293 ○ 嘘をつく背中というを見せられる
まあ、背中というものもその人の無意識の「嘘」を表現し得ると言える。
お喋りのとき、何かの拍子にその人が「背中」をみせたとき、「あっ、こいつ嘘ついてるな」と思った経験はけっこうあるんじゃないか。
「嘘」とまで言えぬとしても、「話、作っているよな」とか「誇張しているなあ」とか思うことはあるだろう。
こんなことを俳句に仕立てたという程度の一句で、さほどの深みがあるあるとも思えない。
以前、俳句は褒めようと思えば褒められ、貶そうと思うとけなせるものだと述べたことがある。
もし、この句を褒めようとすれば、
言葉は「嘘」をつくのは当たり前だが、背中もまた「嘘」をつくものだということを発見したのがこの句の手柄だ、
「見せられる」という受動的表現には、その発見の驚きやインパクトを十分含ませている、「嘘をつく背中」がどんなものか読み手の想像を刺激している、
ということになろうか。
逆に、けなそうと思えば、
その最たるところは「背中というを」の表現で、これは「散文的」・「説明的」で一句としては冗漫で「切れ」が悪い、
もっと緊密な構成にして「嘘をつく背中大きくなってゆく」とでもしたらいいだろう、
といったことになる。
季語がないから俳句ではない、という門前払いもある。