本能寺の変・・恨み心頭の光秀が信長を討った真の理由とは?
これまで、光秀の謀反の動機については、遺恨や怨念があったとする説、陰謀説、恐怖説と、さまざまな理由が挙げられます
遺恨・怨念説
(1)丹波八上城事件
光秀は、八上城の波多野秀治を4年かけて攻めたが、城がなかなか落ちないため、生母を人質に差し出し、秀治と波多野秀尚の兄弟に「降伏すれば、命と領土を保証する」と約束した
波多野兄弟は投降して安土に送られたが、信長は光秀の説得も聞かずに彼らを殺してしまう
約束の反故に怒った秀治の家臣は、人質となっていた光秀の母を殺害する このため、光秀は世間から「母親殺し」の汚名を着せられ、心中深く信長を恨んだ
(2)斎藤利三事件
稲葉一鉄の家臣だった斎藤利三を、光秀が召し抱えた。一鉄がそれについて信長に訴えると、信長は光秀に「利三を一鉄に返せ」と命じた。しかし、光秀が命令に従わなかったため、信長は怒りのあまり光秀を手討ちにしようとした
光秀には、その時の恨みがあった
(3)恵林寺焼亡事件
武田氏滅亡の直後、武田氏に味方した快川紹喜 のいる恵林寺を焼き払え、と信長が命じた
光秀はその暴挙をいさめ、信長の逆鱗に触れた。また、諏訪の法華寺で光秀が「武田を滅ぼせたのも、われらが努力の甲斐」と言ったところ、信長は「お前が何をしたというのか
わが子、信忠の多大な武功だ」と、光秀を殴りつけた。その恨みが爆発した
(4)長宗我部の攻略事件
光秀は四国の長宗我部元親との和平・連携を命じられていたが、信長は後に長宗我部氏を敵視し、光秀の立場がなくなった
(5)徳川家康饗応事件
武田氏を滅亡させた後、光秀は徳川家康と穴山信君を安土城で接待する饗応役を務めたが、用意した魚が腐っていたため、腹を立てた信長に饗応役を解任される
そして、すぐに中国出陣を命じられたため、深い恨みを持った。
上記はいずれも、本能寺の変の後に推測された光秀の謀反の動機であるとされています
信長の凶暴な性格と、光秀の陰湿な性格から、こうした遺恨・怨念説が生まれたのかもしれないが、いずれも決定打とはいえないです
陰謀説
光秀が武田勝頼と内通して、信長を倒す計画を進めていた。しかし、計画途中で勝頼が早々と信長に滅ぼされたため、光秀は万が一計画が露見することを恐れ、信長を襲った
このほかに、豊臣秀吉や家康との密約説もあるが、いずれも後世のつくり話です
■恐怖説
(1)佐久間父子追放の恐怖
石山本願寺の攻略で功績がなかったとして、長年にわたって信長に仕えてきた重臣の佐久間信盛・信栄父子が追放された
また、同じく重臣の林秀貞も、二十数年前に信長に背いたことがあったとして追放された
「信長に長く仕えた者ですら、失脚させられる。足利義昭を見捨てて、途中から信長に仕えたわしなぞ、いつ追放されるかわからん」
この不安が恐怖となり、光秀は謀反に踏み切った
(2)領地替えの恐怖
中国攻めに際して、それまで光秀の領地であった近江と丹波が取り上げられ、信長から「その代わり、出雲と因幡を切り崩し次第、与える」と言われた
出雲も因幡も、まだ敵がたくさんいるが、そこを制圧しなければ領地はない。その間、一万数千の兵力をどう養うのか。光秀は、絶体絶命のピンチに立たされた
宣教師のルイス・フロイスによる報告書『日本史』によると、信長はさらに「中国・四国・九州を平定したら、大艦隊を編成して唐土を征服する」と豪語していた
光秀としては、出雲・因幡を制圧しても、まだ九州があり、さらに唐土への出兵もある。切り崩し次第領地を与えるといっても、また同じような配置転換を繰り返さなければならないだろう
しかも、功績がなければ追放だ。光秀の強迫観念はピークに達し、爆発した
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私はこの恐怖説の二つが一番有力だと思います
陰謀説に家康や秀吉のなまえが取りざたされてるけど
それはありえないと思ってます
毛利と和睦し 中国から短期の【大返し】を手際がよすぎるとの
疑いもありますけど いくらなんでも秀吉がそこまでするとは思えない
家康にしても 変を知ってたら 命がけの伊賀越えなんてしてないですよ
ってことで
結論は明智家の存亡にかかわるほどの
国替えの命に
幾多の辛抱を重ねてきたけど これによって堪忍袋の緒が切れたと解釈するのが最も自然です(^-^)
おわり
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