―「世はスピード時代」という言葉が、恩師を思い出す契機にー
「世はスピード時代」とゲゲゲノ女房に出て来る仲人が言うくだりがある。お見合いをしたその場で直ぐにOKの返事をし、結納と結婚式の日取りを決めてしまうというスピード結婚に、父親が少し早いのと違いますかという。それに対して、仲人が「『世はスピード時代』ですから」と言うのである。
実は、この「世はスピード時代」という言葉で思い出したことがある。今テレビドラマの時代は、昭和36年1月26日が結納の日であるが、この日から遡ること6年前の私が中学2年生の一年間、毎日「世はスピード時代」という言葉を聞いていたのである。
私たちの教室の正面、右側に、天井に近いところから、長い紙が垂れていて、そこには、
「私たちは、進んで他人のためにサービスします。」と書かれている。
そして、正面、黒板の上の額に、「独創・継続・完成」の三熟語が立て書かれ入っていた。
担任は、尾崎輝夫という国語の先生で、私の中学時代に大変お世話になった恩師のひとりである。その先生が2年生の担任になった4月の初めから、1年間、ホームルームで、「私たちは、進んで他人のためにサービスします。」をクラス全員に唱和させ、その後、先生が、 「独創・継続・完成」と力強い区長で述べ、さらに自ら、「世はスピード時代」という言葉で締めくくる。そういった儀式?で、一日の始まりである朝のホームルームが始まり、下校前のホームルームが終わったのある。
たった1年間であったが、毎日2回の全員の唱和は、1年通せば、2×230日で、約460回になるが、そのお陰といっていいと思うが、サービス精神が身につき、お陰で順調に生長し、順調に社会生活を終え、今なお他人のためにサービスする精神を持って、地域社会のために健康で生活させてもらっていると思っている。
テレビで、『世はスピード時代』と聞いたので、実は、びっくりしたのである。と同時に、50年前の恩師のことが思い出され、当時の生活まで昨日のごとく、断片的ではあるが思い出すこととなった。
―国語・社会の基礎をキチンと教わり、今も生きているー
国語の教師であったが社会科も持っていただいた。免許外であったのかどうかは今になって知る由もないが、どちらにしても基礎的なことをキチンと指導していただいたので、今日の今日まで役に立て入るのである。
国語の思いでは、動詞の4段活用の暗記であったし、忘れないのは、啄木の詩の暗記である。当時、30位の詩を丸暗記していたし、まだそのいくつかは、時々、思い出し口ずさむことがある。「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて蟹とたわむる」「戯れに母を背負いてそのあまり軽ろきになきて三歩歩まず」など、50年前に習い覚えた詩が口をついて出てくるから不思議である。
また、社会科についても、先生に指導してもらった政治経済の中身が時として思い出される。「民主主義とは最大多数の最大幸福」「マスコミニケイションとは、・・・」
「民主主義が成立する条件の一つは、その社会の成員一人ひとりが自分の考えを持ち、独立していることが、大事なことである。つまり、不和雷同では駄目であり、烏合の衆では駄目である。」ことを教わったのも先生であった。
先生は大阪の米屋に養子に行かれたと聞いていた。中学、高校を卒業して私は、昭和36年1月21日に神戸大学教育学部教務掛に国家公務員として就職したが、その頃、先生は大阪に出られて結婚されたのであろう。ちょうど大学の教務掛にいるときに、先生がやってこられて、卒業証明書の発行を求められたことがあった。本当に久しぶりの対面であり、先生もびっくりされていたが、私もこんなところでお出あいするなんて思いもしないことであり、驚いたことを思い出すのである。
中学の頃、先生に誉められたことを思い出した。
私は中学3年生の2学期、生徒会長をしたのであるが、放課後、生徒会の執行委員会を行うのに、3年生5組の教室(尾崎先生の学級)を借りた時のことである。
終わった後で、黒板に、教室を借りたことに対するお礼と後始末がキチンと出来ていないことに対するお詫びを書いたのである。
ところが、翌日、朝のホームルームのときに、先生が、「これを書いたのは、きっと、Kだろう。こんなことがかけるのは、彼しかおらん。」といって、君のことを偉く誉めておられたぞとその組の友達が、私に報告してくれたのである。
「そんなことは当たり前のことであるが、嬉しかったのは自分の気持ちをキチンと受けてもらえたこと、そして、直接でなく、その者の入ないところで誉めていただいたことはとっても嬉しいことであったし、教師になってからも思いだしたし、生徒や親御さんについても、いいことは、その人のいないところで、他の人に紹介するということをよくしたことがある。」
亡くなられる5年ほど前に、豊岡でお出あいした時に、中学を卒業してから後のことを話したのである。神戸の大学の事務室でお出あいしてから、はじめてであったので、その後のことをかいつまんで話したのであるが、「教師として申し分のない経歴だなあ。本当に良く頑張ったなあ。」と心から誉められて、「これも先生のお陰です。」といって、いま、ここに書いた内容を話し、それらのことが私の生長の糧になり、今があると思っています。」と心からお礼を申しあげたのである。それが、先生にお出あいした最後であった。
6年前に他界されたが、亡くなられるまで、毎年、年賀状を頂くのが楽しみであった。