アリクマの日常

日常のできごとや思ったこと。好き:スピッツ、羽生くん、西島さん、ディーン様、松下洸平くん、森川さん、津田健・・・

結婚記念日

2011-03-31 10:33:19 | 日記
3月30日は結婚記念日だった。
前の日に夫に言われるまですっかり忘れていた。
ここ数年、夫の仕事の関係で、遠出をすることなく近場で食事をするぐらいだった。

今年はそれに輪をかけて質素な手抜き料理

甘口の赤ワインに合わせて。
キッシュ風に見えるのはプチトマト入り卵焼き。
電子レンジで作るとこうなります。
生ハム、チーズ、フライドポテト。
ポテトは冷凍だったのが半解凍されて、再冷凍したので品質に保証なし(笑)
朝の弁当のおかずも写ってる。

結婚記念日を憶えていたのは夫だったが、何年目?と私に聞く。
25年、と思い込んでいたようだ(笑)
27年ですけど。。。

プレゼントも買ってきたよ、と車から運んできた。

育てるのが難しいデンドロビューム。
自分の趣味の園芸やないか~~い(髭男爵風に)
世話をするのは、夫なのだ、結局


ありがたい

2011-03-22 17:42:26 | 日記
地震から11日。
昨日、中学校時代の友人からメールがあり、「お風呂に入りにおいで。」と。
近所に住んでいることを、偶然知ったばかりなのに、このありがたい申し出に、
遠慮しないでお受けすることにした。

彼女の家は、灯油で沸かすお風呂で、停電はあったけど、断水はなかったそうだ。
だから、お風呂にはすぐに入れる状態だったのだが、しばらく怖くてお風呂に入れなかったと。
だんなさんは単身赴任。先週末やっと帰ってきてくれて、お風呂に入っても「大丈夫」と言ってくれたそうだ。
もし、1人でいて、お風呂に入っているときに地震が来たら・・・と考えたら、確かに怖い。
数日は服を着たまま布団に入っていた、とも。

「掃除もしてないのにお客様をお迎えするのは恥ずかしいのだけど」と
彼女は言った。この非常時なのですから、お風呂いただけるだけで、ありがたいです。

かさかさの肌も少しうるおい、心はほかほかになった。

地震・・・その後3

2011-03-17 18:22:36 | 日記
どこまで書いたっけ?的な~
細かく思い出すことはやめにしました。
しだいに電気も水も回復し、食料品を手に入れるために何時間も並んだりはしているけれど、少なくとも透析が受けられて、1日2~3食、食事をとることができているのですから。
もっともっと悲惨な状況に置かれている人たちがたくさんいます。その人たちのことを思うと、自分たちだけがわがままを言っていられない気がするのです。

ガスは復旧までに何カ月かかるか分かりません。お風呂、床暖房、ガスレンジは使えません。
電子レンジでお湯を沸かしている状態でした。

母は、実家の近所で避難していることが分かりました。妹と連絡が取れたのです。
電気も通じてなくて、津波の泥水で1階に置いていたものがほとんどダメになっているそうですが、本人の身体が無事だったので、安心しました。

国道は通じていませんでしたが、叔父(母の弟)が迂回道路を知っていたので、私の車で母を迎えに行ってくれました。ガソリンをたまたま満タンにしていたので。
私は透析の日でしたが、車がないので、透析終了後はバスで帰ることにしました。
バスは減便されていましたが、私が帰るルートのバスは運行していました。駅前には何台もバスがいました。
運転手さんたちが働いている、そのことで目頭が熱くなる思いでした。自分たちも被災者であるだろう、それなのに、公共のために働いている。そういう人たちもたくさんいるんだ、と気がつきました。
透析クリニックのDrやスタッフもそうです。地震当日にとりやめになった夜間透析の人たちは、基幹病院に行って次の日から透析を受け始めました。ほとんどの患者たちがその病院に集まってきて、クリニックのスタッフもそこに出向いて昼夜休みなく働いていたそうです。まる2日休みなく働き、月曜日の朝にやっと2時間仮眠ができた、とか。月曜日からは自分たちのクリニックで、透析準備をして患者に透析を開始しているのです。
頭が下がります。感謝の気持ちでいっぱいです。

昨日はクリニックのタンクに水を入れている給水車を見ました。岡山市水道局の車でした。
全国から集まってきているのだ、というのを改めて感じました。
高速道路は緊急車両だけ通っています。鹿児島から来たレスキュー車を見ました。

母と会えました。気が張っていたのか、すごく元気でしゃきしゃきしてました。
夕食は電子レンジでカレー(野菜のみ)を作りました。
温かいご飯とカレー、それだけで喜んで食べていました。

今日は叔母夫婦が日帰り入浴に行く、というので乗せてもらい行ってきました。
6日ぶりのお風呂。恵まれています。
母は、リラックスできたのに、肩が痛い、疲れた、と言っています。
避難所の疲れが出てきたのかもしれません。風邪気味らしいです。
私も喉の具合が、やばいです。
寒くなって雪が降っています。
天は何故こんな時に雪を降らすのか、全くいじわるです。

原発事故はどうなってしまうのか、心配です。
このままだと放射能物質が多量に漏れだす・・・不安だらけです。

まとまりがない文章になってきました。
こんなつたない文を読んでくださっている皆様も、お身体お大事にしてください。

地震・・・その後2

2011-03-15 21:22:12 | 日記
携帯の電池が切れそうだったので、夜から電源をOFFにしていた。
次の日、土曜日の朝は、いい天気。ソーラー充電で13%まで回復したので、電源を入れた。
メールが次々と入ってきた。心配してメールをくれた友人、弟妹からだった。
電波が入るところを探して、第1報を返信した。その後家の周りは圏外になる。
無事を伝えられたことはラッキーだった。
メールの中に、母からのものがあった。
「避難しています」とだけ。いったいどこに?まさか冠水した避難所?と、不安になる。
送信時間は、地震から9時間後になっていた。ということは、無事なのか?

