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79歳の老人です。2年前まで現役で仕事をしていましたが、今は、趣味の
囲碁と読書と旅行などのほか朝の散歩が楽しみです。

鉄砲の弾と火薬の歴史

2018-10-16 09:55:36 | 日記

今朝の天気は、曇りの間から、青空がのぞいてはいるが、相当に寒い。富士山に雪が積もったとの報道で、

散歩の途中に薄っすらと見えるのを確認できたが、まだ、冬の白い富士山の景色とは程遠い。それにしても、

朝晩の冷え込みと、夕暮れの速さは、10月に入って健著になってきた。今日は、昨日の鉄砲の歴史につづいて、

火薬と鉄砲の弾についての歴史を調べたので紹介しよう。

鉄砲の製作には「張り立てる」という製法が使われた。 鉄砲のシンになる棒を立てて置き、そのまわりを薄い鋼

の板で巻いてゆき、その間、焼いたり打っ たりして、何枚も張り重ね、最後にシンの鉄棒を抜き取るのだ。この製法に

より当時の日本の鉄砲 は諸外国と比較しても格段に質がよかった。なかでも国友製の鉄砲は高級鉄砲として高い値で売買

されていた。南蛮渡来の鉄砲 は日本と同じ製法だが、鍛造や張り立てにおいて粗末だったといわれている。この鉄砲に

使用されていた弾には、先込め火縄滑腔丸弾であって、獣猟にも鳥猟にも1個の丸弾( マルダマ)が使用され、軍用銃

と猟用銃との区分はなかった。  種子島に伝来した2丁の銃のうち1丁は、和歌山県の根来(ねごろ)に持ち込まれ、

根来は鉄砲の一大生産地となりました。伝来の2年後には、堺の商人が早くも鉄砲生産を開始。堺は日本最大の鉄砲産地

となり、戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げました。さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がります。

国友ではこの技術を貰いうけて、火薬の製法と合わせて射撃法も伝授している。この火薬は黒色火薬が使用されたが

木炭、硫黄、硝酸カリュムを粉末化して混合したものであった。当初は、日本では、硝酸カリュムが取れなく、人の

尿を利用して作っていた。すなわち、尿のアンモニアをわらに浸み込ませ、腐らせると硝酸カリュムの液ができるのだ。

その後は明治時代にはいり、チリから安い硝酸カリュムが輸入できるようになった。この火薬がその後、いろいろな

兵器の弾丸と使用されることにったのだ。



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