ブルース・フーテンGG

団塊の世代日記(世の中にもの申す!・自分にもの申す!)

フーテンGG[気まぐれハイク」№293 嘘をつく・・・

2010年09月24日 13時41分24秒 | 俳句

293           ○ 嘘をつく背中というを見せられる

 まあ、背中というものもその人の無意識の「嘘」を表現し得ると言える。

お喋りのとき、何かの拍子にその人が「背中」をみせたとき、「あっ、こいつ嘘ついてるな」と思った経験はけっこうあるんじゃないか。

「嘘」とまで言えぬとしても、「話、作っているよな」とか「誇張しているなあ」とか思うことはあるだろう。

こんなことを俳句に仕立てたという程度の一句で、さほどの深みがあるあるとも思えない。

以前、俳句は褒めようと思えば褒められ、貶そうと思うとけなせるものだと述べたことがある。

もし、この句を褒めようとすれば、
言葉は「嘘」をつくのは当たり前だが、背中もまた「嘘」をつくものだということを発見したのがこの句の手柄だ、
「見せられる」という受動的表現には、その発見の驚きやインパクトを十分含ませている、「嘘をつく背中」がどんなものか読み手の想像を刺激している、
ということになろうか。

逆に、けなそうと思えば、
その最たるところは「背中というを」の表現で、これは「散文的」・「説明的」で一句としては冗漫で「切れ」が悪い、
もっと緊密な構成にして「嘘をつく背中大きくなってゆく」とでもしたらいいだろう、
といったことになる。

季語がないから俳句ではない、という門前払いもある。

フーテンGG[気まぐれハイク」№292 金魚買う・・・

2010年09月18日 10時30分28秒 | 俳句

292            ○ 金魚買うたまたま人に生まれつき

 「金魚」を「熱帯魚」に変えた方が、「人に生まれついたもの」のそのエゴイズムがもっと強く出る句になるような気もする。

ヒューマニズムとう言葉は「人道主義」などと訳されるが、「人間中心主義」と訳すほうが、実情に近いのではいか。

「買われた金魚」はそれを眺める人間の楽しみのために供されるのであって、「金魚」は水槽であれ池であれ、与えられた環境に従うばかりで、その生命の生死も人間が握っている。

また「金魚」はその姿や泳ぐ様の良さや珍しさから商品としての価値が生まれ、売買される。

このことは、昔から今でも変わらない。

商品としての「生き物」の売買の範囲を広げれば、他国から輸入する「熱帯魚」をはじめ昆虫、爬虫類、さまざまな動物にまで及ぶ。

近代に入って登場した動物園などはその象徴だといえる。

 人間というものは厄介なもので、その生命の最低限の維持ができれば、満足するものではない。

着る物だって、寒さ暑さがしのげれば何でもいいわけではないし、栄養が十分ならば、食べ物がうまかろうがまずかろうがかまわないわけでもない。

住居にしても、安全に雨露が防げればいいということでもない。

これをいかにいいものにするかに人類は腐心してきた。

歴史だの文化などというものはこの記録であろう。

 人間が社会をつくり、つまり共同体を構想することによって、「種」として安全に暮らすことのなかで、「金魚」は買われ、鑑賞される。

社会のなかで生きることは、楽しいことばかりではないから、その慰めを人は求めるわけだ。

一日の大半を「食う」ことそれ自体に費やすような原始的な生活を望まないところで人類は生き延びてきたのではないのか。

 ずいぶんおおげさな話になってしまったが、こんなことを言ってみてもいい句だと、とりあえず評価しておこうか?

フーテンGG[気まぐれハイク」№291 さびしさを・・・

2010年09月13日 08時53分24秒 | 俳句
291        ○ さびしさをたたむやタオル湿りあり 

 干したタオルをたんだとき、乾ききっていなかったのか、かすかに湿った感じがあったという句である。

作者のモチーフをさぐれば、その湿りの原因は「さびしさ」なんだ、と言いたいのは容易にみてとれる。

事実からすればさびしさでタオルが湿ることはないから、そんな気がしたとか、湿りに妄想が加わったとかいうことになる。

逆に、さびしい思いを抱きながらタオルをたたんだら、湿っていたといってもいいだろう。

有季定型を厳守する写生句的発想からすると、虚構(フィクション)が目立ちすぎて、リアリティがないということになるであろうが、
土台、季語は「言葉」であって、季節や自然そのものではない。

絵画の「模写」とは大きく異なる。五七五の音数律にしても言葉(日本語)の組み合わせによるものであり、自然そのものの「音」ではない。

つまり、言葉を用いて鑑賞のための表現をする以上、自然を模写するにしても人為は避けられない。

ある写生句俳人の句をいくつか集めてみれば、そこにその俳人の個性というものは必ずにじみ出てくるのではないか。

連句のように複数の作者による共同表現と「俳句」は異なる。

正岡子規が「俳句」を近代化した時、連句を認めなかったのはゆえのないことではないだろう。

「俳句」は「座の文学」だとよく言われるが、人が同じところに集まり、席題に従って個々人が五七五をひねったところで、
また、みんなして吟行に出て五七五を詠んで作品の出来不出来を競ったところで、共同表現の「連句」とはまったく異なる。

 俳句は短い詩なので、読み手を作品の中に引き込む・迎える工夫が大切な要素になる。

虚構(フィクション)が勝ちすぎると押し付けがましくなり、読み手が引いてしまいがちになるので、自らの言いたいことを、古くから「物に託し」て表現してきたのではないか。

 さて、今回の句、どんなふうに読まれるのだろうか。

フーテンGG[気まぐれハイク」№290 母はもう・・・

2010年09月08日 10時13分09秒 | 俳句

290             ○ 母はもう赤い言葉を口にせず

 この春、85歳の実母が心不全で地元の市民病院に緊急入院した。

さまざまな病気をしながら、ここまで生きてきた母だが、入院後は呼吸困難も起こらず、半月ほどで退院したが、入院前の精気のようなものがぐんと減った。

その様子をきっかけこの句は生まれた。

子供のころの厳しかった母とはほど遠く、父に早く死にわかれ何事も自らが中心となって取り仕切って迫力はもうなかった。

家の跡をとった(後を継ぐと言うほどの家ではないが)私の弟が交通事故死、その連れ合いのその翌年の急病死のあと、姪と二人で住んでいるので、
「死」を口にすることはないし、姪が結婚するまでは「頑張る」と言う。

病み上がりという感じも見せず、入院前とほとんど変わらないが、私の子供時代の母のイメージと重なると「赤い言葉」を「口にしない」と思われてならないのである。

 この句だけをみると、母の死をふまえた句だと読まれてしまうかもしれないが、そう読まれてもいっこうにかまわない。

実感を句にした気はないからだ。

上に書いた「母の緊急入院」の話、フィクション、作り話だと見做してもかまわないということである。

「赤い言葉」という表現は読み手の自由な解釈をしていいように造ったつもりである。