相変わらず、電気も水もガスも出ない。
朝食は、冷蔵庫にあった冷たいご飯。そして缶詰のイワシの醤油煮。
マンションの非常用水が出ているので、汲み置きをした。
夫は、その作業の後、仕事に出かけた。
コミセンに避難している人が、「これから炊き出しをする」というので、私もコミセンに行った。
非常食のα米にお湯を入れるために大鍋でお湯を沸かそうとしていた。
水が足りない。そしたら、すぐ近くで水道管から水が漏れて噴き出している、という情報があった。
そこから水を汲んでこようということになり、手伝った。
工事現場の水だった。そこには新しく産婦人科が建つ予定だということで、すでに水を汲みに来ている人がいた。産婦人科の先生だった。陣痛が始まっている妊婦さんがいて、そのために水を必要としていた。
それでも、私たちのために、どうぞ出るぐらい持って行ってください、と。
私たちも、そのお医者さんたちに水の容器をあげた。
こんなときだからこそ、生まれてくる赤ちゃんに希望を託したい。

アルファ米は、わかめごはんだった。温かいお湯をパックの中に入れて20分ほど蒸らすと出来上がり。ひと箱50人分で3箱しかない。お湯がまだ沸かないうちから、ご飯を求めて行列ができている。
パックにご飯を入れて配るのも手伝った。途中で阿部かまのトラックが来て、笹かまぼこを差し入れしていた。わかめごはんと笹かま1枚が昼ご飯だ。決しておいしいとはいえないわかめご飯だが、温かいだけでもうれしい。

午後になって、夫が帰ってきた。
冷蔵庫の中はぬるくなりつつある。夫は北側にある雪を袋に入れて、冷蔵庫に入れた。少しでも冷やそうという考えだ。冷凍していた肉はほぼ半解凍になってしまったので、しょうが醤油につけて保存することにした。冷凍食品はそのまま雪の下においた。
コミセンでは、お湯を沸かしていたので、ポットを持ってお湯をもらいに行った。
笹かまが残っていたらしく、もらって帰ってきた。
その後近所のスーパーに1時間近く並んで、チョコレート、さつま揚げ、ビタミンウォーターなど買い出し。カップラーメンや水は売り切れていた。

夕食は冷凍庫から出しておいたご飯にお湯をかけて。さつま揚げ、笹かま、漬物がおかず。
自然解凍のご飯はおいしくない。でも朝よりはお湯をかけた分だけ、ましな味。
2日目の夜もリビングで就寝。ラジオから流れてくる情報は悲惨な状況を知らせていた。

・・・続く・・か?

地震・・・その後 

2011-03-15 14:47:58 | 日記
家に帰りついてから、部屋に入った。引き出しがすべて開いていた。開いていたドアは閉まっていた。仏壇は上の段がずれていて、位牌と写真が落ちていた。食器戸棚は開いていなかったが、中で崩れ落ちているようだった。自分の部屋のパーテーションが倒れていた。すべての家具が元あった場所よりも数㎝から数十㎝、ずれていた。奇跡的に、テレビは倒れていなかった。
倒れたものはそのままで、ブレーカーを下ろし、コンセントを抜き、ガス栓を閉めた。
薬や身の回りのもの、毛布を車に積み込んで、夫の帰りを待った。
炊飯器のご飯をおにぎりにして持った。
けれど、全く連絡がつかないし、夜になっても帰ってこない。 
近くのコンビニに行った。シリアルとアクエリアス、ゼリーぐらいしか残っていなかった。暗い中、自分で値段と個数をメモしてレジに持っていき、店員さんが電卓で計算して販売するという方法。そうやって真面目に買っていく人たちが多いのだ。ニュースでコンビニ窃盗の記事を見ると、頭に来る。

電気とガスは止まっている。マンション全体が暗い。
車の中で夫を待っていたが、同じマンションの人に「コミュニティセンター」に避難しているよ、と言われ、そこに行くことにした。
雪は降っているし、コミセンの照明は発電機のライトひとつとハロゲンヒーターの明るさだけ。毛布だけではとても寒い。その間にも何度も揺れる。コミセンの和室はぎゅうぎゅう詰め。
1人で心細かった。おまけに携帯の電源は20%以下。電話をかけてもどこにもつながらない。ネットもできない。とりあえず夫にメールで「コミセンにいる」という連絡だけして、暗い場所で待っていた。

夫が来たのは午後11時近く。メールは届いていたので、迎えに来てくれた。
自宅に帰ることにして、真夜中に懐中電灯をあるったけ出して明りを確保。
朝のおかずの残りと、おにぎりを夕食にした。
携帯ラジオもあり、乾電池の予備もあったので、何とか夜を過ごすことができた。
それでも、怖くてカーテンを閉めることはできなかった。自分の部屋で寝るのも怖いので、リビングに布団を敷き、服を着たまま横になった。うとうとしたのは、朝方だけだったかも。
ほとんど寝ていない感覚。ラジオでしか情報を得ることができない。
大津波の情報には耳を疑った。実家の避難場所のはずの小学校まで津波で冠水したらしい、と知り、母はどうなったのか、心配だった。
・・・続く