
今朝の天気は、曇りの間から、青空がのぞいてはいるが、相当に寒い。富士山に雪が積もったとの報道で、
散歩の途中に薄っすらと見えるのを確認できたが、まだ、冬の白い富士山の景色とは程遠い。それにしても、
朝晩の冷え込みと、夕暮れの速さは、10月に入って健著になってきた。今日は、昨日の鉄砲の歴史につづいて、
火薬と鉄砲の弾についての歴史を調べたので紹介しよう。
鉄砲の製作には「張り立てる」という製法が使われた。 鉄砲のシンになる棒を立てて置き、そのまわりを薄い鋼
の板で巻いてゆき、その間、焼いたり打っ たりして、何枚も張り重ね、最後にシンの鉄棒を抜き取るのだ。この製法に
より当時の日本の鉄砲 は諸外国と比較しても格段に質がよかった。なかでも国友製の鉄砲は高級鉄砲として高い値で売買
されていた。南蛮渡来の鉄砲 は日本と同じ製法だが、鍛造や張り立てにおいて粗末だったといわれている。この鉄砲に
使用されていた弾には、先込め火縄滑腔丸弾であって、獣猟にも鳥猟にも1個の丸弾( マルダマ)が使用され、軍用銃
と猟用銃との区分はなかった。 種子島に伝来した2丁の銃のうち1丁は、和歌山県の根来(ねごろ)に持ち込まれ、
根来は鉄砲の一大生産地となりました。伝来の2年後には、堺の商人が早くも鉄砲生産を開始。堺は日本最大の鉄砲産地
となり、戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げました。さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がります。
国友ではこの技術を貰いうけて、火薬の製法と合わせて射撃法も伝授している。この火薬は黒色火薬が使用されたが
木炭、硫黄、硝酸カリュムを粉末化して混合したものであった。当初は、日本では、硝酸カリュムが取れなく、人の
尿を利用して作っていた。すなわち、尿のアンモニアをわらに浸み込ませ、腐らせると硝酸カリュムの液ができるのだ。
その後は明治時代にはいり、チリから安い硝酸カリュムが輸入できるようになった。この火薬がその後、いろいろな
兵器の弾丸と使用されることにったのだ。
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