同じところへ切り倒されていく。

この地域に住み着いて三〇年以上見続けてきた竹林が、あと数日でなくなってしまうのかと思うと、他人の竹林だが、おしい気がしてならない。

十五、六分見ていただろうか。

車でけっこう通る道だから、普段なら、一秒もかからず、ちらっと見て通過していたことだろう。

 掲句と、関係ない話になってしまったが、
交通機関の発達に伴って、私たちは距離的にずいぶん遠くまで短時間で行くことができるようになった代わりに失ったものも多いということが書きたかったのである。